はやく、じゅみょうがくればいいのにとおもう。「そのうちなんとかなる…」。聞き飽きた。うんざりする。そりゃ、なんとかなるだろう。よくなる可能性とおなじだけ、もっとみじめになる可能性もある。ただ、それだけにすぎない。自分以外のなにかを、あるいはだれかを、どうにかしようとおもうからこころがねじれる。ここにきてずっとつづいている隣人(区長)によるすとーかー行為にしてもおなじだ。はらだたしいし、はやくばちがあたってしょうてんしてくれと、おもうけれども、それとても、ひとのことをなんとかしたいとおもうからはらがたつのだ。結局は、自分で決断して、すべての責任は自分が負って、ただそのときどきを“いる”しかないのだ。そう、じゅみょうがきてくれるまで。
めだつことをして、ひとのやっかみをかい、それとたたかうことにばかりエネルギーをとられる、ただひたすら、それに耐えることだけに集中して、時間の経過をわすれるくらいにいそがしくする。それも、ひとつの、いや、おそらく、もっともひとにうけいれられやすい寿命待ちなのかもしれない。『男たちの旅路』の主人公のように、なにももたない、と、その信念を貫いていくことのほうが、ものすごくかっこいいけど、ものすごくたいへんでつらいことなのかもしれない。でも、できるならそうしたいとおもう。
じぶんがああなりたい、こうなりたいとおもうことをつきつめると、結局は、自分が楽をしたい、かっこいいおもいをしたい、堂々ときもちよくありたい…、ということになる。しかしそれは、つねに、どこかのだれかから、いまあるそれらを奪うことにほかならず、うまくいったとたん、つねに、おいめを感じていきなければいけないということになる。だれかにしをえらばせるようなことになるくらいなら、そのまえにじぶんが潔くきえるほうが、どれほどきもちいいか。これも、結局は、自分がかっこよくありたいというひとつの願いにすぎないのだが。いずればおわるのだ。だから、よけいはきたいはしないほうがいい。だれかに無理をさせて、結局つらいおもいをさせるくらいなら、いずれじきがきて、いなくなれば、きっとそのうちわすれてもらえるだろう。
このいえがあるから、こんなみじめで窮屈なおもいをしなければならない。こんなおもいはもうわたしひとりでじゅうぶんだとおもうから。こはいらないとおもう。しかしいっぽうで、こんな戯言をのたまいながら、一見、何食わぬ顔してまるで定年後のような暮らしに逃げ込んでいられるのも、この家があるからにほかならず。とりあえず、いまおとなしくさえしていえれば、これまで辛抱して得たいまの場所は失わずに済む。なにも、一歩踏み出して危険をおかすまでもなく。いずれ寿命が来ておわる。そのとおりだ。無理をして一歩踏み出す理由がどこにあろうか。たかがひとの目だが、されどだ。それと闘うのはどれほどしんどいか。だったら、何ももたず、何にもあらがわず。さぼれるだけさぼって、はやく寿命がくればいい、そう願っているのが、いちばんここころ穏やかでいられる。なにも願ってはいけないのだ。願いさえしなければ、いずれ、潔くきえることができるだろうし。