ふ~。う~。なんていえばいいのだろう。あんいななぐさめやけつろんではなく、これでいいというのでも、これじゃだめというのでも、もちろんなく。ひとつひとつの時間があればそれでいいというのではないけど。だけど、そんなふうに、いいとかそうでないとかと、論じることそのものに、なんというか、いわかんをおぼえるといったらだめでしょうか。ほんとうのことは、それを知る人にしかわからないのではないか、ともおもうし。なんていうと、おまえはなにを知っているのだ!とお叱りをうけそうですが。


そう、つまりは、りくつなどないのです。じゃあ、あれこれなやむなということや、とことんなやめということは、とてもかんたんだけど。ほんとうのことは、いいこともそうでないことも含めて、やはり、そのときそのときそのばにしかないというか、あとでなにをいっても、それはまたちがうものというか。あえて、わざと、わかりにくく書いているところもありますが、ともあれ、ものはおもいよう、けせらせらでいればいいなんて、かるくはとてもいえないけれど、それでも、ときをへることにかけるおもいというのは、たしかにあるし、やはり、いまいえないことをいわされることは、とてもくつうだとしりました。たとえ、それがこういによるものだとしても。


なにもなやんでないといえばまっかなそれになりますが。しかし、じゃあ、どうしようもなく、ひかんしているかといえば、そうではなく、むしろ…。いまあるすべては、そのひとがのぞんだそれであるのだとおもうし、いいこともそうでないこともふくめて、ただ、ここにある…、ということで。りゆうはあとから、なんとでもいえるので。つまりは、そうしたいようにしているのでしょう。だから、どうじになやむわけでもあるわけで。じゃあ、わかいときにもどりたいかといえば、なぜだか、ちっともそうはおもわないのでして。のうてんきなのかもしれませんが。むしろ、もいちど、くろうするのは、これからもこれまでもかわらないのだとおもうし。そのときそのときで、そのひとにふさわしいかたちで、くろうがきているのだとしたら。あらゆることをひっくるめて、そのひとができているのでもあろうか、ともおもうし。


こんなふうにいうと、われながら、とってもへりくつなきがしますが、できることは、自然にできているとおもうし、そしてできるだろう。あ~しなきゃこうしなきゃ、というのも、たぶん、そのいくつかはせんざいいしきからのアラームなのだとしたら、きっとたいせつ。ただ、それにしばられることと、自然でいることの、ばらんすというか、そのひとそのひとが、それぞれの時間のなかで、いくつも気づいたり、へこんだり、いろいろしながら、見つけるものなのかなともおもうのです。内なる声との対話といえば、大げさですが、きっと誰しも毎日、しているもので。とかなんとかいいながら、わたしはわたし自身の声と、うまく折り合いがつかないとき、ブルーになったりちょっと短気になったりしているのでしょうか。


いましかできないこと、いまあるかんきょうをだいじにすること、ぜんぶひっくるめてわたしはわたしなのかなぁということ、それでも、いまのままでいいというのではなくて根気よく、時機をまちたいということ、ほんとうにがんばっていることはおくびにもだしたくないということ、さきのことはだれにもわからないということ、ただ、いめーじしていないことはおとずれないだろうということ、だからむねにひめることにこそいみあるだろということ、むりだけはけっしてしないということ、ただ、いろんなかくごはひびこうしん(じゅくせい?)しているのだろうなということ。そして、すなおなことば、そしておもいをたいせつにしたいということ。(書き連ねると、ちょっと鬱陶しくなりますね--;)  そんなことをおもっています。


ささえたいといいながら、このところ、ささえられ、たすけられてばかりいますねm--mごめんなさい

味のある出し昆布を熟成させるには、さいていでもにねんかかるのだそうです…