できることなら、ひっそりと、こころ穏やかに、静かにくらしたい。いや、それなら、いま、じゅうぶん、そうできてるわけなのだから、なにも、こんなに、悩むことなどないのです。ほんとうに、それがいちばんなのなら、いますでに、じゅうぶんすぎるくらい、そうできているのだから…。なにも、くのうすることなどないのです。ただひとつ、さびしい…ということをのぞいて…。

ここになにかを、しるすたびに、いろんなひとが、いろんなかたちで、心配してくれて、それだけでも、十分すぎるくらい、恵まれてて、感謝なのに…。ついつい、弱音をはいてしまいます。なにかを、こうしたいああしたいとおもっているのを示すのは簡単なのに、そのはんたいを、しょうめいするのは、じつにむずかしい。つまり、なにもしないで、一生を終えることでしかだめなのかなかなぁ~?

そもそも、それとても、わたしの思い過ごしやもしれず、いまの状態は、だれのせいでもなく、ただ、わたしの運と選択にすぎず、むしろ、自分自身で選んでこうしているのに。おそらく、そんなひがいもうそうも、自分のこころがつくりだしているだけかもしれないのに。いつぞやの、わたしのとんちんかんな思い込みによる、そうどうのとらうまのせいで、なんでもないことまで、なんでもあるかのようにおもってしまっているのかもしれません

てんきがくるたびに、どうしてこうも、どらまちっくなことばかりをおこってしまうのだろう…と、ため息で。老いととともに、だんだん、そういうことを前向きにとらえることができなくなってきて。だれにも、なんにもいわれてないのに、あと、なにをあきらめたらいいのだろう…って、そんなことばかりおもっている自分がいます。

そうはいいつつ、そのつど、こんなになやんでこころをよじらせてしまうのも、やっぱり、わたしのなかに、まだ、のぞみをかなえたいというよくがあるからでしょうねぇ。つまりは、いつかはひとりぼっちでなくなりたいという…。なにも、のぞまなければ、きっと、もっと楽に生きられるのだろうなぁ。しごとも、めだつことも、べつにどうでもいいと、おもっているのに。でも、だったら、いまあるもので、じゅうぶんなわけで、なにも、なやまなくてもいいはずなのに。やっぱり、すきなものをあきらめては、とても生きられないって、人生さいごのいちにちだけでもいいから…なあんて、おおげさなぜいたくをおもってしまうから、くのうするのでしょうねぇ。

いずれにしても、それは、どちらでもたいさのないことです。そう~、そういえたら、かっこいいだろうなぁ。そうおもいます。ただ、じっさいの、こころは、ときに、よわくて、どうしようもなく、わがままで、つまりは、じぶんじしんのよくにがんじがらめになって、ないものねだりに、こころをちりぢりにさせてしまったりするのです。ひっしで、じぶんをなだめているじぶんと、それでも、ありのままのじかんをただみまもるしかないと、しぜんの流れに、なかば神頼みのような心境になってる自分がいます。苦しい苦しいというのは、簡単だけど。そして、我慢すればそれでいいというのでもなく、じゃああきらめればすべてがきえてなくなるわけでもなく。つまりは、ぜ~んぶひっくるめて、わたしなのだから、しかたないなぁ~という、ため息と。それでも、いつか、もうすこし、つよくなりたいなぁ~という、願いと。

ほんに、さきのことは、だれにもわからず。そして。あたりまえのことを、正直に言葉にすることの、驚きというか。ときに、なんでも無理にことばにしようとすると、肝心のこころの流れを止めてしまうから、というのは、たまたま、いま読んでる本にありました。それでも、ことばは、ことばどおりであって、ことばどおりではなく、その行間やあとさきには、いうにいえない多くのことも含んでいて。もちろん、ことばとしてきいて、たとえそれが、必ずしも自分のこころに望ましい内容でないとしても、どこか、ことばにしてもらえて、ホッとしている部分もあるのに気づいて、自分でも驚いたり。しています。

かといいつつも、それでも、こころはどこかで、少し甘えてもいたくて、なんとか、どこかで自分の都合がいいように、つまり、少しでも元気が出る方向に、解釈できないものかと、こころのなかの、テープレコーダーを何度も再生しては、自分を励ましたり…。にんとも。われながら、ほんにやっかいなことだと。もっと、さらっと、ふわりと、さりげなく、いたいよ~。こうやって、書くことで、なんとか、したいとしてしまうのも。きっと、書くことで、読んでもらえる、つまりは、聴いてもらえる、そういうのがあるから書けるのだろうな、とも、おもいます。それが、自分の日記に書くのとは大きく違うのであり。いつも、こんなふうに、悩めるたびに、それでも、きっかけのなることばをもらったり、それがうまれたりして、時が流れてきています。その、いまここにある喜喜!に、もっとやわらかくなりたいなぁ~と、思いながら。自分のこころを、宥めるのに、少しだけ腐心しています。

かんたんに、ごめんやありがとうといっては、せっかくのきもちが、かえってつらくなるようななにか。そして、大げさかもしれないけれど、もしかしたら、そんなに深く考えて発せられたことばでなくても、さりげない、ひとことに、とても、救われたり、するのもこころです。たとえば、しんぱいしなくていいから、ふつうにしていなさい。とかね。ふ~。もちろん、かんたんになにかがどうにかなったら、だれも苦労しないのですけどね。きょうは、これいじょう、かんたんには、きれいなこたえが書けそうにないので。げんきになるまで、あともうすこしじかんをもらえたらと…。ともあれ。やっぱり、ありがとうは、ありがとうですね。すごく感謝しています。
それはありますよ。あれ、わたし、いったい、なにしてんだろう?って、おもうこと。もちろん、そんなにたくさんじゃないけど、でもある。それでも、そのときに、あ~しなきゃいけない、こ~しなきゃ~、っていうのを、おもわないようにしている。そして、しぜんに、そう、なるたけしぜんにしたいようにさせている……といったら、ちょっと変に聞こえるかも知れないけれど。じぶんで、じぶんに、あれはだめ、これはだめ、というのを、なるたけしないようにしている。ことばでは、ちょっとむずかしいけど。つまりは、たぶん、それらを、ぜんぶひっくるめて、じぶんをみまるというか。もちろん、その、内実は。その、刹那せつなは、そんな冷静で、かっこいいことなんか、すこしもないけど。いっっぱい、かっとうや、ジレンマや、もしかしたら、いらだちや、むなしさや、かなしさや、そんなこんなを、ひとつずつとりだしていたら、とっても、やりきれないのかもしれなくて、だから、ひたすら、いまこのときに、むねにやってくるおもいを、ひたすら、ながめるようにしてい
る、というか(いや、まだ、なんか、かっこつけてますねぇ)


要するに、こうやっているいまこのときも、ふくめて、たぶん、あらゆることは、じぶんが、そうしたいとおもって、それを選んでそうしているのだろうなぁ~ということで。理由は、あとから、考えれば、そのときどきの、状況や気分や、あるいはゆとり加減によっても、いろいろ言えるとおもうけれど。ともあれ、あらゆること、そう、あらゆることは、じぶんがそしたいとおもってそうしているのだろう、と、いうことで。それが。むだであるのかないのか、そもそもむだとはなになのか、もし、けつまつということばなんて、いきてるあいだは、どこにもないのだとしたら、むだのていぎも、またかわるやもしれず、なやんでもはじまらなくても、それでも、ひとは、いつどこまでいっても、やはり、なやむものであるし。たぶん、そのときどきで、それなりに、なんとかするであろうし、じゃあ、なにもしないでいいのか?といわれば、決してそうではないが、それでも、ささやかな、でも、とてもたいせつなものは、そうそうかわるものでもないし、それでも、いうにいえない事情やジ
レンマはいつだってあるし。おそらく、答えを急いでえられるものはたぶん、
それはほんとうのこたえではないだろうし。(それにしても、わたし、し、が好きですねぇ。それも文末の)


とかなんとか、いいながら、たぶん、いまもこうしている、じぶんのことを、あいかわらずだなぁ~と、おもって、ながめている、のんきとしかいいようのない、じぶんがまたあるわけで。それでも、ときおり、ひとり、どうにも、いたたまれなくなって、ひとり、くよくよしてもいるけれど、それは、だれも知らないし。ほんに、苦しさはなんなのでしょうねぇ。やはり、おのれのよく、というものなのですかねぇ。かといって、万事大平で、どんなこと、どんなときにも、不平ひとつ感じないこころでも、これまた、なんだか、むなしい、きもしますしねぇ。ひとは、あまり、近くにありすぎると、その、ほんとうのすばらしさに気づきにくくなってしまうのですかねぇ。だから、いつまでも、ないものねだりのほうが、ずっと、うつくしくいられる…という、ひにくが。なりたってしまうかなしさが。あるのでしょうか?


ことばが、それでも、ふとしたひとことが、いいしれぬちからとなって、こころにしみこむとき、それは、たぶん、その、ひとつひとつが、きせき、なのでしょうねえ。ひょっとすると、いちどなくしてしまわないと、ほんとうのことには、きづけないなにか。なのかもしれませんねぇ。



こころは、ときに、ういたりはれたり....とても、いそがしい。ちょっと、ふさいだり、また、もちなおしたり...。まるで、じゅうばこのすみにむかって、かなしばりにあったみたいに、ひとつの心配事から抜けられなくなったり...、はたまた、ふと、しばし、かなしばりからとけて、天を見上げ、コウコウと照るつきを眺めるゆとりがうまれたり...

じぶんのこころに、じぶんがまるでふりまわされてでもいるかのようで...。おっしゃるとおり、苦しくないといったら、まっかなそれだけど、かといって、こころのなかのすべてが、ひかんとぜつぼうにおおわれているわけではなく。なのだけど。つい、ひとり、かってにふあんとしんぱいの種ばかりを、大きく育ててしまう...のです。気がつくと...。陽光をあびないせいもあるのだろうな。

夢は、もっと、ささやかに、ひそやかに、でも、どこかしなやかに、たやさないで それでいて、かたにちからばかり入れるのでもなく、なにがなんでもの、がんじがらめにとらわれるでなく、でも、こころの芯だけは、なくさないで...いられたら、いいのだけどなぁ。これが、むずかしい。のです。つい、ひとり向き合う時間がどうしても長くなると、ついつい、後ろ向きの悲観の念に、きもちがえいえいと、すみにおいやられ、ひとり、つらいことばかりを想像してしまうのです。

そこで、よわっちいじぶんのこころを、せめてしまうと、よけいに崖のへりまで、おいこまれてしまうので、なるたけ、いまは、がんばらないぞ、むりはしないぞ、でも、こんきよくまつぞ、...、そう、言い聞かせいいきかせ。なだめ、すかし、ときのなかで、なんとか、すこしでも、気楽にいられたら...なんて。これだけ、書けるのも、これでも、すこしは、よくなったからかなぁとも、おもうし、いやいや、一進一退、のぼったり、おりたり、くりかえして、時を送っています。要は、ブルーになっていられるだけの、場所と時間と、身分にめぐまれているから、とも、いえるのかもしれませんが。自然にうちがわから、わいてくる、のを、じっと待っているのも、しんぼうのいるものですね。

ブルーが、いつでも、どこでも、かんたんにやっつけられたら、だれもいきるのに、くろうしやしないのですから、ひたすら、しぜんにかいほうにむかうのを、こんきよく、まつよりないのでしょうね。ただ、いのりだけは、わすれたくないなぁ、そう、おもいます。どんなことも、きっと、いつかの、なにかの、こやし...に、なってくれるといいのですけどね。ともあれ。しんぱい、かけてばかりで、ほんとにごめんなさいm(__)m



さわやかに、さりげなく、そして、さらさらと、書きたいのに…。それにしても、どうしていつまでも、あのしつようなしつもんぜめのあくむからのがれられないのだろう…。ほんに、ことばはひとですね。どんなひとも、ぜんだけでも、あくだけでもありえず、つまりは、せいいと、いやらしさと、そのほかのばらんすであり、だれにどんなことばをかけるかは、じんかくであり、ばらんすのせんすなのだろうなぁ…、とおもいます。あのとき、こーるのたすけがなかったならば、さらに、どんなにいやなおもいをしていたのだろうとおもうと、ぞっとします。それにしても…。

どうして、ひとはひとをきずづけずにおれないのでしょうねぇ。そして、ひとが、どうしようもないかなしみから、かけがえのない、ささえやゆうきを、もらえるのもまた、ことばなのであり。あれじゃあ、まるで、ごみだしにまでぐうぜんをよそおってついてくる、となりのくちょうとかわらぬではないか。そして、いつまでも、そんなくだらぬ、いやなおもいをふっしょくできぬほどに、よわいじょうたいであるのは、このわたしであり。いつもなら、ひとばんねれば、「あほとちゃうか」のひとことで、わすれられるような、つまらぬことごとなのに。

おもいます。いましかできないこと、いまだからできること、は、きっともっとあるのに…。むろん、こうして、あろうことか、あ~でもない、こ~でもないと、つまらぬざつねんにさいなまれて、もっとこころを、創造的なほうこうにむけられないでいる、(ちょいとばかりくるしい)この時間さえも、もしかしたら、なにかのこやし(のいちぶ)になってはいるのかもしれませんが。そう、いつもいつも、ぜっこうちょうばかりでいられないのも、むろんですが。ひょっとして、あのひともよんでくれていたら、もしかして、ほんのひとこえでも、きかせてもらえたら、そんな、むしのいいこととしりつつ、ねがいのむきからは、なにもなく、いっぽうで、どうかおねがいだから、そっとしておいてください、そう、ねがってやまないむきからは、あれこれと、へいこうさせられてばかりで。

みぢかなひとに、うちあけて、気を晴らすのさえもはばかられるほどに、くだらぬことばかりに、きをとられているこのごろ…。まぁ、いろんな日々があるわけで。いいときもあれば…、さように、まったくおもいとは別のことばかりになやまされることも、あるわけで…。まぁ、こうやって、はばひろく、いろんなひとにしってもらえるというだけでも、ずいぶんと救いには、なっているのですけれど。われながら、なさけないかぎり。(と、いいつつ、つらいつらいと、いっているほうが、よけいなしっとがこないで、あんしんだなぁ~と、ついおもってしまうかなしいこころもあるわけです。)ほんに、わかるひとにしかわからぬように書くのは、いささかか骨が折れまするが、さきのような、つまらぬ雑音さえなければ、これはこれで、ほんに、やっぱり救いですねぇ。

ともあれ。げんきでいれば…。いま、めのまえにあるときをひとつひとつ、たいせつに…。とはいえ。あんまり、よけいなざつおんをふせぐためにも、ほんとうにたいせつなひとに、よけいなしんぱいさせないためにも。こころのおりを、はきだすのは、ほんとになるたけひかえていたい。そうもおもうのです。しょうじき、いまは、なるたけ、しずかにしていたい。もすこし、げんきがじゅうでんされるまでは、なるたけ、おとなしく。そう、おもっているところです。なあんて、これだけ、たまりにたまったぐちをはきだしておいて、いうのもなんですが。ともあれ、いつも、ほんとに、感謝していますm--m。

ふ~。う~。なんていえばいいのだろう。あんいななぐさめやけつろんではなく、これでいいというのでも、これじゃだめというのでも、もちろんなく。ひとつひとつの時間があればそれでいいというのではないけど。だけど、そんなふうに、いいとかそうでないとかと、論じることそのものに、なんというか、いわかんをおぼえるといったらだめでしょうか。ほんとうのことは、それを知る人にしかわからないのではないか、ともおもうし。なんていうと、おまえはなにを知っているのだ!とお叱りをうけそうですが。


そう、つまりは、りくつなどないのです。じゃあ、あれこれなやむなということや、とことんなやめということは、とてもかんたんだけど。ほんとうのことは、いいこともそうでないことも含めて、やはり、そのときそのときそのばにしかないというか、あとでなにをいっても、それはまたちがうものというか。あえて、わざと、わかりにくく書いているところもありますが、ともあれ、ものはおもいよう、けせらせらでいればいいなんて、かるくはとてもいえないけれど、それでも、ときをへることにかけるおもいというのは、たしかにあるし、やはり、いまいえないことをいわされることは、とてもくつうだとしりました。たとえ、それがこういによるものだとしても。


なにもなやんでないといえばまっかなそれになりますが。しかし、じゃあ、どうしようもなく、ひかんしているかといえば、そうではなく、むしろ…。いまあるすべては、そのひとがのぞんだそれであるのだとおもうし、いいこともそうでないこともふくめて、ただ、ここにある…、ということで。りゆうはあとから、なんとでもいえるので。つまりは、そうしたいようにしているのでしょう。だから、どうじになやむわけでもあるわけで。じゃあ、わかいときにもどりたいかといえば、なぜだか、ちっともそうはおもわないのでして。のうてんきなのかもしれませんが。むしろ、もいちど、くろうするのは、これからもこれまでもかわらないのだとおもうし。そのときそのときで、そのひとにふさわしいかたちで、くろうがきているのだとしたら。あらゆることをひっくるめて、そのひとができているのでもあろうか、ともおもうし。


こんなふうにいうと、われながら、とってもへりくつなきがしますが、できることは、自然にできているとおもうし、そしてできるだろう。あ~しなきゃこうしなきゃ、というのも、たぶん、そのいくつかはせんざいいしきからのアラームなのだとしたら、きっとたいせつ。ただ、それにしばられることと、自然でいることの、ばらんすというか、そのひとそのひとが、それぞれの時間のなかで、いくつも気づいたり、へこんだり、いろいろしながら、見つけるものなのかなともおもうのです。内なる声との対話といえば、大げさですが、きっと誰しも毎日、しているもので。とかなんとかいいながら、わたしはわたし自身の声と、うまく折り合いがつかないとき、ブルーになったりちょっと短気になったりしているのでしょうか。


いましかできないこと、いまあるかんきょうをだいじにすること、ぜんぶひっくるめてわたしはわたしなのかなぁということ、それでも、いまのままでいいというのではなくて根気よく、時機をまちたいということ、ほんとうにがんばっていることはおくびにもだしたくないということ、さきのことはだれにもわからないということ、ただ、いめーじしていないことはおとずれないだろうということ、だからむねにひめることにこそいみあるだろということ、むりだけはけっしてしないということ、ただ、いろんなかくごはひびこうしん(じゅくせい?)しているのだろうなということ。そして、すなおなことば、そしておもいをたいせつにしたいということ。(書き連ねると、ちょっと鬱陶しくなりますね--;)  そんなことをおもっています。


ささえたいといいながら、このところ、ささえられ、たすけられてばかりいますねm--mごめんなさい

味のある出し昆布を熟成させるには、さいていでもにねんかかるのだそうです…

もうだいぶんだいじょうぶなのだけど、まだ、ほんのちょっぴりだけ、だいじょぶではない状態…。たぶん、ぜいたくなじょうたいなのでせう。あわてず、ゆっくり、りきまず、少しずつ…。そう、自分をあまえさせ、いたわって(?)いるのだけど…。ちょっとした、ブルーなんて、いつでもどこでも、そんじょそこらに、たくさんある、にちじょうちゃ!はんじなのですけどねぇ。ほんのちょっと、たぶん、おそらく、すぷーんいっぱいぶんくらい、それがいつものより、ちょっとだけおおくなっていた(まだ、すこしね)のでしょうねぇ。まぁ、季節柄、天候ゆえの、かみかさんもいたしかたないというか…。ちゃんとたべる、きそくただしくくらす…。たいせつなのは、いたいほどわかっているのですけどねぇ。それでも、のんびり…ときをすごしてみるつもりです。いましかできないことを、そう、たいせつにしながら…。


ほんに、おもいます。ことばはきもちであり、きもちはことば…。どちらがさきでもあとでもない…。その、なんとも、いとおしいかんかくがつたわってきます…。むろん、ときには、うまくつながらず、ちょっぴり、もどかしいこともあるけれど。くろうがあるから、それらが、うまくつながったときのつたわるものが、どんなに、おおきくたいせつで、それでいて、かけがえがないか…  ことばは、ほんとにたいせつです  そんな想いを、あらためてふかくしみじみかんじている年のはじめです


年賀状というのは、そんなひとつのきもちのあらわれ…なのでしょうね。すみません。こんなところで、言い訳するのは、かえって無礼ですが、ことしは、いつものように、かけなかった。いえ、かかなかったことにわれながら、ひとしきり、おちこんでしまったのでしたが。すこしずつ、ときをかけて、書いていけたらいいなと、勝手ながら、おもっています。にゅういんやじゅけんそのたで、満足にかけなかった年もあったはずですが、ここまでなのは、前代未聞でして。なにをどう言っても、結果だけをみればただの、怠惰にすぎませんが。無理は、それができるときにしてはじめてみになる、というか、甲斐がある… そんな言い訳に甘え、ど~しても、いつものように絵筆をとることができない年の瀬でした。


まだ、どんなかたちになるのか、なれるのか、まだすこし、イメージ未完成ですけど、それでも、自然にまかせて…すこしずつ…  書くほうも… 冬をうまくりようして… いまだからできることを 少しずつ  なにごとも、なかなかよていどおりにはいかないけれど、でも、ちょっと、いや、ちょっといじょうに、たいへんだから、じかんにしてもそのたもろもろにしても、くろうしがいがあるというか… なあんていうのは、いつもの自分自身へのいたわり(?)、はげましにほかならないのですけれど。あきらめるのでも、あわてるのでも、あせるのでもない そんななかで自然の流れの中に、想いの(たけの)すこしを、ほんのすこしずつまぜていけたら  いいなぁ~。って。むろん、いつもそうしているのですけれど…



それでも、大丈夫か大丈夫でないかと問われれば、まだすこし、だいじょうぶではないのだけれど。それにしても、それの境目なんて、どこにあるのでしょうね。そのときどきで、同じ曲が深く胸にしみるときもあれば、さほどでもないときがあるのとおなじようなものなのですかね。それでも、そのことばにずいぶん救われています。いつもながら。そうです。深く考えなければいいのですよね。こころが、ふさぐとき、その原因を考えてもどうしようもなく、ましてや、先の不安をつぎつぎ数えてももっとどうしようもないのに…。つまりは、よくであり、じぶんがかわいいゆえであるのでしょうね。いい意味で、いいかげん…、になれたらなぁ。

ちょうど、さむさがはじまったころからでしたかねぇ。なんとなく、不安につぶされそうになって、あれやこれやと、なやんだり、また、げんきになったりふさいだり…。そうはいいつつ、げんじょうにあまえられるだけはあまえつつ、それなりに、やりすごしているのは、かつてやこれまでの、困難なときと、さほどかわっているわけではないのですけどねぇ。要は、それだけ、時間や制約(のなさ)にめぐまれているせいですかねぇ。ひまがあるから、よぶんなことまで、かんがえてしまうのでせうねぇ。

はくじょうすると、(はくじょうというほどのことでもないのですが)、ことしはてんきだとなっていたのでして。いえ、ただのうらないのはなしですけど。それで、まいどたんらくなわたしゆえ、てんきいこーるいいことのとうらいにちがいない、なあんて、おもいこんでいたのですかねぇ。いえ、ひょっとしたら、あとになってふりかえれば、じゅうぶんにてんきにふさわしいとしなのかもしれないのですけれど。なんとも、しりょがあさいのですかねぇ。と、いうわけで、つまりは、そんなこんなで、ひとり、なんともいえない、ふあんにまけそになっていた(いる)わけであります。まぁ、このていどのことは、むしろ、ぜいたくびょうなのかもしれないのですけれど。とはいえ、いちねんは、立春からはじまるわけですから、まだあとひとつきとすこし、ことしはあるわけではあるのですけれど。

ふ~。自分でも、こんな感じは、これまでにあまりないというか、ほんとにいちばんしんどいときほどでもないけど、たいしたことないのともちとちがうというか、つまり、要するに、馴れない程度のブルーといいますか。このブルーにまかせてひたすら怠惰を貪っていていいものやら、もっとがんばらねばともがけばいいものやら、(そうはいいつつ、結局できるようにしかできないのではありますが)、わからず、ちょっとだけ(?)しんぱいをかけてしまっているわけです。いつも、どんなときでも、あっけらかあ~んと、げんきでいられらたらなぁ、と、ふがいないのですが。ただ。いまは、ありのままに、できることだけをしていけたら…と。とってもしりめつれつですが、こんきよく、まってもらえたら…。とっても、わがままなおねがいですけれど。
I need your help


どうしてだろう。なにがどうしたというのでもないのに ことばというのは、どうしてこうも、ちからがあるのだろう あたりまえの、いや、しょうじきにはっせられたそのひとことが、どうしてこうもこころにおおきくのしかかってしまうのだろう さきのことなどだれにもわからないのに いまのじょうきょうがこれまでとなにひとつかわったわけでもないのに
それにもし、かりそめのそのばしのぎのことばなどより、はるかにせいじつでうつくしいとさえおもうのに
まるで、なにかがおもいどおりにならなくて、だたをこねてすねているこどもみたいだと、あたまではわかってる そう、あたまでは
それでも それでも、いっけんあきらめたようでも、こころのなかではあきらめずにがんばっていられるのと、かんぜんにあきらめてしまうのとは、なにがちがうのだろう あきらめたつもりでも、あるときひょっこりねがいがかなうのと、ほんとうにみずからきぼうをとおざけてしまうのとは、なにがちがうのだろう


それでもこころがふさいでどうしようもないときは、どうしようもなくあまったれだとじぶんでもおもうけれども、とことんまでおちこめばいいとおもう じぶんじしんに むりにがんばろうとするなっておもう そしてじっさいそうしている できそになったときにできることだけをするぞって。 そうはいいつつ、おりをみて、こころのなかで、いろんなこえがしてくる めのまえがつらいときは、もっとずっとさきに、いざとなればここをはなれりゃいいんだとか、とにかく、さきのためにひたすらしんぼうすることはやめにすればいいとか、もしかしたら、ずっともっと、じゆうになれるかもしれないとか、ほんに、まるでないてるこどもにこんどああしようね、こうしようねって、いいきかせ、なだめすかせよとするかのように

かんたんにはできないことを、ことばであんいにやくそくされることのほうが、ずっとよくないことだとあたまではわかるのに
わがままなこころは、それでもせめてそのかのうせいをいくらかでものこせることばがあれば、どんなにいいだろうって どんなにげんきとゆうきをもらえるだろうかって
こころはどこまでもわがままでよくばりである

いまはただ、さきのみえないいいようのないふあんにおしつぶされていて、たとえわずかでもいいから、よせることのできるきぼうがみえていないことへの、駄々にすぎないのに
これまで、それこそ、めのまえのことだけをみて、ひたすらいきあたちばったりをよかれとして選んできたのは、ほかのだれでもないこの自分自身なのに こまったときだけ、めにみえるささえをもとめるのは、ただのあまえにすぎないのに

それどころか、こころのどこかでは、さきがわからないからたのしみをきたいしていられるって、どこかで、くるしみやくろうをみずから、よろこんでまではいないけど、それでも、それがあってこそ、というか、それにたえてるじぶんをひょうか、というか、つまりは、それがあるから、がんばれる、じぶんらしくいられるのではと、おへそまがりをよしとしているところもあるのに

だから、ひょっとしたら、おちこむのだって、じぶんでそうしたくてそうしてるのではないかとさえおもえないでもないではないか
いまあるすべては、すべてみずからのえらんだけっかであるし、いいもわるいもなく、そういうことなのだ だから、じぶんをせめるでもなく、ほめるでもなく、あきらめるでもなく、なにかのせいにするでもなく、それでいて、いちまつのきたいとゆめだけは、こころのすみに、けっしてすてないであっためておく
そうできたらなぁ

むりにきらいになろうとして、あきらめて、じぶんのこころをかるくするのににげるでもなく、むりやり、べつのものでありあわせて、こころをごまかしてていさいをととのえることににげるでもなく、ひとにじまんするだけのために、こころにふたをしてすませるのでもなく、ひとのものさしにあわせることで、ひとなみだからそれでいいのだとむりやりじぶんをなっとくさせるのでもなく
そうすることで、けっきょく、めにみえるものは、みのまわりになにもおとずれることがなかったとしても
それでも、そのことにほこりをもてたとしたら だれにほめられることがなかったとしても いちども、じぶんのこころをいつわることなく、いきてるじかんをおえることができたとしたら ひょっとしたら、ものすごくつらいだろうなぁ さびしくてわびしくて、ないものねだりで、どうしようもなくいたたまれなくなることもあるだろうなぁ
それでも、想いをまもりとおすことができたなら
かっこいいことなんて、ちっともないかもしれないけれども ほこりだけはすてない
そうできたらなぁ~



ふとしたときにやってくる。それも、思いがけず…。だから、たいてい、自分でも、その不意打ちに面食らい、そして、しばしたじろぐ。どんなにおおきな落ち込みも、それが過ぎてみれば、どうしてあんなに…、と、自分でも思わぬでもないが、さりとて、心配はつきない。無論、心配してもどうにもならぬが、どうにもならぬことを心配することから、こころが離れなくなっとき、ひとは落ち込み、もだえ、苦しむ。そして、これも、思いがけない、ひとことや、ふとした節目におとずれた空気に、救われ、望みがつながった感じに、支えられもする。なにごともたんたんと、ふわふわぁ~っと、まっていられたら、いいのになぁ~と、相変わらず、ふとした瞬間におとずれるさびしさに、打たれそになってる、自分自身におもう


これはこれでいいのだと、とても感謝もしているし、わかってはいるのですけどねぇ~
すべては、いまの積み重ねであると同時に、すべては、なにかにいたるまでの、途中…(つまりは、なにかに少しずつ近づいている)なのだ。それも、貴重なひとつひとつ。なのになぁ~。どうしてこうも、ときどき、…なきそになってしまうのですかねぇ~。まぁ、それが当たり前なのかもしれませんが。それに、さびしさを感じるのは、そうでないときをしっているからであり、たしかに、おもうところがあるから、なのですけどねぇ(^-^;なあんて、書いてるうちに、案外、落ち込むことなど、どこにもない気がしてくるようでもあるから、たぶん、こうしているいまも、なにかに向かえてる途中なんだぞ、と、そう自分に言い聞かせてます
うう、どうにか、なんとかなるかたちが、いつかおとずれるといいのになぁ~
それぞれの、ひとのおもいをすべていっきにおさめるというのは、たぶん無理なのでしょうねぇ
だから、時間というものがあるのですかねえ…
それでも、ともあれ、おもえるところのあることを、とてもうれしいとおもっているのですよ。うん。これだけはたしかです…(たしかに、苦労はかけてしまうかもしれませんが)
う~ん。やっぱり、少しずつ、あせらずに…ですかねぇ…