春分というのは、太陽が回帰線にもっとも近づくとき?でしたっけ。これまた、たったいまの思いつきのフレーズです  そういえば、高校のころ繰り返し繰り返し聞いていた音楽のひとつの、そのvolumeのタイトルが それでした。あれからいったい何年経ったのでしょう。とにかく、しんどい日々でした。勉強に集中したいのに、運動とのバランスがないばっかりに、肝心の勉強さえうまくできず、学校のテストと自分がしたい勉強とのリズムがあわず...。中学とはまるで別人でした。そのあとに続く浪人時代に負けず劣らず、つらい時期でした。家に帰ると、母との間のぎくしゃくがさらに輪をかけて、足をひっぱるかっこうになり...。黙って見守る父も、ひやひやの連続だったとおもいます。

さて。球春とは、ほんとに言いえて妙のことばですねぇ。この前、調子に乗って、無死満塁、あの伝説の21球への回顧とあわせて、書いたとたんに、そこでとりあげた懐かしき四国の山岳校の、土壇場劇でしたねぇ。あまりに、できすぎていて、おやおやと、おもってみていましたが、繰り返し繰り返し覚えたいたあの校歌が、流れ始めると、自然に頬が熱くなってしまいました。必死で応援していた時代が、甦って、泣いてしまいました。実は、高校のころでしたか、あの亡き名将の方に、年賀状を送ってしまったことがあります。恩師に褒められたそのデザインの年だったでせうか。やはり、苦しかった高校時代に重なるのかも...と、おもい、われながら苦笑します。返事は来ませんでしたが、それでも何を書いたか覚えていないので、いささか恥ずかしい気もしますが、それでも、もしや届いていたのかなぁ~と、しみじみしたおもいです。

もうひとつ思い出しました。カリブのくにに、あろうことか、恐れ多くも、野球の修行旅行(ロケ)に行かせてもらえることになったとき。無愛想で、なかなかひとと打ち解けないわたしでしたが、あるときの食事のテーブルで、どんな流れだったか、その名将の話題になったのでした。そこで、その方が、とっこうたいの生き残りであること、そして、わたしは、その数年前に、再放送で観た『~たちの旅路』という番組に、ひどく胸を打たれたこと、その主役を演じられてた俳優さんがとても好きなこと、父の姿とも重なったこと、そんなこんなを話をした途端、本州最北端の、あの悲運のエースの3年後輩だったスタッフの方たちと、一気に打ち解け、いろんな話ができるようになったことを、ふと、思い出していたのでした。(正確には父はとっこう~ではありませんが、それでも、再び還ってこられるまでの日々はそうとうのものがあったのだと、わたしにはふとした話の行間からわかるきがしたので、戦中派の戦後を描いたともいえるそのドラマに深く心を揺さぶられたのでした)。

それにしても。いちにちで、ひとの数日分の眠ることもある、わたしが、とうかかんちかく、ひょっとしたら、数日分しか眠ってないのでは...という日々でしたから、ほんとにちょっぴり大変でした。ただでさえ、体重がへっているというのに....です。ともあれ。げきどうのひびのなかで、いろいろたいへんでしたが、いきててよかったとおもえる時間をもらえたという気もして、ともあれすべてに感謝しています。ときに、先祖のお墓の上で、鳴きだしたうぐいすの声に助けられ...そんなこんなで、自然のすごさに改めて敬服しているような...。ほんとなら、こんなことも、なるたけおとなしくだまっているほがいいのかなとおもうことも確かにあります。日々、どっちがいいのか、さて、わからぬまま、時が流れるときもたくさんあります。それでも。それでも、支えになるなにかに、とても支えられ、そして励まされ、いるのかなぁ~と。やっと、少しだけ眠れるようになってきました。おかげで一気に春眠がおかわりおかわりと、いいそうな勢いですけれど...^^;ともあれ。うっかりはやとちりをしては、自らたいへんなところに身を置いたり...。そのことには、われながら、ほんとに、なんともいいようのない、かなしいおもいですけれど。ともあれ。