なんとなく、こころがかるくなったきがするのはどうしてだろう。ふるいせんぞのじゅばくから、すこしだけ解放されるきがするからだろうか。もちろん、気のせいなのはわかっているけれど。ほんとは、いまあるのは、いまはなきせんだちの方々のおかげなのであり、感謝こそすれ、ちょっとけむたくおもうのは、無礼千万なのは、わかっている。あたまでは...。ただ。ああたまではわかる、と、そんなふうにおもうことは、実は、こころでは、そうおもいたくないこと、いまはまだあそうなっとくできていないこと、にほかならず、つまりは、なにかがひっかかって、素直にそう思えずにいるということだ。こころから、そうおもえていることなら、わざわざ、あたまではわかる、なんてことばはでてこないのであるから...。


と、いうわけで、かように、ときどき、ぬけだすことで、なんとか、それなりに、いられるように、自分なりの、無意識の、あるいは、半分は、ほぼ確信的な、自分保持?計画というか、まぁ、要は、単なる気晴らしなのです。


よし、今度こそ手紙を書こう。そう何度もおもって、いまだにできていない...ことについて。たとえば、車に乗っていて、ふとおもうのだ。よし、今度こそ書くぞ。いまなら、なんだか書けそうな気がする...と。ところが、しばらく時間がたつと、もういけない。やっぱり、もう少し先にしよう...、そのうちもっと、今だ今しかない!って、ときがあるに違いない...。そう、おもって、むしろ、慌てず踏みとどまった自分を褒める自分もたしかにいるのだ。


なあんて、愚図愚図しているうちに、一生が過ぎていってしまうのかあなぁと、まるで、ひとごとみたいに、自分を皮肉めいて眺める自分がいるのも、また事実。


ちょっとでも長く、ひっそり目立たずいたいと、おもってしまうからでもあり、また。多少は不自由ななかにも、それでも、ささやかな安らぎがある、いまの時間を、なくしたくないと、いうおもいがまたひとつ。そうなのだ。すべてが、思い通りでなくとも、ささやかでもうれしい、あるいは平穏だと感じられる時間がいまあるから、あえてそれをなげだすようなリスクに身を置きたくないと、おもってしまうのだ。いまのままでも、とりあえずは、充分生きていかれるではないか、と。もし、変化をのぞんで、いまあるものまで、なくすようなことになったら、どうするのかと...。要するに、怖いのだ。


努力がいやというのでもない。ただ。いまある、奇跡的な、平穏な時間時間をなくしたくない。だから、ちょっとでも、そんなささやかな時間を守りたいと。おもってしまうのだ。いま、自分が思うこと。それが、すべてではないのか。そう、おもわないことを、あえてしても、やはり、なにかが違うのではないのか...


なあんて。つまるところ、おもうのも、考えるのもわたし自身であり、であり、でてくることばは、どこまでも自分自身への言い訳なのではあるのだけれど...。


残りの人生が、気が遠くなるほど永いものにおもえるときもあるし、それでもまだ、ひょっとしたら、すこしくらいいいことがあるやもしれない...。少しだけ、ほんの少しだけ、、そう思えるときもある。


で、結局は、いまある平穏な時間を、それがそうある間は、なるたけ、じっとしていたい。何度、考えても、いつも、同じ結論になるのだ。もっとも、一度でなく、なんども考えてしまうということ自体、なにかが、こころにひっかかっているのでは、あろうけれども。。。



もうひとつき近く書いてないようでした。つれづれなるままに、なにかをふわふわっと、こまめにかいてもいいのでしょうが…。ついつい、間が空くと、構えてしまって、なかなか、ページに向かえませんm--m。ひとつには、ありがたいことに、さびしさをまぎらわすまでもなく、適度な疲れですぐ眠ってしまうこと。ひとつには、ふだん使わない言語のテレビをふわふわっと、眺めながら宵の時間が過ぎていってくれること。そして、もうひとつには。かつては、これは、おんなのひとが読んでいないことを前提に(m--m)、勝手に、好きなことを遠慮なく書いていたこと…。などなど。

おもうままに書いているのはかわりなく、ただ、少しだけ、こころを吐露するのが、躊躇いだったり、なんでしょね、ほんとは、半分以上自分自身へ向けた、慰めだったりするのですが。それが、妙に、遠慮になったりするわけで…。つまりは、杞憂。どうせいにはなかなか素直になれない症候群…だったりするのかな。と、いろいろ、胸のうちでおもっているうちに、つい、沈黙は金なり…。となるわけで…。まあ、日ごろ、年配の?おんなのかたがたへ神経をつかって、少々疲れていたもよう…。なのであります。

要は、すべては、日ごろのおこないであり、一事が万事であり…。知らぬが仏で、ふわふわっと、気づかぬふりして済ませられるものは、そうするに限るのであるし…。とはいえ、私の場合、いささか、神経質にないものまで、けいかいしすぎるきらいはあるのだけれど。それでいて、肝心の、ど真ん中の直球を平気で見落とす、まぬけであったり、するものだから…。自分でもにんともかんとも。それにしても。地球の裏側で、一生あうことない誰かが、どんなにハッピィであっても、そんなことに想像さえ馳せることないのに、(おんなという生き物は)見える範囲、つまり、眼中に訪れるものには、どうして、こうも、喧しい(ごめんなさい)のですかねぇ。そおっと、見守るという言葉は辞書にないのでしょうかねぇ。ないものねだりをしても、だれも、ハッピィにならないのに…

もちろん、気の利いた、賢く、賢明で、それでいて、きちんと、ひとをおもいやることのできるひとも、きっと、地球上のどこかには、たぶん、おそらく、いるのでしょうけれども。。。。にんとも、かんとも。ほんとは、一見、飄々と、なんてことない顔して穏やかにしているひとほど、見えないところで、ひとしれぬ苦悩や、苦労をもっているものなのになぁ。どうして、見えるところしか見ようとしないのですかねぇ。見えるものは、ほんとは、見えてないものの何分の一にも過ぎず、ともすると、見るべきところ、想像するべきところは、もっと別のところにあるものなのになぁ。つまりは、なにかを「わかる」ということに、つきるのですかねぇ。深いですねぇ。

と、書いていたら、眠くなってきました。まだ、こんな時間ですが。ゴルフのこと、少し書きたいなぁと、おもっていたですが、また今度。次回は、なるべく、ちかいうちに…m--m。
ただの、はしかみたいなものかもしれません ただ。ただ、ほんもののはしかなら、一度しかかからないらしいのが、これは、ふとしたときに、ふいにおそってくるくらいなことかしらん よるべなさの、どうしようもない、むなしさと、さびしさの落とし穴に、おちるくらいのことかしらん きっとだれにだって有るのだろう ひとしれず涙をながすしかないときが… わたしだって、だれにもそんな姿はみせたりしないし…


たいしたことではないのだ なにがどうなろうと、なるまいと、しょせん生きてる間だけのことなのだから…
そうやって、ときおり荒れ狂って暴れてしかたのないこころを、なだめなだめ、みな、たぶん、なにくわぬかおして、平気なふりして、日常のつまらないあれやこれやに、気をまぎらわしてもらいながら、いつか、気がついたら、長老と呼んでもらえる時が流れているのだ きっとそうに違いない たぶん…



あ~、人生の残り時間がとても頼もしくおもえることが、たまにはある一方で、ときおり、たまらなく、うんざりしてしまう長さに思えてしかたのないときかあるのだ
もちろん、もったいなくって、ありがたすぎる贅沢な嘆きなのだろうと、あたまではわかるが、あたまでわかることは、かなしいかな、実際の時間の中では、あまり役に立ってくれないのだ
だから、おんなは感情のいきものだって言われるのかしらん…
もとより、つまらないことに、そのつどこころをさげたり、おろしたりしているから、ふとしたことに、よろこんだり、ほっとしたりできるのかしらん…


と、書いていたら、だいぶん、こころが、鎮まってきました
燕が低く飛んでいます あしたはあめかしらん…


生きるって、なんでこんなにたいへんなのかしらん
ただ、なにくわぬかおして、たんたんと、ただいることほど、とても難しいことなのでしょうかねぇ



ほんのささやかなことにほど、不意にこころが、波うってしまうのかも、しれません。時が過ぎれば、たぶんなにひとつ思い出せないような、ささやかなさざ波…。よかれとおもって、したことがかえってうまく伝わらず、むしろ相手をかなしませて、呆然とすることがあるように…


もとよりいまのは、ほんにとるにたらないことなはずなのに…。深夜というタイミングのせいでしょうか。それとも… やっぱり、直接いってもらえなかったことが、かなしかったのかもしれません… とはいえ、いずれにしても、済んでしまえば、あれ、そんなこと言ってたかしら、と、言っていそうなことなのに


ひとのこころが、こころの針が、不意に振れてしまうのは、ときに、自分でも予測できないこともあるようです 理屈を言えば、動揺する、こころが、平坦でなくなるというのは、とりも直さず、自分ではない、別のなにか、あるいはだれかを、せめてしまっているから、おこることなのでしょう。(ごめんなさい)もっとも、多くの場合は、親愛ゆえの甘えだったり、望みの裏返しだったり、するのでしょうが


ともあれ、けろりん、とするまでに、自分でも、思いがけずの、時間を費やしてしまい、こうして、勝手ながらも、ことばをせっせと吐き出すことで、なんとか、大丈夫を取り戻そうと、しているわけです。なにより、ささやかであるがゆえに、どれをとっても大切な!大切と思える、時間であって、そんなじかんを、刻んでいくことが、いきるというか、いまここにあるということなのですのにね それでも、ふとしたことに、ひとのこころは、揺さぶられてしまうもののようです


たぶん、別のあるときには、わたしが全く逆の立場になっているかもしれないのに… つまりは、やさしさとは、時間がかかっても、ありのままを受け入れることで、ときには、ほんとはつらいことでも、大丈夫と言ってやせ我慢することで、ときにはひたすら時が過ぎてくれるのを、じっとまつことで、そして、いろいろな想像力でもってこころを慰めることで、……と、書いていたら、ほんの少し、やさしい気持ちを取り戻せそうになってきましたm(__)m


渋滞中のかたは、くれぐれも無理をなさいませぬよう… 時間は、永遠にはありませんが、あえて時間をかけることで、ふと見えてくるものがあるやもしれませんし
心地よい音が慰めてくれるそのちからは、おもいのほか、おおきい気がします
よき時間を…




ゴルフをしていつもおもうのは…、いえ、正確には、ラウンドを終えてなのだが。その~、なんというか、もっといいゴルフができたのではないのか?ということ。いいゴルフというのは、無論、スコアさえ少なければいいというのではなく。そう、信じているし、実際、たいせつなのは、その時間のなかにあってはじめてわかる、ドラマなのであり、ひとつひとつのショットに込められた想いなのであり。であるからして、スコアだけでわかるものなどほとんどなにもないに等しい…


そう、信じているし。それでいいと、そうおもっているのだが…。だが、である。一抹の疑問は、それでも、まだ、そのつど、ラウンドを終えるたびにこころの、隅っこをちくちくとし、なんともいえない、感覚がやってくる。そう、先に書いたような。もうすこし、スコアもよくて内容もよいものに、できなかったのか。という…。かつて、スコアにしゃかりきになってしまっていたころのような、ゴルフだけはするまいと、おもっているし、そのことに、なんの迷いもないのに。それどころか、純粋に目の前の一球に集中できる(集中しすぎて、いまがなんだめかが思い出せなくなりそうなことは、茶飯事なほどで)し。それを、ひそかに誇りにもおもっているのに。


のにだ。それでも、コンペとなのつくそれのときは、いやでもスコアが発表されるわけで。それが、恥ずかしいわけでも、悔しいわけでもないのだけれど。それでも。恐らく、スコアがすべて、と、おもっているだろうひとたちに、わざわざ説明すべくもないのもわかっているのだけれど。それに、決して、同伴者にあわせるだなんて、傲慢なつもりは毛頭ないのだけれど。たが、それらすべてが、ぜんぶほんとうに違うのかといわれたら、すこしためらう。こころのどこかでは、あえて、必要以上に、無理な挑戦を繰り返し、スコアを無駄に、あるいは、すこしでもたくさんの打つ機会があるほうが、ラッキーというおもいが、かすかになかったでなし。つまり、コンペとういう名がつくときくらいは、もう少し、控えめに、おとなしく、可愛らしいミスにとどめて…。とそれでも、あとで、反省はするのです。


それらが、いっせいに、ラウンドがすんではじめて、こころなかに去来するものだから、いささかながら、こころの葛藤を毎度繰り返してしまうのです。ときに、あんなにいいボールを打てるのに、どうして、そんなスコアになるのでしょう、と。たしかに自分でも反省はするのです。ところが、実際、緑のうえにたってみると、10センチでも隙間があれば、どうしてわざわざ、横に打たないといけないの?挑戦をあきらめるの?やってもみないで?…。そんなこころの声にあらがう理由が見つかるわけもなく。やっぱり、ひとにはわかってもらえない、スコアと内容の大きく食い違ったものになってしまうのです。


とかなんとか、これだけの時数を割いてまで、自問自答しているとこをみると、それでも、ほんとは、もっと上手に要領よく、妥協すべきは妥協して、賢くスマートに怪我の少ないルートを選んで…進めたらいいのになぁ。と、すこし。結局、人生の歩き方と、同じになってしまうのでしょうかねぇ。かなしいほどに、習慣をかえることなど、あるいは、性分をかえることなど、とても簡単にできるわけもなく(いえ、こころのそこでは、簡単にかえられないからスタイルなのだぁ~と、叫びたいのだけどなぁ~
)…。


ドラマチックに、なおかつ、スマートに。そんなことが、できたら、かえってかっこよくないのに。なのに、やっぱりちょっぴり、ないものねだりで。これで、スマートにも、できたらなぁ~って。ちょっとだけ、ため息つきたい。ときもあったりします。(それに、もしかすると、ここだけの話。わたしがあわせているどころか、わたしの、やんちゃすぎる能天気ゴルフを、いつしか同伴者にうつしてしまっているのではないのかしらん、という、一抹の心配と…)


ともあれ。いちねんにいちどでもいいから、そんな人知れぬ苦悩!?を、ひとつひとつの小さなドラマを、わかるひとにしかきっとわからないだろう、それらを、さりげなく共感してもらえるひとと、ラウンドできるといいのになぁ~







ときに、旅先がホッとできるのは、多くの荷物から解放されるから…なのかもしれない、と、おもいます。あるのは、もってきたかばん一つぶんの荷物だけ。その身軽さが、なんともいえない感覚をくれるのかもしれません。せいひつかんとも、せいけつかんとも、ほんの少し違う…でも、おおむねちがわない、そんな感じ


旅から旅への暮らし…いいなぁと少しおもう。ただ、それは、たぶん、いつでも帰ることのできる場所があるのと、そうでないのとでは、きっと、こころが感じるそれは、まったく違うのだろうなぁというのは、想像できます。むろん、想像できるというのは、違うということだけといういみでですが…


それにしても、待っていない時間というのは、なぜにこれほどあっという間にすぎるのでしょう。それにひきかえ、なにかを意識して、あるいは期待して、待ったとたんに、あのびくとも流れない時間のてごわいことといったら。人生は、どこまでいっても、待つことの連続なのだというけれど…。どうして、こうまで、かんたんにはびくともしようのないものほど、こころがうばわれ、あるいは、焦がれ、それでも願ってやまないものになってしまうのでしょうねぇ。むろん、みりょくがあるからにほかありませんが…


それでも、いまできないことは、やはりできないものなのか、あるいはそれとも。ふとしたときに、もう、待っていることさえ意識しないでいるときになったときに、ふと、思いがけずやってきたりするものなのでしょうかねぇ。咲き誇るさくらは、なにかこう、あまりにすごすぎてなんともいたたまれないような、できたらみなかったことにしたいような、とてもひとことではいいあらわせないような、いうにいわれぬ感覚を運んできます。あと、何回…、というのは、いまがたとえ何歳だろうと、みな同じことなのでしょうが。


ただ、四季の風物のなかで、さくらほど、あっとうてきな、存在感でもって、刹那というのを感じされるものはないから、これほど、こころをうごかすのでしょうかねぇ。金木犀を嗅いでも、蝉の声を聞いても、これほど「あ~いましかないんだ~」といのが、切実に迫ってはこないのに。それでも、それとは別に、素晴らしい風景に出会うたびに、「あ~あのひとに見せてあげたいなぁ~」というのは、いつもおもいます。もっとも、あげたい~という、表現はもしかすると、最適な言葉遣いにはなっていないのかもしれませんが、ともあれ。そう、おもいます。つまりは、いい景色は、それがいいものであればあるほど、ひとりでみても仕方ない…、そうおもってしまうからでしょうねぇ。つまりは、味気ない…



その、なんというのでしょう。なにがどうなれば、いいのだろう?というのを、気がつくとおもっています。それは、ときに、ひかんてきに、そして、たまには、すこしゆとりをもって、ですが。ともあれ、たとえ、じたいはなにもかわらずとも、その、そのときどきに浮かぶ、つい想像してしまうこころのイメージ(のようなもの)で、なにかをおもうその気持ちが、なんともいいようのない表情やかたちをもってしまうもののようです。なんともわかりにくい書き方ですが、あえてそうしているところもあります。ともあれ。

なにかを、どううけとめるか、どう感じるか、それらは、そのときどきで、もちろん、いくらかは違うものであり。ただ。ただ、それにしても、どうしてわたしはあんな質問したのでしょう?あとで、思い返して、真意は、たぶん、もっと、別の、甘えた感傷だったり、現実をひとまず切り離した夢物語であったり、ともあれ、もっとふわふわっとした慰めのことばをもとめていただけだったのに。それは、そうは伝わらず、どうしようもない、あえてふれては、ただこころがつらくなるだけの答えをもとめてしまうことになったとして。ただ。それらを通して(結果的に)、思いがけず、それのおもいよう、こころのおきようへの、ヒントのようなものがふと、垣間見えたようでもあり。

いずれにしても、ぜつぼうでもこしつでもない、まだうまくはいえないけれど、それでも、日々の小さな時間時間が、とてもかけがえがなく。ありふれたことばで納得してしまうのでもなく。かといって、どうしても手にできないところばかりに気を向けて、つらさばかりをこころに浮かべるのでもなく。なにがどうなればいい?というのは、たぶん、こころの真意は、たしかに、結果を、形ある結果をどうしてももとめてしまう素直な部分でもあるわけですが。四六時中、それにとらわれていたら、やはり、とてももたないのであって。あきらめとも、忘却とも違うなにか…。そのなにかのなかで、たんたんと、でも、なにかに支えられていられたらなぁ~。(それを、たとえば、ありふれた、耐える~、というようなことばで表したくはないのです…)

いま。このいま、しぜんにこころが感じるままをできるだけ素直にことばにすると、こんな感じです。人生について、生きているということについて、やはり、いつもどこかで、考えてしまうようで。だからいって、具体的には、なにもかわらない部分が大半ではあるのだけれど。それでも、感じることを感じて、いて。もちろん、願っていないことは、叶わないというのもそのとおりで。あるいは、あしたしんでもいいとおもえるおもいはとてもたいせつで。あるいは、結果よりその過程というし、実際そのとおりだともおもうがしかし、それでもどこかで、どこかの節目での結果へのささやかな期待があるから、過程がうまれ、そしてなにかができるのだ、とか。

いまできないことに、こころががんじがらめになって、苦しさばかりを感じるのではない、おもいよう。気持ちのもちよう。あきらめるのとも、ただひたすらまもりに入るのともちがうなにか…。気持ちにふたをしないでいられる時間…。落ち着いたきもちでなにかに取り組める時間…。そして、なにもかもひっくるめて、それらすべてがたいせつだから…、もしこころからそう願えたら…  時間にさからうのでも、ながされるのでもない、なにか…  おもいはきえず、けせず、ただ、ただありのままにそこにあって…  いまをあいする… それでも好きだとおもえる時間…       いとおしい...    U
その、なにをどう書いたらいいのか…

だったら、それを書けばいい、そう、言われそうですね

ほんとは、たしかに、そう、たすけをもとめてる

いや、ぐたいてきな、なにかではなく、おそらく、たぶん、でも、なんというか、その、たすけを

それが、じかんなのか、なにもしないときなのか、あるいは、もっと別のものなのか…

ひょっとしたら、それらも全部含めて、そうやって、くるしいじょうたいを自らのぞんでいるのでは?そう、自分自身に問いたくもなるけれど…

ささやかでも、ひとつひとつは、ほんの数分でも、他愛のないおしゃべりでも…

と、書きながら、やっぱり、ほんとは、どうしようもなくだれかにたすけをもとめたいようでもあり、(ただ、違うところからの反応に頭を悩ませたくないなといういささかの不安も抱えつつ、でも、いまは、そんなこと言ってる場合でない気もして…、ともあれ)、たしかに、なにかを、ものすごく悩んでいるのは確かなようです。それの、こころのなかの置き場所に苦労していて…、それでも、いいのだと、いずれ、時が少しずつでも形や重さや、スムーズさなんかを、変えてくれて、ああ、そういえば、あんなときもあったねと、振り返られるときがくるのだと、わかっているから、いまは、なるたけ、おとなしくしているしかないのだと、わかっているのだけど…

ここでは、ともかく、もどかしくっていけませんね

それぞれが、み~んな、わかってて、それでも葛藤してる。時が過ぎれば、なにがしかのかたちで、それなりに落ち着くことをわかってて、それでも、もがいてる。わかってるけど、いまは、これ以上言えない…、そうおもってる。ほんとうは、いたいほど、わかってて、どうにもできないこと、してあげられない(というと、表現が傲慢だと叱られるかなぁ?)ことが、やっぱり悔しくて…。でも、投げ出したくないって、おもってる。ただ。ただ。素直に、ほかにも、たすけをもとめることも、必要なのかもしれない、とは、感じてる。

う~ん。たしかに、どこかで、ちょっとだけ、なにかを吐き出して、楽になりたいのかなぁ~(でも、それって、自分さえよければそれでいいってことになる気もして…。結局、おもいは、どこまでも、堂々巡り…)。うう。だから、つらいのか?
もう少し、もう少しだけ、待ってくださいm(__)mこころを、きもちを、もう少しだけ、ととのえることができたら…きちんと書きます


ちょっぴり、ほんのちょっとだけ、ときどき、ほんの少しだけ、こころをみだして、くのうとやらを、してしまいます…



おんなというものは、(いえ、たぶん、ただわたしが~ということかもしれませんが)、ともかく、見えるもの、視野に入るものしかみないというか、みることができないというか。そんなところがあって。それでいて、じゃあ、それらを、ほんとにちゃんと、見ているかというと、いったい、どこをどうみてるんだ??という程度にしか見ておらず。つくづくと、感情のいきものであって。つまり、みえるものが、未来、あるいは願いというものと直接結びついていたら、それいがいのことが、どんなに困難であっても、いやむしろそのほうがより頑張るというか…。つまりつまり、要するに、見えるところしか、見ようとしない、(短絡な?)ところがあるわけです。だから、逆に、目の前にあるものには、とことん強く対処できたりね。

それでいて、ひとつひとつに、物語をもとめてしまうのです。じっさいは、いつどうなるかわからない(つまりは、見えるところにない)けっかよりも、いまこのときの、ストーリーを追いかけてしまうというか…。(つまり、冷静に見極めた可能性の多寡はどうあれ、自分がそう願えていたら、それだけでいい…、というような…。たぶんね)。いっぽう。、求めるこたえがもし得られなかったら、どんなにがんばっても、それはわざわざ口にすることではない!、というのが、もし、男の人のこころにあるのだとしたら、たぶん、そのあたりが…、互いの葛藤がおこったり…、あるいは、おんなが、とんでもなく能天気に見えたりする一因?だったりするのですかねぇ~。

えんというものは、いつまでもそこにあるものでなくて、ちかづいたりはなれたりするもので、しかとつかんでいないと、するりととおざかってしまうものなのだそうです。ハッとしました。ほんとうのえんなら、いつかきっと、かならず向こうからやってくると、しんじてうたがわなかったわたしでしたので。ちょっと、愕然としました。ひょっとしたら、願いを、ちょっとでもあとに残しておこうと、時間を遅らせておこうと、しているのは、ほかでもない、この私自身なのかもしれませんねぇ。あるいは、ああだこうだと、えらそうなこといいながら、そのじつ、やっぱり自由を願っているのですかねぇ。ひたすら、かぞくにふりまわされるぐらいのほうが、ずっといいとおもっているのに。これは、ただのないものねだりなのかなぁ~。ううん。まぁ、たしかに、こころのどこかでは、芭蕉さんのような、無頼なたびびとに、少しだけ憧れてはしまいますけれど…。うう~ん。

鷲田さんと河合さんの、とっても意義深いその対談を綴った文のなかに。他者を理解する…というのは、他者のかんがえやおもいがわかるということではなくて、そもそも、他者のかんがえやおもいなどは、どうあがいたところで、おなじものになるわけもなく、ひたすらどこまでも、かけ離れている…。そのことを、わかって、そのうえで、とうていあいいれない、それらの存在におもいをはせる、その違いをみつめる…、ということが、理解する…、ということなのだと。他者としての他者になれてはじめて、コミュニケーションのいりぐちに立てるというか、たぶん、そんなことなのかなぁ~と、ちょっとおもいました。わかるというのは、ひとまず、まだ、かってながら、そうぞうすることはできますということであって、ほんとうにわかるということは、そうそうできるものではないと…。してみると、話を聴く…、というのは、ことばの一言一句をただ受け止めるのでは、ほんの一部なのですかねぇ(ちなみに、構えて受け止めすぎてもいけないようですが)。ただわたしは、何かを話したいと思える相手である…ということに、すべてがある気がしないでもなく…。もっとも、聞いたそばから、話を忘れてしまう、わたしがいうのも、ちっとも説得力がないですがねぇ。