ときどき、ああ、そうかぁ~と、深く合点がいって、こころ全体がブルブルっとなるような、気づきが訪れます…それが、幾つになってもより成長、もしくは熟していってる実感を味わえる瞬間なのかなぁ-とは、おもいますけれど

ともあれ、いままでいたところで我慢するほうがはるかに危険も心配も少ないのは重々わかっているのに、一方で、いずるにしてもしぬまでのいのち…流れに身を任せる…という、きせきもときどきむこうからやってきます


はたして、塞翁が馬というのは、文字通りなにがいいかは、簡単にはわからない!というところに、人生の深みというか、ひとにはわからぬ醍醐味が隠れているようにおもえるから、時間があるという贅沢にまさるものはない、と!わたしはおもうとです


もっともあわてずあせらずあきらめず…でこんきよく進むしかないのかもしれないとはおもいます。いつだったか、生涯ボランティアでもいいと思ってるんです 確かに衣食住は人間として必用ですけれど…そう、初心者のご主人に、何度か時間を作ったあとの食事の席で、目の前にいたおばさん同僚は、瞬間、絶句していました


わたしも、しまった!正直に話しすぎたと、後悔しましたが、やっぱり実際におもってることをことばにするのと、多少アレンジを加減すろのとでては、伝わり方が圧倒的に違うもののようです おかげでそのおばさん同僚のわたしをみる目が格段に厳しくなってしまったのはいうまでもありませんが…


ともあれ、お金についての感覚の問題は、あるいは人生そのもの、ゴルフという世界、などなど、いきとしいけるものの時間の流れかたを大きく左右するもののようですね もっとも、稲作をしてその年のできふできがすべて!という時代にあっては、天気の良し悪しと、いかに効率よく多くの収穫を得るかという知恵と体力がすべてだったのでしょうに…


つまり、知恵と体力さえあればなんとでもなるのであり、自由にのびのびできる時間があってこその人生であり、りんしょくすぎて結局つかえないものはないのと同じであり、病気になったときの~というなら、病気にならない限り使わせてもらえないという、ざんこくすぎるnkcaそこには隠れているのであり…そのまえに、いまできないことはあしたはできないという理屈にもろくも敗れることになり、永遠に明日のためのきょうの我慢が続くトラップにならないとも限らず…


なあんて、冬になったらうえじにまちがいなしのキリギリスがえらそーにいってもまったく説得りょくないですけれど ともあれ!いささか言い過ぎましたが!つまりは、そんなことを言いたかったきょうのわたしなのでした…
それにしてもやはり、人生は深いものですねぇ~
てんきはかならずやってくるもののようです…





それは、なんというか、ひとのよさわによるものだろうとおもいます。いや、もしかするとそれだけでは説明しきれないものなのかも…ともおもいますが。ある方から、ゴルフのお誘いをいただき、そのお礼状を書く際に、一大決心でもって少しだけふれたことについてです。自分でもどうして、これほどまでにいやな感覚が残ってしまっているのだろうとおもいます。とらうまということばは、安易に使うべきでないとおもっていますが、それでもやはりそうなのだろうなぁと、認めざるを得ないようななにか…。

つまりは、その方を共通のゴルフの恩人とするひとで、わたしがどうしても二度と顔を合わせたくない(というより、正確にはそのひとの耳に、わたしの話題が入らずにくれたらそれで十分)とおもうひとがあります。ひとには、だれしも弱い部分、あとで振り返って反省したくなることなど、いくらでもあるものですが。そういうやさしいことでは、どうしても腑に落ちないほどの、かなしみに満ちた仕打ち…のようなもの。が、どうやら、わたしをして、そのひとに少しでも近づきたくないと思わせてしまうもののようです。

そのひとのゴルフは、正確無比。とりわけ、バンカーショットやパターについては、実に見事です。まったく非の打ち所がないというのはこういうのをいうのだろうなぁと、思われる一打を繰り出します。実際、何度も一緒にラウンドしてもらったことがあり、実際大いに勉強になりました。ですから、その意味ではそのひとも、わたしにとっては、ゴルフの恩人であるのかもしれません。実際、年下でもありましたし、尊敬とまでは至らずとも信頼はしていました。あるときまでは…。礼儀正しく、ひとへの対応もそつがなく、とてもバランスのとれたひとだとおもっていました。あるときまでは…。

ときおり、ひとずてに入ってくるそのひとの別のある面を評したことばを、最初耳にしたときも、恐らくなにかの間違いだろうと、おもうほどでしたから。だれにでも、だれかのことが妙に気に入るというのがある反面、その反対もあるだろうとは思います。そこで、次になにをするかは、そのひとの品格の問題なのだろうとおもいます。みえないところ(というのは、実際にはないものだとわたしはおもうのですが)で、実に巧妙に…としかいいようがありません。ほんとうに、その才能を別のところに生かせたらどんなにいいでしょうにおもえるほどの、見事なものです。それだけに、のほほ~んと、おもてもうらもなく生きているものには、時に青天の~、と思える事態が起きてしまうのかもしれません。

ともあれ。そのひとから、実際にわたしがこうむったことは、もちろん詳しく書きませんが、われながら、ここまでわたしがだれかのことを苦手をおもうのは、後にも先にも~と、おもえるほどです。それでも、そのことは、件の恩人をはじめ、ほかにも共通の知人はありますが、これまでほとんど漏らすことはありませんでした。(当然のことでしょうが)。それでも、せめて、わたしが苦手としているということだけでも、伝えようと一大決心をして、先のお礼状の中に数行だけしたためました。文字通り一大決心でした。(たいていの場合はそのうち明けをあきらめ、恩人への連絡をあきらめるのでしょう。)

つまり、何がいいたいかというと、ひとになにかを伝えるということがいかに難しいということです。あのひとがきらいだすきだというのは簡単ですが、ときに、だれかの邪魔をしたいと考えている人が関係してくると、とても神経が磨り減ります。たとえば、ただ自分がわるものになることですべてが解決するなら(ということは実際にはなかなかないですが)、いっそ楽ですが。だれかを悪く言うこともできず、かといって、本当にどうしようもなく苦手としているのに、何事もないかのように振舞い続けるのも、かなり神経が消耗します。(無論、社会というのは、大なり小なりそういうことの連続なのだと思いますが)。

それにしても。尊敬するだれかに気に入られたいとおもうのは、当たり前の心情です。つぎに、その方が別のだれかとも親しくしていて、そのひとと自分の相性があまりよくない場合…。そんなことは、どこでも普通にありえます。そっと、苦手な相手とは距離をとりつつ、自分は自分であろうとするひとと、苦手な相手の邪魔をしようと画策してしまうひとと…。いるのはどうしてでしょう。知らぬが仏にできるひとと、見えるところ聞こえるところどこまでも追いかけてしまうひとと…。無論、世界のすべてが前者ならば、確かに戦争は決して起こりますまい。舌切り雀や白雪姫の童話をひくまでもなく、誰の心にも悪魔はあるものでしょうし、醜い部分はあります。しかし…。それでも、別の誰かの存在を許せるものと、そうでないものの違いはなんなのでしょうか?

考えれば考えるほどに、人間というものの本質に迫ってしまう気がしないでもないですが…。真のやさしさでしょうか。その温もりを、ただありのままに信じられるかどうか…。ひとのものを奪ったりせずとも、天の分け前はきっと(いつか必ず)自分のところにもやってくると信じられるなにか…。(いや、別のことに頭を切り替えれば、なんとか独り占めできたらいいのにとおもうけれども、時間的誤差にはどうしてもかなわず叶わぬことは確かにありますねぇ)。単純には子供のころに親からもらった愛情(の量)でしょうかとおもいますが。兄弟姉妹が多くいても、ひとにきちんとやさしくできる方はちゃんといるのですから…。にんともかんともです。

たとえば、嫁と姑のように、年齢的(時間的)圧倒的優劣がすでに決している場合、もしくは、互いが互いを同じくらい疎ましくおもっている場合というのは、ある意味わかりやすい構造なのかもしれません。もんだいは(そして、多くの場合のかなしみの発生は)、一方は別にどうってことないと受け止めているのに、片方がどうしても鬱陶しいと感じている場合でしょうか。まぁ、ほとんどはこういうことなのでしょうね。一言でかたずけると、それを評して劣等感というのでしょうか?ちなみに、先に書いた私が苦手とするひとは、最近家族をもたれたようです。不思議ですが、それを聞いてとてもホッとしました。そのことで、そのひとの毒が少しでも薄まればいいとおもった(=心から願った)からに違いありませんが…。
年賀状のおかげ…というのが確かにあります。ふだん、なかなかわざわざ連絡を…とまでおもわなかったり、あるいは、おもうけれども実際にはなにもできなかったりする相手に、たとえひとことでも、ことばを送れるということ…。こちらから、出す以外に向こうからくることはない…と、わかっているひとでも、年賀状というシステムのおかげで、決して大げさすぎずに、こちらの近況を知らせることが出きる。とてもいい機会をもらえます。

何年か前にきた賀状を取り出し…、そのなかから、改めて返事をしたいものを取り出して…。でも、そのうちいくつかは、やはり、返事を出せぬまま終わってしまう…。書こうか書くまいか…。来たものにだけ出すという、賢明かつ合理的な方法もある意味で、いいかなと、おもえるときもあります。あまりに、プライベートに深入りしようとする質問を浴びせられたりすると、やはり、引いてしまいます。たとえ、それが、単に心配の延長にある厚意やもしれぬ…ということがわかっていたとしても…です。

ともあれ。去年は、賀状まで用意しながら、結局、宛名書きする元気がどうしても起きず、つまりは、ことばを書き送れるだけの、メッセージをもてずにいたわけですが、それなのに、元旦に届いた枚数には驚きました。ほんの数枚だけか…と、おもっていたのに…。といいつつ、今年は、結局絵の具を使うことはできぬまま、暮れに旅先で偶然撮れた風景を印刷し…(そこまでは、はるか早い時期に終えていたのですが)結局、書いて投函できたのは元日をはるかに越えてしまっていました。

けっしてなにかをうしなったわけではなく、それでも、なんだかなにかがあまりうまくいかないまま時間の過ぎた昨年でしたが…。それでも、思いようで。なんとなく、よくなかったとおもっていたのに、でも、よ~く、考えると、ほんとにささやかだけどかけがえのない時間はあったし、むしろ、よかったのではないか、と、自分に問うてみる。やはり、望みが過ぎているのかなぁ。だから、よ~く、考えると決して悪くなかったはずの年なのに…。そう、暮れの、世紀の大すれ違い悲劇をのぞけば…。

4千年の統計によると、今年はいっかくせんきんに恵まれるかも知れぬとし!なのですけどねぇ。まったく期待薄ですねぇ。宝くじは末賞がやっとだったし…。もっとも、きんを必ずしも貨幣という風に決め付けなければ、もっと、貴重な、お金では決して買えぬ価値のあるもの!ということもあるですかねぇ。ともあれ。お金があってもなくても、大勢は変わらない。むしろ、いかに、お金に負けないで(切れのある)せんたくをできるか、なのだろうなぁ…。と、だれに言うでもなく、ひとり納得している、清貧をどうしても望んでしまう自分自身には、困ったものだなぁと思いつつ…。ああ、でも、あの方とゴルフができたらなぁ~と、ついため息をついてしまう、のでした。

「どんなことでも、やろうとおもえばできるもの… 要はそのひとの優先順位(次第)…」とは、あるひとのことば。きっと、できることなら…、というのは、たぶん、みんなそれぞれに、胸の中にある。簡単にできたら、どんなにいいだろう…。そう、ひとりになると、ふと、おもわずにいられない、うっかりひとり嘆息してしまうような、そんなことが…

いつだったか、瀬戸内さんが話されていたが、わたしたちは、書いて(こころを)発散できるから…、と。それにしても、どういう覚悟というか、どういう理由で、仏門に入られたのだろうか。身を焦がすほどの恋をされ、いったい、なにをあきらめ、それとも、なにをあきられきれずに…、そういう道を選ばれたのだろうか。じっと、離れて思い続けるだけというのは、じわじわと、つらさが年毎に二乗のように、積み重なってつらくなるものなのだろか…それなら、いっそ、絶対に手に届かぬところにいってしまったほうが、気が安まる…のだろうか

どの映画の台詞だったか忘れたが、おんなをいきるのはとっても難しいって。それは、洋画で、おんなどうしが、気楽になんでもいいあえるような、そんな内容で…。ともあれ。ああ。これさえあればなぁ~と、どうしようもなくおもえるものほど、とてつもなく遠く、とてつもなく難しく、どうがんばっても、実現しそうにはなく…。だったら、少しでも、小さなささやかな時間を、だいじにだいじにしていきたいと…と。ただ、苦しいからやめてしまうというのだけは、なしにしたいと…。おもっているのだが、あんなに、願っていたことが、30年の想いの前に、すっかり敗れてしまったことを、おもうと、自分というものの不確かさに、ただただ、愕然とするほかはなく…

これまでどおり、ただふわふわと、人生が終わるまで、いつも流れるように、いきあたりばったりを続けるしかないのかなぁ~。と。われながら、どうしようもなく。だから、いまできること以外のことを、あまり欲張りに願ったりしてはいけないのかなぁ~と。おもうのですけれども。それでも、冒頭のことばを聴いて、心底そうだそうだと、思わずにいられない自分が確かにここにあるのであり。とはいえ、なにごとにも、時機というものがあるのだろうということは、とてもよくわかるので、なにかを求めすぎたり、急ぎすぎても、かえっていまある大切なものをなくしてしまうのは、やっぱりいやだとおもう気持ちがここにもあり…。ということが、すっかりそのまま、あてはまるのかもしれないのだとすると、それぞれに、おもいのたけはあるのであり…。どちらかが、無理を通せは、やっぱり(長い目では)よくないのだろうなぁ~とも。おもうのであり。


そんなこんなで、胸をよじるほどの願いとどうしようもない諦念とのあいだで、いったりきたり。でも、自分を宥め、いつもあきらめることのほうにばかり、エネルギーを使うというのも哀しいなぁと、おもわずにもいられず…(でも、実際にはなにもできないことは、自分自身がいやというほどわかっているのであり…。)ただ、神頼みしか…。自分自身でさえ思うに動かせないのに、ましてや、別の誰かをどうにかしようなんて、きっと、あとでばちがあたるだろうなぁ~って、おもってしまうということは、つまり、自分がかわいいのであり、自分を傷つけたくないのであり、別のだれかが、あるいは、何かが動き出すかもしれないのを、ただ、待つしかない…とおもっているのであり。待っていれば、つまり、待っているのもひとつのエネルギーであり、覚悟であり、生きてるあかし、とまではいかないにせよ、それでも、時間を重ねていることにはかわりなく、待つことにがんばっているのも(たぶん立派に違いないと)、価値があるかもしれぬと、…。これ以上言うと、ただの言い訳にしかならない気もしてきました。




ひとまず。それでも。この冬をなんとか、元気で切り抜けないと…。というのが、目下の最大の、そして、目の前の課題…。だからと、張り切りすぎると、かえってあとの、ゆり戻しが怖いな~というのが、一抹の不安。でも、去年のような落ち込みだけにはひきずりこまれないぞ…。と、おもってはいるのですが。ひとりと、この湿気の寒さと、そして、言うに言われぬ長い歴史のあるこの家と。このみっつがそろって、それでも、けろりといられたら、それこそ、もう、生きる修行しなくてもいいのではないか?そう、思わずにはいらないこともなく…。ともあれ。先の、旅には、ほんとうに救われましたm--m。こういうのもとても失礼ですが、これほど、元気をもらえ、気持ちが好転できるとはおもっていませんでした。ほんとうに、感謝しています。つくづく、ひとはひとの(見える見えないを問わず)やさしさに、支えられているのだなぁ~と、おもいました。(と、ときどき、なみだといっしょに、これを書いたら、いまのかなしみは、少しだけ、涙と一緒に体内から少なくなってくれてような気がしますm--m)

(と、書いても、これは、わかるひとにだけ、それとなく分かるように書いている、いつもの、つれづれと、変わりないですので、どうか、心配しないでくださいね。だれかを紹介しよう!というのだけは、お許しください)
書けなくなって久しい。いや、書かなくなって…というべきか…。ともあれ。理由をあれこれ述べても仕方ないのだが…。ひとつには、「誰かを紹介しよう」という、厚意の到来への困惑…というのがないといったらうそになりますが。それだけが唯一の理由でもなく。田舎で暮らすことの窒息感。おんなのひとに読まれることへの抵抗感。想いを素直にことばにすることへの躊躇感…。無理して、揚げていけばきりがありません。ともあれ。余計に心配をかけてしまうことへの躊躇感。それと、どうしようもなく、だれかに助けを求めてしまいたくなる甘えとの、葛藤の中にあったといえば、少しは聞こえはいいでしょうか?^^;

なにかに迷い苦しみつづけることは、生きていれば、大なり小なり当たり前のことで。たぶんですが。であるので、そのことに、いささか苦しいとき、それを、思いのままに書きなぐってしまうことへの、人並みの躊躇があった…ということにしたいですが。たぶん、そうではないでしょう。ことばを書くことで、心を癒すだけのエネルギーがうまく調整されてでてこないというか…。いささか、大げさにいえば、自分で自分に言い聞かせるだけのことばや想いを見つけられずにいるということ…なのですかねぇ。正直に言えば、だれか、話のできる人に訊いてみたい。なにを訊けばいいのかわからないけれど訊いてみたい。そんな心境です。

かといって、どうしようもなく落ち込んでいるかというと、たぶん、そうでもなく(いや、かなりそうなのかもしれませんが)、なるたけ、起伏の少なさを装えば、少しくらいそうでいられるのではないかと…。さびしさとか、むなしさというのは、ことばにしてしまえば簡単ですが。そこにあるのは、たぶん単純なものではなく。なんともいいようのない…。というのがそのほんとうのところであって…。であるからして、ときに、どうしようもなく。では、なにか具体的なものをのぞんでいるかというと、いまは、なにもいらないとおもっているのであり。であるので、つまり、のぞむものがないと、ことばというのは、どうやら、自然にはでてこないもののようであるのです。

なにはともあれ。どんな状態でも、(たしかに、それがいつもおもいどおりになることのほうが少ないということはありますが、それでも、そういうこととはもっと別の次元で)、それは、そのひとが数ある可能性の中から、意識無意識とわずして、選んだ結果であるのであり、かくいういまも、その最中だることには変わりなく…。とすれば、あれこれ、いっても、いまここで、こうしているわたしというのも、わたしがそうしたいとおもって選んでいる結果なのであります。と、いうことはできるでしょう。(という屁理屈?を書ける程度には、少し元気ではあるのですが…)。ともあれ。なにがどうあれ、それぞれの思いよう…というのが、すべてであり。なるたけ、静かにしていたい…。というのが、少なくともいまの、大半の感覚なのでしょうねぇ?
こんなはずではなかったと、おもう
そこに戻れば、たしかに社会的にはまもられてる
でも、ほかになにがある?
たとえどんなにあっても、じぶんがかせいだものでも、自分のいしで、つかえないものはないのとおなじだ
なにかあったら?
なにかあったときというのは、もう、なにかに使いたいとおもえるだけの元気がないときであるから、やっぱりないのとおなじだ
えんめいなんとかをうけられるかどうか
それでも安心だからと、あらゆる理不尽をみえないふりして、いつもいいひとをがんばってる
それが人生なんだと思おうとしている
そうでもしないと、とても平静にいきてられないから
いいひとほど、理不尽にだまってたえて、そして、文句のひとつも言わずに死んでいく
いいかぞくにめぐまれてしあわせだったと
食べるものがある
仕事がある
ただ、使われているだけだとしても
一応喜んでもらえたら、それなりにうれしい
たしかに、やりがいはある
でも、なにか、いちばん大切ななにかがそこにはない
こけん?
ほんとうなら、もっともっと自由にはつらつと使えるはずなのに
時間も、そしてお金も
なんの遠慮もなく
ささやかな楽しみにつかう費用にオドオドすることなく
なにかが違う
こころではいやというほどわかっているのに口にできない
あきらめることでしか、平和に居場所をもらえない
このまま人生を終えることになっても仕方ないとあきらめてる
雑用で忙しくすることでしか、こころをまぎらわせるすべをしらない


もしかしたら、人生には、もっとすばらしい時間があったかもしれないのに

あのとき、ほんの少しの勇気さえあれば

あえて自分ではなにも選択してこなかった
あきらめることで、時間とお金に負けることでしか、人生をやりすごすことしかできなかった


ほんとにそれでいい?



もし、10年後の自分に、あるいは愛するひとにそう訊かれたらどうしますか?
もちろん、10年後では、すべて手遅れ



やはり、決断も、よほどのことがないとできないのでしょうね
あるいは、なくしてしまってから後悔するとか

あるいは、いってわかるひとはいわなくてもわかるので、やはり、敢えてことばにしてもなにもかわらないのでしょうね


どうやったら


やっぱりあきらめる以外になにもないのでしょう


Well,きちんとメールをしたいとおもいながら、なかなかできずにいます。近く、できれば、またラウンドをと願いながら…

女性が読んでいるとおもうと、それだけで、鈍ってしまうのはわたしの深い深い困った性分によるところもあるのですけれど…

さておき。しあわせは、ふしあわせのなかにあって、そのまた逆もたぶん、然りで。ささやかなそれらは、なおさらそうで。つまりは、どちらも、ほどほどにあるのが、もっともいいわけで。いかに、しっとのなみを上手にくぐりながら、ささやかなそれをもつことができるか…

真実はなるたけおおきなこえでいわないほうがいいわけで…。たいせつなものは、いつも、そう、見えないものの中にあるから…。と、おもうのですけれど。そして。おかねに負けるのですか?世間体って、たぶん、己が勝手につくっているものでは?と、おそらく、荘に違いないとおもいながらも、そんなことを、大きな声で言いたくなっていること自体、じぶんのよくをなんとかかなえたいとおもっているからにほかならず。でないなら、ひとそれぞれに、しあわせの基準があって、みえないものがみえないひとには、なにもいうことがないのと同様、基準について、だれかになにかを議論したり、意見したりするのは、言っていることと大きな矛盾であるわけで。

つまりは、おもいよう、考えよう、こころのもちようで、人生の時間をやりすごすよりないわけで。しあわせなときほど、なるたけ、苦労のふりをして、その逆のときはその逆で。賢い人のをみていると、とてもよくわかるのだけれども。ともあれ。なるたけ、わかりにくく書いてしまうのも、やはり、余計なしっとを受けずにいたいと、ほしんの表れなのであり。


いずれにしても、さびしさと、やるせなさや、せつなさ、そしてかなしさとは、少し違うような気もして…。さびしいのでは?と訊かれる度に感じる、なんともいえない、疑問感?たぶん、おそらく、ひょっとしたら、そういう言葉の質問者自体がだれよりも、さびしさを感じているのではないか?という疑問…。これとても、平たく言うと主観のもんだいであるから、比較のしようがないわけで…。それにしても、さびしさってなんでしょう?ひとをうらやんだり、ひとの不幸をちょっとだけ願ってしまったりする、そんなこころのことなのですかね?

それらは、物理的環境だけがもたらすものなのでしょうか?よくはわからないまま書いていますが。ようは、話が通じると感じる時間の有無なのでしょうか。無論、量ではなく、あくまで質でです。してみると、大家族でもさびしいひとはさびしい?それを認めるのがつらいと、つい、ひとのさびしさに目が向くのでしょうか?う~ん。もっとも、この世に、まったくさびしくないひとなど、いないと、わたしは、おもうのですけれど。ただ。ひとに、それを質問したいとおもわないのと、質問する方との違いは、なになのでしょう?

要するに、近い過去、顔も知らない無礼な年配女性に、さびしいのではないか?との、なんとも、ふゆかいなコールを得たから、これだけ、つまらない駄々を書いているのでありまして、それ以上でもそれ以下でもない理由はほかにないのでありまして。

なるたけ。また、ちゃんと、メールできたらとおもっていますm--m。
いつも、心配かけてすみませんm--m
たくさん眠ると、少し、書くいよくがふえるのかもしれません…

ともあれ。きょうは、その、いいわけを書こうかとおもいます
その方が、これを読んでくれているのか、さだかではないので、ただ、じこ満足のための、いいわけにすぎないのですが…

ともあれ。まいど、ほんとにありがたいこととおもいながら、そういう申し出を受けるたびに、とってもこころぐるしくなってしまうのを、どうしようもなく…
やはり、ひとことでいうと、こんわく、してしまいます

いずれも、あいてのかたは、よかれとおもっていってくださっているのは、じゅうじゅうわかるだけに、ごめんなさいというのが、とってもつらいのです
でも、だからといって、ことわるのをぜんていに、いえすとはいえないですし…

つまりは。ひとのおもいは、なかなか、ひとすじなわではいかない、ということなのでしょうか^^;

ほんらいなら、ありがたいことなのですが…
こればかりは、そうそう、お店で気に入る商品を見つけるのとおなじにはいきません
(いえ、これとても、ほんとうに、だきょうしないものを見つけられるのは、千にひとつもあるかないかだと、おもいますし…)

きっと、いろいろその理由は、ひとにせんさくされることでしょう
でも、これは理屈ではなく、こころが動くことが起きない限り…としかいいようがなく…

実際、たしかに、いまなら、あいてがだれでも、それなりに、うまくすることはできるでしょう
それが、わかっているだけに、そういうふうには、したくない…とも、おもってしまいます

おんなが惚れるということは、千にひとつどころか、それ以上に難しい(珍しい)ことは、日本中いや、世界中のおんなのひとが、しっているでしょう
だからこそ、それほど、稀有でめったにないことだと、身を持ってわかるからこそ、
そこだけは、ゆずりたくないのです

かりにもし、そのがんこのせいで、永遠にまちぼうけになったとしても…
(もちろん、そんな夢をいっていられるのも、まだ、若いと自覚できているせいだけかもしれないのですが…)

かくなるわけで、これを冒頭から読んでくださっている方には、じゅうぶんおわかりいただけているかと… いう次第で、
もちろん、しぜんなであいで、さらに、わお~っと、こころがゆさぶられる存在に、これから出会わないともかぎらないのは、もちろんですが…
というわけで、そういうことでもない限り、いつまでも、気持ちにふたをして安定をもとめることだけは、ど~しても、できない、おおばかものの、わたしには…、そのような申し出は、どうしても…。

ひとからみれば、じつにつまらないことがらでも、そのひとにとっては、生き方そのもの、人間の根源そのものを、揺らがせてしまう(と、勝手におもっているもの)は、どうしても、ゆずれないことがら、であったりするのですねぇ。(m--m)

(とはいえ、ここだけの話、あとすうねんの選択の結果で、こをもつかいなか、この先のいきかたがおおきくかわるのだろうなぁ~とは、たしかにおもっています。しかし、それも含めて、こころに正直に、自然に訪れてくる流れにしたがうしか…(ないのでは)とも、おもっているのも確かなのです)。
一週間のご無沙汰どころではない日が過ぎました 試合までは、なにを書いても言い訳になりそな気がして、あえて書かずにいたところもありますが  それ以上に、こころがどこか、不安の部分をおおく抱えていたせいでもあるのかもしれません  おもっていることを、素直に話せるようになって、ようやく、ここにも、少し書いてもいいのかなと、おもいはじめています

ともあれ。ほかのかたがたには、ことしは、年賀状も暑中見舞いも書けぬまま、日が過ぎ、ことしもあと4ヶ月が目の前になろうとしています  さらには夏の風物詩もお送りできぬままで…m--m
暑い夏は、むしろこの数週間がからだにはもっともタフな時期なのかもしれませんが  ともあれ。
自分でも、おもいがけぬであいや、ひとの言葉にこころを動かされ、いろいろ考えの深まる夏です

まるで、ファイナルかセミファイナルのような顔合わせの試合が続いて、このままでは、ほんもののファイナルは、大味な一方的な内容になってしまうのではないのかしらん そうおもいながら、久々のオフにテレビの前にいる次第。ほんに、采配の切れが、勝負には、大きく影響してしまうようですね  強すぎるそれがせっかくの流れを止めてしまったり、かといって、弱すぎても流れをつかみそこねたり… いずれにしても、読むちからなのですかねぇ

おっと、ゴルフのはなしをするのでしたね。当初、こんど書きますといっていた内容はおよそ次の通りです。本気でラウンドするのは夏のその試合だけ。あとは、コンペといっても親睦のそれにすぎず。なので、周りにあわせて(いっては失礼ですが)、というより、むしろ、もっとおへそ曲がりにいうと、なるべく勝ってしまわぬように…(かつてのトラウマがよほど大きな影響をわたしのこころに及ぼしているのは確かですが、ともあれ、それを除いても)実際、90もしくは、100点を使ってミスをまったく気にもせず、むしろ打つ機会を増やすかのようにするのは、たとえば、制限なくお小遣いをふんだんにつかっていい状態で遊びにいくかのような、無駄遣いを思い切りするかのような、別の形での楽しさはたしかにあるのです

ともあれ、ずっと、(スコアで)勝ってどうする、というおもいがずっとありました。ましてや、おんなだらけの試合など、行きたいわけもなく。飛距離のまったく違う相手に勝ってなにが面白いってね。正直そんな感覚でした。ただ。今年に入って、一度だけ、まったく別のひょんな理由からそうなったのですが、7千を越すところを、真剣に回る機会がありました。無論、同伴者に恵まれたこともありましたが。気持ちよくゴルフに集中することができ…。真剣勝負の楽しさに、思った以上にハッとさせられたのでした。そのあとに、訪れた「スコアは作るもの」の、そのひとのことばでした。

そんなわけで、ずっと、やればできるけれども、そんなにしゃかりきにやってどうする?、そんなおもいで、ずっといた、わたしの意識に、少なからぬ変化は起こりつつあるのです。(とはいっても、このままできれば、田舎でひっそり暮らしたいの、おもいはかわりませぬゆえ、どうかご安心をm--m)なにかに、夢中になれる(時間が少しでもある)、集中できる時間がもてる、というのは、ながい(人生の)残り時間を、なんとかやりくりする意味でも、きっとよろこばしいことなのでしょうね。どうやって生きればいいのかは、いまだに、さっぱりわかりませんが、それでも、そうやって、悩んでいるうちに、それなりに、時間が過ぎていってくれるのなら…。ひょっとしたら、それが人生というのものなのかなぁ~。そうおもうのです


かっこよさとは、決断のきれのよさのことであり、つまりは、選択する、なにかを選ぶ、なにかを捨てる、断つ、その切れのよさのことであり、してみると、やさしさも、厳しさも、そして残酷さも、すべては、おなじ袋の中にはいっているものであり、ものごとの捉える方向の違いだけで、それらは、紙一重というより、すべてを含んでおなじころがらのことなのかもしれないと、ふと、おもいました。つまりは、かっこよさは、日々の行い、動き方、歩き方、所作のひとつひとつに含まれているもののようですねぇ。そして、たぶんですが、それらは、いくつになっても、進歩(いえ、熟成でしょうか)しつづけるものではないのなかなぁ。ふと、そんな風に思いました。ひとは、もうこれいじょうどうしようもないと、思った瞬間に、人生(のひとつの大事な一面)が、ほんとうにおわってしまうものなのかもれません。つまりは、品格、人格、含羞、誇り、そんないくつものブレンドが、ひとをして、このひとのためなら、がんばれる!そう、思えるなにかをもたらすのですかねぇ…。

次は、なるべく近いうちにまた書きますm--m

せっかくいい流れできてたのに、あとすこし、あとすこし、というところで、それまでのがんばりというか、気持ちのいいながれを、みずから、ぶちこわしてしまうようなことを、しでかしてしまう…
あとちょっと、がまんできてたら、あと少し、辛抱してたら、と、おもえるところで、いつも、後味をわるくしてしまうような、ながれを自ら作ってしまう…


ばかだなぁ~とおもう どうしてせっかく、穏やかにいられたのだから、どうしてあとちょっと、なにごともなかったように、平気でいられなかったかと、おもう
どうして、大きな我慢なら、できるのに、ふとした、ちっちゃなちっちゃなそれが、できなくて、ひとの気持ちまで、まきこんでしまうのだろうかとおもう


あと少し…というところで よけいなこころのねじれをおさえきれずに、いてしまうのだろう…
あとすこし…が、できたら、どんなにいいだろうかとおもう


どうしてさびしさを、なにごともなかったかのように、こらえきれないのだろう

残りの人生のながさをおもって、気が遠くなるからだろうか


こころのおくでは、こうやって、おもえるなにかがあるから、充分にいきてる甲斐があるんだって、ちゃんと、実感できてるのをわかっているのに
どうして自ら、結局自分がつらくなるような(こころの)はんらんをおこしてしまうのだろう


これも、ほんとは、いつも、とってもがんばって!?いるから、どきどき、そうやって、わざわざ、そこにあるなにかを、あらためて確認するかのような、こころのねじれを、自ら起こしてしまうのだろうか
苦労がたくさんあるほうが、ずっと充実を実感しやすいのとおなじみたいに…!?


それにしても
どうしてこうも、ぶきような、というか、かなしいまでに、かなしきねじれを、タイミングわるくおこしてしまうのかなぁ~


ぬくもりと、つながりと、いたわりと…
そうおもえるときが、あるなら、
それだけで、充分なのに…


どうして、ないものねだりを、いつまでもこりずにしてしまうのだろう


どんなことも、いつかおわりがあるから。すくわれもするのに

ふとした、ことに、自分のなかで、なにかをおさえきれなくなって、はやく人生がおわっちゃえばいいのに…って、自分で自分のこころがいたたまれなくなるようなことを、おもってしまうのだ


なにがかなしいといって、それは実際の孤独ではなくて、自分で自分のこころを、孤独にしてしまうことが、なによりかなしきことなのに…


どこにいても、だれかをやさしく穏やかなきもちで、おもっていられる、その時間にあるときは、それだけで、充分、こうふくでいられるのに…


なにかに、ちょっとだけ、たえられなくて、つい、自分以外のだれかを、せめる気持ちになってしまったら、もういけない どんどんこころは、ねじれて…
結局は自分自身が、つらい気分の温泉にどっぷりつかって、湯中りおこしたみたいに、ふらふらになって…
そして、かなしき、物思いのなかに、どんどんどんどんしずんでいくのだ



どこまでも、やさしい気持ちでいられらるときとは、まったくまったく違う時間になってしまうのだ…


ううう。どうしてこうも、いつも、いいところで、かなしいまでに、おろかなこころに、ふりまわされてしまうのかなぁ

ばかですねぇ