なんということでしょう...げきてきなへんかというのは、できたらささやかなうれしさにこわけにしたい...つい、そうおもっていまわずにいられないということもあるやもしれませんねぇ。むむ。ふ~。極寒のいただきをめざすそのひとのげきとうのようすを、みるにつけ、それでもやまにのぼらずにいられないのが、やっぱりひとなのでせうか、と、えらそうに、おもってしまうのです。ときどき、たしかに、なんともいえないきびしいじかんのなかにみをおおいてみたいそんなかんかくはたしかにありますが、それはあくまで、18のみどりのような、時間的空間的なさかいめが単純で、でたらもどれないかもしれない...という、ききかんとははなれていられるところが、つまりは、いやしにもなり、そして、ささやかだけど、そこでしかなかなか感じられないきんちょうのかたちがあるからですかね。そのすぽーつが、とてもすばらしいものとおもえるのは。

ただ。あくまでしゅみ、というかあくまでぼらんてぃあのはんいというか、おんなのこがやっていいのは、やはりそこまでのきもすごくするんです。そりゃ、70歳ぐらいになって、いまと同じくらいのボールが打てたら、そりゃそんな遠慮はゆるされるやもしれませんが、おおげさでもない、やせがまんすぎるでもない、ちょうどいいはんいというのを、そのときどきにおうじて見つけていけたらと、勝手にだけど、そんなふうに考えています。まるで、はじめるまえからいんたいのひを考えてるみたいでそれはそれで、なんともかっこつけすぎかなとは、たしかにおもいますが。記念参加などといったら、しかられるかもしれませんが、ことしのそれは、出来る範囲でやってみようかとおもっています。もっとも、そういう少なくとも、公式戦とよばれるような闘いの場には、これが最初で最後というのにできたらいいかなぁと。(もっとも、70歳~のような先のことはわかりませぬけれど^^;)。

それにしても。それに挑戦しようとするたびに、先祖総出で反対しているのでは?とおもえるほどのタイミングでの小さな?しょうがいではあったものですから、こころの中では、一筋ではとても言い尽くせぬかっとうと、かなしみと、あとなんだっけ。ともあれ。でも、節目節目で、そのスポーツにあるいは、それをされている方々にいったいどれほど助けて、もらえたでしょうかと、おもうと、とてもとてもひとばんかかっても書きつくせぬとおもっています。ときに。わたしが大きくなるまでそれなしではとてもないはずのもうひとつのきゅうぎですけれど。人生がはじまったというと、大げさですが、そのルールを覚え、さまざまな反芻された記憶と思い出と...ともあれ、間違いなく節目だったその年のころの、その山間部の学校がふたたび....。勝手にどらまをむすびつけては、なんということでしょうと、こっそりしみじみおもいにひたっていたりもするのです。

真剣なぷれーがつたえるもの。それはどちらのきょうぎにしても、じぶんが経験したワンシーンわんしーんにしてもそうですし、息を呑んで、あるいは、胸の鼓動に自分でもとまどうほどにみつめたシーンにしても...。ふとしたときに、それらのどれかを、しみじみ思い返しているだけでも、それは、きっと涙を流しているのとおなじくらいの、いやしの時間になっている気がしてきました。そして、ふたたび、あの21球を見事に文字で切り取ったあの筆者の方が浮かびます。18のみどりのほうを、オフでまわるときには、ついつい、ひとり21球(いえ。これは実際の打数のことではなく。つまるところ、毎回無死満塁をわざわざつくっては、そのきんちょうかんを自分でたのしんでいるような、われながらとんでもなくぜいたくなことをしているとはおもいます)を、していなくもない自分におもいいたって、苦笑をするのです。いささかひやくと説明不足を自覚しながらかいているので、いささか、どころかとてもわけのわかりにくい書き方ですね。すみません。

ともあれ。こうどうのひとつひとつが、ありがたくもたいへんで、でも、ともあれ、ぜんぶひっくるめて感謝せずにはいられない、そんなきもちのなかにいます。