たとえばね。いつもの、ごるふ場の入り口にある交差点で、前を行く車の列たちは、黄色の信号に突進していき…、その群れから少し距離を置きたがっていたわたしは、ちょっと手前から減速していた…、ふとみると、ごるふ場の方から(そこはインターにも通じる道でもあるのだが)、ウインカーを点滅させた大型トラック…、まもなく、信号の色が変わり…、ちょうどいいタイミングでそのウインカーの存在に気付けたので…、停止線より、ずっと手前で停まってるわたし…、曲がりながら…、トラックのお兄さん手を挙げて…、そして、わたしも、ハンドル持つ掌を拡げる…。ほんの、一瞬の、何でもない、ひとこま。たままた、偶然が重なったにすぎないが、その、ささやかなコンタクト。ちょっと、うれしい。大袈裟かもしれないけど、つまり、たとえば、そういうことなのだろうなぁ~って、おもう。ほんの気持ちの交換、交流。そういう、ささやかな、ひとこまひとこまに、であえるということ。そんな時間のありがたさについて、おもえるということ。ひとつひとつは、とってもとっても小さいけれど、きっと、一生分にしたら…。あるひとと、ないひとと…。きっと、そういうことなのかもしれないな。ひとって。


それにしても、穏やかな暑さ、というものは、ないものかしら。穏やかな寒さ、も、ないか…。厳しいそれらが教えてくれるものや、育ててくれるものは、きっとたくさんあるのだけれど。それにしても、穏やかな距離感…に、通じるそれが、ちょっぴりいとおしい。無論、穏やかだけでも、ながい闘いの(歴史?人生?)の、波波は、こえられるぬのかもしれぬし、それに、だれかを想うそれが、いつもいつも、凪状態では、やっぱりちょっぴりさびしいし。う~ん。してみると、ときには、エイヤァ~ってな、切れ味鋭いワンショットも必要なのかしらね。あの、ティーグランドにたった瞬間に、なにがなんでもここはバーディ、と、そうこころに決めて、実際そうするときの、あの真剣なまなざしみたいにね。う~ん。でも、これも、いつもそれでは、気が詰まりすぎて愉しくないしね。ともあれ。ごるふがおしえてくれるものは、流れを読むことだったり、ライを読んでそれに応じて工夫した立ち方をすることだったり、ちゃんと何かを決めてから打つことだったり、つまりは、いろんなシーンシーンに見えないドラマが充填していることだったりするけれど。そして、かっこよさは、ただパーさえとりゃいいってなスタイルには決して生まれてこないところに醍醐味があったりするしね。人生も同じかなぁ。おんなは、気楽でいいよなって、おもわれるかな、こんなこと、偉そうに言ってたら。でも、だれでも、しぬまえの、その一瞬まで、こころの、あるいは、芯の部分のなにかが、ずっと、成長、進化していけたらいいね。面白さは、きっと、その先にまだ、たくさんあるよな気がするから。


そうそう。少し前に訪れたとある神社の境内に。奥ゆかしき佇まいの能楽堂。かたわらには、やっぱり多くの時を噛みしめてきたに違いない大樹。その、一角で思わず、足がとまった。高い梢で、鳥が啼き…。太古からの時の流れを…、肌に感じて…、とまでは、いかなかったが。自然に、その空間に、包まれていることのうれしさみたいなものを、感じて…。そんな風に、感じられたことがまず嬉しくて、そして、その場に来られたことがさらに嬉しくて。その、機会をもてた出会いを、しみじみおもって…。幾重にもかさなるような、そんな感覚にひたれるのも、これ、旅こそすれ、であると、さらにおもいを深くして…。そして、50歳で女性が能を舞うことに限界を感じ、いさぎよく実践の場から離れた白州さんにおもいをいたし…。はて、わたしは…、50歳でなにをおもうのだろうか、と、ふとちょっぴり、感傷にも浸り…。白洲さんの著書ではないが(共著だけど)、ほんに、縁は異なもの…なのですかねぇ。来てみると、ずうっと前からここにやってくる予定だったような気がしないでもなく。なにか、とっても懐かしいような、空気に包まれたその境内に身を置いて…。あえて、こうしよう、こうしなければと、考えるのではなく、あるがまま、ながれのままにそのままいこう…。そう、声なき声に教えられた。そんな気もして…。それでも。少しずつ、少しずつでは、あるけれど、確かにちゃんと、確実に、何かが進んでいるような…。一人合点かもしれないけれど、それでも、なにかをかんじている。そんな気がしている。