横になれば、まちがいなくすぐに眠りにおちるだろう。なのに、なぜか、起きている。寝てしまうのが、いささか、もったいない気がして…。疲れを感じながらも、ちょっと夜更かしするのは、なぜにかくも、みわくてきなのだろう。なあんて。ちょいと大袈裟だけど。ともすると、眠りの中に逃げ込むしか、こころを休めるすべがなく、風通しのわるいハートをもてあましているときからすれば、それこそ、羨ましい限りの贅沢なのだな。ほんに、なかなかちょうどいいというのは、ないものですねぇ。いつも、こころとからだと、相談しながら、でも、たいていは、許せる限りわがままをいって、自分の(こころを)やりくりして…。たぶん、みんなだろうな。たぶんだけど。


あれは、8歳の春だったっけ。あの日の、緊張とこわばった気持ちはいまも忘れない。なんてことはない。初めて歯医者に行った日のこと。ちょうど、我が家に初めてのカラーテレビがやってきた日の午後だった。いいことと、たいへんなことが、いっぺんにやってきた日だった。ともあれ。あの日。父が連れて行ってくれたその医院には、道路より少し低くなった車庫があって、せんせいの車が停まっていた。ちなみに、わがやに車はなく、その後も自分で買うまでなかった。ともあれ。そこに停まっていたのは、ベージュ色をしたとっても、高価そうな綺麗な車体。銀色のまるがよっつ並んでいた。とても、かっこいいものの象徴のようにおもった。それが、南独の小さな街で作られている車と、知るはずもなく。ただ、かっこいい車として、心に残った。


なぜだろう。若い頃は、クーペはいやだとおもった。どこか、かっこつけすぎているような、それに、家族を乗せるのにちっともやさしくないというのも、かっこわるいよに映った。それより、たぶん、たまたま、身近でそれに乗っているひとに魅力!?がなかった…、ただ、そのせいだけかもしれぬけど。あるとき、白洲夫妻の生き方に強く興味を惹かれたとき、彼らが当時だれものっていないような、ランチアで伊勢まで旅行したと聞いて…、そして、70歳を過ぎて乗っていた車を知って…、そのくらいにどこをどうきってもおばあちゃんとしか、いいようのない年齢になって、スポーツカーに乗るのも粋でいいなぁ~。って、おもったこともあったっけ。ともあれ。あの愛車に20代の後半からのほぼ10年。ほぼ毎日、乗ることができたことは、ほんとうによかった。きっと、これ以上に好きなものはないだろうなぁ~、そう感じながら、その空間に包まれるというのは、かなしいくらいにうれしいものだ。と、おもう。


毎日肌が触れるもの、毎日その空間に身を置くもの…、毎日感じる空気ややさしさ。そんなものものは、ひとを、内側から支える、とても大きな時間と、空間なのかも…。ちょっといい繊維、ちょっといいシート、はたまた、ほわっとこころをほどける時空間…。日々触れるもの、感じるものに、ひとは、少なからずなにかを育ててもらっているのだとしたら…。おお、これは違う!気持ちいいぞと、感じられる空間の、なんとありがたいことか…。そこにいてうれしいと感じられる空間。あるいは。スタイル。カラー。妥協は、するところをちょいと変えるだけで、まったく違う空気を身に纏えるとしたら…。わぁ~、いいなぁ。素直に好きと感じる、そのことを大事にしたいなぁ。と、いうことで!?、クーペもいいなぁ。このごろ、ふとそうおもうのだな。(わぁ~、だいすきなことを考えていたら、目がぱっちりしてきちゃったぞ~)

ことばについてかんがえる。いや、かんがえている。いや、少しだけ、考えてみた。いや、半分は、感じていること…かもしれない。ともあれ。ことばは、それいじょうでも、それいかでもない。しかし、わかるひとには、それは文字におこせば、活字であらわれるそれだけかといわれれば、そうではない。情感や、ニュアンスは、ことばを発するスピードや息遣いや、あるいは、そのほか、いろんな音や、行間の匂いさえ、微妙な機微となって、それらすべてで、相手にわたる。わたると、かいたのは、それが、どれくらい、どんな風に伝わるかは、そのときどきでも、多少異なる。無論、相手によって、もっとそうなる。


もっと、いうと、そもそもことばを発しよう、ことばにしようというのは、相手があるからで、その相手に対して感じている思いや、感想や、(好意のあるなしも含めた)感情が、その根底にはある。たとえ、マニュアルどおり、予め決められた台詞どうりに言うときにしても、きっと、そうだろう。語気や、やわらかさは、どうしたって、多少異なる(のではないか)。だから、常に、きもちと隣接して、とっても素直にことばにするひとから、あるいは、常に(それとも外向きと自分向きに分けて)、ほんとうのこころとは違う方向や意味のことばを発するひとまで(恐らく、そんなひとにしたって、ほんとうの部分とどの程度のどの方向にたがえてことばにするかは、そのひとが、それでよしと決めてそうしている以上、ある一定の規則性はあるはずで。つまり、どの方向のどんな色と形のベクトルにするかは、やはりそのひとの選択の結果なのだから)、いろいろあるが、ともあれ、そとに、音と(意味をとも)なって出てくるのは、ことばである。


で、なにがいいたいかというと。たとえばもし、ことばはどうあれ、そのひとそのひとの、だれかへの感覚や感想は、隠すと隠すまいとに限らず、たえず、その都度そこにはあるわけで。なので、無意識にでも、むやみにだれかを無駄に傷つけることはするまいと、おもうのは、自然なのだけれども、ことばで(自分が他者から)どうおもわれるか、に、こころを費やしすぎることは(少し、厳しく言うと、それは、自分でも見えない定規、ひとのものさしを常に気にして、その都度、決断のポイントを難しくしているのではないかと、いう気がして)、ちょっともったいない(気がする)。むろん、そのことに、腐心してしまうという、そのこころがあるということ、それがまぎれもなく、うつくしく、とってもかけがえのないことなのだけど。そこまで、考えて、ことばを出しているひとがどれほどいるかと考えると、いささか、かなしくなる気もしなくもないが、いま、おもっているのは、そういうことではなく。もっと、自分のこころに、やさしくすること。決して、ひとを傷つけたり、むやみに扱うということではなしに。


そんなことで、やはり、どんなことでも、(恐らくあらゆることは)氷山の一角。ことばにしてもそう。(ではないか。)あとは、受けての想像力、包容力、そして述懐力なんかに、たのまれる。それまでの習慣をかえる、じぶんのなにかを(じぶんで)知らず知らずにしばっていたものを、少しずつ、ほどく。根気よく。もう、いいや。どうせこれまでこうだったのだから。そういいたくなるところを、少しだけ、腰を落ち着けて、おそれずあわてず、きもちと会話する。自分を慰める。ときに、戒める。その、ベクトルを少しだけ、いつも同じ…から、変えられるものはないかと、こころをのぞいて問いかけてみる。もし、そんなことが、できたら。つまり、ここに(なんとか伝えたいと)書いていることが、ほんの少しでも、伝わったら、素直にうれしい。ことばにして、よかったとおもう。ことばのつかいかた、もしかすると、それは、ある意味、人生の深遠!?にも触れる、とても偉大で、(永遠に終わりの来ない)素敵なことだったりしてね。

ときどき、もつれる。それも、ほんの少し。そして、ほんのせつな。むろん、芯の部分がかわるわけでもない。だけれども、日常の大半は、案外、その芯ではないぶぶん、仔細なことがらであったりする。むろん、時間的にという意味だけど。ともあれ、だから、文字通り、機微というのかしらん。微なら、どこまでも、微であってほしいのに、こと、自分が多くの時間こころをさいていることがらであったりすると、過敏すぎて、ひとり、あ~でもない、こ~でもないと、もつれされてしまう。ああ、なさけなやと、おもうけれども。にんとも。


なぜだろう。なにかが大きく動いたわけでも、これまでと、なんら変わりない時間が流れているだけであるというのに。ちょっとだけ、非日常から日常への移行で、センチメンタルが過ぎただけ…だろうか。ともあれ。ひとは、どうして、かくも、ちいさなことがらで、こころをくだいたり、あるいは、滅入らせたり、はたまた、晴らしたり…、と、いそがしくしてしまうのかしらん。つまりは、ないものねだりだ。自分は、これまでの自分がそうであったようにしか、あれないというのに…。ふとしたことで、おのれの不足感にさいなまれたり…。せめて、あれだけでも、ああだったなぁ~。などと、あらぬことに嘆息してみたり。


歌詞のなかに、きょうとあしたで自分同士で意見が分かれて…。とあるけど。まさにその通り。いや、無論、芯の部分の願いが変わるわけではないのだが。つまりは、よ~し、あきらめずにがんばるべぇ~と。おもったかとおもえば、あくる日には、いやいや、何かが少しだけ欠けていてそれでいいのだ。よくばるのはいかん。だれしも、みのほどにあったようにしかいちどになにかをすることなどできないのだ。なあんて、なりたくもない、ものわかりのいいこころになってみたり。なにを、どうおもおうと、なにをどう願おうと、なるようにしかならず、あるようにしかあれないのだ。わかっちゃいるのですけどねぇ。どうして、こうも、こころはときに、もつれ、もだえ、もえ~ないか、そして、もうしん!?できるものならしてみたいと、願ってしまうのだろうかなぁ。


たぶん、実際の事態が動くときというのは、恐らく、ざんこくなまでに、そんなおもいと別の次元で、なにかが訪れるのだろうなぁ。それは、わかっていても、どうにも、こころが静かにできないときというのがあって、つまり、それを、ひとは葛藤と呼ぶのでしょうねぇ。う~ん。そう。ひとは、だれしも、きっと、どんなかたちかでも、なにかに少なからぬ折り合いをつけて、生きているもので(違っていたらごめんなさい)、だから、なにをどうと、言われても、どうにもならんものはたくさんあるし。しかし、一方で、明日死んでもいい生き方をしているか?ほんとうに、後悔しないか?そういわれたら、わたしなら、たじろぐ。どうしてあのとき、勇気を出して一歩踏み出さなかったのだろう…。そう思うに違いない。この世は儚いといいながら、それでも、決断が出来るわけではない。つまりは、決断しないのもひとつの決断なのだ。つまりは、優先順位というかたちで、ひとはつねに選んでいるのだ。もし、いまの自分が不満なら、それは、自分自身が選択した形なのだ。(なあんて、ことばかりでもないけどね)。厳しさと優しさ。そのバランスがときに、ちょっぴり崩れると、ひとは、ころのなかにある棘を、自分自身に向けてしまうものらしい。


それにしても、わたし。こんなに!?わかっているのに、どうして、こうも小さな機微たちに、こころを揺らされてしまっているのでしょうねぇ。(答えを)急いでも仕方ないのに。(そして恐らく、そういうものは)いっとき、気が離れたそのせつなに、ひょっこりやってきたりするものなのに。そう、バーディみたいに。あれ、違うか?最初から、バーディをあきらめてたら、来るものも来ない?う~ん、どうあるのが、いちばん、かっこいいのですかねぇ?ひょっとしたら、かっこいいとは、いつもちょっとせつない、ということなのだろうか。だとしたら、やっぱり、ちょっとせつないですねぇ。

いつかきた、海辺にたたずみ、沖合いに浮かぶ漁船の灯を眺めている。うんかすんか…、なにか、ことばにしたいのだが、このなんともいえない感覚は、思いつくどんなことばでも、当てはまらない気がして…。そして、やっぱり、沈黙になる。簡単には、なにかをわかったようなことばにしたくないおもいのようでもあり、しあわせとも、かといってふこうともまったくちがう…、それでいて、ほんのすこしだけ、そわそわするような、でも、じぶんではどうにもできないことがらを、ただじっと待っているような…。しかし、待っているといっても、なにもしないのではなく、その瞬間瞬間にかんじることがらや、自分のこころに浮かぶきもちを、きちんと残していきたいとおもったり…。としても、やはり、少なくとも、いまは見えないなにかにみをまかせるよりないようであり、それを、無理にことばにして自分自身を納得させようとすると、かえってこころがもつれそうでもあり…。つまり、かような状況を、ことばにするのがはなはだむずかしく、かくして、結局、いずれ、ひとりでにことばになるだろう時がくるのをまっている、そんな状態なのかなぁ~、と、なるたけ、自分自身をひとごとのように、みつめようと(たぶん、そうすることでなにかを穏やかにおさめる覚悟のような、じゅんびのようなことを)している。


う~ん。ともあれ、むずかしい。かといって、なにかを悲観しているのではむろんないし、文字通り、そのうちなんとかなるだろうな、(というより、それにゆだねるよりないのでもあり)、という感覚をなるたけ、たくさんふやそうとはしているかな。いや、それでも、いまのこのこころを映すのには正確ではなく。それにしても。ひとは、どうしてこうもいろいろと考えるのでしょうね。まぁ、こころがあるのだから、あたりまえといえば、あたりまえですが。つねに、なにかがこころに浮かび、そのことに、どぎまぎしたり、なっとくしたり、あるいははたまた、かなしくなったり…。そんなこんなのくりかえし。じゃあ、おもったことのすべてが、現実にそうなるとかといえば、もちろん、そうではなく、それどころか、得てして、まったくおもいもしなかったことが不意に訪れたりもするし。そしてまた、実際におこったことに想いをめぐらし、考えてもしかたのないことを考えてたり、あるいは、そのことの意味を解釈して、ひとり、いいしれぬおもいに包まれたりもする。できればもっと、他愛のないことに一喜一憂して、気が付けば、(人生の)時が過ぎていた…、というのになればいいなぁ~と、おもわぬでもないのに。実際は、それどころか、なんでもかんでも、深く深く考えてしまい、そのじつ、ひょっとしたら、わたしは、自ら望んでそうしているのかしら…、と、独り納得していたりもする。つまりは、ことば(=想い?)への、絶大なる期待と、同時に同じくらいの諦念(というか、いわくいいがたい冷静?)を、かみしめている。それでも、想いはいつも、理屈ではどうにもならない巨大な存在感で持って、いつもそこにある。そして、そのことに、改めて自分でも驚き、そして、勇気付けられもし、そして、苦悩ともなるのだ。


月並みだけど。それでも、いつも気になり、そして、いつでも声をかけたいと、そう願うひとのあることを、大事にしたい。そう、理屈ではなく…。(きもちや、かたちをいつも、だれにでもわかるかたちで、きれいにまとめることはとても難しい。でも、ひょっとしたら、だからこそ、そこに、(気持ちの)ほんとうが、ある気もするし)。そう。だれかがあるということは、まぎれもなく、心配が尽きないということなのだ。そのまた逆も然りで。恐らく、なにがどうなっても、これで完璧!ということはあるまい。きっと、何かがかなえば、何かがぎせいになるし、そしてまた、おそらく、願いと苦労は一緒にやってくる。それが、わかっているから、ひとは、どこまでいっても、悩みとともにあるのかなぁ。だとすると、それでもいいと、おもえる何かがあるということ。そこになにかが、待っていてくれたら…。いいのだけれど…。

健康と、パーは似ている。のかもしれない。それが、なかなか手に出来ないときは、それさえあれば…、なんとかして、それがほしい、そうおもう。ところが。ある程度、それが出来るようになると、途端に、なにが、自然体なのか、ほんとうにたいせつなことはなになのか…。ふと、わからなくなる。ときがある。必ず、パープレイでまとめることのできるひとは、たしかにうまい。のだろう。しかし、横にいても、何かがつまらない。ほんとに、それでたのしいの?うれしいの?と、感じてしまう。自分のこころを素直に満足させるためにではなく、どこかのだれかにほめてもらえること、そのことのために、己のこころに蓋をしてないの?それでほんとにいいの?どちらにしても、時間はいつか終わるんだよ。そう、感じないでもない。


不思議だ。それが、当たり前だとおもっていると、失ってはじめて、そのありがたさ、偉大さに愕然とするし。かといって、あまりに、それに固執せんばかりに、気が付くと、なんでもかんでも、建前?ありき。それのためにそれにために、と、ひょっとしたら、ちっともたのしくない時間ばかり。あるいは、自分のこころに、ほんとはしたくない我慢、そして、さしてほんとはしないでもいい我慢をさえていたり(とういうのではねぇ)。そして、数字のために、それでいいのだと、一抹の疑問に蓋をする。自然体でいること。かっこよさってについて。ひとことで、それをいっても、いろいろある。最初からさらにうえのことをあきらめたようなそれ。いっぽう、ほんとうに、どんなそれのなかでも貴重な貴重なそれもあったりするから。簡単にひとくくりにはできない。


ただ。こころとからだ。たぶん、おそらく、どちらかだけのそれはないのだろうな。どちらが先でもなく。本来なら、歩けない状態なのに、起死回生のヒットが打てたりするし。かとおもえば、数字ではどこもわるくなくとも、気持ちが死んでいてはなにもできない。かたちにばかり、気をとられると、気が付くと、もうもとにはもどれない、スタイルが、しっかり沁み込んでしまっている。そんなこともあるのではなかろうか。たとえばもし。「君はどうしてもっとパーをとりにいかない。無難にとれるときでも、敢えて難しいことをしようとするのだ」そんなことを、非難してくれるひととは、やはり、一緒にラウンドしたいとはおもわない。だろう。いや、自分のできないことをできるひとは、むしろ、ありがたい。のだろうか。いずれにしても、ちょうどいいバランス。その、感覚は、ひとそれぞれ。そして、それは(つまり、スタイルはね)、決してひとに無理矢理強いられるものではなくて、自分のあたまとこころで、必死に考えて、見つけ出していくもの。なあんて。そんな気がしている。

「縁があるから、また会える…」。それは、ちょっとふしぎないちにちでした。二十数年ぶりに、再び顔をあわせた友のことば…。たしかに、小さなまちゆえに、いったところに同級生…。それも、ほとんど、犬も歩けば状態であっても、確かに不思議ではないのだが。とはいえ、あわないひとにはあわない。思えば、どれも、少なからず、「わぁ~」と、内心叫びたくなるような、タイミング、シチュエーションでであうから、なんとも、みえない何かの存在を、感じないでは(いられ)ない。


当時のわたしが、この流れ、この展開をしったなら、はて、なんていうだろうなぁ~。ふと、おもうこともある。ともあれ。こころに正直に、それでいて、いつか、周囲にも「そうかぁ~」と、わずかでも納得してもらえるような、そんな生き方、姿勢は…、きっと、はじめからあるものではなくて、覚悟とか、試行錯誤とか、悪戦苦闘とか、そんな日々を重ねていくうち、ついてくるものではないかなぁ~。そんな風に、考えている。


沈黙は金。だから、季節柄…。それに倣って…、いたわけでもないのだが、ちょっとした事情もあって、いや、無論、大半は、常にそのときの気持ちを、事情が許す限り優先する、わたしのたいまんが原因ではあるのですが。いえ、沈黙の言い訳のこと。


「それでも、結果がすべて」。そのことばが、ちょっとだけ、でもずっとしばらく胸に引っ掛かって…。いや、ゴルフでのことなのだが。もし、数字がそのひとの実力をあらわすのだとしたら、それがわたしの実力であり、う~ん、なんだろう、自分でもどうしようもなくおひとよしだとおもえる、その内容も、試合なのに、なぜか、周りに少しあわせてしまう(つまりは、だれとまわってもまったく同じリズムで自分だけの結果に固執するようなことができない)不器用な、わたしのそんなこんなを、含めた結果に違いない。


もし、結果がすべてなのならば、数字イコール結果なのか?数字はあくまで、その一部ではないのか。数字だけではみえないところにこそ、物語があり、生きた証みたいなものもあってもいいのじゃないか。それは、奇麗事なのだろうか。ひとそれぞれ、重要視するものが違ったって、それこそが、いいのではないのか。なあんて。でも、これだけ、そのひとことに、ひきずられ、必死で、いろんなことを考えてしまっていると言うのは、とりもなおさず、わたしのなかに、やはりまだ、割り切れない葛藤や、ジレンマがある証拠なのだろうな。でも、やっぱり、あくまで数字以外にこだわる、オヘソ曲がりナゴルファーがひとりぐらい、いたっていいじゃない。なるべく、ひっそり。知る人にだけ、知ってもらえていれば、それで。


それにしても、ここだけの話。歩くのも、困難なくらいに、途中足にトラブルを抱えて、それでも、3番手以上大きなクラブを、まるでトスバッティングみたいに小さく振って、らんらんらんをつかって、転がして。そして、結局、いつも、愉しく冒険盛りだくさんでまわるときより、少ない数字でまとめたのには、ひそかに誇りにおもっている…。それにしても、このいちねん。朝もらったロッカー番号がそのまま、その日の数字になる。そんなジンクス聞いたことないが、1度を除いて、悉く…、それなのだから、はて、偶然のちからって、どこまでいだいなのですかねぇ。(ちなみに、件のロッカー番号症候群、あらゆることは、見えない流れに繋がっている…そうおしえてくれているのですかねぇ)。

午後一時半に眠りました。起きたのが、起き上がったのが、午前8時でした。すみません。心配かけました。夕方の四時半にいちど、ぐっしょりと寝汗をかいて、「あ~、昼寝にしたら寝すぎたなぁ~」そうおもったのは覚えているのですが…。そのあと、(たぶん)夜中と早朝に、自分でもずいぶんと眠っているなぁ~と、うっすらと目があきました。朝のそのときは、時計が6時を指していたような…。ずいぶんと、長い夢をみていたような…。おそろしく田舎の番小屋に住む姉妹となにやら話し…、ギアチェンジのある小型バイクで、夕暮れのような、朝靄のような…、そんな田園の中の一本道を、向こうに見える摩天楼(なんでそんなところにあるのか可笑しいですが)に向って、いったりきたり!?していたような…。時代劇と未来劇がミックスされたような…。夢でした。  
 
ともあれ。ときに、こころは、ひとりかってに饒舌になり、そして、いつしか、“わたしが悲劇のヒロインミックス”状態に陥ります。ひとりだって大丈夫。ひとりじゃなきゃできないことだってたくさんあるんだもん。ふんだ。顔もしらない先祖のために、どしたらいいっていうんだい。いつも、なにかが少しだけ欠けてる状態。これがいいのだ。わたしのばあい、それがたまたま子孫なだけじゃん。なにかを、手放すことでそれ以外のしあわせや救いに遭ってるのだとしたら、ひとそれぞれ。それにみあったなにかがあるんじゃん。だって、平安時代のひとのお墓って…。特殊なひと以外、どこにあるともしれないのにね。ほんとにね。なんで、こんなにね。だれもしらないところで、ひとりひっそりきえゆくっていいよねぇ。かっこいいよねぇ。『阿寒に果つ』のヒロインみたいで。まぁ、なにをどうしたって、いつかは終わりが来るのだから、自分に起きることも、なかば観客みたいにみつめていればいいんじゃん?なあんて、いってること自体、忘れるに忘れらぬおもい(なやみ?)に蓋をできない、意気地なしですねぇ。  
 
迷いというものはそもそも存在しないのではないか。それが、迷いとしてあらわれたときには、それはもうこころの願いは決まっているのであって。たんに、それをそのままストレートに通してしまうことに対して、もうひとつの理性が、そんなことしたらあとでたいへんだぞ~と、いっているにすぎない。だから、こころが、ほんとはこうしたい!っておもっていなけりゃ、そもそも迷いなんて起こらないのではないか。いや、そうじゃないぞといわれるむきには。たとえば。直感なるブレーキが、ときにいのちの危機を救ってくれたりするのは、あれは、そもそも迷い(が起きてる状態)ではないし。何かの折に、「おい、ちと、待てよ」と。閃くのは、そこは、むしろ、迷いなんてそもそもないフラットな(無心)の状態ではあるまいか。だから、迷うというのは、ほんとうはこうしたいけど、あれが、これが、と、よくをだしている状態のことでは、ないのかしらん。つまり、あれもほしいけど、これもうしないたくないってような…。なんてね。理屈を言うのは簡単だからね。それに、そもそも。迷うって事が、考えるってことが(材料をすべて机上に出して、 慎重に吟味検討するってのが)、どういうことかも、さっぱりわからぬ(できない)、おばさん(おんなという生きもの)の屁理屈なんですけどね。
月をみるとホッとする。ひょっとしたら、そのうち願いが叶うかもしれない、とおもう。いつのころからだろう。気が付くと、そうだった。であえたから、きっと、これも、縁なんだ。そのたびごとに、その凛とした佇まいに、ホッとさせられ、そして、勇気をもらう。また、決して、明るすぎないけど、しっかりと庭の隅にまで届く、その明かりが、そっと、でも、確かなものの、証し…、そんな気がして…。
 
かつて。だれをえれぶかは、あなたしだい…。四柱を読むあるひとにそういわれて。そのときは、ただ、ひょっとして、それって、よりどりみどりってこと…??おろかにも、そして、浅はかにも、おきらくにも、そおんなことをおもったわたしだったが。でも、ひとは、知らず知らずに、大事な決断は、自然とそれと気付く前にしているものなのかもしれない。意識したときとは違う、もっと、別のときに…。気付いてそうするときは、もうすでに、何かが動き始めているのかもしれない。ともあれ。時の運と、流れと、ざんこくと、そしてほんのすこしのしあわせと、人生はいつも、それぞれがブレンドされてやってくる。
 
少し前。友のひとりと、訪れた、古民家カフェで。ふと、ひとつのアイテムに目が留まった。これまで、身につけるもの、つまり、アクセと言われるようなものに、そんな風に目がいったことはなかった。単に、美術館でなにかをみるのと同じ程度に、「ふ~ん。こんなのもあるのねぇ」とか、「きれいだなぁ~」などなど。単なる感想にすぎず、それを手にしようとおもったことなどなかったわたしが、ふと、なにをおもったか、その木でできた小さなワッカの佇まいに惹かれ…、観た瞬間に手にするとこころが決まって…。珍しいことがあるものだなぁ~。まるで、ひとごとみたいにおもっていたのだったが。どうやら、潜在意識は、もっと何かを知っていたのらしい。からだの不調を、ちょうどそれがぶつかるあたりに、ある不調が、自然に、そこにやさしく触れるなにかを求めていたのかしら。ともあれ。潜在意識が知っていること、それが。簡単にわかれば、苦労は、もうちょぴっとだけ、減るのですけどねぇ~。
 
ともあれ。すること、するべきこと、しなきゃいかんこと。それがあるというのは、きっととても、恵まれている。ただ、それを、どう並べて、自分のこころにどういう風にもっていくか。うまく、さぼって時間を満喫し、来るべきときが来たら、えいやぁ~って、やってつけて、そして、その時間さえも充実させて…。そんな風に、時の流れをうまく、やりくりできたなら…。きっと、残り時間は、がらっと、違った風景になるに違いない。どうして、もっと早く来なかったのだろう…。そうなれるといい。その前に。いまは、基盤を、かんじんのたいちょうを立て直すこと。それが、だいいちなのかもしれない。
 
toiunowokaitekara,nemutteshimaimasita

いちばん暑いとき、いちばん寒いときに、どれだけ真剣に頑張るか、頑張れるか…。これが鍵だ。そういわれたのは、ゴルフの練習についてだったけれど。かつて。しかし、あらゆることに、言えるのかもしれない。しんどいことは、逃げてしまえばどこまでも、しんどいのだろうけれど、もし、よ~し、という感じで、立つことができたなら、そこはそれ。暑さならではの、うれしさや、たのしさもあるのかもね。寒さも。四季があるから、いろんな、機微が生まれ、工夫があって、面白さがあるのだとしたら…。夏はさしずめ、若さ(エネルギー?)の象徴だろうか…。いちどぐらい、その一刻一刻を記憶にとどめておきたい、深い夏、というのがあってもいいのかもしれない。


ところで。少し前、ラウンドで、思いがけず、これまでになかった感覚にであった。いや、なんだ、訪れた、というべきだろうか。なんのことはない、パターの話だが。グリーン上は、ティーグランドとちがい、好きなライを選べない。あるがまま、その勾配を受け入れて、目標に向ってまっすぐ打てるように立たないといけない。場合によっては、多少無様な姿にならないと、目標を果たせる球が打てないかもしれない。ともあれ。まっすぐ打つ。これが鍵だ。それも、おもったところに。からだのどこを、どう踏ん張って、どう動かすのか。その感覚と、実際に出て行くボールと。それが、なかなか一致しない。だから、面白いのだが、ふとしたときに、ドライバー同様、オヘソ(肚?)で打つ感覚が生まれた。無論、だから、すべてがうまくいくというのではないが、打った瞬間に入ったとわかる、その打ち方が、なんとなくだが、からだとボールでできたような、そんな気がする。敢えて、喜ぶまいと必死で自分に言い聞かせているが、実は、これ、ひょっとしたら、ほんとに偉大なことだったのかもしれぬと、ひとり、ひそかに噛みしめている。無論、よくある、早とちり…、かもしれないけれど。どうやら、違うようだ。まいった。これで、バーディばっかりとれるようになったら、どうしよう…。なあんて、そんな心配はいらないかぁ~。


こんど生まれてくるときは、競走馬になりたい…。そんな、歌詞のうたがある。で、そのあと続くのは、でも、強くないと、主牡馬にもなれぬし、なんにもなれぬではないか…と、あって、鳥もだめだなぁ。だって、嵐に遭ったら、家に帰ってこれないし。そうだ、どんなに離れていても、必ず帰ってこられる、犬になりたい…。それも、家族みんなに愛されて、さびしくないぞ…。という、ちょっと、泣かせる歌詞が続いていて、面白い。『美しい朝』なるタイトルのアルバムに入っているけど。どうやら、男(たち?)の、世代(年齢?)とともの、願いや思いが、そこには、ひそかに託されているようでもいて、ちょっと、やっぱり、泣かせる。そうそう。この前、話していたのは、どうして、男の人の(つくる)うたには、『どんなに離れても、どんなに時間がたっても、(そして、会えなくなっても)、君の事は忘れない、君の事をずっと想っている…』という、想いが綴られているのに、おんなのそれは、いつも、目の前のことだったり、なんというか、少なくともそんな感じにはならないのは、どうしてだろうって。おんなという生きものは、もっと即物的というか、あるいみげんきんで、気持ちの層の厚さについては、浅いのかなぁ~。なんてことを話していたのだが。観ているところ、感じているポイントは、確かに、多少違うのでしょうねぇ。無論、おんなだって、いろいろだし、ちゃんとわかるひとは、わかっている!はずなのだけど。ともあれ、悲哀や、哀愁…、っていうのは、確かにおんなには似合わないかもしれませんねぇ…。う~ん。

たとえばね。いつもの、ごるふ場の入り口にある交差点で、前を行く車の列たちは、黄色の信号に突進していき…、その群れから少し距離を置きたがっていたわたしは、ちょっと手前から減速していた…、ふとみると、ごるふ場の方から(そこはインターにも通じる道でもあるのだが)、ウインカーを点滅させた大型トラック…、まもなく、信号の色が変わり…、ちょうどいいタイミングでそのウインカーの存在に気付けたので…、停止線より、ずっと手前で停まってるわたし…、曲がりながら…、トラックのお兄さん手を挙げて…、そして、わたしも、ハンドル持つ掌を拡げる…。ほんの、一瞬の、何でもない、ひとこま。たままた、偶然が重なったにすぎないが、その、ささやかなコンタクト。ちょっと、うれしい。大袈裟かもしれないけど、つまり、たとえば、そういうことなのだろうなぁ~って、おもう。ほんの気持ちの交換、交流。そういう、ささやかな、ひとこまひとこまに、であえるということ。そんな時間のありがたさについて、おもえるということ。ひとつひとつは、とってもとっても小さいけれど、きっと、一生分にしたら…。あるひとと、ないひとと…。きっと、そういうことなのかもしれないな。ひとって。


それにしても、穏やかな暑さ、というものは、ないものかしら。穏やかな寒さ、も、ないか…。厳しいそれらが教えてくれるものや、育ててくれるものは、きっとたくさんあるのだけれど。それにしても、穏やかな距離感…に、通じるそれが、ちょっぴりいとおしい。無論、穏やかだけでも、ながい闘いの(歴史?人生?)の、波波は、こえられるぬのかもしれぬし、それに、だれかを想うそれが、いつもいつも、凪状態では、やっぱりちょっぴりさびしいし。う~ん。してみると、ときには、エイヤァ~ってな、切れ味鋭いワンショットも必要なのかしらね。あの、ティーグランドにたった瞬間に、なにがなんでもここはバーディ、と、そうこころに決めて、実際そうするときの、あの真剣なまなざしみたいにね。う~ん。でも、これも、いつもそれでは、気が詰まりすぎて愉しくないしね。ともあれ。ごるふがおしえてくれるものは、流れを読むことだったり、ライを読んでそれに応じて工夫した立ち方をすることだったり、ちゃんと何かを決めてから打つことだったり、つまりは、いろんなシーンシーンに見えないドラマが充填していることだったりするけれど。そして、かっこよさは、ただパーさえとりゃいいってなスタイルには決して生まれてこないところに醍醐味があったりするしね。人生も同じかなぁ。おんなは、気楽でいいよなって、おもわれるかな、こんなこと、偉そうに言ってたら。でも、だれでも、しぬまえの、その一瞬まで、こころの、あるいは、芯の部分のなにかが、ずっと、成長、進化していけたらいいね。面白さは、きっと、その先にまだ、たくさんあるよな気がするから。


そうそう。少し前に訪れたとある神社の境内に。奥ゆかしき佇まいの能楽堂。かたわらには、やっぱり多くの時を噛みしめてきたに違いない大樹。その、一角で思わず、足がとまった。高い梢で、鳥が啼き…。太古からの時の流れを…、肌に感じて…、とまでは、いかなかったが。自然に、その空間に、包まれていることのうれしさみたいなものを、感じて…。そんな風に、感じられたことがまず嬉しくて、そして、その場に来られたことがさらに嬉しくて。その、機会をもてた出会いを、しみじみおもって…。幾重にもかさなるような、そんな感覚にひたれるのも、これ、旅こそすれ、であると、さらにおもいを深くして…。そして、50歳で女性が能を舞うことに限界を感じ、いさぎよく実践の場から離れた白州さんにおもいをいたし…。はて、わたしは…、50歳でなにをおもうのだろうか、と、ふとちょっぴり、感傷にも浸り…。白洲さんの著書ではないが(共著だけど)、ほんに、縁は異なもの…なのですかねぇ。来てみると、ずうっと前からここにやってくる予定だったような気がしないでもなく。なにか、とっても懐かしいような、空気に包まれたその境内に身を置いて…。あえて、こうしよう、こうしなければと、考えるのではなく、あるがまま、ながれのままにそのままいこう…。そう、声なき声に教えられた。そんな気もして…。それでも。少しずつ、少しずつでは、あるけれど、確かにちゃんと、確実に、何かが進んでいるような…。一人合点かもしれないけれど、それでも、なにかをかんじている。そんな気がしている。