午後一時半に眠りました。起きたのが、起き上がったのが、午前8時でした。すみません。心配かけました。夕方の四時半にいちど、ぐっしょりと寝汗をかいて、「あ~、昼寝にしたら寝すぎたなぁ~」そうおもったのは覚えているのですが…。そのあと、(たぶん)夜中と早朝に、自分でもずいぶんと眠っているなぁ~と、うっすらと目があきました。朝のそのときは、時計が6時を指していたような…。ずいぶんと、長い夢をみていたような…。おそろしく田舎の番小屋に住む姉妹となにやら話し…、ギアチェンジのある小型バイクで、夕暮れのような、朝靄のような…、そんな田園の中の一本道を、向こうに見える摩天楼(なんでそんなところにあるのか可笑しいですが)に向って、いったりきたり!?していたような…。時代劇と未来劇がミックスされたような…。夢でした。  
 
ともあれ。ときに、こころは、ひとりかってに饒舌になり、そして、いつしか、“わたしが悲劇のヒロインミックス”状態に陥ります。ひとりだって大丈夫。ひとりじゃなきゃできないことだってたくさんあるんだもん。ふんだ。顔もしらない先祖のために、どしたらいいっていうんだい。いつも、なにかが少しだけ欠けてる状態。これがいいのだ。わたしのばあい、それがたまたま子孫なだけじゃん。なにかを、手放すことでそれ以外のしあわせや救いに遭ってるのだとしたら、ひとそれぞれ。それにみあったなにかがあるんじゃん。だって、平安時代のひとのお墓って…。特殊なひと以外、どこにあるともしれないのにね。ほんとにね。なんで、こんなにね。だれもしらないところで、ひとりひっそりきえゆくっていいよねぇ。かっこいいよねぇ。『阿寒に果つ』のヒロインみたいで。まぁ、なにをどうしたって、いつかは終わりが来るのだから、自分に起きることも、なかば観客みたいにみつめていればいいんじゃん?なあんて、いってること自体、忘れるに忘れらぬおもい(なやみ?)に蓋をできない、意気地なしですねぇ。  
 
迷いというものはそもそも存在しないのではないか。それが、迷いとしてあらわれたときには、それはもうこころの願いは決まっているのであって。たんに、それをそのままストレートに通してしまうことに対して、もうひとつの理性が、そんなことしたらあとでたいへんだぞ~と、いっているにすぎない。だから、こころが、ほんとはこうしたい!っておもっていなけりゃ、そもそも迷いなんて起こらないのではないか。いや、そうじゃないぞといわれるむきには。たとえば。直感なるブレーキが、ときにいのちの危機を救ってくれたりするのは、あれは、そもそも迷い(が起きてる状態)ではないし。何かの折に、「おい、ちと、待てよ」と。閃くのは、そこは、むしろ、迷いなんてそもそもないフラットな(無心)の状態ではあるまいか。だから、迷うというのは、ほんとうはこうしたいけど、あれが、これが、と、よくをだしている状態のことでは、ないのかしらん。つまり、あれもほしいけど、これもうしないたくないってような…。なんてね。理屈を言うのは簡単だからね。それに、そもそも。迷うって事が、考えるってことが(材料をすべて机上に出して、 慎重に吟味検討するってのが)、どういうことかも、さっぱりわからぬ(できない)、おばさん(おんなという生きもの)の屁理屈なんですけどね。