はやく、じゅみょうがくればいいのにとおもう。「そのうちなんとかなる…」。聞き飽きた。うんざりする。そりゃ、なんとかなるだろう。よくなる可能性とおなじだけ、もっとみじめになる可能性もある。ただ、それだけにすぎない。自分以外のなにかを、あるいはだれかを、どうにかしようとおもうからこころがねじれる。ここにきてずっとつづいている隣人(区長)によるすとーかー行為にしてもおなじだ。はらだたしいし、はやくばちがあたってしょうてんしてくれと、おもうけれども、それとても、ひとのことをなんとかしたいとおもうからはらがたつのだ。結局は、自分で決断して、すべての責任は自分が負って、ただそのときどきを“いる”しかないのだ。そう、じゅみょうがきてくれるまで。


めだつことをして、ひとのやっかみをかい、それとたたかうことにばかりエネルギーをとられる、ただひたすら、それに耐えることだけに集中して、時間の経過をわすれるくらいにいそがしくする。それも、ひとつの、いや、おそらく、もっともひとにうけいれられやすい寿命待ちなのかもしれない。『男たちの旅路』の主人公のように、なにももたない、と、その信念を貫いていくことのほうが、ものすごくかっこいいけど、ものすごくたいへんでつらいことなのかもしれない。でも、できるならそうしたいとおもう。


じぶんがああなりたい、こうなりたいとおもうことをつきつめると、結局は、自分が楽をしたい、かっこいいおもいをしたい、堂々ときもちよくありたい…、ということになる。しかしそれは、つねに、どこかのだれかから、いまあるそれらを奪うことにほかならず、うまくいったとたん、つねに、おいめを感じていきなければいけないということになる。だれかにしをえらばせるようなことになるくらいなら、そのまえにじぶんが潔くきえるほうが、どれほどきもちいいか。これも、結局は、自分がかっこよくありたいというひとつの願いにすぎないのだが。いずればおわるのだ。だから、よけいはきたいはしないほうがいい。だれかに無理をさせて、結局つらいおもいをさせるくらいなら、いずれじきがきて、いなくなれば、きっとそのうちわすれてもらえるだろう。


このいえがあるから、こんなみじめで窮屈なおもいをしなければならない。こんなおもいはもうわたしひとりでじゅうぶんだとおもうから。こはいらないとおもう。しかしいっぽうで、こんな戯言をのたまいながら、一見、何食わぬ顔してまるで定年後のような暮らしに逃げ込んでいられるのも、この家があるからにほかならず。とりあえず、いまおとなしくさえしていえれば、これまで辛抱して得たいまの場所は失わずに済む。なにも、一歩踏み出して危険をおかすまでもなく。いずれ寿命が来ておわる。そのとおりだ。無理をして一歩踏み出す理由がどこにあろうか。たかがひとの目だが、されどだ。それと闘うのはどれほどしんどいか。だったら、何ももたず、何にもあらがわず。さぼれるだけさぼって、はやく寿命がくればいい、そう願っているのが、いちばんここころ穏やかでいられる。なにも願ってはいけないのだ。願いさえしなければ、いずれ、潔くきえることができるだろうし。

そのときどきに去来するきもちなど、いずれそのうちかたちを変えるのだから、つまらないもの…、もし、そういわれたら、たぶん、きっとその通りだ。だから、このところ、去来している、これまでの、どんなのとも、ちょっと違うような感じのするそれを、じぶんでも、ちょっぴりもてあましてもいる。とはいえ、時間は、容赦なく、いや、ありがたいことに、刻々と流れてくれるから、いずれ、おちつくところにおちつくのだろうな、という想像はつく。だが、しかしだ。じぶんでも、これまで、こうやって、書くことで、落ち着かせることができたり、それなりに整理できたなぁと、おもうことも多分にあるけど、こんかいばかりは、はて、これは、どこからどうくるものかしらん、と、いささかならず、戸惑ってもいるのです。


いえ、とはいえ、何かに、ものすごく悲観しているわけでも、(もちろん楽観しているわけでも)、あるいは、なんでしょう、とても期待いっぱいに無邪気になれるわけでもないかわりに、どうしようもなく冴えなく塞ぎこんでいるのとも、少し違う…、でも、なににそんなに慎重になっているのか、自分でも分からぬ塊が、胸の中に去来している。のです。悩めるということは、ほんとはとってもしあわせなことなのに。本にもありました。しあわせというのは、つねに、達成されてしまったそこにはあらず、あともう少しでそれにむかっているところ…、にしかないのだと。なるほど、そうでしょう。でも、いえ、ただ。なにかを願わずにいられないのも、また、ひとのこころでして。ところが、かなってもいないのに、もしかなったら…、もっとつらいことがあるのではないかしらん、いや、どこかのだれかのしつぼうと引き換えにかなうのだったら、いっそかなわないほうが…。なあんて、ただの奇麗事としかいいようのない理屈に心は覆われ、ひととき、素直とやせ我慢の板挟みになりもします。


不思議なもので、なにかを息をつめて一心にまっているとき、えてしてそれは訪れず、ふと、気がほかにそれたとき、ふと、別のことにこころがむきかけたとき、思いがけず、その、まちわびたものが、少し遅れてやってくる。そんなことは、日常のちいさなことごとでも、実感をもってわかっているのに、いざ、人生の一大事となると、こころがそれを忘れられるわけもなく、それでもじぶんで、必死に、じぶんに、いいきかせる。あんまりおもうな、おもっても、どうにもならぬものはならぬのだ、どうあれ、じぶんのこころに素直にいきていくよりほかないではないか…、と。そして、実際、自分でもそうだそうだと、納得しているのに。ふとしたときに、心の叫びがあたまをもたげる。そうして、理屈っぽく語りだす。ほんとうにそれでいいの?ほかのことをぜんぶあきらめたからといって、いちばんに願っていることがやってくるとは限らんよ…。どうして、そう不器用なのかねぇ…。と。そう、まるで悪魔の囁きみたいに。


と、書いてみたけど、このところ、去来するこころの靄の正体は、どうやら、ひとことで合点がいくほど単純ではないのか、それとも、季節柄のただのブルーなのか…。柄にもなく、くよくよしているきょうこのごろです。変化をどうしようもなく切望するこころと、いまの自分には外に出て闘う覚悟も信念もちっともできてない自信のなさと。なにかを、ものすごく願っていながら、それをことばにした途端、消えてなくなってしまうのではないかという、どうしようもない惧れと…。たとえば、ことばの約束がものすごく大きな支えになる場合もあるだろし、反対に暗黙のほうが救われる場合だってあるだろうし…。うう。いや、きっと、どうあれ、この苦悩は、過ぎてから思い返せば、間違いなく、貴重で思い出深い時間時間になるに違いないのは確かなのだけどなぁ。ほ~んに、ひとにはそれぞれ、そのひとに(似)合った、どうしようもない運と流れがあるのでしょうか(ほんのときたまだけど、うけとめるというのと、あきらめるというのは同じ意味のことばにおもえて、ちょっぴりかなしくなります。かなしみとよろこびは、きっとおなじだけあるはずなのにね)。

『ひとはただだんに生きるだけでなく、生きながら、生きることの意味を考えないではいられない生きものです。何かをしながら、それをしていることの意味について、考えずにはおれない。生きたいと希うのであれ、やっぱり仕方なく生きていくんだとか、生きるしかないとあきらめるのであれ、なんらかのかたちで「ただ生きる」ことからずれてしまっている。それが人間です。だから、じぶんがいまここにいることの意味を、そんなにかっこよくはなくてもじぶんなりに見いだせないときには、「ただ生きる」ことすらむずかしくなって、いっそのことすぐに終わってしまったらいいと考えてしまいます。~、ぱっと消えてしまえればいいのに……というふうに。』


それは、おとこが一生をかけてするものであって、おんなが遊び半分にするものではないのだそうです。歴史ある梨園の家の出の女性が語っていました。それを語るときのその方の表情から、恐らく、若い頃、じぶんの居場所というものに、とても深く悩み葛藤されたのだろうなと、おもいました。ときどき、思います。もし、素直に心を開きたいとおもえる、そんな先輩の女性にあえたら、訊いてみたいと。もし、跡取りではなく、嫁にいける立場だったら、どう生きたと思いますか?あるいは。嫁に行くというのはどういうものですか?あとから、自分の子どもが入ってくるまで、まったく血のつながりのないひとばかりのお墓(家)にはいるというのは?無論、日々の暮らしに精一杯のとき、とうてい、そんなことを考えている余裕などないのかもしれませんが。ともあれ。そんなふうに、おんなとして、感じる、そんないろいろを素直に訊けたらどんなにいいだろうと。わたしは、こんな風に年を重ねたい…、そんな風に感じられる女性にまだ、であったことがありません(その著書を通してというのは除いて、直接に会うという意味でです)。特別な人など、どこにもいないのでしょうか。それとも、このひとになら、なんでも話せると、感じられるそんな器の大きな人物はちゃんとどこかにいるのでしょうか。


近い過去、少しシビアなゴルフの試合を目の当たりにしたことがあります。そのとき、思いました。こういう真剣勝負の場でしか、感じられない何かがあるのだなぁ~と。こういう緊張の場に身をおくというのも、きっととても大きなことなのだろうな。と。夢中になれたなら、きっと面白いだろうな、と。そこには、男性にまじっていっさいのハンデなしに戦う女性もありました。なにも感じなかったといえば、嘘になりますが。かつて、なんとしても野球を、とおもっていたときのように、ほかの女性に負けたくない…というような感覚は、まったくといっていいほど自分の中にはないのを感じました。しかし、そういう動機はなくとも、いやないからこそ、静謐な気持ちで自分のスタイルを発揮できるというのは、とても素晴らしいことだろうな、ともおもいました。でも、そこまででした。じゃあ、明日からもういちど、クラブを毎日振るような時間をもつことはとても想像できません。ゴルフができるということは、とても誇りにおもっていますが、それを、どんな形で、どうじぶんを支える機会にもっていけばいいのか…。


やっぱり、おんなが遊び半分でするものではないのかしら…。かっこつけているだけなのは、わかっていますが、こころのどこかでそうおもってもしまいます。だから、ましてや、女性ばかりと競う大会に出たいなどとは、とてもおもえるはずもありませず。そこで、深く理屈だけを追ってしまうとこうなります。だったら、貯蓄をすべてなげうってまでやってきたことはいったいなんだったのだと。あらゆるきゃりあをぎせいにしてまで…と。その葛藤は、かつてそれこそとことんやってきたので、ようやくこのごろは、そんな後悔にはならなくなりました。むしろ、それでも、わたしは(わたしの)ゴルフができます。そう言えることは、とても大きく、誇りであると、そう感じてはいます。ただ、それはどこまでも、ただそれだけのことなのです。


聴く、というのは、同感でも同情でもない、共有というのが必要なのだそうです。テレビで人気の教育を専門とするせんせいがおっしゃっていました。だれかになにかを話したいと感じるのは、無意識の何かが、このひとになら、なにかわかってもらえるだろう、そう感じる何かがあるから、話したいとおもえるのでしょうね。めったにないからこそ、稀有だからこそ、できるなら、失いたくないとおもってしまうのです。さて。ちなみに、冒頭の引用は、あるクリニックの受付にあることばです。そこには、その前後にこうもあります。『でも「ただ生きる」ことすら他人とのあいだでしか、あるいはいろいろと複雑な組織のなかでしか可能とはならない以上、考えることをやめて「ただ生きよう」としても、それはほとんど不可能なことです。』 『けれども、病はそれにきちんと向きあうなかでしか、あるいはそれを内側から抜けでてゆくなかでしか、癒えません。そして、生きるということじたいにどこか病のようなところがあります。』 『~(ここ)~では、~。もっとも薬を出す側が、クライアント以上に深く病にかかっている可能性もありますので、服用するばあいに、いつもちょっとは懐疑的であってください。ついでに「治る」ということじたいにも懐疑的であってくだされば、効能はすこし増すかもしれません。(ここ)は、治療することをも疑ってかかるヘンな病院です。ただ、ずっと、あなたの問題もわたしの問題として、あなたといっしょに考えつづけることは約束します』

それにしてもどうしてこんなに悩んでいるのでしょう。いえ、悩んでいるというより、みずからすすんで苦しんでいるような…。もっとも、それは、そうするだけのひまが、つまりは忙しくない時間があるからにほかありませんが。生きる意味を考えることに意味などなく、「生きるため」でも、「ただ生きている」でもない、ところに、時間のつながりがあるのだと、うまくことばで綴られた本のなかの一節をよんで、そのときは、そうだ、そうだ、「ああ、いまいやされているなぁ~」と、おもうけれども。やはり、なんでしょねぇ。もちろん、だれでも、いつも同じくらいに、元気でありつづけられるわけもなく。これはこれで、きっと、必要で貴重な時間なのだとわかるのだけれど。つまりは、素直に白状すると、とても、苦しいのです。


どんなことも受け容れるといっておきながら、やはり、心のそこでは、なにかを願わずにはおられず、もし、それがかなわなかったときに、はて、どうやって生きていられるのだろうか、などと、それこそ、考えてもどうしようとないことを考えているのです。つまりは、自分が自分が、のおもいなのでして。それはそれで、ありのままなのだから、仕方ないのだとわかっているのですけどねぇ。わかっていると、ひとことでいっても、それは、わかったつもりになっているだけであって、やっぱりこうがいい、ああはいやだ…、という、つまりは、よくでしょうねぇ。それを、うまく、咀嚼したり、自分で自分を受け止めたりが、できなくなくなったとき、ひとは、こんな風にどうしようもなく苦しんでいるような、気持ちになってしまうのでしょうかねぇ。


なにがどうなろうと、それでも、それなりに、目の前のことに、取り組んで、生きてはいくのだろうとおもいます。これまでが、そうだったように。じゃあ、そんなこと、考えてもしかたないじゃないか。そう、なんど、自分に言い聞かせても、きっと、なにかが、足りないのですかねぇ。いったい、なにがどうなりゃいいってぇの?自分のこころにガツンと問うてみるけれども…。それが、素直にことばにできないから苦しいのか、はたまた、ともあれいまはひとまずそっと成り行きを見守るしかないときなのに、それ以上のことをのぞんでしまうから苦しいのか。実際、目の前を眺めてみれば、なにひとつ、ほんとうに困っていることも、ほんとうにつらいことも、ないのに。いまだって、充分恵まれてるとおもっているのに(でも、こころから、そうではないと、おもっているのでしょうねぇ。だから、なにかが、足りなくて、潜在意識の叫びがこんな風にあらわれるのでしょうかねぇ)。


虫がよすぎると、叱られるかもしれませんが、そりゃあ、できるなら、悩みを打ち明けたいし、気楽に話せたら、あるいは文を送れたら、どんなにいいだろうっておもいます。ゴルフができたら、きっと素晴らしいだろうし。沈黙しながら、いつも、うまくことばにならない叫びを感じながら、いました。まだ、なにもきまっていないということは、あらゆるかのうせいがのこされている、ことでもあるのですけどねぇ。しかし、それは、つまりは、もうなにもおこらないこともありうるわけで。つまりは、いまあるなかで、なにをどうとらえ、どうかまえているか、どうしているか、によっても、きっと、さきの流れはかわっていくのでしょうねぇ。だから、こころは、ときに、どうしようもないくらいに、もつれ、ひとり悲観し、ひとりおちこみ、どうしようもなく、ちりぢりになるのでしょうか。きみにであって、ぼくのじんせいがかわった。詞にあるように、そんなふうに、おもってもらえることが、いつかおこりえるのだろうか…。涙が出るくらいに、どんなに切望しても、かなわないことは、あるのでしょうかねぇ。

書けなくなったわけでも、書きたくなくなったわけでもないのだけれど。そのうち、できるところまで、沈黙をつづけてみようか…、などと、自分でもわけのわからぬ、がんばり指針がうかばぬでもなく…。ともあれ。理由はどうあれ、しばらく、だまってみたかった…のかもしれません。いえ、もっと、正直に言うと、目の前の交流での、うまく伝えられない部分を、ここで、書くことで、伝えたい気持ちの一端でも、伝えることができたらと、いうきもちなのだけど。ふと、なにも、それを全宇宙経由にすることへの、ためらい…、というか、まぁ、そんな、噛み切れない想いのいったんが…。きもちは、いつも、ことばとことばのあいだのくうきに滲んでいるもので、ことばそのものには、すでになく、それを伝えようとしたところにあるのでは…。などなど、幾重にもつらなる想いのはしはしを、それでも丹念に連ねることからへの、回避…、だったのでしょうか。(それは、まぎれもなく、ここではないところに、意識を集中させたかったからに、違いありません)。


ともあれ。こうして書くと、ふだん直接にはなかなかいえないことを、さらっといえる反面、余計な誤解やら心配やらも招いてしまいます。きずつけなくてもいいことまでも、ことばになって、伝わってしまうかも…。などなど、ことばが生まれる経緯にはそれこそ、幾通りもの、葛藤や思案があったりもします。なので、書きたいとおもったときに、そう、自然に任せて…、いられたら…、と。いいときも、そうでないときも、声をきいたら、ただそれだけで、ふわふわっと、こころのなかがやさしくとけていくときの、あの瞬間のように…。こればかりは、どうにも、理路整然と説明できないもののようです。だからこそ、見えない、からこそ、ことばには到底できない、価値が、恩恵が、あるというか…。と、書いていること自体、いったい、誰に対する弁なのでしょうねぇ。つまりは、そういうことも、ひっくるめて、自然にひとつところだけを見つめていたい、そんなときと。なにかが少し落ち着いて、もっとちゃんとゆとりのあるときは、以前のように、宇宙さんに向けて、ひろく語りかけてみたいきもちになるときもあるだろし。


書くのは、簡単、ですが。そこにいたるまでには、ほんとにたいへんな道のりがあるのだなぁ~と、しみじみ噛みしめているところ。どこで、なにをどうしていようと、想いはかわらず。だからといって、なにも、考えず、あるいは、なにも期待せず、あるいは、むしろ、みずからなにかをあきらめるように、息をしていくのも、これまた、たいへんで。いずれにしても、自然にまかせる以上のことができようはずもないのではあるけど。それでも、いつも、それなりに、いろんなことを、おもったり、なやんだり、期待したり、あきらめたり、そんなこんなが過ぎて、いつか、一生という時間がおわるのではありましょうが。ともあれ。どこまでも、深く考えようとすれば、それもできるし、はたまた、たとえ、それはそうでも、いっけん、なにくわぬかおして、ぜ~んぶ、ひきうけて、アッケラカンをがんばるのもできるやもしれぬし。不惑などということは、おそらく、一生ないのではないかと。それが、いまの感想です。自分でも、何を書いているのかわからぬままに、書いています。ともあれ。いまは、いや、これからも、そう、このごろのように、ただ、今の積み重ねとして、そのときそのときを、ひとつひとつ、たいせつにしていけたらと…

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朝晩、すっかり涼しく、なりました。う~ん。ことばや、きもちというのは、ありすぎても、かえって、なかなか、うまくかたちにできないものなのかもしれませんね。ともあれ、なんともいえない、かんかくです。そういえば、なんでしょね。この、10月の、この日は、かつて、印象に残る日となったことが、幾度かあって、まぁ、たぶん、神無月の初日とは、たしょう、いえ、たぶんとても、相性というか、縁があったりするのかなぁ~。う~ん。ちょっと、大袈裟かな。ともあれ。


そうそう。ゴルフというのも、ほんに不思議です。ラウンドを共にするというのは、やっぱり、そこには、同じ空気を分け合うというか、共有する?というか。いえ、きっと、そこは、どんな場合であり、やっぱり、ひとつの、闘いの場所であり。きっと、たとえばこちらが、どんなに気楽にしていようとも、知らず知らずに、相手の空気にひっぱられたり、あるいは、その反対があったりするのかなぁ~っと。あらためて、つくづく思いました。ほんとに、やっぱり不思議な感じです。ひとの、つよさというか、なんでしょね、たたずまいというか、つまりは、ひとの芯(?)が、そこには、知らず知らずに投影されて、一緒にまわるひとにも、影響してしまうのでしょうかねぇ。


わたしは、う~ん。(いえ、ゴルフの話ですよ)。ちょっぴりフクザツな感じです。もちろん、一打として手を抜いたりしませんし、精一杯、真剣にボールと向き合っているわけで。ときどき、「よし、来たぁ~」って、おもえる手ごたえと、そんなピンに向って一直線のボールが飛んでいったら、素直にうれしいし。ただ。自分でも、正直もどかしいような、いえ、ひょっとしたら、潜在意識ではどうにも抗えない感覚でそうしてしまっているのか、自分でも判然としないのだけど、ど~しても、スコアにこだわったり、はたまた、一緒にまわっているひとに、しゃかりきに向っていったり(つまり、一騎打ちの感覚に)なれないのです。最初は、おひとよしだから、ついつい周りにあわせてしまうのかしらん、と(えらそうにも)そうおもっていましたが、ひょっとしたら、わたしのこの、能天気なマイペースでまわってしまうこの空気が、知らぬ間に周囲に力を入れさせてしまうこともあるのかしらん、と、さらなる、えらそうなことを、おもってしまったり…。


なあんて。素直に、一期一会。この人生の一瞬一瞬も、すべて、二度とない一期一会。だから、未来はいつもここにあって、それがすべて…。とも、いえるし。ともあれ。そんなこんなで、ゴルフにしたって、その都度、精一杯、自分に正直にいたらいいのかなぁ~ってね。もちろん、おごることなく、なにかを無理強いすることなく…。自然の流れに身を任せるというか…。そのなかでも、真剣にならなきゃいけない一瞬一瞬は、たぶん、しぜんにできることをする…、というか…。なんじゅっかい、ラウンドをしても、その都度、新しい発見というか、気付きはあります。それと、おなじで…。ささやかでも、感じられるなにかがあるかぎり、続けていけたら…。それにしても。リラックスできるって、ほんに、とても、ありがたく、そして、かけがえのないことなのですねぇ。(ゴルフは)いつも、いつまでも、どこまでも、師なんだとおもいます。そう、いつまでもそうあってほしいと、こころからおもってしまいます。

ふとしたとき、こころは、ゆらぎ、みだれ、いたたまれないおもいにつつまれるときがあります。しばらくして、平静をとりもどしてみると、なにひとつ、なにかがなくなったわけでも、これからさきのかのうせいがきえたわけでも、なんでもないのに、それとは、おそらく、まったくべつのところで、こころは、ふと、きずつき、いえ、きずではなく、そのなんというか、つまりは、よじれて、じぶんでもおどろくほど、もろく、なってしまうときがあります。それを、ひとことでいうと、つまりは、せつない、ということなのかもしれません。


むろん、それは、たいせつなにかが、かけがえのないなにかがら、あるからこそ、それだけ、繊細に、ちいさなことごとに、ふと傷心してしまったり、なんともいえない、気分に自分でたじろいでしまったりするのだろなぁ。だから、あるいみでは、それは、けっしてかなしいことではないのですが。いえ、ひょっとしたら、かなしいとはありがたくめぐまれたこと、と、同義語なのかしらん、と、はんぶんほんきでそうもおもうような…。つまりは、心配事がまったくない状態というのは、むしろ、より、不安で仕方ないことなのかもしれないぞ、と、言い直してみたり。。。(う~ん。ちょいと、せつないやせがまんかなぁ)。


つまりは、そうやって、日々、自分の、ときに、もろく、小さなことで、ちりぢりになったり、また、つよさをとりもどしたかとおもったら、また、せつなくなったり、しあわせをかみしめてみたり、そんなこんなを、いそがしくくりかえしてしまう、自分のこころを、毎日、眺め、ときに、もてあまし、ときに、よろこび、かなしみ…。そんなこんなも、いまこのときがあるからこそ、なのですけどねぇ。どうして、こうも、こころは、繊細なのですかねぇ。われながら、ほんまに、やっかいなものやなぁ~と。


ほんとは、かんたんなのですけどねぇ。ほら、関白宣言にもあるとおり。たやすいことだ、あいすればいい~。のだ。そう。み~んな、ひっくるめて、その状態をね。さそれば、なにひとつ、困ったことなどないのですけどねぇ。ときどき、こころのなかの、(ほんとうの?)どこかが、「どうして、もっと素直にぶつからない?なにを、かっこつけてるのだ」なんて、言って、わたしを困らせる。いや、どちらもわたしなのだけど。そう。いっぱい悩んで、そして、その都度、精一杯のきもちで、ことにあたる。それでいいのだと、いまは、そう言い聞かせて…。いるのですけどねぇ。


とはいえ、ときには、呑んで呑んで、なあんにも、考えないでいたいよな…、ときもありますねぇ。いえ、できるなら、いいことだけを考えて…。気持ちよく、眠れたら…。そうしたら、それだけで、まだまだ、あきらめずに、また、がんばれる日が来そうな気もするし…。なあんて、そんな、前向きなんて、いちじは忘れて、ともかく、ひたすら、眠りに堕ちたい…、そんな夜もありますねぇ。(それにしても、このわたしが、毎晩、呑んで眠っているのですから…。ちょっいといちだいじですねぇ…^^;)。

すこし試練ですねぇ。いえ、とっても、試練です。いえ、ま、あ、とはいえ、いつどんなときでも、ほんのささいなちょいすが、もしかしたら、つぎの地震のときの居場所を決定付ける分かれ目になってる可能性だってあるのですから、だとしたら、そうだと気付くか気付かないかだけで、見えないところの、もっと、大きな流れがあるような気がしますが…。しかし、やっぱり、それだけでは、すべてが決まらないともおもいますしねぇ。岐路にたたったとき、あるいは、たたされたとき、どう動くか、やっぱり、そのときどきで、ひとは試されているのですかねぇ。


日々の、目の前のことに必死になって、格闘しているうちに、いつしか時が流れていく。しかし、見方によっては、結局は、それがすべてなのだともいえます。つまり、いまできないことは、永遠にできないのだと。とはいえ、機が熟さないと、できることもできなくなる…、というのも確かにあります。なので、ときには、遠い未来を想像する、心に描く…、というのも、これ、するとしないでは、大きく違ってくるものなのかもしれません。かとおもえば、ほんとに、思いも寄らぬ展開というか、これは、恐らく潜在意識だけが知っていたことなのだろうなぁ~、としか思えぬような、不思議な流れは、ときに、不意に訪れたり…。


つまりは、どんなときでも、目の前のことをおろかにしない、粘りと根気と。そして、先のことも、鷹揚だけども、決して惰性だけに埋没してしまわないような情熱と。ときには、完全に相反することになるような、それも、併せ持って平然といられる冷酷さと。。。。そして、温かさ。う~ん。気持ちを完全に切り離して、なにかをするというのは、少なくともわたしには不可能におもえます。かといって、感情だけでは、どうにもならないことは、たくさんあって。なにかに、しばられる、ということは、見方をかえれば、帰れるところがある、ということなのだけれど。そもそも、おんなはだれをおもっていきていくか。誤解を恐れずいえば、たぶん、それがすべてであり、それいじょうもいかもない。そんなギリギリの、断崖絶壁のEDGEのうえをあるいているようなところがある。つまりは、つねにいのちがけ。


でも、いのちがけなのは、だれもおなじでしょう。ただ、かける対象が少し異なるだけで…。みんな、いきるかしぬかの瀬戸際なのやもしれません。ちょいと、大袈裟ですが。たぶん、しんの部分はそうなんです。そう、勝手ながら、おもいます。では、どうするの?そう、問われたら。「なにも、かわりませんよ。これまでと」。目の前の変化に、確かにたじろぐ部分も、泣きたくて仕方ない部分も確かにありますが、それでも、なにかを、あきらめないで、前を向いて歩くしか…。こころのなかで、あきらめてしまいさえしなければ、いつかきっと、なにがしかの、かたち、は、見つけられる、あるいは、自然と生まれるのではないだろうか、そう、祈りにも似た気持ちが言っているところもありますが、そんな風に思っています。いずれにしても、変化は、(たとい、それが一時つらいことでも)、きっと、なにがしかの、いい方向を生み出すための、兆しなのだと…。(う~ん。それにしても、ほんとにほんとに、試練ですねぇ)。

いろんなひとが助けてくれます。わたしは、なにもしていないのに、どうしてか、折に触れ、こまったときに、ふとあらわれた、だれかが、たすけになってくれてる。これまでを、見返しても…。いつも、だれかに助けられてる。どれも、ちょっとしたことなのだが、それが、それらが、いろんな形で、救いの手になってくれて、こうして、いま、生きている。のかもしれない。感謝というものは、あんまり大声でいってもいってはいけないのかな。自分が受けた恩は、また、いつか、だれかに返せばいいのだろうか。老いたときに、もっと、若い人に…。ともあれ。いろんな形で、いろんな、助けがやってきてくれて。それだけでも、なんとか、これからも、生きていけそうな気がしてくる。


無論、不安はある。これまで、だいじょうぶだったのだから、案外これからだって、それなりに、いろいろたのしんで、時間が過ぎ行くのを、のんびり眺められるかもしれない…、ともおもう。これまで、節目節目でそうだった。念願のものを、いちどは、苦しんであきらめ、気持ちがふわふわっと、すっかり、あきらめたあとになって、なぜだか、いつも、遅れてやってくるような…。だからといって、まだ、なにも起こってない前から、それがなにかも、わからない前から、あきらめたぁ~って、おもうのも、むずかしいですしねぇ。なんだか、おもいって、ときに、とても、やっかいで、にんとも、たいへんですねぇ。なあんて、あ~でもない、こ~でもないって、書いていること自体、なんとかして、なんとかならないものかぁ~って、切実にこころがおもっているせいなのでしょうねぇ^^;。


つきがかわって、きゅうにいろんなところから、いろいろなかたちのおんしんがやってきて…。ほんの少し、こころが、いつもの、調子にもどりつつあるかな。こればっかりはね。いいときも、わるいときも、じぶんのそれなのだから、あわてず、さわがず、ひとりで、気持ちが自然に元気になるのを待つしかないですしねぇ。それにしても、秋は、秋の澄んだ空気は、あまりに好きすぎて、そこに身をおくのが、とってももったいないというか、かえって、ああ、せつないなぁ~っと、おもってしまうのだから、われながら、にんとも。これじゃあ、いつだったら、もっと素直によろこべるのだろう?ってね。まぁ、四季のあることが、随分と救いになっているのでしょうね。



もし、書くのがすきかと訊かれたら、少し、返事にとまどう。それは、せいかくにこたえたいとおもうからであり。とても、たいせつなのことだからだろう。リンゴが好きか?桃が好きか?(というのも、厳密にはきっとおなじだけど)、というのと、同じ気軽さで、単純にすき、きらい、とはいえないなにかがそこにある。それだけ、そのひとにとっておおきなこと、ということなのだろうな、とおもう。かんたんに、すきだからこうする、すこしきらいになったからこうする…、みたいな、今朝は珈琲を飲むか呑まないか?の、質問と同じにはできないことが、たしかにある。


わたしの未来は、いまにここにある。だから、このいまがたのしめないなら、いったい、いつ、どこで、そうするの?ことしの、冒頭にもらったことばを、もういちど、読み返してみた。そうなのだ。いつ、どこで、どうしていようと、かわらないものは、かわらない。ただ。だからといって、なにもかもあきらめるのとも違う。永遠にいまのままがいい、というのとも違う。ひとつひとつのときを重ねていくこと。なにかを感じあったり、確かめ合ったり、はたまた、ごかいしあったり、あるいは、ちょっとぶつかりもあったり…。そんなこんなできるということ。それは、気持ちがそこに向いているからできること。知らず知らずに、気が付くとできていることは、たくさん…。悩めるのも、おもいあればこそ…。なあんて、おもったら、すこしはちからは抜いて、気長にがんばれるかなぁ~^^;


いつかも書いたけど。好きなものを訊かれていつも少し困る。食べ物にしたって。ふだん、口にするのは好きだからに違いない。嫌いなものは口にしないだろう。じゃあ、これは、特別!ってものは?っと言われると、またまた、困る。ほんとにほんとに好きで好きでしかたないものは、そんなもの言わなくったってわかっているから、わざわざ発音するまでもないと、おもってしまうし。すきなものは、なにもかもひっくるめて好きだ、たいせつだ、いとおしいと、おもっているのであるから、その理由を訊かれても困るんだな。いっそ、生まれたときからずっと好きだったのだ。ただ、そのときは、まだであっていなかっただけで…。なあんて、こたえておこうかともおもう。ともあれ、すきをせつめいするのは、とても、むずかしい。理路整然とこたえられないから、それはまぎれもなく、すきなのであるし。


さて。たとえば、ゴルフが好きか?と、問われれば。これまた、さらに難しい。きらいでないのは、確か。ただ、世間一般の(!?という言い方は、実際、野暮ですね。好きのかたちはひとのかずだけあるのだろうですし)すきというのとは、少し違うかな(いやぁ~、たんに、わたし、おへそ曲がりで、ひとと違う、ということが、いいことだ、それを自らがのぞんでいるのかも…という、気はしますねぇ)、とはおもいます。その、貴重な時間であるからこそ、ひとつひとつを、とっておきの特別なものにしたいというか…。だから、いつもいつも、とは、あえてしないでおきたいというか…。たいせつなひとであるからこそ、その時間を、むやみに奪うようなことはしたくない…、というのと、少し似ているような…。ただ、そこには、自分を映す鏡というか、いろんなことが試されたり、我慢したり、葛藤したり、決断したり…。そんな、見えなくも、それはそれはときに厳しく烈しい!?闘い(の一瞬一瞬)があるのかもしれませんね。だから、どんな1打もおろそかにはしたくない…、そんなおもいでいるのですが…。(なあんて、あんまり、おりこうさんなことばは、ちと、面白みにかけますかねぇ)。