たとえばです。文字通りの老若男女の4人の働く姿がとても、いいなと、映る、その食堂で。ふたりの女性は、絶妙な配分で、それぞれが、それぞれに、話しかけてくれる。そして、わたしのほうも、絶妙にかどうかはわからないが、それぞれの微妙な距離感に配慮して、そして、会話をかわす。それぞれが、(決して競っているわけではないだろけれど)、そうやって、話しかけ、ちょっとした話題を、そして、時には、わたしの意見を求めてくれたり、あるいは、わたしが聞き役になったり…。つまりは、ひとは、話が通じるとおもう相手にしか、進んで話しかけないのかもしれないとしたら、やっぱり、嬉しい。そして。食事が済んで、空いたお皿をそっと上の段に置くわたしに、カウンター越しに、しずかに「ありがとう」の表情をみせる、老若ふたりの、物静かな男性の、控えめな笑顔がまた、うれしい。


たとえばです。年にほんの数回しか顔をださない、いつもの歯医者さん。いつぞや、かなり扱いが大変になりかけたころの母を連れてったときの、姿が印象に残ったのかな。腕のいい男先生と、ざっくばらんで話し好きの女先生のふたりがいらっしゃるのだが。このたびは、女のせんせい。母親の近況からはじまって、そのまま、科学で医療がどんどん進んでいくことへのちょっとした、疑問なんかをお話になる。こちらは、口をあけてるわけだから、ほとんど、喉の奥からだせる肯定、否定の音と、あとは、空気でしか返事をできないのだが、それでも、なぜだか、会話になっていく。途中からは、ほとんど、聞き役になるのだが、それでもちゃんと何かが伝わるのであるらしい。滅多に顔をあわさないのに、倫理観、道徳観といってもいい、核心部分の話ができるって。なんか、とっても素敵だな。これまた、ちょっとうれしかった。


たとえばです。これはほんとにむかしむかしのことだけど。グリーンを読むって、実はたぶんとっても難しい。それに、打つボールのイメージとセットでないととても、ひとことで説明なんてできないし。それに。自分のラインは、よくでかすんで、なかなか冷静によめないもの。たぶん、グリーンというのは、この繊細でデリケートなおとめごころ以上に、さらに繊細で難しい。で~んと立ってしっかり打たないと入らないものから、そっとたって、小手先でうたなきゃかえって難しくなるラインまで、ある。それを、実に上手に訊けるひとから、訊きたいのに素直に聞けないで、そしてこころすねたまま打って、よけいにストレス溜め込むひとまで…。つまりは、そういう全部が試されるから、人格なのかなぁ~。ともあれ。流れに逆らわないで、入るラインにスッとたてるということ。勇気をもって、先を見ないで、目の前のボールにヘッドをぶつけていけるということ。自分を信じて、余分な力を抜いた感覚でもってボールを(つまりはこころを)コントロールできるということ。ほんに、いろんなことが試されるのですかねぇ。


たとえばです。いいおとこといいおんなは、はて、どちらがたいへんなのか、というめいだい。そもそも、ほんとにいいおとこは、そんなこと決して口にださないし、実際そうだとはおもってない、と、だれかがいっていたような~。はんたいもたぶんそうだろな。じゃあ、なにをもって、いいというのか。つまりは、いせいに人気があるということか。いや、どうせいにも、こころをひらいてもらえるだけの、なにかがあるから、はじめて、いいおとこ、いいおんなといわれるのか。そして、ときに。いいひと、ということばから受けるイメージと、いいおとこ、いいおんなとでは、おなじ、いいという形容詞が冠されただけなのに、どうしてこうも違う響きになるのだろう。自信がないから努力する。だから、いつまでたっても成長、成熟できるせいだろうか。あるいは、自信に裏打ちされたなにかがあって、そこにひとが自然に寄ってきて、そしてまた、そんな幾つもの貴重な、出会い、時間のなかで、さらに、磨かれたりしていくのだろうか。そういうのを、想像してみるだけでも、なんだかちょっとおもしろいと感じるのは、やっぱりそこに、ただの正論を議論するなかには、きっとでてこない、ちょっぴり奥行きのある世界のイメージが浮かんでくるからだろうかしらん。


(追記 去り際にこそ、そのひとの、なにかが凝縮されるものなのでしょうか。ふとみかけた、引退会見の文字が、こころに響きました。ずっと投げるのが好きで、それで捕手になった…と。うわぁ~としか。ことばにできない、でも、すごいと感じられるなにかがそこに(あるいはその行間に)ありました。そのとき、なぜだか、不意におもいました。これまで、次に生まれてくるときは…、なんてことおもったことないわたしなのに。(それは、たぶん、おんなに生まれてよかったとおもってるせいでしょうか。ともあれ)。おとこにうまれて、名捕手といわれるひとになる、生涯いち捕手を貫く…。それって、すごくいいなぁ~。って。そのときは、一瞬こどものころにもどったこころで、素直にそんなことが、ふと浮かんだのでした。こころのどこかに、名脇役に徹したい…。そんな、かっこよさに惹かれている部分があるからでしょうかねぇ)。

とっても綺麗な月夜でも、天のいたずらか、それとも神さまのやきもちか…、ともあれ、ふとしばらく雲に姿を隠されてしまうことがあるようで…。ほんの、ささやかな、いえ、ささやかであるからによけいに、ふと、こころがちぢれてしまうときがあります。むろん、それとても、たいせつなことだから、そんなにちぢれるわけで…。はじめから、たいしたことない~と、おもってたら、そんなにこころが波打ったりしないのだろうなぁ~。ともあれ。ときどき、天のいたずらに、ちょっぴり、泣きべそをかいてしまいます。


いちにちたったら、なんでもなくなることなのに…。それがわかっていても、それはそれ。こころは、やっぱり、少し、もつれてしまいます。もちろん、それしきのことで、長い人生をかけることと同じくらいの、こころをくだいてしまっていては、それこそ身がもちませんが。でも、こころが揺れるということは、理性が区別したがる、ことの大小とは、ちと、違うのかもしれません。とはいえ。塞翁が馬。なにがさいわいして、なにがそうでなくなるかは、一概には言えないはずだし。むしろ、ちいさなアンラッキーがあったおかげで、次の幸運が生まれる!ってこともあるでしょう。案外、そういうものだと信じてたいなぁ~。


っと、自分をなぐさめ、「どうした?それぐらいのことで、しょげてんじゃないよ!」って、言い聞かせているんですけどねぇ。それはそれ、これはこれなんでしょうねぇ。こころは、その都度、ほんとに正直に、一喜一憂、晴れたり泣いたり…してしまいます。自分でも、この、感性の多さ(?)に、ちと、戸惑うこともありますが。仕方ありません。感じるものを感じないようにできるくらいなら、生まれてこなかったことができるのと同じですからねぇ。(うん?ちょっと、理屈が過ぎますかねぇ)。


ともあれ。いい流れのときもあれば、そうでないときも…。歌詞のなかに、1秒のはずみでラストがかわる~って、とってもせつないのがありますが。たしかに、そういう隠された大事な一秒も確かにあるでしょう。でも、すべての一秒にそれをおもっていたらば、とても生きられないですのにねぇ。どうしても、ひそかにいつも抱いてしまう、祈るようなおもいが、ひとつひとつの、そんなはずみに、こんなに、こころがくだかれてしまうのですかねぇ。もっと、気長に、でぇ~んと、構えてないといけないのですのにねぇ。われながら、ちょっぴり、ふがいなく、そして、やっぱり、さびしくせつない夜…。まぁ。たまにはいいか…(そんなタフさがひつようですねぇ^^;)m--m。

それでも、あせらず、あわてず、少しずつ…。なのだと思います。ほんに、その通り、少し、いえかなり楽になりました。ずっと、ちぎれそうなおもいをずっと、こころの底の方にしまったまま、いたのですから。いえ、気持ちは無論、かわりません。かわりようがないし。だからといって、それですべてが解決するわけでも無論なく。想いとげんじつのはざまで、ひとはいつも、あくせんくとうしているのですかね。なにはともあれ。少しでも、前進できたのだと、そう、解釈したいです。


それにしても。ことばというのは、このうえない、緩和剤だったりもするのでしょうか。ほんとうの、核心部分をことばにして口にするのはあんなに、たいへんだというのに、そうでない、部分のことなら、やっぱり、声やことばや、他愛ないおしゃべりに助けられる部分は、確かに随分あるようです。やっぱり、音、いえ、ことのは、声というのは、ひとのなにかを内側からやわらかくしてくれる、なにかがあるのでしょうかね。もちろん、互いが互いのことをいたわり、おもいやるこころがあって、はじめて生まれる声だったり、音だったりするのです。ほんに、しみじみとそれを感じます。


ところで。こんなことはとてもことばでは訊けませんが。男のひとは、口数が、つまりでてくることばが少なくても、相手からかえってくることばが、多いのは、必ずしも、いやではないのですかねぇ。やはり、それは、その内容と、時と場合と、そのことばの支えにあるこころによるのですかね。そりゃそうですが。でも、ついつい、こうして、流水のようにおもわれるのでは?と、自分でも心配になるくらいに、こころの緊張が高まるたびに、書いてしまう、このわたしです。なにごとも、ありのまま。人間を裏返したり、入れ替えたりできたら、それこそ、そのひとの魅力までなくなってしまうでしょうし(なあんて。都合のいいこと言っていますm--m)。


それがどこから来るのかさっぱりわかりませんが、こうして、こころの緊張(てんきのきざしなのかなぁ~^^;)が、やってくると、どうしても、こんな風に、書くことで、自分のこころを鎮めようとしてしまいます。(たしかに、こんなときのほうが、面白いことが書けたりしているのかもしれませんが)。それにしても。左脳と右脳の連結がちょっとばかり太いだけで、どうして、こうも直感がつぎつぎとやってくるのでしょうねぇ。ときどき、ちょっぴりおやすみしたいくらいです^^;。まるで、こころの千本ノック?(前にもこの表現使ったですかねぇ)です。想いと冷静と、諦念と、それでも忘れたくない情熱と…。そんなこんなを、こころなかの映写機が、つぎつぎと、ことばにしてくれるものだから…。たいへんです。落ち着けわたし。必死で、自分に言い聞かせているのが、実情です(ちっとも、かっこよくないです)。


どんなことでも受け容れる、とうのは、書くだけなら簡単ですが、いつも、それを、覚悟するというのは、ほんにたいへんなのでしょう。だから、ほんとは、もっと、メソメソしたほうがいいのかなぁ~。なあんて、半分以上はやせ我慢で。ほんとは、こころなかでは、ウロウロ、ハラハラ、うわぁ~。わたし、耐えられるかなぁ~。なんてのも(しょっちゅうです)。でも、でも、でも、です。こうして、なにかに、気付かされたり、教えられたり、思い遣りあえたり、できることは、どこでどうしているというのとは関係なく、ほんとに、とてもありがたいのだとおもいます。だから、愚痴をいってはいけないのだと。かといって、わたし頑張ってるんだから!と、なるのでもなく。いつでも、ふわふわぁ~っと、風のようにやわらかな佇まいでいられたら…。そう、自分に語りかけています。(ほそくながく…、それでも、いまはまだ見えずともたしかななにかに支えられていらられたら…)。

おとこのひとに、ほれられるおんなは幾ばくかは、いるのでしょうが、おんなに惚れられるおとこというのは、めったにないのでは、ありますまいか。なあんて、いきなり切り出すと、おどろかせてしまうでしょうか。ともあれ。ほんに、そんな気がします。だから、そのふたつが重なることなど、100マンにひとつぐらいしかないのでは?ないのかなぁ~。吉行さんが著書で、おんなが惚れるというのは滅多に~と、書かれているのもそうですが。それだけでなく…。ともあり、つまり、そんなわけで、そうおもいます。


というと、想いだってそれこそ、100マンとおり以上あるわけで。それに、芯はたとひかわらずとも、その想い方、その内容は、日々微妙にちがうし。それは、二度と同じ打球、飛球がないのと同じ。でも、そこに、確かに凛とした姿、線、というのはきっとあるでしょう。28年分の、幾つもの想いのひとつひとつが、ひとつに繋がって…。こころが洗われる…。そんなとき、ひとは、もしかすると、そのことに驚き、そして、でも同時に、ことばだけではとてもあらわしようのない、いとおしさ、かかがえのなさを胸にひろげる、のかもしれません。いえ、そうなのです。


ひとを、支えてくれるものは、折に触れていろいろありますが、ひとへの想い…。そのことの実感が支えてくれる部分というのは、やっぱりはかりしれないのかも…。とは、おもいます。むろん、それを、しっかり抱きしめるには、たくさんの苦労と忍耐と、そして信頼と、できたら、あんまり大袈裟にはしたくありませんが、とおあれ。ドラマは永遠に不滅なのかもしれません。前途多難です。でも、そこには、それに向かえる、希望を灯せるよろこびのようなものは、きっとあるようにおもいます。むろん、これらは、あくまで、おんなの勝手な言葉遊びが、多く含まれる、と、映るとちょっぴりかなしいかな。ともかく。たいせつなものは、きっと、胸の中にいつも、ちゃんとあるのでしょう。気付けるまでに時間と苦労。そして、それからも。それでも、いい。いや、だからこそ、うれしいのだと、いえるひとになれたなら…・。どこにいても、きっと生きていかれる、気がします。といったら、それこそ、おばさんの楽観呑気と、叱られてしまうでしょうか。


前途多難は、きっと人史以来不変でしょう。勝てるのに、敢えて勝たないのもありなのか、と、ふとおもい、それは、やはり、いざというとき、ほんとうの肝心では、やぱり違うのだとおもいました。もちろん、人生は勝ち負けではありませんが、深く見ると、やはり、つよいよわいでわかれてしまうのも事実のようです。ただ。スタイルは、方法はひとつではないでしょう。あらゆるものを呑み込むちから、時間を掛けて向き合うちから、そんなことが、常に問われているのやもしれませんね。一事は万事で。なあんて、わかったようなことを、手の動くままにあまり、調子乗って文字にしてると、こらこらと、いさめられそうですが。ともあれ、ゴルフができるというのは、はて、どういうことを意味するのか…。ふと、そんなことを考えてとても、深い思索に引き込まれそうになりました。もちろん、ゴルフができるということが指し示す芯の部分の意味は、たとひゴルフをしないひとでも、そうだといえる、といったら、混乱させるでしょうか。ともかく。芯がある、骨がある、ということが、いちばん、近い表現になるのかもしれません。あんまり言いすぎは、ナンですね。(いや、それなら、カレーもつければいいかしらん!?)

いったいなにがどうなったのだろう?自分でもさっぱりわからず、なのに、どうしようもなく、こころがふさぎます。いつもなら、ちょっとおちこむようなことがあっても、「きょういきてられるんだから、きっとあしたも大丈夫じゃない?そのさきのことなんて考えたってしかたないじゃん」。なかば、いいかげんに考えをなげだすことで、たいていのくよくよは、そのうち、どこかにいってくれていたのだが…。ちょうど、ふしめのあった日のあたりぐらいだろうか?ほんとに、わたしどうしてしまったのだろう?自分でも、わけがわからず、そして、たじろいでいる。いつもなら、そう、こうして、書いているうちに、ふわふわっと、なにかに癒され、こころのそわそわ、あたふたは、自然と消えていくのに…。まるで、じかちゅうどくをおこしたみたい。わけもなく、とりつかれたふあんというのだろうか、ことばではなんともいえないそうしつかんのような感覚が、まるで、波が押し寄せるかのように、くりかえしやってきては、こころをいたたまれなくするのだ。どうした、わたし?


かんがえてもしかたのないことをいっぺんにこころのなかでかいけつしようとしているのだろうか。なにをおそれているのだろう?なにをこわがっているのだろう?これじゃあまるで、もののけさんにとりつかれてしまったみたいだ。おちこむときには、たいてい、そのりゆうがありそうなものなのだが、それがわからぬだけに、よけいに、こころが混乱する。ふあんというのは、いちど起こると、勝手に膨れ上がっていくのだろうか。それでも、なんとか、このいまをしのごうと、必死で自分に語りかけてはみるのだが…。あせってもしかたない。さきのことなど、たとえいまどんなに安定がほしょうされていようとも、こころの充足はそれとは違うところにあるのだから…。と、いつもなら、効果のでそうな、そんなあれこれも、ちっとも、効果がなく…。ひとり勝手にふさいでいる。なにもできない無力感?わからぬ。ほんに、深い迷路、森の奥にでも入り込んでしまったみたいだ。こういうときは、無理に元気になろうとしちゃいかん。ありのままに、まかせる。だめならだめで、ひたすらその姿を、ひとごとみたいにみつめる。なあんて、わかったようなやせ我慢を、それでもしようとするからだめなのかなぁ?


こころのなかの迷いや悩みをいっぺんにかいけつしようとしているのだろうか。ともあれ。こんなときに、理由を考えてもしかたがないのだが。いまはこれが試練。とつぜんおそわれたこころの台風が過ぎ去るのを待つしかないのだろな。まいった。わかっちゃいても、やはりつらい。耐えるのにはなれてると、おもっていただけに、いざ、そうぞうをこえた荒波?がやってきたとき、かくももろく、たじろぎ、あたふた、あたふた、こころを乱している。みんな、いうにいえない悩みを抱えて生きてるのは同じなのにね。このたびは、われながら、わけがわからず、自分でもどうしようのない感覚に、たじろぎ、脱力するばかり…。まいったです。ほんに情けなく、そして、つらい。いずれ、時が来れば、このふあんとこわさのもとさんは去ってくれるだろうか?

ときどき、こころが少し捩れてしまいます。こころとは、はんたいのことをことばにしてしまいます。そして、あとで、くいています。つい、さきまわりしていいひとになり、自分で自分のこころに壁をつくっているだけだというのは、あとになってわかるのですが、そのときは、どうにも、ことばを発せずにはいられないしょうどうにまけてしまいます。つまりは、よわいのです。ほんねをくちにしちゃいけないいけない、そうきめてしまっているのは、とりもなおさず、じぶんのこころなのに…。それでも、くよくよ、なやんでしまうというのは、それだけ、可能性(願い)のあることだからなのに…。なかなか。すなおになれません。ながい時間のなかには、それでもそういうこともありましょうよ。精一杯背伸びしている心の中のもうひとつの声がします。(そこでも、やっぱりやせ我慢しようとしている自分がかなしいような、なさけないような、そんな気もしますが)。それでも、ことばにしているその内容も、かといって決してうそではなく、実際に、そう願ってもいることでもあるから、余計に、こころはねじれるのでしょうね。


なにをどう願おうと、どうにもできない自然の流れがあるのはわかります。でもしかし。そのことと、はなから、なにかをあきらめてしまうこころをふやすこととは、まったく別のことであるのに、こころは、ともすると、よわさにじょうじて、そんな理屈の中に逃げ込んでしまいます。いずれにしても、時がかいけつしてくれます。それだけはまちがいがない…、というのは、わかっているだけに、いまこうしてていいのだろうか?日々のほんのちいさな決断の(つみかさねの)なかに、おおきななにかをけっていづけるなにかがあるのでは?なあんて、柄にもなくくよくよしています。なにかをおくびにもださず、けろりとして、(願いを)我慢して生きるのは、実は(ほとんどのひとには気付いてもらえないけど、だからこそ)とっても、かっこいいことなのでしょう。とはいえ、どうせしぬまでのいのちです。なにを遠慮するのだ。我慢してどうなる。あとで、あのときどうしてできなかったのか。そんな悔いだけはいやに違いない…、というのを、実はほかでもなく、自分自身のこころに必死で言っているのです。ひとには簡単に言えることが、自分の事となると…。どうしてこうも、せつない…、のでしょう。


それでも、逃げているのとは違う…、とはおもっているのですが、ひょっとしたら、ただ、時間を延ばして逃げているだけなのかも…、ともおもいます。ほんとに、どうしたのでしょうね。柄にもなく、ほんによわきなきょうこのごろです。こういうときこそ、へんにじたばたせず、それでも、ひたすら自然の流れにみをまかせる…よりないのですけれどね。さきのことはわからない。きがつくと、そのことばをだしています。ということは、とりもなおさず、ほんねはその逆。わかりたいよ~と、おもってるということなのでしょうね。ほんとに、なんだか、ほんとにほんとに、どうしようもなく、かっこわるい自分であるというのがみにしみてわかります。ちょっとだけつらい時期…というのは、だれにも、あるいは、どんなことがらにも、あるのでしょう。だから、努力しないでいいというのとは、ちがいますが。じたばたしてもしかたないことでもあります。こういうとき、たださわさわと、風のように(風邪じゃあ…ないですよ^^;)ふわふわと、でもけっして(想いの)灯を消してしまうことなく、どんなかたちだって、どんとうけてみせますよ!ってな風情でいられたら、さぞ、かっこいいでしょうね。そりゃあ、胸のうちでは、どうにも心配でたまらず、しちてんばっとう…、しているとしても…。

なぜだろう。きんちょうしている。きょうあしたで、じんせいがきまるわけでもないのに。どうしてだろう。


ふと、かみさまにいのりたいような…。そんな心境というのはこういうのをいうのだろうかととおもった。でも、なにをどういのっていいのか…、わからない。


もっと、すなおにこころのままになれたらと、おもう。こんなふうに、だれかのささえになりたいと、おもったことは、これまでなかったから。じぶんでも、とまどっている。


じんせいは、きがとおくなるくらい、ながいじかんのようなきがして、がくぜんとする、こともある。かとおもえば、もしかしたら、このさき、おもいもよらないなにかがあるのかもしれない。5年先、10年先になにかを残せるような…、そんなもの(期待?)が、少しでも感じられるのなら、生きるのは、満更わるいことでもないかもしれない、ともおもうし。


ともあれ。ときのおもさに、ちょっとだけおしつぶされそうになっている。なんだろう。なにをどう、むかえればいいのか。あるいは、あきらめればいいのか。こころのなかは、いつも、かっとうだらけで、しまいに、なにをどうおもっていたらいいのか…、わからなくなる。


これからのじかんのながさに、おもいをいたせば、きがとおくなりそだけれど。過ぎてしまえばそれもまた、ひとつの、味わい…、となる日も来るのだろうか。

ただ、いまの、このときは、ことばにしたら、ほんのわずかのことばにしかならない、そのおもいをしずかにかみしめていたい、そんな、気分なのだが。それでも、ことばにしてみて、おもう。ときに、おもっていることは、ことばにしないと、いけないのだなぁ~と。おもっていることは、ことばにしようと、せずにおこうと、かわらぬのだから…、と、いう気もしていたが、やはり、ことばにしてはじめて、しかとするものもあるのかなぁ~と。ことばは、かたちにして、あるいは、おとにして、はじめて、その意味がうまれ、かたちを生む、その、第一歩になるのかなぁ~と。つまり、ことばには、きっと、おおきなちからがあるのかもしれないと。ふと、おもう。


だから、それが、ひとたび、ひとを傷つける方に使われたら、きっと、それだけ、大きな傷をつくってしまうのだと。やはり、ことばも人格なのだろうか。なにかを、おもっているだけだと、あれこれ、あれこれ、おもいなやみ、そして、たじろぎ、うろたえ、そして、右往左往してしまう、こともあるけれど。ひとたび、たとえ、自分自身のなかの声とでも、ことばを交わし、よし、こうしよう、ここだけは、耐えよう、あれだけは、あきらめずにいよう、そんな、なにかが、ふと、胸にしみこませることができたとき、おもわぬ、ちからが湧いてくることがある。そんな気がするから、だから、ひとの声は、かくも、ひとを元気にさせる、力があるのかもしれない。


言葉を交わす、声を交わす、そのひとつひとつは、ときに、とても、他愛のないことでも、そのこと自体が、とってもありがたく、知らず知らずに積み重ねたそれは、きっと、つらいとき、思いがけず、力を加えてくれるのかもしれない。ちょっと、大袈裟だけど、時の流れは、ときに、想いも寄らなかった展開を生む…、というか、ドコでどんな風にいても、やはり、いくばくかの覚悟と、忍耐と、そして、苦労はつきもので。じゃあ、はじめから、なにかをあきらめてやってくる苦労と、そうでないところで訪れる苦労と、どっちが頑張り甲斐があるか…。そんな風に、結局考えてしまうわたしは、やっぱり、どこか楽天家で、能天気で、そして、結局、いずれにしても、いつも、自ら苦労を引き受けにいってしまう、苦労症というやつなのですかねぇ。


ただ、本人がそれをそうと感じていないだけで…。う~ん。でも、これはこれで、たいへんだけど、そこらへんには決してないもので、あるよな気もして、だから、少しだけたいへんだけど、少しだけ、頑張り甲斐のある、時間をほんの少しもたれているのかなぁ。ふと、そんな気もしている。ともあれ。一歩のちからを、少しずつでもあたためていかれたら…、そんなふうに、願い、そして、おもっている。

この夏の、かけいぼをせいりしました。ちょうどふたつきぶん。ほんとに、たいへんな夏でしたねぇ。なんとも、ふかくて、しんけんな、いろいろなじかんがおもいかえされます。たしかに、外ではたらく時間が多い環境にあったから、これまでも、夏はなんとか無事にやりすごすことで、精一杯だったときもたくさんでしたが、この夏は、なんだか、いろいろな意味でとくべつな気がします。たくさんのことを、考えるきかいもあったし。こころには、とってもタフだけど、ときに、自分の考えや想いをきちんと、言葉にすることのありがたさ。言葉にして、あらためて自分でも自分の気持ちに気付けるような…。そんなことを教えられました。


そんな、せいでしょうか。いつもなら、いちにちでも早く涼しくなってほしいと切望する時期なのに、なぜか、不思議と、あともう少し、もう少し、暑くてもいいかなぁ~。そんな気がしています。それは、季節を過ごし、巡る季節にまた出逢えることが、必ずしも当たり前ではないのだと、気付かされたからかもしれません。どんな機会も、ときも、たくさんの運やきせきに支えられているのだと、知らされたせいでしょうか。当たり前のことなんて、ほんとはどこにもないのだと、ひとは、まいにち、いくつもの運や流れの中に、その都度、あらゆる可能性に面しているのだと…。とっても、意義深かった夏が過ぎていきます。


そんなことを改めてかみしめていると、ひとは、自然と、祈りと感謝(の必要を)感じるのかもしれませんねぇ。ともかく、無事で。無事でさえあれば、いつの日か…。そんな願いに支えられる日々は、かりにそれだけでも、それはきっととてもかけがえのない時間なのだと、おもいます。

ほんとうに、人生というやつは(生意気な言い方でごめんなさい)、ほんとうに、なんともいえない、ものですねぇ。どうして、こうも、いつも、いろんな意味で、劇的なのだろうって、おもうけれども、正直、こころのどこかでは、だから、生きていかれるのだとも、おもっています。いつどうなるかわからない、って、ところがあるから、諦めずに生きていられるっていうかね。


つまりは、わたしはエライし、あなたもエライ。みいんなエライ。(って、言い切っちゃうと、それはそれで、ちょっぴりせつないかぁ~)。ともあれ、見えないところの、葛藤や、ドラマにこそ、きっと生きてる醍醐味があるのかもしれない。とも、ちょっとおもったり。(ああ、やっぱりせつないねぇ)。簡単に、ほら安泰、ほら安心、だからいいでしょ~、なあんて、自慢したくなってしまうような状態。というのは、ひょっとしたら、どこにもないのかもしれないし。仮にあったとしても、それは、ただ、余所行きの~、というか、こころのどこかに蓋をして…、あるいは、こころでいろんな葛藤を重ねてそれらをみいんな乗り越えたあとになって、やっとやってくる状態…、なのかもしれないなぁ。


つらいとき。ふと、こう考える。いまを考えるからつらいんだよ。たとえば、20年後、30年後、いましたいけど、どうしてもできないことを、そのときに、よ~し、もう、文句は言わせないぞ~って、少しぐらいわがままを、貫いても、きっと、許されるとおもうでしょ?なぜなら、70歳、80歳を超えたひとには、そうさせるだけの、なにかがあるし。実際、そういうエピソードがどこかにあったら、ほんとにとっても素敵だし。25年待って、ようやっと、居心地のいい場所をてにできたものと、同じだけ待って、やっと自分の気持ちを正直にうちあけられたものと…。そこだけ、言うと、ほんとに、泣ける話ですねぇ。ほんと、ドラマはどんな風に続くのでしょうねぇ。まるで、ひとごとみたいに、そんな風に、考えることで、救われる心の部分があるのだとしたら…。少しでも、自分にやさしくしてほしいと、こころからそうおもいます。


それにしても。この前、ふと目にしたテレビですが。寂光院が燃えて、その身を完全に黒焦げにしてもなお、倒れず、厳然とその姿を顕し続ける、(建令門院)徳子さんのその仏の像に、胸を突く偉大な何かを感じました。てんごくとあらゆるじごくを味わったというそのひとの、生きとしいけるその時間が、数百年超えても尚、何かを伝えんとするその姿に圧倒され、そして、同時に、理屈(奇麗事)だけではどうしようもない、人間といういきもののさがというか、ほんとうをみせられた気がしました。答えなんて、簡単に見つからないから生きられるんだ、という、ちょっとすねたおもいと、それでもなお、願いはさいごまで捨てずにいたいという、必死な想いと…。ひとは、いつでも、そんな気持ちと闘っているのではないかなぁ。どこに、どうやっていても、必ず訪れる葛藤や想いのはざまで…。ただ、すべてのひとに、いい顔などできない、ということだけは、確かなようですねぇ。だから、(生きるとは)覚悟、なのですかねぇ。


たぶんだけど。じっさいに、目に見える部分はどうあれ、こころの(なかの)正直に忠実にいるっていうのは、それだけで、とっても偉大なことなのではないかなぁ。そこで、すぐになにかを形にできるできないということとは、まったく別に。それらを、みいんなわかったうえで、いつも、あれるようにある。そこにある。そんな姿勢で歩くことができたら…。たとえもし、目に見える何かがあとに残らなかったとしても、充分に生きた価値はあったといえるのではないかなぁ。まぁ、はんぶんはわたしがわたし自身に言ってるのですけどね。。