やっとのことで、携帯用のキーボードを、けいたいにつなぎました まいどのことですが、ここまでに おそろしくたくさんの時間をつかってしまいます そして、こんどは、ごさどうやらうちまちがいのあらしでして もっとも そうまでしてかきたいとおもえるとき、そしてじっさいにかこうとできるときは、それだけにおもいがつまっているのかもしれないです


ただ、ここまでの労力でかきたいことの\つまったじょうたいは、なかばどこかに\ふうせんみたいにすこしふわふわとしてしまうことだけはたしかです。入院中にせめてひとつはちゃんとしたものを書きたかったのですが


助走までのタイミングが長すぎるといざというとき、踏み出せなくなってしまうのでしょうか いまかいまというときには、くるしくなるほどやってこないで、ひょっとして?というときには、こんどはもののけさん?いえ、たしかにあるひとのつらいおもいのかたまりがこちらにやってきたのでしょうと、おもえば、なにもいえず、ただうけとめられるだけ、だまってうけとめるよりほかはなく、しかし、肝心の、助走がまた スピードを落としてしまうと、足裏にあたる砂利のとげがよけいにいたいですねぇ


全速力で一気に駆け抜けたらもっと、いたくないかとおもうけれど、ただ、やみくもに\いそげがいいのでもないだろし、かといって、ぼーとしていては肝心のタイミングをさらに、難しくしてしまいやしないかと、これまた苦悩の嵐に巻き込まれ、ひたすらやきもきばかり、一気に前を向いて進めたらいいのに


と、いう矢先にこの不調の到来でしたね ああと少しだけ、慎重にまわりを整えてからすすめの\あいずかしらとおもったり いえ、ねぇ、こればっかりはせいかいはないのでしょうか、とうにんたちのいきをあわせるしかどうにもならぬものなのでしょうかねぇ これがヨットなら、\ああ、さっきの風に乗れていたらば..などど、ためいくよりも、次にくるのはもっといい風に違いないと、静かに呼吸を整えているのがたいせつなのですかねぇ


あたまではわかっても、こればかりはねぇ そんなに冷静にいられるくらいなら、だれもひとをこいこがれるほどおもったりできないではないですかと、だだの\ひとつもいってみたくなります みんなみえないところで、たくさんのかっとうを\かかえていますねぇ ただ おんなのほうがちょっとだけ、いさぎいいというか、ひくときもそのはんたいも、いざとなれば、に\とってもはらがあるというか、だから、よけいに日頃は根気よく待っていることが肝心?なのですか


それでも、\キーボードはおもいとおなじスピードでかけるから助かります
病室の窓から、ほどよいきょりに、流れる水面が見える、窓に近づいて海の方のそらをのぞけば夕焼けのそらがみえる あさと夕にはお寺の鐘の音が聞こえ、かつてまだ制服だったころに、それ2のって通った列車の川を渡る音が聞こえ...
なんと\すばらしいでしょう
びふぉああふたーは、劇的すぎてそのあと、自分で手を加えることが限りなく機会を少なくしてしまうことが心配な点です
はじめからきれいということは、もうこれ以上なにもしなくていいですよ、ということで、
さすれば、つまりそれは、きれいすぎると自分の居場所を狭くしてしまうのです


無論、だから、きたなくていいというのではないですよ なにか、うまく少しずつせんもんのひとのてや知恵を借りて、それでも自分達で少しずつ居心地のいい空間を作っていくのがすばらしいことではないかなぁと、
出来上がってしまったものには、近づくことを避けさせるちからというか、遠ざけてしまうなにかが、あるのでは、もっともこれは、かってな推測ですけれど...



なあんて、ともあれ。その\せっちゅうあんというか、少しでも、わくわくできて、それでていて、なんとかしたいと\おもえるほどには、きれいにある、ちょうどいいきれいさというのは、とっても難しいですねぇl もっとも、ちょとだけむずかしいというのが、ちょうどいいのですけどねぇ 楽すぎないで、ひどすぎない ちょうどよさ\ もっともそれが\ひとによってうんでいほどちがう?のですっっっっっか?\
だとしたら、そえも、少しは違うからおもしろのですよねぇ さいしょからそれが一緒ではこれまたすべて予定通りを待つだけの、たいくつきゅうくつ?になってしまうのですけれど\


たいていのことは、じっさいにむきあってしまえば、おもいのほかのいいことや、できてしまうこともあるのだろうと\おもうのですけれど
\これまた、目をつぶっても全力疾走できてしまうおんなのたわごとになってしまうでせうか


また、よけいなことを書きすぎてしまいましたl。いがいたみます


まだ、そうけいのようなきもしますが、それでも、なんとか、すこしだけかいふくしました。あ、おなかはあけてはいません。けんこうだいいちといわれるたびに、ゆうがたのサイレンを聴くときのような、とおくの地元ローカル線路を走る列車としゃだんきのおとを、ふとんのなかからきくときと、おなじような、どうしようもなくかなしくせつない感覚におおわれていました ただしいことをそのままに、いわれるとどうして、こうもかなしくなるのかと、ふしぎですけれど。つまりは、そうではなく、そこに、つまりいまのばあいは、けんこう~といわれると、元気でいればそれで満足しなさいね 長く生きられるほうが、願い事がかなってもみじかくなってしまうよりもずっといいのですよ むりはよしなさいね ねがいはほどほどにひくのがいいのですよと、そういわれている木がしたのですかねぇ

正直、まだまだ、なんともいえないながれに不調をかんじています。ほんのすこしまえまで、ほんとにまっことぜつふちょうです!と、いつもこころでさけんでいたのは、ややおとなしくなってきたので、少しはおちついたか、なんとかやりすごすことになれたか、はたまた、ひとまず感覚とそのわけがわかってひとまず、それいじょうの不安からはのがれられたというか...。これをなんとかうまくいえないものかとおもいますが、もし血管に感覚があったら、こういうのかなぁ~というような....酸素をうまく吸えてないのでしょうかと、おもわないでもないです くるしいとかめがまわるわけではないのでそれも違うかなぁ 首周り肩周りのながれがとてもわるくなるとこういうのですかねぇ とにかく上り坂にさしかかったとたんに、からだのなかで発する悲鳴のような感覚...いたみともちがう、でも、無音無味ではない違和感....きもちいいわるいというのは簡単ですが、その内容をより伝わることがいかに困難のきわみかと、せつじつにぶつかってがくぜんとするばかり...

ともあれ。どうせ2時間はたまたその二回を過ごすなら、少しでも多く、挑戦できるほうがわくわくできるとおもいませんか。わざと点数をかせいでいるのではないのです。旅行にいって、つかえる懐が多いほうがうれしくないですか。ひとつでもロスするたびにこころをしめつけていてもちっとも愉しくないのでは...。といいつつ、女の子はおとこのひとよりいいすうじはだしてはいけないのです そう、おもいこんでいるのではないのです いえ、おもっているのかもしれません 気兼ねのない時間をとにかくまもりたい。だれかの不快を、それもちっとものぞんでない不快を、目指すモチベーションがどこをどう探しても見つからない  理由をあげよとおもえばいくらでもいえるかもです なにをどういっても、つまりは、おもしろい内容がほしいから 少しでもたくさんを費やすというスタイルをあいしてしまっている 野かもしれません かつて、ひたすら数字にしばられ、気がつくとまったく、おもしろくもなんともない内容、そして飛んでいくそれの表情までぶっちょうずらにさえみえました だからその反動といえなくもないのかもしれません

かつことがしめいのときは、いたしかたなくしっぱいのゆるされない緊張感を保つようにつとめてはいます でもついついあそんでしまうのですねぇ なぜならせっかくのあそびだからと、おもってしまうのかもしれないです おなじにまわったひとにしかわからない内容、数字ではけっしてわからない内容がそこにあるというのが、とってもかっこいいことな気がして  われながら、なんとかかたないほうがいいとおもっていないといいきれないところに、自分自身でも、せつめいのつかないもどかしさじれんまは 感じています ただ、これが気がつくと少なくともこの最近のわたしに観に付いた習慣、すたいるのなってしまってはいるようです 数字でかってしまうことは、とても品のないことのような気がしてしまうのです。曲がるどころか、おへそはもうせなかあたりにまでいってしまっているのかもしれません いいとかわるいとか評価をもとめているのではないとおもいます すみませんこんなんなんです しなんといういみではないです
ということで、ここぞというときに、ひそかに真剣になったりはしていますが、もっぱら、なんとかおもしろい時間を~と、自分でもなにをめざしているのかさっぱりわからなくなっているのはたしかですねぇ  いきてるあいだだけのしんぼうなので、どうかおゆるしを~って
それで、なんでもおっけいなら、だれもくろうなんてしないですねぇ

ともあれ。やっとすこしだけこうしてことばをかきだすげんきがかいふくしたことをおつたえしますm--mいつか、いっしょにできるといいですね
とはいえ、これでもおとこのこのあそびばかりしてたわけではないのですけれど ともあれ。まぁ、のべにんずうにすれば、あっとうてきにおとこのこのほうがおおかったかもしれませんねぇ 新一年生のころだったか、なぜだかうちでいっしょにおひるごはんをたべていった子もいましたねぇ その子はぎゃくのいみでとってもお勉強のできる 通学路が確かにうちのすぐそばを通り...だからたぶん といれを借りにきたかなにかの土曜日、きっとそのまま一緒にたべることになったのでしょうねぇ その子は一年生の授業参観の日、元気よく手を挙げて、せんせいが「おや?」という顔でその子をしめいすると、勢いよく立ち上がってひとこと「わすれた!」といって、一気に教室の空気を替えたこともあったのを思い出しました。ほんとはとっても天性の勘に優れた子だったのだとおもいます そのあとにもさきにもうちに遊びに来ることはありませんでしたが... そんな感じですから 書き出すととまらなくなりそになるの ですねぇ^^;

そんなわけで ほしいものはなかなか言い出せずにいつも居るわたしですが それでも それだけは唯一言えたのが グローブでした。どんなふうにいったのかおぼえていないですが ある日、帰ってきたら 父の机の上に紙袋がありました 白地に二種類の青のラインが入っているのは当時も一緒だったのだとおもいます おどろきなのは それが当時はデパートで売られていたということ ともあれ。父は最寄駅まで歩き、街の駅からまた姉が嫁いだその家まで歩き、わたしがグローブをほしがっていること、どこにいけばいいのがあるかを訊き、姉の孫にあたる子がわたしの2歳上でしたから、いずれ一緒にキャッチボールをすることになろうこともおもってのことだったかもしれません。ともあれ、そうしてその紙袋に入った、右手にはめるちいさなでも、本格的なネットタイプの淡茶色のでした。もちろん、そのあと、その家の裏に当時はあった空き地が恰好のキャッチボール兼3人野球の、わたしにはとっておきの場所になってたことはいうまでもないのですけれど コースや球種のサインを決めて投げるののなんと愉しかったことか 地元には残念ながらそんな粋なことをできるひとがそばにはいなかったですからねぇ

いまも、そのグローブは大事に箱に入ってとってあります。思い出がグローブというのですから、やきゅうずきはいたしかたないのではないかと...^^;;。ともあれ。8つがそろったとき、あらまぁ、まるで、いえやすさんとひでよしさんと、そのまたゆかりの地とそしてふるいふるいみやこと、そのほこりをかけたたたかいをさいげんしてるみたいだなぁ~と、おもっていたらば、なぜだかそのとおりになってるようで まぁ、なにをどうみるかは、あとの時代のひとの回顧(感傷)にすぎぬのかもしれませんが ふしぎなのはかこちょうをながめると つかのまなぜかたまたまいくことになったスイカ畑の地にも、わがやにきたかたがいたこと ほかにもすこしえんのあった土地や 昔は庄屋さんどおしでひとの交流をもったようですから 特段おどろきでもないのでせうが 古くいたひとと同じ名前だったり きせきのような符合もそこかしこにあったりして ほんとに驚きです。もしかすると、かつて都まで歩いてそして僧侶になったそのひとがもし 都に行く前その山あいの村にも立ち寄っていたのではないかとおもうと なんとも不思議すぎる縁というのも 確かにあるのやもしれません ともあれ ふたたびさくらの季節ですねぇ
あれは、ちょうど25年前だったでしょうか。いえ、その春に初めてひとりの、列車旅をしたの確かですが、これから書くその記憶は、もしかすると、その2、3年あとだったのかもしれません。初めての翌年は、中学からの親友も一緒だったはずですから、やはり、そのあとの夏のときだったのでしょう。ともあれ。ささやかですが、それでもとても印象的な一件でした。場所は、みなみ といわれる町の近くのデパートでした。いまはそのチームはなくなりましたねぇ。そう、あの21球のドラマを作ったもうひとつのチームですねぇ。そういえば。ともあれ。ゴーフルを買ったのでした。いえ、買おうとしたのでした。これから訪ねるおばあさんにとおもって。そのおばあさんは、母の遠縁にあたるひとで、でも、母にもわたしにもほんとうの母、祖母のような存在のひとでした。数年前に百歳でなくなりました ひのえ~の生まれでしたから、もっと前かもしれません。

さらに、電車を乗り継いで、古くて大きなお墓のある街の、古くからの住宅街に家がありました。市住だったかもしれません。かつて、父と母がながく暮らした町でもありました。ともあれ。ひとになにかを贈りたいとおもうときは、やはり、自然と自分がとても好きなもの、思い出のあるものを、選んでしまうのかもしれません。なにがどうといわれても、特別のなにかはすぐに思い出せないのに、なぜかとても印象の深い、存在感のお菓子のひとつです。それでそれを買おうとしました。正確な値段は思い出せませんが、ショーケースの上の出された電卓(いえ、そのころはまだ、今では当たり前の電卓表示はなかったかもしれないです)には、細かな数字がついていました。5円足りませんでした。(切符は学割で買った周遊券でした。残る電車は、やや遠回りになってもその鉄道を使うつもりでしたし、その日はおばあさんの家に泊まれる予定でしたから、翌朝、近くの郵便局でお小遣いを下ろせばいいとおもっていました。習慣はどうやらなかなかかわらないみたいですね^^;)

けっきょく。デパートのおばさんに一瞬だけ、恩情の可否をうったえかけてみましたが、どうやら無理らしいとわかったので^^;、やむを得ず、母が好きな塩昆布のお店で、大きな小銭一枚分おつりがくる小さな木箱を求めたのを思い出しながら、これを書いています。いまからおもえば、おばあさんには、かえってこれでよかったのかなともおもえるところが、おかしみをもっておもえるから不思議です。かえって、あらきがきくじゃない?なんておもわれてはいなかっただろうかなどとまで、きたいをこめておもったりもできるのですから なんとも、ひとのおもいとはいわば勝手であり、でも、一方でとてもかけがえないものかな ともおもうのです。ともあれ。そんなわけで、初めてその制度がはじまったときも、とても印象的な思い出とともにあります。子どものころ、よく母がいっていたのです 「あんた、いちえんたりなくてもでんしゃにのれないのよ」って。それが、どうしてりんごやじてんしゃでなく、でんしゃだったのか、考えるととてもおもしろいですが。ともあれ。あとになって、言った本人もきづいていないほどの、こうかてきなひとことというのは、もしかしたらそこかしこに、いつもさりげなく、あふれているのかもしれません。


なああ~んて。あってもなくても、どこになにがつかわれるか、だけの違いですから、それでもいつもどおり、きれいにていねいにおかねをつかうことがいちばん。おへそまがりのわたしは、むしろそんなふうに、おもってしまい、きょうもまた、あれ、小銭入れにしかはいってなかったかしらん、などと、相変わらずののうてんきなのです。たいせつなのは、ものもおかねもたいせつにつかうこと。むろん、それは、自分やあるいはたいせつなひとのこころに、やさしくできるように、ときには、きもちよくきまえよく もたいせつではないかともおもいます つまりは めりはりというか それがとってもむずかしいのですが だからこそ やりがいがあるというか そんな気がします。大切にたいせつにつかうときと あるいはものと、でも べつのときには、おもいきりつかうことで こころがほっとほぐれたりします おもいきりといっても、はちゃめちゃでといういうのではなく ささやかだけどちょっとすくわれるぜいたく というのもあるとおもうので。たとえば。お風呂でつかうキャンドルとか。ボディソープとか。ほんのささやかでも、感覚や肌に直接ふれるものに、ほんの少しささやかな贅沢をもつだけで、見えないところではものすごくちがう。

ちなみに、あのキャンドルはもう5年以上まえに買ったはずですが。日々仏さんにお供えするものに比べたら、いったい何十倍するのでしょうという、おねだんではありますが。こうして5年以上も、ふと、しんどいとき、つらいとき、なんどやわらかなにおいでなぐさめてくれたことでしょうと、おもうと、価値は一概に、みえる多寡だけできまらないのではないのでしょうか などと わかりきったことを つい、えらそうに書いてしまいますm--m。あれあれ、なんだかとってもみちくさだっせんひやくがすぎていますが。 どうせなら少しでも価値のあるお値段になってから買いませう そんなことをいうひとは きっといても静かにその価値を味わったりしているのですかねぇ
たまには ちがった見方からいいものを見つける味わい よいところにも 気付いてみると ほんとにまわりがとってもちがった感じにみえてくるのかなぁ~ともおもうのですが これ、かんしょくおばさんの かってなねごとだったらごめんなさい
かきます ほんしんよりも、追伸を先に書くというのは、聴いたことがありませんけれども^^;。甘えといいますか、甘えたいという感覚は、それが、ゆるされると感じられる相手があってはじめてわかおこるのですかねぇ そして、かなしいかな、やせがまんの壁をこじあけて、じぶんでは、ほんの少しだけじゃぐちをひねったつもりであっても、そのレスポンスがきたいしたものであってもなくても、つまりはこえ、つまりちょくせつのなにかに容易にたどりつけないとわかると、とつぜんに、ぱっきんがこわれたりもする...のやもしれません^^;。もっとも、それとても、それをひっくるめていつかわかってもらえる、それでなにかをうったえたい、つまりは、ただの甘えなのでしょうかと、時間を置いて、反省すると、たしかに、ただのだだこねだけだったのではないかと、おもえなくもないのは確かです。つまり、甘えられるというそのことこそ、なにをおいてほかになにものにもかえられないない、ものであるということを確認したいだけなのでしょうか

などときくと、ばかやろーのれんこがいまにもきこえてきそうですけれども^^;。ともあれ。夜に忍び込むもの、ではないですが、夜というのは、いいときもそうでないときも、たいせつなもののじゅくせいにしても、はたままあせりやふあんのもやにしても、よりふかくなってしまうのかもしれません。それが、よるのこうようなのであるのはたしかですけれど。それにしても。おそらく、たぶん、きっとほぼ、だいじょうぶと、おもってはいても。おもいがせつじつであればあることほど、つい、どうしても、ふだんなら気にもとめないことでも、もしかしたら、よくないきざしなのではあるまいかと、ふとしたことで、ふあんのうずにおぼれそになるのは、ただの、感傷好きだからでしょうかと、自分のことをたなではなく、だんじょうにでもあげてちゃんと考えてみようとおもうのですけれども。自分をすべて挙げてしまえば、ここに残って自分のことをことばで表すひとがいなくなるわけで。つまりは、ひとりでは出来ない。こればかりは、つまりは、だれにもできぬことなのだと、わかり、つかの間ホッとしてみたり...。

だれにもできぬというのは、つまり、自分自身を完全に客観的に評価するということ、そのことをさしています。ほかのことではないですよ。なにはともあれ。そういうことで。うれしさとふあんはつねにふすまいちまいのあちらとこちらにあるようなものかしらとおもってみたり。日本家屋のすばらしさと、かなしさにふと、おもいがいたってみたり。ともあれ。いまは、余談に道草ばかりしていては、かんじんなことからおいてきぼりになってしまいかねず、それだけは、なんとかかんべんと、ほんにこころのそこが、さすがに、冷静さをうしなうほどに、ウロウロ、おろおろ、しているのであります。ひょっとしたら...と、おもいを覚悟したとき、あの『住まいとほどよくつきあう』の著者の方の、びょういんからの執筆内容がふと浮かんでしまいました。それから、『日々すれすれ』の方の、随想のひとことと...。穏やかに、はい、そうですかと、うけとめられるひとなどいないのかもしれません。すみません。これではまるで、わたしもそうであるようですね。いえ、つねに、いつそうなってもなんとかそのときのさいぜんを尽くしたいとは、おもってはいますけれども。やはり、ほんのすこし、90歳になったときの風景を観てみたいとやっぱり素直におもっています。
春分というのは、太陽が回帰線にもっとも近づくとき?でしたっけ。これまた、たったいまの思いつきのフレーズです  そういえば、高校のころ繰り返し繰り返し聞いていた音楽のひとつの、そのvolumeのタイトルが それでした。あれからいったい何年経ったのでしょう。とにかく、しんどい日々でした。勉強に集中したいのに、運動とのバランスがないばっかりに、肝心の勉強さえうまくできず、学校のテストと自分がしたい勉強とのリズムがあわず...。中学とはまるで別人でした。そのあとに続く浪人時代に負けず劣らず、つらい時期でした。家に帰ると、母との間のぎくしゃくがさらに輪をかけて、足をひっぱるかっこうになり...。黙って見守る父も、ひやひやの連続だったとおもいます。

さて。球春とは、ほんとに言いえて妙のことばですねぇ。この前、調子に乗って、無死満塁、あの伝説の21球への回顧とあわせて、書いたとたんに、そこでとりあげた懐かしき四国の山岳校の、土壇場劇でしたねぇ。あまりに、できすぎていて、おやおやと、おもってみていましたが、繰り返し繰り返し覚えたいたあの校歌が、流れ始めると、自然に頬が熱くなってしまいました。必死で応援していた時代が、甦って、泣いてしまいました。実は、高校のころでしたか、あの亡き名将の方に、年賀状を送ってしまったことがあります。恩師に褒められたそのデザインの年だったでせうか。やはり、苦しかった高校時代に重なるのかも...と、おもい、われながら苦笑します。返事は来ませんでしたが、それでも何を書いたか覚えていないので、いささか恥ずかしい気もしますが、それでも、もしや届いていたのかなぁ~と、しみじみしたおもいです。

もうひとつ思い出しました。カリブのくにに、あろうことか、恐れ多くも、野球の修行旅行(ロケ)に行かせてもらえることになったとき。無愛想で、なかなかひとと打ち解けないわたしでしたが、あるときの食事のテーブルで、どんな流れだったか、その名将の話題になったのでした。そこで、その方が、とっこうたいの生き残りであること、そして、わたしは、その数年前に、再放送で観た『~たちの旅路』という番組に、ひどく胸を打たれたこと、その主役を演じられてた俳優さんがとても好きなこと、父の姿とも重なったこと、そんなこんなを話をした途端、本州最北端の、あの悲運のエースの3年後輩だったスタッフの方たちと、一気に打ち解け、いろんな話ができるようになったことを、ふと、思い出していたのでした。(正確には父はとっこう~ではありませんが、それでも、再び還ってこられるまでの日々はそうとうのものがあったのだと、わたしにはふとした話の行間からわかるきがしたので、戦中派の戦後を描いたともいえるそのドラマに深く心を揺さぶられたのでした)。

それにしても。いちにちで、ひとの数日分の眠ることもある、わたしが、とうかかんちかく、ひょっとしたら、数日分しか眠ってないのでは...という日々でしたから、ほんとにちょっぴり大変でした。ただでさえ、体重がへっているというのに....です。ともあれ。げきどうのひびのなかで、いろいろたいへんでしたが、いきててよかったとおもえる時間をもらえたという気もして、ともあれすべてに感謝しています。ときに、先祖のお墓の上で、鳴きだしたうぐいすの声に助けられ...そんなこんなで、自然のすごさに改めて敬服しているような...。ほんとなら、こんなことも、なるたけおとなしくだまっているほがいいのかなとおもうことも確かにあります。日々、どっちがいいのか、さて、わからぬまま、時が流れるときもたくさんあります。それでも。それでも、支えになるなにかに、とても支えられ、そして励まされ、いるのかなぁ~と。やっと、少しだけ眠れるようになってきました。おかげで一気に春眠がおかわりおかわりと、いいそうな勢いですけれど...^^;ともあれ。うっかりはやとちりをしては、自らたいへんなところに身を置いたり...。そのことには、われながら、ほんとに、なんともいいようのない、かなしいおもいですけれど。ともあれ。
なんということでしょう...げきてきなへんかというのは、できたらささやかなうれしさにこわけにしたい...つい、そうおもっていまわずにいられないということもあるやもしれませんねぇ。むむ。ふ~。極寒のいただきをめざすそのひとのげきとうのようすを、みるにつけ、それでもやまにのぼらずにいられないのが、やっぱりひとなのでせうか、と、えらそうに、おもってしまうのです。ときどき、たしかに、なんともいえないきびしいじかんのなかにみをおおいてみたいそんなかんかくはたしかにありますが、それはあくまで、18のみどりのような、時間的空間的なさかいめが単純で、でたらもどれないかもしれない...という、ききかんとははなれていられるところが、つまりは、いやしにもなり、そして、ささやかだけど、そこでしかなかなか感じられないきんちょうのかたちがあるからですかね。そのすぽーつが、とてもすばらしいものとおもえるのは。

ただ。あくまでしゅみ、というかあくまでぼらんてぃあのはんいというか、おんなのこがやっていいのは、やはりそこまでのきもすごくするんです。そりゃ、70歳ぐらいになって、いまと同じくらいのボールが打てたら、そりゃそんな遠慮はゆるされるやもしれませんが、おおげさでもない、やせがまんすぎるでもない、ちょうどいいはんいというのを、そのときどきにおうじて見つけていけたらと、勝手にだけど、そんなふうに考えています。まるで、はじめるまえからいんたいのひを考えてるみたいでそれはそれで、なんともかっこつけすぎかなとは、たしかにおもいますが。記念参加などといったら、しかられるかもしれませんが、ことしのそれは、出来る範囲でやってみようかとおもっています。もっとも、そういう少なくとも、公式戦とよばれるような闘いの場には、これが最初で最後というのにできたらいいかなぁと。(もっとも、70歳~のような先のことはわかりませぬけれど^^;)。

それにしても。それに挑戦しようとするたびに、先祖総出で反対しているのでは?とおもえるほどのタイミングでの小さな?しょうがいではあったものですから、こころの中では、一筋ではとても言い尽くせぬかっとうと、かなしみと、あとなんだっけ。ともあれ。でも、節目節目で、そのスポーツにあるいは、それをされている方々にいったいどれほど助けて、もらえたでしょうかと、おもうと、とてもとてもひとばんかかっても書きつくせぬとおもっています。ときに。わたしが大きくなるまでそれなしではとてもないはずのもうひとつのきゅうぎですけれど。人生がはじまったというと、大げさですが、そのルールを覚え、さまざまな反芻された記憶と思い出と...ともあれ、間違いなく節目だったその年のころの、その山間部の学校がふたたび....。勝手にどらまをむすびつけては、なんということでしょうと、こっそりしみじみおもいにひたっていたりもするのです。

真剣なぷれーがつたえるもの。それはどちらのきょうぎにしても、じぶんが経験したワンシーンわんしーんにしてもそうですし、息を呑んで、あるいは、胸の鼓動に自分でもとまどうほどにみつめたシーンにしても...。ふとしたときに、それらのどれかを、しみじみ思い返しているだけでも、それは、きっと涙を流しているのとおなじくらいの、いやしの時間になっている気がしてきました。そして、ふたたび、あの21球を見事に文字で切り取ったあの筆者の方が浮かびます。18のみどりのほうを、オフでまわるときには、ついつい、ひとり21球(いえ。これは実際の打数のことではなく。つまるところ、毎回無死満塁をわざわざつくっては、そのきんちょうかんを自分でたのしんでいるような、われながらとんでもなくぜいたくなことをしているとはおもいます)を、していなくもない自分におもいいたって、苦笑をするのです。いささかひやくと説明不足を自覚しながらかいているので、いささか、どころかとてもわけのわかりにくい書き方ですね。すみません。

ともあれ。こうどうのひとつひとつが、ありがたくもたいへんで、でも、ともあれ、ぜんぶひっくるめて感謝せずにはいられない、そんなきもちのなかにいます。
50歳でお能をきっぱりとやめたあの白洲さんのことが、いまふと、うかびました。もちろん、なにがなんでも、こうするというよていをもってしたものには、そうでなく、流れの中で、ぎりぎりのエッジの中のコンマ何秒の凝縮した時間の中でされたものとは、全く違う、おもみや表情をもつのだろうとおもいます。ともあれ。いまから、すべてをそうていするのはふかのうですが、それでも、いくつものてんぼうがうまれるのはたしかなのかもしれません。やっと霧が晴れて少し見渡すことができたような...。

やはりなにごとも誰かをまねることになる、といわれたかたがありました(せいかくには、なんでも最初はまねからということでした)。だれかの背中をかっこいいとかんじ、気がついたらそこから眼が離せなくなっていたような...。藪から棒ですが、おんなとてたんじゅんですゆえ、いざ、オフにいっしょにまわりたいのは、おおぜきのCMにでていた方であり、生まれて最初に読んだ伝記!の主人公である、88年かかってゆうしょうきを手にしたあの学校の、あの方です。もし、間に合うなら...。と、いちどはあきらめかけた夢に再び灯がついたり。

ただ、実際いっしょにまわってきっと愉しいのは、あのブラさんぽの方であり、古都をリュックサック背負って走っていたあの方だろうなぁ(クラブを振られるかどうかわかりませんが)、などとおもいかえし、つくづく、おんなとて、ちょっとしたバカンスに一緒にご飯にいきたい2のつくかたと、ほんとにこころふるえてくつろぎたいそのひとは、ちがうのでせうね。おやおや。こんなまぎらわしいことをいって、あたまをこんらんさせていはしないですかと、ちょっと心配のたねをかんじつつも、むろん、あんしんゆえの、たらればのたわごととおもってください。

そう、くだんの白洲さんがそうであったみたいな、かぞくと、ともだち...にそれでも、あこがれないといったら、しょうじきうそになりますねぇ。いえ、ひとがかわりつづけられるのは、かわりつづけられるひとと、よくせっするきかいがあるからで、それが、まご、というのもほんとはすばらしいことなのでせうとおもいます。でも、でも。あのぶあいそうを、まねたいなぁ~と、つい、ほんねがぽろり。もちろん、たいせつなひとはかわりません。ひとの、いきとしいけるものの、むじょうをわかいときにきづいてしまったら、ほんに、さきがおもいやられますと、書いておられたのは、その白洲さんです。それでもいきてることがすばらしいといえるってほんとにすごいことなのだとおもいます。
わたしはどれほど、父さんに守られてきたかというのを、大人になればなるほどに、折々に振り返って、ときに、あのときのあのことばの意味に、あるいは、あのときのげきどのほんとうのりゆうに、はたと、気付いては愕然とし、はたまた、なんどふるさとを往復するくるまのなかで、涙したかわからないけれど....。そして、なにより、とにかくふるえるのは、いいわけというなのことばはいっさいなかった(とおもえ)、むしろ、ことばひとつひとつより、いっさいのいいわけをのぞいて、ひたすらなにもいわず(まるで、時期が着たら、その意味がわかる)と、かくしんを抱いていたのだろうかと、そうかくしんせずにはいられないほどの、いくつものことごと...。

この世に、ちちのむすめへのあい以上のものがあるかしらんと、おもわないではいられないのだ。涙がでる。いえのなかの、さまざまな木の植えてあるひとつにしても、どうして、ここまでわかったのだろうと、おそれおののきそうなほどに、いまのわたしをまもってくれているのだ。そうか。いつも、気晴らしと一服を兼ねて、庭のあるいは、やしきのまわりをたださんぽとしてあるいているのかとしか、わからなかったあのひとつひとつも。まるで、将棋版の1000手先を読んでいたのだろうかと、こばかのかぎりにもなりたくなってしまうのだ。どうしてわかったの?すごすぎるというのはこのことか。いや、もしかしたら、本人がそれと意識せずにいったことばのいくつもが、あとになって、わぁあああと、よろめきたくなるよな、ドラマを描いたりもすることが、けっしてめずらしくないことを考え合わせれば、たしかに、それらも含めて、守られてきたのだと。ただただ、恐れ入るというのは、きっとこういうことからうまれたことばなのでせうか。と、少し、ひねくれたくもなってしまいそうなほど。

ほかにも、あとになればなるほどに、むかしおせわになったからねぇ~、そう、時を重ねるほどに、いろんな場所いろんなひとが、やってきて...。わぁあああ、こどもになにかをのこすというのは、こういうことをいうのですねと、もう、泣くよりはなく....。ほんに、なんということでしせう、です。ひたすら目の前のくじょうにばかりねつをあげている、かぞくのくぎょうにもひたすらたえ(といったら、いいすぎかな、ともあれ)。なんともはや。しずかすぎるひとのすごさを、あらためてがくぜんとおもうばかりでして...。わかりました。ほんに、せんぞにてをあわせるというのは、まさにこういうことなのですねと。ほんとにほんとに、よろめきそうなかんかくです。ずっと、わだかまっていたものが、いっきにながれたような...。とはいえ、ここで、あわてちゃいかんと、すぐ調子に乗って、びっちゃーが投げる前にバット振りそうなわたしゆえ、まてまて、と、ひたすられいせいをつとめようと、しているところなのです。
そうか、かあさんが作ってくれた制服....つまり、3歳と半年のころから、えっと、15年ものあいだ、つまるところ、そのよろいに、たすけられてた? う~ん、いい表現がすんなりとはこないが、ともあれ、はじめてわかった!という、驚きにみちたそして、愕然とははああと、おもった瞬間でしたねぇ。そうか。上に着るもの、そこに重きを置いていた、ははおやの習性そのままに、かなり、えいきょうをうけたのはあったやもしれませぬが。ともあれ。

都会に暮らして、くるまいがいでの移動もふえて、ほぼ毎冬のように、コートを買ってしまっていた自分を思い返して、ははああん、てね。でも。それで、救われたりまもられたり、それはおおきいのですねぇ。もっとも、おおきくても皮が厚くても、基本は草食の部分もあるからですねぇ。そうかぁ。はいごに無礼に近づかれるのがすごくいやなのが、そのせいとわかってすごく合点がいきました。よほど、わたしは、鎌倉か江戸のころにでも、つじぎりさんにやられちゃったのかとおもってましたからねぇ。

しかし、決断が綺麗というか、さっと一瞬のきづきがおくれたら、そくいのちに関わるのはそうげんでくらす草食ですからねぇ。だから、そこには繊細にならざるをえないとです。里山にクラスその雑食が本質とはいえ、それはこんどかなり小型ですからねぇ。みえよりちえをおもんじるのはそのせいですねぇ。きっとどっちもやこうせいなのかな。だから、あさひがなかなかみられない。ゆうひがすきなのは、うまれてさいしょにみたのがあさひでなくてゆうひですからねぇ。なあんて。こじつけでも、なにかがふにおちそうなきがするのは、とってもこころにいいことな気がします。

買い物に行って、なにをかって、どう決断するか。その瞬間瞬間の流れや、サバンナでのハイエナたちのどうこうによっても、変わってきたり...。それでも、そのひにかえたものが、そのひにえんがあったもの....そんな風に考えるひとですから。あらかじめ、きちきちんとよていがないと、いけないかたたちとは、まったくことなる行動になりますねぇ。さいふにだって、はいってるだけで、工夫してどううまく買うか~なあんて、おもしろいことにちょうせんしてたりするわけですから。あたまをつかうとひとことでいっても、そのなんというか、考えてるポイントがそれぞれにあるのでせうねぇ。

無論、よていもないといけないわけで、あるていどのイメージができてないと、なにをどう読んでどう判断するかもわからんわけで。そんなこんなを考えてみると、なかなかおもしろいわけですねぇ。つまり、しょくのこのみにしても、そうなるのですかも...。あいてによろこばれたい、というのはおなじ表現でも、その意識するところが、じぶんができるようにあいてにみせたい、せのびしたい、というのと、じぶんがたべたいとおもうものを素直につくるとまちがいなくおいしくなっていくと、おもってるのと...すとれすが必ずしも悪いのではないですが...自然体、というのは、そういうのかもしれないです。

だから、そうでないひとのことにきづきにくいひとたちは、若いころにくろうするのでしょうかねぇ。じぶんがひとにいじわるなことを考えてないから、どれもすなおにうけとってしまうのですねぇ。すると、それが、なんじゃぁぁという相手にぶつかると、なにかとたいへんなおもいをするとです。つまり、それらをそうしてうつわ、という、きびしいことばもあったりはするわけですけれども...。ことばと同じで、たべるものも、おおきいですねぇ。うちがわからあっためいやしてくれるものですからねぇ。おかねのあるなしではなく、なにをたべるかたべられるか...しってるひとだけ、こっそりしっていたのですかねぇ。ともあれ。おいしいものをたべられるって、きっとこれは、どんなけんこうよりも、いえ、それのことをけんこうというのかもしれないですねぇ。

ともあれ、感謝ですm--m。(まいどのことですが、すいこうしてないので、まちがいあったらほんとにすみません)。