それでも、あせらず、あわてず、少しずつ…。なのだと思います。ほんに、その通り、少し、いえかなり楽になりました。ずっと、ちぎれそうなおもいをずっと、こころの底の方にしまったまま、いたのですから。いえ、気持ちは無論、かわりません。かわりようがないし。だからといって、それですべてが解決するわけでも無論なく。想いとげんじつのはざまで、ひとはいつも、あくせんくとうしているのですかね。なにはともあれ。少しでも、前進できたのだと、そう、解釈したいです。


それにしても。ことばというのは、このうえない、緩和剤だったりもするのでしょうか。ほんとうの、核心部分をことばにして口にするのはあんなに、たいへんだというのに、そうでない、部分のことなら、やっぱり、声やことばや、他愛ないおしゃべりに助けられる部分は、確かに随分あるようです。やっぱり、音、いえ、ことのは、声というのは、ひとのなにかを内側からやわらかくしてくれる、なにかがあるのでしょうかね。もちろん、互いが互いのことをいたわり、おもいやるこころがあって、はじめて生まれる声だったり、音だったりするのです。ほんに、しみじみとそれを感じます。


ところで。こんなことはとてもことばでは訊けませんが。男のひとは、口数が、つまりでてくることばが少なくても、相手からかえってくることばが、多いのは、必ずしも、いやではないのですかねぇ。やはり、それは、その内容と、時と場合と、そのことばの支えにあるこころによるのですかね。そりゃそうですが。でも、ついつい、こうして、流水のようにおもわれるのでは?と、自分でも心配になるくらいに、こころの緊張が高まるたびに、書いてしまう、このわたしです。なにごとも、ありのまま。人間を裏返したり、入れ替えたりできたら、それこそ、そのひとの魅力までなくなってしまうでしょうし(なあんて。都合のいいこと言っていますm--m)。


それがどこから来るのかさっぱりわかりませんが、こうして、こころの緊張(てんきのきざしなのかなぁ~^^;)が、やってくると、どうしても、こんな風に、書くことで、自分のこころを鎮めようとしてしまいます。(たしかに、こんなときのほうが、面白いことが書けたりしているのかもしれませんが)。それにしても。左脳と右脳の連結がちょっとばかり太いだけで、どうして、こうも直感がつぎつぎとやってくるのでしょうねぇ。ときどき、ちょっぴりおやすみしたいくらいです^^;。まるで、こころの千本ノック?(前にもこの表現使ったですかねぇ)です。想いと冷静と、諦念と、それでも忘れたくない情熱と…。そんなこんなを、こころなかの映写機が、つぎつぎと、ことばにしてくれるものだから…。たいへんです。落ち着けわたし。必死で、自分に言い聞かせているのが、実情です(ちっとも、かっこよくないです)。


どんなことでも受け容れる、とうのは、書くだけなら簡単ですが、いつも、それを、覚悟するというのは、ほんにたいへんなのでしょう。だから、ほんとは、もっと、メソメソしたほうがいいのかなぁ~。なあんて、半分以上はやせ我慢で。ほんとは、こころなかでは、ウロウロ、ハラハラ、うわぁ~。わたし、耐えられるかなぁ~。なんてのも(しょっちゅうです)。でも、でも、でも、です。こうして、なにかに、気付かされたり、教えられたり、思い遣りあえたり、できることは、どこでどうしているというのとは関係なく、ほんとに、とてもありがたいのだとおもいます。だから、愚痴をいってはいけないのだと。かといって、わたし頑張ってるんだから!と、なるのでもなく。いつでも、ふわふわぁ~っと、風のようにやわらかな佇まいでいられたら…。そう、自分に語りかけています。(ほそくながく…、それでも、いまはまだ見えずともたしかななにかに支えられていらられたら…)。