ふと、なにかしら、きゅうに目の前のじかんがふえたような~。そんな感じに包まれる。そんなときがあります。ほわほわぁ~っと。なにかが、いちだんらくしたのでしょうか。自分でもよくわかりませんが、ふと、冬のこおりがとけるように、やさしい時間がほわっと、舞い降りてきてくれたような、そんな感じがするときがあります。これといって、時間におわれていたのでもなく、小さな雑用は、これまでどおり、残ってもいるのですけれど。ふと。そんな風に、目の前を流れる穏やかな時間に、ほっと、救われるようなそんな気分になれるときがあるものです。

たしかに自分でもおもいます。おかねでかえないものに、たくさんめぐまれているのだと。無論、おかねもたいせつです。しかしそれは。あくまでひとつの、たいせつに使ってこそ意味のあるものと、わかっていられて、それまたありがたいと。小さなチョイスをセンスよくできたら、きっとその積み重ねで、それ自体への感覚もきっとかわるのだろうとおもいます。わたし自身は、いつからはて、そうなったのか~。自分でもよくわかりません。少なくとも。子どものころよりは使う使わずの自分なりのメリハリ、流儀が少しずつわかってくるのが、それまた面白い気が、少しだけしています。

ただ。目の付け所。判断のしどころ。どこにどれだけ使うか。メリハリとチョイスの妙がわかればわかるほど、生きた使い方ができるのだろう~と、いうことは少しずつですがわかる気がするかなぁ~と。とはいえ。しょせん、毎日のごはんのお買い物をするおばさんレベルでの話ですけれど。野菜の切り方ひとつ。切っているひとのこころの穏やかさ加減ひとつで、料理の味はまったくかわってくるものですからねぇ。センスよく選べた調味料を使えたら、なおのこと、おいしくなるでしょうねぇ。10年あるいは、それ以上やってきても、初めてやってみたひとに、あっさり負けてしまう!こともあるのが、料理であり、車の運転であり、ゴルフも?ですからねぇ。なんとも、残酷といえば、残酷なのかもしれないですが。どれも、そのひとそのひとの味が、いやおうなくでてしまうのかもしれません。

練習嫌いのわたしの屁理屈にすぎませぬが。もし、めいっぱい練習するとするでしょ。すると、コースではひとりでに練習どおりにいくかいかないか。あるいは、心配することがほかになくなれば、ひとりでにスコアのよしあしだけに気持ちが向いてしまうのでは?つまり、コースでのこころの向きよう、こころの遊び場がかえって狭くなるのでは?という心配です。こころは、常になにかをおもってしまうものですから。練習で不安の芽をつぶしてしまうと、こんどは、技術いがいの不安がこころの大半を覆ってしまってこころはそれと闘うことに消耗してしまいはしないですか?ということ。それが、練習しないと、コースでは、こういうときはどうすればいいかなぁ~。新しい攻め方はないかなぁ。あえて、挑戦の機会を増やすためにも、失敗の多い選択肢をとってみようかなぁ~。などなど。考えめぐらすことがあまりにたくさんで、たのしいので、失敗の不安を感じてる暇がない....。これを、人生にもあてはめてみたら、どうなるのでしょうか。

すみません。しょせんはおんなこともの気楽なたわごとです。いざというときなど、ほとんど訪れず、試合といえど、コンペといえど、別に(少なくともスコアで)かつ必要のないおんなの、気儘なたわごとです。でも。そうやって、ゴルフすると、ほんとにほんとに愉しいのですねぇ。コースでいろんなことが試せるから、いろんなうち方がひとりでに学べるし...。難しいライにあるほうが、わくわくしてしまうのですねぇ。だから条件の悪さをぐちるひとをみてると、だったら、はじめからコースにでなければ?と、こころのなかでおもってしまうのですねぇ。もちろん、そんなことは、ここだけの話であるのですけれど...^^;。(なあんて、ちょっぴりスパイスが多すぎたですか?)
ときどき降りだすととまらなくなってこまることがあると、いつかも書きましたが... いえ、ことばがです。むろん、そのときは書き出しても書き出しても、あとからあとからわいてくるので...しかもしんしゅつきぼつ、じゃんるはとわず、どうじたはつで、あれもこれも....といっても、じつにくだらぬことからささいなことまで...なのだけど。ともあれ、予報などあるはずもなく、ましてや降水確率などまったくわからぬのだから、わくわくしてたのしいといえばたのしいですが、あまりに続くと、18ホールの最終組?を延々まわっているかのような(そりゃいいすぎかな)、たいへん、ひろうがやってくる。だから、いちにちの半分を寝て、のこりで、また書き続ける...なんてことになってしまうnodesu。

いえいえ心配後無用。これでもじぶんのとりあつかいには、かなりな時間を費やしましたゆえ、かなりなれてはいるつもり...。こういうときは、ひたすら降ってくるまま素直に書き出す、はたまた、こりゃほっとけばいいか、さっさとねるべし(寝る?練る?)とかね。いずれにしても、自然の流れは、気象レーダーだけですべてがわかるわけでないのは、だれもがごぞんじの通りでして。でたとこしょうぶにならざるを得ない場合も多々あるわけでして。決断の妙、判断のセンスを問われるのは、ゴルフをみるまでもなく、日常のせつなせつなに訪れるのでありまして...。

ちょっぴりシビアに表現してみますと...。あるとき、ふとおもいました。目に入るものをすべてほしいとなるひとと、とにかく節約倹約と値段だけみて買う買わない(おもに買わない!)を優先してしまうひとと....。実のところ、どちらも同じ!なのでは?と。つまり、どちらも、その時々の状況に応じての判断から逃げている、あるいは自分できちんと選び取る!ことを避けている(あるいはやめている)と、いえるのではありますまいか。と。いささか、シビアな言い方ですが、これは思いついたとき、かなり合点がいきました。かっこよさとまさに直結するのでは?と、おもったからです。幾つもの判断、決断、そして後悔、反省、換気、安堵、納得...そのたいろいろを繰り返して、ひとは、いくらでもかっこよく(はたまた避けてはそれから程遠く?)なっていくのでありますまいか、と。

いまごろ、なにを。当たり前のことをと。おもわれたむきには、ごめんなさい。おんなという生き物はときに、(直感的に)別にどっちでもいいとおもっているものを、半ばかくしんてきに、あ~でもない、こ~でもないと、はたからみると、全くむだとしかおもえないおしゃべりにこうじている場合も確かにありますが、あれは得てしてちかくにいるどうせいをかんさつ、あるいはていさつするための時間をとっているだけかもしれませんねぇ。と、勝手にいまおもいつくまま、いつものように書いていますがときどき、自分でもあとから、なるほど~と、おもえることもあったりするので、ちょっとびっくりしてしまいます。ともあれ。育てるというのは、見守りゆるし、ひたすら受け入れるということなのですかねl。ひたすらせんたくを回避するのでは、やはりいささか、せっかくの才能が、そのまま~になってしまうのでは?と、ひとり勝手におもうのでした。

うう。これ以上書くと、ひなんひはんになってもいけませぬゆえ。ともかく。時間をどうとらえるかで、まったく違うときの流れ方があるやもしれないとは、おもいます。もっとも、かぎりなく、じかんからかいほうされてる、のんきもののわたしがいっても、氷河の一割もの説得力はないですけれども。素晴らしい時間、かんどうできる時間は、ほんに、ひとに目に見えないえいようと、そして時間を経てはじめて気付けるなにかを、あたえ、そして教えてくれるのかもしれませんねぇ。なにかを伝えられるメッセージのあること、素晴らしい時間のすばらしさをわかることができることに、感謝です。おやすみなさい。(ひとりごと:しんぐるはしばふのうえだけにしたいものです^^;)
おんなというものは、こうやって....ことばをかさね連ねることで、そのなんというか、こころを鎮めたり、はたまたアルコールのかわりにストレスをことばといっしょに、はきだしたり...できるので。半分、いっぱい書いてごめんなさい。というおもいと、そして、もし、根気はいりますけれども、そのことばのなかに、わずかでも、そやそや~と、こころのもやもやをわずかでも、やわらげることは、できますれば....というおもいでいるのはたしかです。もっとも、書いてる本人は、おおかたは、自分自身のこころを鎮めたいと...かってなところが少なくないかも...と、甘えているのは確かです。あい。

これは、ほんとに口には出来ないですけれど。そしてさらには、おそらくたぶんきっと。わたしだけがかびんにかんじているだけのことかもしれぬのですけれど。う~ん。そして、わたしは、かずすくないどうせいのともだちではあるのですけれど。それでも、たしかにめぐまれているとおもいます。ことごとくが、先輩がたばかりですけれど。どうも、親の世代がおなじかたがたとなると、すくなくともわん世代ちがうものですからねぇ。このまえ、87歳のいとこがね~と、きりだしたらば、冒頭のフレーズから、とてもうけてしまったのでした。ともあれ。そんないみで、わたしは、よく見かけるようなグループでの行動(行楽?)というのがまずむずかしい(というより、おんなだけのしゅうだんに、おそれおののきできたら少しのキョリをください!と懇願してしまうものですから...^^;)セブンではないですが、まぁ、しっとえんびぃがなくなれば、この世からせんそうがなくなるともいえるのだとしたら、それは仕方のないことというのはわかりますけれども。

そして、みんなが、相手のいせいのともだちにもほんとにたいらかなこころで、ひろくこころを開くことができたら、どんなに、清張のチャンスがおとずれるかもしれないのに...とおもうのですけれども....むずかしいのですかねぇ。もっとも。ものごころついたときから、ほとんど時間を男の子と遊んでいたわたしは、やっぱり少しおかしいのですかねぇ。無論、いじわるや、こまったこうどうをしてしまうひとは、せいべつに関わらずいるとはおもいますけれども。それでも。やっぱり、男の人のほうが、あっとうてきにやさしいのです。あたりまえですが。そして、先のエンビイのひばくかのうせいがかなり低くなるので、話題のチョイスに慎重になりすぎないでも済むのです。おまけに、発想がひろいというか、視野や観点がやはりおんなとは、違うのでちょっとした会話のはしはしでも、とても勉強になるのです。刺激にも。

ということをいくら、理路整然と述べましても、おおくのおんなのひとのこころをほどけさせるのは難しいのでしょうか。すぐに「あんたはいいよ~」と、おきまりのことばが聴こえそうな気がして、口がそれ以上開かなくなってしまいます。もちろん、この前も書いたとおり、ターシャおばあさんになれそうなかたは、たくさんいます。ただ。みつけるのが困難なだけで....^^;。白洲さんや塩野さんの文章をよんでいると、ときおり、スカッとする場面にでくわすのは、そんな当たり前だけど、なかなかいえるひとのいないことを、ズバッと代わりに言ってくれているところがありがたいのかもしれません。ほんに、塩野さんの言っているとおり、しあわせなおんなは100メートル向こうを歩いていてもわかる!と。ほんに、名言だとおもいました。もっている空気だけは、どんな特効薬でもかえることはできないですからねぇ。(ひょっとして、ははおやがターシャさんみたいなひとだったら、わたしはこんなに多くのことを学ぶのにむしろもっと苦労してしまったのでしょうかねぇ。それともその逆ですかねぇ~)。これまたなにごとも、しれんかもしれん!のですかねぇ。
あれはいつだったでしょう。いつもほんとに切れ味のよいヒントをつぎつぎとくりだす、おとこのこちーむのリーダーのそのかたが、これはみんぽうのCMで、そうお茶目に口にすると、手にするパターでこつんと弾き出されたその球は、なんとも見事としかいいようのない、軌道と経路をめぐりめぐって、そして、あろうことか、ほんとうに、最初にめざしたその穴にコロン!その数十秒の流れが、いまおもいかえしても見事としかいいようがなく....。ちなみにその方の漫画もきっと切れ味のいいソースの効いたものだったのだろうなぁ。

と、書きながら、優に30年は超えたむかしのそのひとつのCMをおぼえてる、わたしすごいなぁ~と、ないしんじぶんをほめて、うれしそうにしているのは、もちろん、だれにも言えないが...。それにしても!。たぶん、ふつうは(もっともふつうの定義は実のところよくわからないとしかいいようのないわたしなのでしょうけれど。だれしも自分はいたってふつう!とおもっているものでして、ともあれ)、それを目指して一大さみっと、いや一大目標になるのですかね.....。いやぁ、まいりました。これは、間違いなくキョリハンデがついたわけでして。仮にわたしがもし、なにがなんでも、平等をなんて、無粋極まりないことを申し上げたりしますれば、おそらく、ひとまずいまのそれはさらに片手ほどの数が増えるはずなのであります

という、言い訳を書きつつも。ほんとにほんとに複雑な気分がわずかに。といっても、たしかにうれしくないことなど少しもないのが本音なのかもしれませんが。いえ、正直にはくじょうすると、いちどでもぷろなるものを目指した身ゆえ、試合などというものにでるのは、なんというか、りょういきしんぱんというか、あくまで、趣味程度にとどめるべきが芯のとおったやりかたではないかと...。無論だれに相談したわけではありません。あくまで自分のこころがそうおもうのです、ということです。ただ、しかし。たしかに、かっこつけてる!というのも確かにあります。

こうかふこうか、いちどもさいしょのかんもんさえとっぱしたことさえなく、目指したといってもやまのふもとでかえっていったのとおなじようなものであったのはたしかです。でも、それを言い訳にするのは違うでしょう。アマとして試合にでるというのは、やはり、それなりの筋の通し方をせねばならぬと、わたしはわたしのなかで、わたしなりにおもって思案を重ねています。無論、試合に出るのは、勝つためではなく、いつかも書いたように、もしかしたら...の、邂逅をねがってのことです。邂逅などというとごかいがあるやもしれませんが、おんなとて、ひとりぐらい、ほんとにほんとに自分と限りなくおなじようなひとが、もしもどこかにいるのなら、いつかめぐり合って、話のひとつもしてみたいとおもうのです。

ふだんは、かっこいいひとといちにちを過ごすためのものに決まってるではないですかと。実際、ほんとうのそのとおりのものなので。スコアではなく、いかにかっこよくあれるかということを、おしえてくれるものだとおもうから...。ここでは少ししかふれませんが、実際、そんな試合試合とはりきってくるおんなたちといったいなにをあらそうの?と、(ごめんなさい)正直、意気込みのかけらももてずにいたのでした。恥ずかしながら....。まぁ、いまも少なくともスコアで勝つことには、正直あまりがむしゃらにはなれそうもないのですが。ともあれ。スタイルを磨く場。かっこいいわるいをみる場。ひとのふりみて~、いかに自分を保てるか、あるいは素直に見習えるか。そんなことなのだとおもうのですが。はて、そんな話の通じるおんなのひとはいったいどのくらいいるのでしょう。いえ。いるのはわかっているのです。ただ、哀しいかな。そんなじょせいは、おそらく、そんな試合の場にはしゃしゃりでてこない?のでは....などと、なんでも、経験から結論付けるばかりでもだめですよね。

う~。それにしても、ほんに、かっこよくあろうとするのは、じつになんと厳しく多難な道のりであることでしょう。なんとまぁ、これほど、たいへんなのかしらん、と。だから、無理しちゃだめですよ、と。つい、つい。いってしまいます。かっこよくないひとが、無理してないのははじめから、わかりきったことなので、(おっと、失礼)。ともあれ。だから。かっこいいひとには、いつもそういいたくなるのです。がんばりとゆるみのばらんすですよと。いやしとしかんの時間があるから、はりきれる時間がいきるのですよと。う~ん。しゃかせっぽうですね。ごめんなさい。ともあれ。あ、この曲聴いて!あ、これも~。というのはいくつもあります。さいおう我うまに愛をこめて....。(あれ、ゴルフの話は、どこいったでしたっけ?^^;つぎにまた書きますm--m)
ひとのちょいすは、そのつどそのときどきで、それぞれが、無意識意識の別をとわず、ともかく、よしとすること、もっともたいせつとおもうこと...なのであろうから、無論(とりわけせきにんのない)ひとほど、安易に、あれがよかったこれがよかったと、ありがたくも、とかくいろいろいわれるものであるけれども、ひとは、そういう(とてもありがたい)意見を満たすために生きているのではないのではなかろうか?などと、ときおり、ひにくなおもいに包まれること(多々?)あるけれども。ともあれ。そうではない、真摯(紳士?)に、誠実に、文字通り、ほんとうの有難いものも、ちゃんとあります。だから、直接のことばには、なかなかできないですけれども、折に触れて、感謝をおもわずにいられない...のです。

ともあれ。些細な(例外的な)反応にナーバスになりすぎても、これまでの、たいせつなかたがたへの、メッセージがなにもかけなくなってしまうのも、かなしいので。

ともあれ。それにしても、ほんとうのことをことばにしようとすれば、とたんに、なにかが行間からこぼれおちていくような、もどかしさかなしさに包まれるのです。つまりは、うそのつきようのない想いがあったとしても、それをどう伝えたものかと、ためらいがよぎるときがあるとして、つまりそれは、そのまま伝えたのでは、きっといい響きにならないだろうという憂いがあるからで、いい響きというのは、伝えたい相手にとって手放しで喜ばしいものではないのだろうという、自分なりの想像であったり、そのほかであったり...。つまり、それらを総じて、いまはきっと、それを伝えるべきときではないのだろうと。つまりは、先送り。何事にもタイミングというものがあるというのは確かなようで、そして、必ずしも期待どおりになるとは限らず、なにかを願うということは、同時に、それとは正反対のことが訪れる覚悟も必要となるのであり、ことによっては、ひたすらそのままであることのほうが、実はとてもよいことである...というのは、たいてい、ある程度の時が流れたあとになって、ひとはそれに気が付くので、ときに戸惑い、愕然とし、あるいは、ことばをうしなったりもするのかもしれません。

(ここだけの話ですが)件の個別的反応を丁寧に断るためにも、敢えて、なにのことを書いているのか、自分でもわからないまま書いています^^;。

さて。それでも。どんなことでもそのままとまるということは、とにもかくにもないのであり。いいこともそうでないことも、普遍不変というのはないのであり。だからつい、そのうち、もしかしたら、ねがってもないほどのいいことが起こらないかしらと、なかば人事のように望んでみたくもなり、なにがしかの気配の訪れに、きっと吉兆のサインだとおもいたくなってみたり、しかし、同時に、おいおい、期待がすぎるともしそうならなかったときにひどくつらいのだから、つねによくないことは、しかと覚悟しておかねばいけないのだぞと、己に強く言い聞かせ、それでも、それでも、なんとかならないものかと、あれこれおもいをめぐらせてしまう、自分のおもいのどうしようもなさに、自分でやれやれとおもうのであり...。つまり、これは、自分で自分のこころを余分に固まらないように、適度に揺らしているだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもないので、個別の反応だけはどうかどうかご容赦ください。ということにして。


たぶん、そういう、気の遠くなるような、(こころの)やりくりに、どうしても耐えられなくなったとき、ひとの脳細胞は活動をやめてしまうのかもしれませんね。簡単にいってはいけないでしょうが、つねに楽しみや情熱や、意気込みの幾らかに触れていられたら、ちほうは訪れないのではないかとおもいます。無論。もってうまれた(生きる)ちからもあるかもしれないですが。かくいう、わたし個人の場合に例をとってみると、母そのひとが言葉をうしなってはじめて、ほんとうの、(本音の)会話ができた気がしています。どうしようもなくざんこくでひにくがげんじつですが。だからといって、わたしがおんなのひとにこころからこころをひらくことは、いきをとめるよりも難しいきもして。とはいえ、なにごとも主観の比較でしかありませんから、もとより、ずっと開いているとおもっているひとよりも、はるかに開いて(はその都度)傷ついているのかもしれませんし。こればかりは、だれにも判定不能です。

もっともひとは、どんな立場にあっても、結局しぬまで待っているのには変わりないというのは、名著にもあるとおりですが。それでも、これを書いてからでもすでに8年。己が、「待っている」と意識してただひたすらそれに専念しているひとのよさに、われながらあきれてもおり、たぶん、わたしの人生はこのままこんなもののまま、だれにもわからずとも、それなりにまんざらわるいことばかりでもなかったわと、おもっていられたら、これでいいのだとおもってないでもなく。だから、いつまでも前にすすめないのだろうかと自省したそばから、どうしようもないものはどうしようもない、との、こころの声でして。深く考えたら、何もできないとわかっているのに、深く考えずにいても何もできない(なんだそりゃ)。ひたすら、ひにくとわらい(嗤い)のなかでいるのもわるくないか。お金でかえるものは、それ以上でもそれ以下でもなく、そうでないところに、きっとなにかが...。嗚呼、でも、にたもの同士すぎても、進歩はないということですかねぇ。

もし、かみさまと話ができたら、なにをはなすだろうか。ひたすらなやみつづけているから、きっとこうしているのでしょうかねぇ。う~ん。それにしても、こんなふうに、結論がありそでないうだうだ話、できそでできるひとは、なかなかいないものですねぇ。哲学もするとかいう、フィギュアの若き選手が言っていました。自分の道は自分で切り拓かねばならぬものなのだそうです。なんとも、説得力のある言葉ではありますが。それらをすべてわかって、敢えてなにもしない...そのことの意味について、ひたすら考え続けている...そんなひともあるのですけどねぇ
なにをするのも、(あえて)しないのも、それぞれのけっしのかくごであるやもしれない、というのだけは、わかりますねぇ。だから、ひとに安易に、なにかをいえることはなにもないのだと...。それでもあいたい、あって話を聴きたいとおもうひとのあることは...。

のこりの人生は、すべて奉仕につかいたい...そうおもえるほどの、なにかにあってみたいものですねぇ...(笑)
いつもとはちがうひとが書いたので、こんなに長くなってしまいましたm--m。
ひじょ~に、こんわくする、というのはこういうのをいうのでしょうか。書こうかどうしようか、ほんとにとっても悩みましたが。文字に助けをもとめることにしました。もっとも、いつもいってるとおり、これはすべてフィクションなのはそのとおりなのですけれど。ともあれ。ほんとにこまったという感じであります。心配というのも、度をこしてしまうと、あいてにとてつもない困惑をあたえてしまうものなのかもしれません。こうなると、もう、ひたすら沈黙を守るしかない~、となってしまうのだろうなぁ~と、おもいます。まいりました。

いえ。べつにどうということはないのですが。こどものころのおんしのせんせいです。ふと、なつかしくて訪ねたに過ぎないのですが。。。まわりに親戚はいないのではないか、頼るものがないのではないか。ひとりでいるのは、かぞくにしばられているのではないか。心配はたしかにいたいほど、ありがたいのですが。個人的なことを、それいじょう、深く尋ねられるのは、ほんとにほんとに、困るとしかいいようがなく。。。せっかくの厚意だということが、いたいほどわかるだけに、どうやって、理解をもらえたらいいのかと、ほんとに途方にくれてしまいます。

本来なら、年来の尊敬する大先輩の方から、感激の音信があったことを、書こうとおもってたところだったのですが。そのことは、こんど、ゆっくり書きます。ともあれ。こういうとき、どうしたらいいのでしょうかねぇ?とてつもなく目上の方に、これ以上個人的なことはできるだけ、そっとしておいてください。もし、なにかご報告できることがあれば、いちばんに話しますから。。。と。そういいたいけれど、どうしても、結果ありきで、なにを話しても納得してもらえないとき、いったいどうしたらいいのでしょうかねぇ。

どうせなら、どうせいどうめいのそのひとの偶然の事態を、そのまま信じて、ともあれとにかく、そっとしておいてほしいのですが~。といいたいとき。ひとは、どうすればいいのですかねぇ。ゆうめいじんでもないのに、どうして、こんなに頭を悩ましているのでしょうねぇ。だれしも、真剣に悩んだり、どうにもならない現実とこころで格闘したり、いろいろしたりして、生きていて、だれしも、これで完璧!などとおもえることなどほとんどなく、それでも、出来る範囲で、精一杯生きているのは、同じだとおもうのですけれど。ふ~。困り果てております。恐らくきっと、これを読んでくださってはいると、おもうので、どうか、そっとしておいてください。

こんなにまじめに書いたのは、ひさびさですねぇ。いつもは、もっとユーモア交えて、ふにゃふにゃと、薄めたり茶化したりしながら、書けるのにですねぇ。それでも、はたからみえるそれと、そのひとそのひとの人生とは、いつもとてつもないへだたりがあるというのは、だれしも、実感をもっておもうことだとおもうのですけれど。ひとになにかをはっぴょうするために生きてるのではなく、それぞれがいろんないたみを抱えながら、それでも~と、おもえるおもいをあたためたり、かかえたりしながら、それでも生きてる限り生きているんです。ですから、それ以上のディティルについては、それぞれのご想像におまかせします...。そういって、みんなにわかってもらえたら、うれしいですねぇ。どんなことでも、もし、だれかになにかを話せるとしたら、それは、ずっとずっと、気の遠くなるくらい時間がすぎてからですよねぇ。

ひじょうに、ずるいのかもしれませんが、公然とおおくのひとにこうして悩みを打ち明けることで、わかってもらえることを、こころから祈りつつ....。
ゴルフの醍醐味は、二度とは元にもどせない瞬間に身を置けること...。なあんて、そんなことは、いまこのときだって、いつだって、いっこうに、かわりないのに。どんな瞬間だって、時間は二度ともとには戻らないのに...。ゴルフの一打に向かうとき、そのことを、より切実に実感できる。ボールのところに立つ、動き始める、打つ、飛んでいく(あるいは転がっていく)ボールを見送る。ただそれだけ...。だが、そのなかに、あらゆることが集約されていて、そこには、いくつもの、機微や、こころによぎる想いや、音のない時間や、クラブを風を切る音や、飛んでいくボールの音や、見えているボールの軌跡や....。ともあれ、打ったらもう、二度とはやり直せない。すべてが、一打完結。そのなかに、ドラマがあって、どうしようもない、せつなさや、あっぱれや、しかたなさや、あるいは、たっせいかんや、そんなこんなの、集約の繰り返し...。その、静と動の切り替えの面白さや、みずからが動き出さぬことには、なにも始まらない宿命感やこわさや、そんなこんな...。

もっとも。これらは、たとえば別のスポーツ、相撲の蹲踞にだって、あるいは、ラグビーやサッカーのプレイスキックにだって、あるいは、野球の投手の動き始めの瞬間にだって、あるいは、ネットスポーツのサーブや、コートスポーツのフリースローにも、おなじことがいえるとおもうのです。ところが、やっぱり、ゴルフには、それらとは、すべてが同一ではない、さらにもっと、なにかがあるような気がするから、奥が深い感じがするのでしょうか。すべては、個人の責任、個人の行動...であり、そんな動きをひたすら続けるだけ...というところに、他の球技や、あるいは、格闘技とは、少し違うなにか...が、ありそな気がするのでしょうか。たとえば、能や歌舞伎のなかの、あるいはたとえば、書道の筆の動きの中にあるような、なにか...(と、おなじようなもの)。そういう、常にとりかえしのつかない瞬間に、自ら身を置きに行くような、自虐的な、あるいは、刹那的な、あるいは、切迫していまにも息が詰まりそうな...そんな瞬間にふとよぎる、静謐感や、緊張感や、無常感(無情??)や....。

だからどうした、といわれたら、たしかにそれまでなのだが。ただの、遊びにすぎないのです...としか、答えようがないのだが....。でも、ことばでは、表しきれない、いろんな時間の流れがあって...こころの機微があって...。まるで、自分というものを写す鏡の用でもあり、まるで、そのひとの人生そのものの、ポートレートの連続のようでもあり。なにも、いいことばかりではないところに、出会わされるだけのところに、わざわざのこのこ出かけていくなんて...そんな、意地悪な声が聞こえないでもなく....いやいや、それだけでは、決してない、なにか、新しい発見や、まだまだ進化できるきっかけのようなものや、まだまだすてたものでないと思わせるラッキーもちゃんと用意されていたりもするのだから....。とも、おもえなくもなく...。そうなのだ。つまりは、行くたびに、まだなにかある、(気付いてない)なにかがきっとある!、そうおもえる場所だからだろうか。ひとをして、ふと、でかけてみようかとおもわせてくれる、その魅力とは....。いえ、これは、旅そのものの話をしていたのでしたっけ?人生の...^^;。
あれは、いつだったでしょうか?ラウンド招待をもらったあとの、ひとあし寄り道で立ち寄った!?宿だったとおもいます。偶然のミスが生んだ、立派な部屋で、くつろいでいたときだったと...。何気なくつけた、BS放送が、数学者についてのドキュメントをしていました。その番組の、ナレーターを務めるひとのやさしい声音も、なおさら、わたしをその番組にひきこんだのかもしれません。ともあれ、深遠より深い数学上のテーマ、理論のお話でした。若くして、いきづまってしまった天才のひとのことや...。ともかく、その番組が伝える、数学の世界の深遠なテーマ、というか、そんな神秘な世界の存在そのものに、とても惹かれるおもいでみていました。

そして、数週間が流れた別の日でした。体調を崩し、予定を変えて、宿をとって休んでいたときでした。再び、何気なく点けたテレビが、あろうことか、さきの番組の続きをやっていたのです。いえ、ひょっとしたら、同じシリーズの多少離れた回だったかもしれません。ともかく。同じ声、同じ流れの番組でした。いつか、また観たいなぁ~。そうひそかに願っていたことが、こんなにも偶然がやってくるものだろうか~。われながら、感心しました。そして文字通り歓心をもって観たわけです。ときどき、母国語以外で声を出すと、ほっとこころがくつろぐ感じがするのと少し似ているのでしょうか。ふだん、立ち入ることない世界の話をきくと、それもまたいわゆる、旅先の解放のような、不思議な異次元(非日常)を味わえた感じがして、つかの間こころが癒えるのかもしれないとおもいました。

ともあれ。その奇跡の再会のあったたびは、同時に、実際の世界では、おそらくドーハに負けない悲劇があったわけですが...。ともあれ、過ぎてみれば、それまたむしろ、だからこそ...、さらに、強い感謝をおもえる節目になったには違いなく...。ともあれ。旅は、いつも、なんらかの奇跡をもたらしてくれます。そういえば、同じたびの中で、たまたまつけたテレビが、言っていました。おんなの大工さんの奇跡的な再会のストーリーを。その中でも、たまたまつけたラジオがずっと気にしてたその弟子の声が喉自慢の番組の中から流れてきた~って。まるで、奇跡は、いつでも、そこにあるかのようで...。縁というのは、きっと、たしかにそんな風に、自然に訪れるのかもしれませんねぇ。流れというか...。

それにしても、からだがよわっているほうが、こころが元気という...不思議な逆説を感じる機会がありました。もとより、ちょっとだけよわるというのが、おそらく味噌で、ほんとによわってしまっては、こころの元気もだしようがないでしょうから、ちょっとだけの、空腹どうよう、ちょっとだけの不足感に、感謝です。ほんに、こころが澄むというか、いろんなアイデアがさえるというか...。からだが元気で、こころがブルーというのは、かなりこたえるので、むしろ、こんな具合なら、ちょっとからだ不調のほうがいいのかも...と、なんとも、罰当たりなことをおもったり。もっとも。92歳のスーパーおじいちゃんが出ていましたが、世界大会に出られる体力をもてる幸せをしみじみおもいます。長く生きられるってほんとに素晴らしいんだなって、こころからおもいました。つまり、誰かのガンバリが、だれかのかけがえのない支えにもなるんだって、やっぱり奇跡以上の凄いことですねぇ。
考えたことがあります。もし反対の立場だったら...と。かつての、あるとき、おもったのは、次の通りです。相手のことをほんとうに、心底すきでいる場合と、もう、どうでもいいとおもっている場合、恐らく、どちらも全体の1割ぐらいと仮定して...つまりは、全体の8割はそのどちらもでもない...わけで。つまりは、せけんていやらよくやら、いえ、大半は名誉だろうなぁとおもいます。そりゃめんぼくかかなり減るわけですから...いえ、一時的にとはいえ。それがわかってて決断できる人は少ないでしょう。もとより、そんな英断ができるくらいなら、恐らく、先のさいしょのほうの1割に入っているわけで...。つまり、そういうことに、きれいな納得というのは恐らくないでしょう。ただ、時間をかけてのこころの融解いがいは...それでも、伝わるものはいつか伝わる...。

わたしは、そうおもっていますが、それでも、なにかがおもいどおりにいってしまうことへの、おそれは確かにあります。ひょっとしたら、ちょっとぐらいうまくいかない部分を残しておくほうが、幸運が、あるいは残された救いが増えるのではないか...という憂慮です。どうしようもなく、願いをせつぼうしてしまう素直な想いと、つまりは、そんなちょっと足りないを求めてしまう、つまり言い換えると(目論見や計算といったものと結局はおなじなのかもしれないとおもいますが)、ほどほどにおさえるのがきっといいと、いうそんな願いとが、いつも、葛藤しています。小さなことが、うまくいったり、いかなかったりするたびに、あっちにいったりこっちにいったりしながら、自分のこころを宥めるのも、そんななかのひとつのしゅうかんかもしれません。

それにしても、六条のみやすんどころさんをもちだすまでもなく、太古の昔から、文字通り醍醐桜がはじめて土に根をおろしたそのころから、おなじことはくりかえされてきたことなのだろうとおもいます。だれもが、若紫にあるいは藤壺にとねがうでせう。いえ、なかには、ほんとうのしあわせを、もっとひろいめでとらえられるひともいるかもしれません。Dr.リチャードのように、あいするものをなくしても、それでもなお、スタイルを貫き信念をまもりぬけたらと、だれもがおもうかもしれません。歴史の中ではて、それができたひとはどれだけいるだろうと、おもうと確かにむねがつぶれる気がします。父がおんきゅうをことわったように、もしかしたら、戦地で銃弾に倒れていたのがそのひとではなく、父であったなら、いまごろわたしはいないわけですし...だれもが、そんな奇跡をくぐりぬけての生だとおもうと、簡単にしんでいいひとなどいないと心底おもえます。

とはいえ、闘いは闘いなのですねぇ。だれもが、どんな理屈やいいわけを述べても述べなくても、闘わねばならいときというのは、あるのかもしれません。無論、ここでいっているのは、現実に巌流島へ出かけていく!といっているのではありませんよ。念のため。つまり、持久戦も含めて、どんな形でも、相手に、「仕方ない」とおもってもらうのも、これも、恐らくひとつの闘いなのだろうなぁ~と、おもって、しんみり、あるいはときには、愕然とも、するものです。こういうときに、闘いなのだがら、仕方ないでしょ!と、バッサリと勝ち負け(あって)当然!と葛藤なく思えるこころの持ち主なら、いっそ天晴れだなぁ~とおもいますが。もし、かつことになって余分な悪意にさらされたくない、というのも、むしろひとつの自己防衛、自己憐憫にすぎぬとおもいながらも、おもうものは、おもうのだから仕方ありません。なんとか、融けない氷はなるたけ少なくしたい...そうおもってしまいます。(もっとも、これでは、人気の出るげんじものがたりは描けそうにありませんねぇ~)
優勝決定戦ではいちども負けたことのないひとがいました。たまたま、スポーツをある程度ちゃんとみることのできる年齢にさしかかっていたころと、そのひとが、ちょうどそれまでのトップだったひとを決定戦の末に破って、さらに上にのぼっていくときが、かさなったせいもあったのでしょうか。ともかく、ふぁんでした。かつて卵焼きとかけた3拍子がありましたが、わたしのそれは、文字通りのそのチームと、あとは、四国の山間部にあるその学校と、そしてそのひとが大好きの3拍子でした。なんともいえない勝負勘と...やはり、圧巻ともいえるのが、ここぞというときのそのスタイルだったでしょうか。もちろん、子どもですから、いまでこそ、そうやって言葉で理由を並べることができますが、子どもが好き!と感じるのは、そういうあらゆる理由を超越したなにか...(そうあってほしいという願いも含めて)だと、おもっています。

たとえば。ゴルフのスタイルというのは、どんなに飾ろうとおもっても、それが18ホール通してできるものではありませんし、お行儀がいいというのも、とってつけたものではそれはゴルフそのもののスタイルと直結しませんし、つまりは、ありのままが自然と現れるものです。だから、いいな、とおもうものは、そのとおり感じがいいと映るのだとおもいます。わたしについていうと、自分でも、あれあれと、正直おもってはいるのですが、どうにも直せそうにありません。つまり、試合と、それ以外のときと。もちろん、いいプレイをしたい、いいボールを打ちたいというのは無論です。が、ここからがいささか問題なのですが。試合でないときは、とにかく、いろんなライから挑戦したい。なかには、むしろ失敗覚悟でいろんな打ち方、球筋を狙ってみたい。それがとにかく愉しくてしかたないのです。ですから、スコアだけがすべてという方がもしあった場合、わたしのスタイルは、なかなかに奇異に映ってしまうかもしれない、とはおもうのです。

なにしろ、何度トライしても、いのちがなくなるわけでないのですから。もっとも、山岳コースで思い切った攻め方にトライした場合、ボールの2、3個は覚悟せねばなりませんが...ともあれ、いつしか、定着してしまったわたしのスタイルなのです。無論、それは、女の子ゆえの特権といえなくもないのかもしれません。決して遠慮などしていませんが、自由にのびのびと、スコアのよしあしを超越して内容に集中できる。ときに、集中しすぎて、いまの自分のスコアを思い出すのに苦労してしまう場面も、よくある始末なのですが...。いつだったかは、3打地点にクリークのあるロングで、セカンドの直ドラに失敗しました。そこでふと思いついたのです。いつもなら、後続に迷惑をかけては...とすぐに別のクラブに替えるところですが。敢えて、当たるまで打とう!とおもいました。計3回打ちました。武さんが1オン(?)に成功するまでドラーバーを5回振ったという場面を思い出していました。とてもすがすがしい気分でした。

一事が万事その調子ですから、その都度流れに身を任せつつ、ワンラウンドのなかに、なにがしかの新しい発見があります。パターもおへそでうてるようになってから、とても愉しくわくわくする感じのなかにいられるのが、とてもうれしく...。つい、OKの距離に寄ってしまうより、1メートル以上残したほうが、より愉しい時間を増やせる!とおもってしまいます。もちろん、いつも思い通りの球が打てるわけではありませんから、成功もあれば失敗もあります。ただ、その都度、転がりをイメージしながら打つのは、とても愉しいです。無論、これが、試合なら、しびれる瞬間!というのになるのですが、それはそれで、また愉しいのです。あの緊張感が...。バンカーもそうです。思い通りにより近い形で砂をサクッと切れたときのあの感覚は...、恐らく、料理をするときにあらわれるいくつかの瞬間にも似ているのは?と、おもいます。決してわざと入れたりはしませんが、しかし、なんとか入ってくれないかなぁ~と、内心おもっているときは、確かにありますねぇ。ところが、そんなときに限って、綺麗な花道にいったり、あるいは、あろうことか、ビタァア~と、爽快なバーディショットになってしまったりするんですねぇ。なんとも、一事が万事とは、このこともさすのですかねぇ^^;

と、書いていたら、風邪のほうもようやく過ぎていってくれつつあります
こころが元気な冬眠は案外いいものですねぇ~、などとおもっているのうてんきおばさんがあるところにはいるとかいないとか...
ともあれ、きょうはこのへんで...m--m