ことばについてかんがえる。いや、かんがえている。いや、少しだけ、考えてみた。いや、半分は、感じていること…かもしれない。ともあれ。ことばは、それいじょうでも、それいかでもない。しかし、わかるひとには、それは文字におこせば、活字であらわれるそれだけかといわれれば、そうではない。情感や、ニュアンスは、ことばを発するスピードや息遣いや、あるいは、そのほか、いろんな音や、行間の匂いさえ、微妙な機微となって、それらすべてで、相手にわたる。わたると、かいたのは、それが、どれくらい、どんな風に伝わるかは、そのときどきでも、多少異なる。無論、相手によって、もっとそうなる。


もっと、いうと、そもそもことばを発しよう、ことばにしようというのは、相手があるからで、その相手に対して感じている思いや、感想や、(好意のあるなしも含めた)感情が、その根底にはある。たとえ、マニュアルどおり、予め決められた台詞どうりに言うときにしても、きっと、そうだろう。語気や、やわらかさは、どうしたって、多少異なる(のではないか)。だから、常に、きもちと隣接して、とっても素直にことばにするひとから、あるいは、常に(それとも外向きと自分向きに分けて)、ほんとうのこころとは違う方向や意味のことばを発するひとまで(恐らく、そんなひとにしたって、ほんとうの部分とどの程度のどの方向にたがえてことばにするかは、そのひとが、それでよしと決めてそうしている以上、ある一定の規則性はあるはずで。つまり、どの方向のどんな色と形のベクトルにするかは、やはりそのひとの選択の結果なのだから)、いろいろあるが、ともあれ、そとに、音と(意味をとも)なって出てくるのは、ことばである。


で、なにがいいたいかというと。たとえばもし、ことばはどうあれ、そのひとそのひとの、だれかへの感覚や感想は、隠すと隠すまいとに限らず、たえず、その都度そこにはあるわけで。なので、無意識にでも、むやみにだれかを無駄に傷つけることはするまいと、おもうのは、自然なのだけれども、ことばで(自分が他者から)どうおもわれるか、に、こころを費やしすぎることは(少し、厳しく言うと、それは、自分でも見えない定規、ひとのものさしを常に気にして、その都度、決断のポイントを難しくしているのではないかと、いう気がして)、ちょっともったいない(気がする)。むろん、そのことに、腐心してしまうという、そのこころがあるということ、それがまぎれもなく、うつくしく、とってもかけがえのないことなのだけど。そこまで、考えて、ことばを出しているひとがどれほどいるかと考えると、いささか、かなしくなる気もしなくもないが、いま、おもっているのは、そういうことではなく。もっと、自分のこころに、やさしくすること。決して、ひとを傷つけたり、むやみに扱うということではなしに。


そんなことで、やはり、どんなことでも、(恐らくあらゆることは)氷山の一角。ことばにしてもそう。(ではないか。)あとは、受けての想像力、包容力、そして述懐力なんかに、たのまれる。それまでの習慣をかえる、じぶんのなにかを(じぶんで)知らず知らずにしばっていたものを、少しずつ、ほどく。根気よく。もう、いいや。どうせこれまでこうだったのだから。そういいたくなるところを、少しだけ、腰を落ち着けて、おそれずあわてず、きもちと会話する。自分を慰める。ときに、戒める。その、ベクトルを少しだけ、いつも同じ…から、変えられるものはないかと、こころをのぞいて問いかけてみる。もし、そんなことが、できたら。つまり、ここに(なんとか伝えたいと)書いていることが、ほんの少しでも、伝わったら、素直にうれしい。ことばにして、よかったとおもう。ことばのつかいかた、もしかすると、それは、ある意味、人生の深遠!?にも触れる、とても偉大で、(永遠に終わりの来ない)素敵なことだったりしてね。