しゃれーどの冒頭部分、さいしょにことばを交わす、主人公のふたりが、「あれ、どこかで会いましたっけ?」というのだが、そこは、言わずもがなの、名作のあの映画を受けてのしゃれっ気満点なところが、なんともにくくて、それでいて、やっぱりせつない。まぁ、とはいえ、しゃれっ気とにくいなぁという、おかしみの部分だけを、こころに貼り付けていったならば、きっと、どれも、すばらしい思い出が増えていくのかしら...(と、言い聞かせてる自分がまたせつなくもいとおしいのではありますけれど)。前回は、いささか、何日もまったく眠ってないままの、自分でもはじめての境地のような、ことばのシャワーの中から、少しだけ、ここにはきださせてもらってもいいですか、という感じで書いたのであります いえ、言い訳ではなく、どの一瞬にしても、わたしの一部であるのはかわりなく、なんとも、こんなのでごめんなさい という気持ちですけれども

と、まぁ、書き出したらこんな風にとまらなくなるのは目に見えているので、ずっとなんとか書かないでいる方法を考え考えしてきたのですけれども。 はて、人生の残り時間は、やっぱり少しずつでも書いていくしかないのかなぁと、40十何年かかりましたが、ようやく、いたしかたのない境地を受け入れられるようになったといいますか...。恩給をことわった父の、あっぱれな姿を誇りにする身としては、ここも、書くけれども、経済と結びつくような行動はなるたけ控えて、できたら、発表はこの世をそつぎょうしてからにするのが、とってもかっこいいのでは?と、それでもまだ、無駄なあがきをしたくなってしまいます もちろん、ささやかに、できたらほんの少しのたまのぜいたくくらいな生活が安定するのが、もちろんそれはいちばんですけれども どうやら、人並みとはなかなかできないほしにうまれた、ということを自分で言うのはものすごく嫌なのですけれども

それにしても、過不足なく自分のおもいを伝えるということのなんと難しいことかを、いつもおもいます なにもやまなしいことがないのだからと、それはその通りなのですけれども、それでも、田舎で静かにいわれた以上、やっぱりなんとかそれをまもれたらなぁと、おもうの半分、いつかの大河のひとのように、ずっと先でも、もう少しだけ息のしやすい境遇になれたらと、正直おもいます でもそれは、なんというか、めいよとかちいとかそういうのとは全く無縁をイメージしているので、いつもごかいされてしまうのでしょうか と、これだけ、ことばを出せるようになっただけでも、この数年来の苦しみの甲斐はあったのだとおもっています それにしても、やっぱり元気なうちに、ゴルフはしたいものですねぇ いつかきちんとお便りしたいというのはいつもおもっています それでも、それもきっと流れといいますか、うんとえんなのかもしれないと、齢とともに、なにがなんでもという形は薄れていくもののようです かわりにしずかになにかをまっていることの静謐さを、ついどうしても愛してしまうといいますか...
むかしむかし それは4ばんのティーグランドでした それはまるで、どこかでそのタイミングを見ていたように訪れました 北へ帰るそのまったく乱れぬ隊列の飛行する姿は、あまりに綺麗でした 不意に、やってくる息を呑む景観は、こころになにかを運んでくれるのかなとおもいました ともあれ。あまりに綺麗で、せつなくなるのが自分でわかってちょっとつらいのもありましたが、それでも、こんな景色にであえたことのうれしさのほうが大きかったです  想い出は、ときとともに、その色合いやせつなさ加減が増えたり減ったりするものですが、たぶんずっと忘れないだろうなとおもえるような印象的なシーンでした たぶんそういうとき、みているのは目の前の景色だけでなくって、思い出に間違いなくなるだろう幾つもの、せつなくてでもどうしようもないいいとおしさの場面場面なのでしょうとおもいます せつないですね

と書くと、まるでかんぜんになにかがgoneしてしまったかのように受け取られてもちょっぴり困惑するやもしれませんが、ともあれ。ひとにはなにかを支えてもらえる 想いがあるのは確かなことのようです なにかを願うということは とってもせつなくて そしてかりにもし少し形をかえてでも なにかが訪れるかもしれない(し訪れないかもしれない)というのを描いてしまわずにいられないとき、ひとはなんともいえな感覚にひたってしまうのかしらね う~、なんてね。そんなとき、ふといたたまれなくって、あるいはもしや、むしろ、なにかが近づいてそれをうしなうことをおそれるよりも、きっといつかくるかもしれない...と、永遠に待ち続けるほうが、まだこころがたえられやすいのでは などと、なんでもないときに、そんな杞憂に少しひたって、いっそそのほうが...などと、ほんとはたまらなく願っている何かを ちょっとだけ忘れていられるときがあることに、ものすごく感謝をせずにいられらなくなる ふと、そうおもってしまうときがあるものです


なあんて、ちょっと気取りが過ぎたこんな文章が内からでてくるのも、その景色に出会った性なのだろうと思います。そういえば、いつか、これのタイトルにしていた、懐かしい4番ホールは、いまもそのままそこにあるのでしょうか  暮れ時、ふと振り返ると、これまたなんともせつなくなるトワイライトのメトロポリタンがそこにはあり、涙がでるまえに、前をみたらば、ちょっとおぼろな海とあの特徴的なかたちの、たてものがありましたね  なんとも長くつらい冬の合間にふと、ひろがった晴れ間に、ひとはやっぱりとてもとても救われているのだと、その都度おもうものです  できるだけささやかでいいから なんとかと願わずにいられないのは、みなおなじなのだろうとこれまたつくづく(やっぱりとても)おもいます  なんとかだれも傷つかずに済んだらいいのにというのは、あまりに勝手なきれいごとなのはわかっていながら、それでも、どうにか時間がやさしくしてくれないものかとこれまた、やっぱり願わずにいられないのですね

ともあれ。やっともうすぐ暦の春、というだけでも、厳しい冬のの地方にはかすかな救いがやってきます  それにしても どこまでもどこまでも なにかが見える聴こえるあいだは、ずっと見て聴いていくのだろうと、あんまり先のことを見すぎても、これまた、こころはふと、よわくなってしまうのかもしれません ときには、目の前だけがすべてなのだと、言い切れたらと、勝手なことを思ってみたくなることもあります ともあれ。せつなさは、やっぱりかわりませんが、それでも、時間の流れ方がこれまでと、ほんの少しだけかわってくれていることに、ほんとにほんとに感謝しないでいられない、そんなこころです。 いま、大きく息を吐きました。本音は、というより、ちょっぴり愚痴は、、、、いえ、愚痴はやめておきましょう。ひとには、それぞれどうしてもやってきてしまう流れがあるのだと、その都度、なんとかやりくりしていくしかないのでしょうと 言い聞かせて、なんとか時の流れの中に身を置いている...そんなところです。(と、これだけ、なんだかひとり酔ってるだけのような(じゃないといいなと願いながらも)文を、かけるほどには、なんとか元気があるようです ひっそりしずかにいられたら...
(ほんとうは、今にも高熱がでそうな悪寒と疲労と頭痛が、しばしことばが降りつづいてやまない週の後にやってきています)
この春ほど、年賀状のいちよういちようの、そこにあることばことばに、ありがたさを感じたことはなかったかもしれません  おそらくこれまででいちばん....  そして、これまででいちばん遅く書いております   年賀状....  もうことしはやめておこう  そうおもっていました  ほんの数週間まえまで....   なんともやるせなく せつなく そしてむなしささえいきつもどりつする時間...  だれにも、そんなときなど、ふとしたときにいつでもあろうものでして  ですので特段...いたしかたのないことと それでもしかし、なんとかならぬものかともがいておりました  動くに動けぬと申しますより、それより、内からエネルギーが沸いてこない  ならば、待つよりほかはなく....  ひたすら目の前の時間をやり過ごす... もしくは無になる.... とはいえ、無になるなど悟りの境地を極めるより多難であり  かくして、よ~し、なにもしないぞ~と前向きに己を鼓舞する! ものは思いようで、これは案外、効きました


そんなこんなな時間が長く続き、とはいえ、恐らくそれそれで、わたしには向いていたのでしょう  ひたすら虚無のような時間と向き合う?(実際はなかなかタフなものですが)のを、繰り返し、きょくりょく、いつかきっとぉ~なんておもわぬようにする  のがいいようでした  すべてはいまの連続なのです と申しますか、いまはいま、ほしいもののぞむものはいまにある  いまできてることがすべて  さきのためにいま(のきもちをつねに)ころすことはしない   徳だんなことも願わぬ代わりに、いまあるささやかをなげだすのもするまい  くるしいのはできないことをしようとするから   そのひとができないとかんじることはそのとおりできないのであり  できると感じることをすればいいのです  気持ちがいいというのは恐らくそういうことをいうのです  気持ちがいいからかっこいいのであり  そのはんたいはきっとそのはんたい   という声がどこからともなく聴こえたわけではありませんが....


ともあれ 今年はいちまいいちまいの賀状にしたためられた、めっせーじめっせーじに、ほんとにとてもこころを救われました  無論、これまで書いてきたこと 長年続けてきたことがあって、きっとこうして、つらいときを救ってくれたのだとおもいます  ということで、いちまいいちまいをかみ締めながら、目下、のんびりのんびりと書いておりますゆえ、お手元に届きますのは、驚くほど遅くなろうやもしれません  それにしても、せめて年賀状をだせたらななぁ~と、おもう方々もあります  ご無事ですか?いつぞやは多大なご迷惑をかけてしまったやもしれません われながら、わたしの予測不能な、とんちんかん病は、やはり生まれついてのもののようでして... ただただ申し訳なく...  それでもまたいつか、どこかでお目にかかれるのではないのかしらん  と、ひたすらのん気におもっている自分の心が、わたし自身救いでもあり、呆諦の念でもあり...  懐かしくまたラウンドご一緒できたらいいですねと送りたい方がたくさんあります


賀状をかけないひとびとには、メッセージをなにかのかたちで届けられたらと思います  相変わらずののんびりペースで、かっこよさについて、書き溜めておけたら...というのが、今春の抱負ででしょうか^^;  もっとも、年が明け、締め切りがなくなった賀状同様... いったいいつになったら届くのでしょう... というのになるのは間違いない  気はするのですけれども....   どうかくれぐれもおからだ大事になさってください からだというのはこころのことで 心の声を素直に聴くということです  ちょっと無理とおもったらそくざにやめる!  お~これはいいぞ とおもったら迷わず進む! そのことが真にからだをだいじにするという意味です  おっと失礼 これは釈迦に説法でしたね   ともあれ 少しでもこころがうれしいと感じる時間をたいせつにしてください   そうすれば、いつかほっとできる時間がささやかでも訪れるのかなとおもいます  「生きてる間はひたすら静かに」 これが明けて最初にひらめいた自分自身への励ましの言葉  ともあれ また忘れたころにお便りしますm--m
いちねんまえであった男の子のことを思い出していた 3日間そのスタイルを目の当たりにして、とても印象に残った  たたずまいというには、あまりに若すぎるはずなのに、その美しさに感銘を受けたのだろう  静かな中の強さに感心した  それは自然に身についていったものなのか、それとももって生まれたものなのか   ほかの年齢だけははるかにおとなのひとたちよりも、遥かに大人のたたずまいをもっていた  幾つになってもおとなになれないひとがいる一方で、10代にしてはるかおとな以上の空気を身につけるというのは、いったいどういうのでしょうねぇ ともかく、たのしみというのは、こういう出会いをいうのかもしれませんねぇ

すぐひとは言って、いえおもってしまいます あと少し~であれば、あと少し~であれば...と。勝手に、こうだから、これは無理あれは不可能とおもってしまうのです それは、なぜでしょうねぇ 簡単でないことが簡単になされたらやっぱり戸惑うからでしょうか  同じようにたしかにおもっていました あと少し、体格がよければ...などと...。体感の太さだけで、大選手がきまらないことは、すでにどこを見ても明らかなのに....。ひとは、ともすると、自分が言われたり、そう思われたりしたら嫌なことを、気付かずに、しかも、自分はそんなこと決してしていないと確信をもってさえして、知らぬ間におなじようなかんがえ、おもいをしていることも、あるのですねぇ

ことばづかいは人格であると教えてくれたひとがありました まさにその通りだとつくづく感じるときがあります ただ相手がだれでもひたすら丁寧であればいいのでもないのだとわたしはおもいます そのちょっとしたさじ加減、相手にそれと気付かせぬ、ことばの選び方... つまりは、日々の息遣いのすべてにそのひとがあらわれるのかもしれません  日々の行い...なのでしょう ひとがみてるみてないでそれがかわるひともあるのかもしれません 面白いものでそれもとことん貫けばいつしか自分がそうしたいとすることを自分自身で常に否定していることになるのですから... (母がそうでした) かっこいいというのは自然体をいうのだと、わたしは思うのですが、それもつきつめると、細胞末端分子と空気の境目がわからなくなるように、どこまでがそれかなど、だれにもわからないといってしまえば、それはそうです

ともあれ かっこよくあるというのは、実にくるしくたいへんなこと... ほんとうにわかるひとにしかわからない、裏地の丹念な刺繍... みたいなものでしょうか  ただしいこと(ということじたいつきつめるとわからなくなりますが、ともあれ)と、きもちのいいこと、あっぱれなことが、ともすると、ときにまったく逆であったりもするのですから   これでいいのだ。これがたぶん自分のスタイルなのだ とおもえる(自信をもってそれと感じるというより、どこか一抹の諦念というか、哀愁めいた部分が多いようにもおもえますが)部分が少しでも感じられたら、それがかっこよさになるのではないでしょうか... とわたしはおもいます

というような、話とゴルフができるおんなのひとがもし、もしいるならば、地の果てまで言ってもぜひあってみたいとおもう.... 気もしますが、そもそも、たとえいても、おんなどうしになったとたん、そんな話にはならないのでしょうかしらん なぜなら、そんな女性ならきっとおそらく、ゴルフはかっこいいとのがたと過ごすものですから、なんでわざわざ女性なんかと...とおもうでしょうからねぇ  かっこよさとはきゅうきょくのやせがまんのさきにある...というのは、じょせいには通じないものなのでしょうかねぇ いえ、そんなことないと、かすかな希望はもってはいるのですけどねぇ(いえ、そのまえに、わたしの場合、自分も人間とおもっている犬みたいなところがあるからいけないのですかねぇ...)tomoare、ひとを、ひとの空気を作り出すものは、日々の(ささやかな)時間と空間の中にあるのでせうねぇ
料理とゴルフの共通点は、手際のよさ、それがすべてを決めること...なのかもしれません
潔さと段取りのよさと、そして根気のよさ...相反するいくつかを、そのときどきで要求されて、そしてそれはだれかが言ってくれるものではなくて、自分の感性だけを頼りに決めなきゃどうしようもない点...でしょうか  いつ打つ動きをはじめるか いつ火を止めるか  材料をどれだけ入れるか  いまはなにを優先させてどうするか  あえてことばにする必要も時間もないその、見えない刹那せつなに、実に多くのことに気をめぐらして、そして、一見なにごともなかったかのように、ひとつにきめて、それをする.....と、たぶん、いいものができるのだろうなぁ  とはおもいます
もっとも味覚を感じるそれとたまをうつ運動神経とが、どこまで共存するものかは、わかりませぬけれど...(ただ、おそろしく手際の悪いひとをみたら、ああこのひとの料理はタベタクナイナァとはおもいますねぇ もちろん口にはだしませんが....)

リズムというのはどこまでがせんてんてきなもので、どこまでが精進のなんとかなのかはわかりませぬけれど、ともあれ、リズムがかわればなにかがかわるのでしょうねぇ だれと一緒に食べるかで、おなじものをたべてもまったく味が違うのとおなじに、リズムとて、そも、そのときどきで、おなじくうかんをわけあうひとによっても、かわってくるものだとはおもいます だからというか、なのでというかはわかりませぬけれど、だれといてもリズムをかえないひとについては、不思議というか、ある意味、すごいなぁとはおもいます いえ、傍目にはそう見えても、やはり、そのひとなりに、そのたびになにかは違っているのかもしれませんが...


そんなことより。なぞがあります。はたして、自分より若くて?綺麗でとてももてるだろうなぁとおもえるじょせいに、こころからやさしくできるおんなのひとはいるのでしょうか?(もちろんははおやも含めてです) これはだれに訊いてもおそらくほんとうのことなどわかりえない質問だということはわかっているのですけれど...  誇りがあって矜持があって、含羞までなくてもいいから、それでも、ひととして、だれかを愛した自信があって、そして、同じようにわかさ(の苦悩)のなかにいるわかいひとに、まったいらなこころで接することのできるひと....いるのでしょうか もちろん、いてほしいなぁとはおもいます こころから  そういう意味でほんとうに、こころを許せるというのは、本来いせいしかないのでしょう というのが、わたしの勝手な思い込みによる仮説ですけれど  もっとも子どものころの親との関係性によるのもあるのでしょうかしらん  わたしのばあい、あまりにてんけいてきな毒りんご(母)に(おもに心的に)苦労を絶えずにあったからですかねぇ

自分でもおもいます ふつう(というのが何を指すのか考えてわかるものなどないですけれど)のひとよりわたしは、じょせいをこわがりすぎてると というより、距離を置くことにひたすら腐心していると  ときには、挨拶をしない!と、そのての女性に、あきらかにこちらが悪いという非難をひたすら浴び続けても、いっさい弁明しないで それでも自分のみを守ることを貫こうとするものだから  ひとよりいつも余計なわずらわしさをこうむる そんなときもあるのです  むしろわたしなどは、わたしを苦手とするひとが敬遠してくれたら、これさいわい 助かるなぁとこころからホッとするから、わたしに話しかけてもらえないと、わあわあと、あろうことか立場の違う人にまで愚痴をこぼすひとには、まったく閉口しきりですが、ともあれ ひとというのはことばで(あえて)いわないこと(いわなくてもわかるひとにはちゃんとわかること)のほうにこそ、ほんとうがあるような気がしてなりません

しっかし、おんなには、おそらくかみさまが定めた定年!があるからでしょうか、それとも、そもそもおんなというものは、およそ恥じらいといいますか品が少なくできているのでしょうか(もちろんひとによると信じたいですが)、実にかなしいことが多くあります  その厚かましさといったら、(と書いて、はたとしました、厚かましさの定義の問題かもしれまぬねぇ ともあれ)ありません。だから、女性だけがいる空間においては、挨拶うんぬんなどほんとうは問題の核心ではないのです(とわたしはおもいます)。定年したらみんなオスに成る!とは、おもいたくないですが、本来のしょうがでるのは確かなのかもしれません  気持ち悪いと感じるものは、理屈ではなくその通りであるわけで、ですから、それらから何を言われても身を守らねば始まらない  というのが、わかるひとにだけわかるその実際です

ほんに おとこをちゃんとアイセルおんなと、おんなを愛せるおとこのひとと 両方をできるひとはまぁ、別として、ともあれ、わたしがおんなだからかもしれませんが、ぜんしゃのほうが、あっとうてきに少ない  そんな気がしてなりません  だからおとこのひとのほうがずっとずっとたいへん...ということには確かになりますねぇ   そのこととおんなどうしのほんとうの友情が稀有なことと、これもやっぱり無縁ではないのですかねぇ  だから、ちゃんと愛せるおんなのほうは、ふだんそれほど着飾ったり色を顔に塗ったり、そんな必要はあまりないのではないかしらん....というのが、ただのひとりごと....なのであります
パリダカとエフワンだったら、どっちにでますか?
このまえ、車だったかカートだったかわすれましたが、ともかくハンドルを握っているときにふと思いました。男の子だったら、野球選手でも、船長さんでも、監督さんでもなく、ドライバーを目指していた、いえ、それに熱狂?していたかもしれないと....
あらゆるものが凝縮しているかにおもえるその“瞬間”瞬間に、そしてそのときに下す決断、judgeに、刹那身を任せる~、そんなどうしようもなく孤独で、でもそのときそのときは、孤独であるということなど考える暇などない そんなぎりぎりの瞬間が幾つもある(だろうと、勝手に思うのですが)つまり、瞬間の決断が常にいのちのあるなしとギリギリの瀬戸際にいるような....

なあんて、書いていくと自分で読んでも、あれあれ、と驚くほど大げさにも聴こえますが、ともあれ。あの、超高速の空間の中で次々と下す決断というのはどういうのでしょうねぇ...と、思うこと自体、確かにおよそ、おんなのこらしくない感覚なのかもしれないですねぇ  単なるスリルとはいえない極度の緊張と高揚と弛緩のなかにあるのでしょうかしら   もっとも、本来どこでなにをしていても、単にそれときづかずにいられるだけで、ひとはみな、知らないうちに多くのじゃっじをしているのですけれど   

いえ、またひとつ、書類上の数字が増えたにすぎませんが、ともあれ、たんに、ふと、ああ、確かに移動できる乗り物、どこにでもいける足となり風を感じさせてくれる乗り物は、やっぱりセクシーだなぁと、ショーウインドの中の、白のセダンを眺めながらふとそうおもった次第です。もっとも、こちらは、いまの自分にはとてもよく合ってると そうおもえる国産の名車で自宅に戻りながら...でしたが....

野生動物が獲物を追いかけるときの走りもあれば、反対に、必死で天敵から身を守るときの逃げの走りもあるのでしょうね 駆け引きといってしまえばそれまでですが、かぎとなるポイントのタイミングをつかめるセンスでしょうか ためされるというより、そうして、日々の時間のなかで、なにかが鍛えられる 気がつくと少しずつでも常に変わりつづけている...それが人生?なのでしょうか

一見、危険な瞬間が多く見えるエフワンですが、そして実際そうだとおもいますが、それでも、サーキットという守られた空間にいるわけです かたやもう一方は、ひとつまちがえたら、砂漠の中でじわりじわりと迫り来る時間の中で、動けなく危機と常に背中合わせ.... もっとも、これまでしななかったひとはたぶんひとりもいないのですから、それをおもうと、どこにいても、やっぱり同じ...ともいえなくもないですねぇ  いえなくもない.....  ほんと、いえってなんでしょうねぇ 砂漠でしょうかそれとも外界から守ってくれるサーキットでしょうか??
たしかに、あのころはなんの気兼ねもなく、おもうままこころのおもみをすこしでも軽くするみたいに、ひとりこうして家にもどるたびに、書いていましたね  ひとりでよくもまぁあんなに長いこと、おもいだけでがんばれたなぁ~っておもいます  それでも、そうやっておもえただけでいきられたのですから、つまり、そんなふうにおもわせてもらえて感謝だと、あらためておもいます

なにか、また誤解をうけることがあってはいけませんが、つまり、それでも、まだ坂の途中...なのは同じなのだとして  ほんとにわれながら、ひとはだれしも、しぬまでの人生なのですけれど ともあれ、その時間じかんがじんせいの一部なのでして... つらくないといえば、うそになりますが、おそらく、それでもいまの自分は自分が そうあれる範囲でそうありたいと、選んだ結果なのだろうとおもいます そういう意味では、悔いというのも、しようがないというか これはこれなのだなぁと おもうわけです

なにかをあきらめるというのは、わすれるとかはなれるとかそういうのではなくて、願いがかなわなくなるようなことをあえてしてしまうことのことを言うのだろうなぁと、内心だれにも言わずにおもっていたことがありますが それもひとつの言い訳、つまりはなにかを納得するための選択...そのときどきの結果なのでしょうかねぇ  もっとも、そうはいっても、どうにも逆らえない流れがある一方で、イメージできることがきっと時間を経て、不思議とやってくるのだろうなぁとは ゴルフをみてもそうおもうことも....ありますねぇ

わずかな過去を振り返って、ふと、いつも願いが大きいものほど、ふと、なにかがあっていったんはあきらめたとたんに、やってきたりして.... さすると、ひとはかなしいもので、今度もそうしたら、ひょっとしたら....なあんて、恣意的なことをおもっても、それはもうすでに、そこに別の意思があるわけですから、自然の流れとは違いますねぇ  つまりは、やっぱり、願いは、素直に願うしかないのでしょうねぇ そして、叶うもかなわぬも、それは運しだい...なのですかねぇ そう、ゴルフみたいに....

これが、ドラマのシナリオなら...なんておもしろいのでしょうって、ときどき、われながら、ほっとじぶんから離れておもいたくもなるのが正直なのですが、それとても、そうでもしないと、とてもこのはらはら続きには さすがにねぇって 我ながら、これは、いつかずっと先でも書くことで先の世代のだれかの役に立てるかも...  いえ、ごうまんですね そうではなく わたしにできるのはきっとそれくらいしかないのかも... いえ、それくらいといったら、書いておられる先輩のかたがたに失礼ですねm--m  

いきるとはどこまでも苦しいものですねぇ それでも、甲斐があるとおもえるひとがいるということ、ひととのであいがあるということ それでもうれしい瞬間もあるということ そういうことを 時間をかけて少しずつ、反物を一針ずつ 織って!?いくように、書いていくのがひとつの時間のつかい方なのかもしれないと、相変わらずの能天気と、昼寝する亀!のあたまでおもったりするときもあります  それでも もう少し我慢しないといけないのかもしれませんねぇ わかりませんが  ときがきたらそれとわかるものですかねぇ

と、また5年くらい書いていたらば、また少し、おもいがかたちを変えたりするのですかねぇ
30年かわらぬものは、どうにも変わりようがありませんが....^^;
m--m

人生のたいせつな局面で、ジョンQの主人公のような離れ業をやってのけられたら、ほんとうにあっぱれに違いないけれど さすがに、あんな夢のようなことはそうそう起こらない  とはいえ、あとになって振り返ってみれば、あれを奇跡といわずして、なにを~と、思えるようなことが、実は、そここにいくつも、あったことがわかる。気付かぬうちに選んでいたり、はたまた、おもっていたわけではないほうこうに、なにかが転がったりして、一時は、もうだめかとおもったつもりが、気付けばあれれ、ということもある。ともあれ。その渦中にあるときは、えてして、ひたすら苦しいだけで、はて、あとの残り時間をいかにしたらいいものか...あたまを抱えるばかりであったり、
うすうす自分でもわかっていながら、あえて厳しく狭く忙しすぎる空間に自分を押し込むことで、悠久(有給?遊休?かんじっておもろいでんな)のときを忘れることに成功している人もいる  のかもしれない。

ともあれ。いかようにもなる、ということは、どうにもならないとも、背中合わせでもあるし、一方で、その気にさえなれば、あるいは、その気になるきっかけさえあれば、どんなこともどうにでもなる はずである もっとも、思い通りというのが、長い目で結果的にいいことかどうかなど、だれにもわからぬ妙もある。かなしいかな。一喜一憂。なあんて、いってるうちに、人生の大半がすんでくれたら、いいのにとおもうときあれば、少しでも長く、あのひととのときを、その可能性を残していたいと、おもえる元気なときもある。はたまた。ほんとは、どうしようもなくせつなくて、どんなぎせいを払ってもいいからと、おもっているとしても、こころのどこかで、いや、流れに逆らわないのがいい。なにごとにも機があって、ことを急ぎすぎたら、せっかく成るはずのものさえ、たんめいにおわる...などと、わかったようなおりこうさんの声にこころが揺らぐ。バーディか、最初からあきらめて生涯安定のパーでいいと、自分に言い聞かせるか。


あいとにくしみはせなかあわせという歌詞がふと聴こえてくる たぶんそうなのだろう 想いは深すぎても煮詰まりすぎるし、はて、もし、ほんとうにだれもがうらやむようなことを長続きさせるのはなんと難しいことか だから、ときには、あえてそうでないふりまでせねばならぬのではあるまいか。ならば、最初からあと一歩のところで、多少の不自由にあえてありがたさを見出したほうがいいのではないだろか。『考えるヒント』を書かれた方が実際にそうぐうされた、窮地(ひとによるとあのかたちが究極のサンカク~だといわれるが)は、結局、おんなはどちらも選べなかったとききました。おんな冥利とは、一生いちずにだれかを思い続けられることなのかなぁ。それとも、恋に生き、ほんとに文字通りの命がけのそれをいとわぬひとのことなのですかねぇ。つまりは、どちらも、限りなく多くのおんなのてき?(といいますか、ようするにやきもちの対象)になることを、強いられるのでしょうねぇ。わかりませんが。

いずれにしても、どらえもんのしずかちゃんも、坊ちゃんにでてくるマドンナさんも(どちらも、男性が思い描く女性の理想像なのでしょうねぇ。)(そして、どちらにもお会いしたことないですけれども)もしいたら、ほんとうに、苦悩の連続なのかしらん。ともあれ。おとこのひとをほんとうにこころから好きとおもえるおんなというのは、年齢層があがるにつれて、少なくなってしまうものなのですかねぇ。でも、おられるところにはちゃんとおられる、というのが、きっと救いなのでせう。とはいえ、それとても、定義の問題で、受け止める側の感覚の問題、といってしまえば、どこまでがそうでどこまでがうつか、いえいえ、そうではなく、つまり、そういうことです?たぶんね。などと、書いたそばから、いま言った事をわすれているようなわたしが、ただのこころの体操なみの、気軽さで、こんなことを書くと、また、だいすきなひとのこころをひやひやさせてしまうのでしょう、などと、書くと、ほんとうにだいすぎな人がいまそばにいるのでは?とおもわれたらどうしましょう、なあんて、書いてる独白小説があったら、読んで観たいとおもってくれるひとはいますかねぇ???
18回もリセットできる時間の中に身をおけるのですから...なんど失敗しても必ず次にいける...ななんてすばらしいのでしょうねぇ 打つ順番がまわってくるのが、気がつけば...のときもあれば、わぁ~、いまはちょっとだけ力んでるなぁ~、自然に待ってるのもたのしい...と、一瞬待ってるのを忘れてるときのようには、自然体でいてないなぁ~と、おもっているときと...そのあいだの、いろいろと。そう、ともあれ。あの数時間の中に、ほんにさまざまな流れの瞬間が訪れるのでありまして。そして、その瞬間にしか吹かない風とか、景色とか、鳥の声とか...。

つまりは、なんでしょうねぇ。じんせいだけど、ほんとうのじんせいとはかんけいのない(状態でいられる)よくもわるくも、きちょうでほんにありがたい時間なのやみしれませぬ。ともあれ。そんなことをおもってる時点で忘れられているわけでないのを、確認しているのも含めて、せつな、日常のこまごまから、家族の心配から、ふと解放される時間もあり...。いえ、けっして忘れたいわけでわけではないのです。ただ。ひとつことにこころがいきすぎると、ほんに固まってしまうというか、わるいときには、自分ばかりを責めてしまう...そんなこんなから救われている時間...

このままではおわりたくない、なんて、なんて無知でばかやろうだった、わかいころに、ふと、おもいつきではじめてしまったものでありますが。そして。いつも、本格的に取り組もうするたびに、ご先祖から総反対!ともとれるよな気もする流れに遭う...そんなこんなで、それでも、いつでもそこにあるのが、それでしたねぇ この十数年はとくに...。とはいえ、人の集まるところ、嬉しい数と同じくらい、苦しいこともあるようで(もっとも、愛を読む人、映画ですが、には、愛と苦は同じ?とか、あ、それは一打を打つごとの時の同じですかしらん)、たいへんはつきものですが、それでも、それ以上にありがたい時間というのは確かにあるものですねぇ

ともあれ。気がつけばいまのスタイルです。それは人格と同じなのだと教えてもらいました。時間の遣い方とか、準備の手際とか、瞬間のひらめきなどは、なんと料理と同じだなぁ~と、どちらをしているときもおもうものですが...。ちょっとでもいい球を打ちたいとするあまり(ときに)、ふざけとんか、といわれそな数字がでているときもあるのです。決して、手を抜いているのとは違います。どれも、それぞれの瞬間にあった目的で、本気で一打に向かっているんです。ただ、無難に次を考えて(というのを)、あえてその都度しない、という、およそ、ひとにはなかなか理解されない時間なのでして...と、書いていて、おそろそしいことに気がつきました。いまここにかいたのは、これを書いてるひとの人生そのものではないかと、愕然とするのであります...
もう書いていないような感覚でいましたが、まだひとつきでしたか...こころのなかで、うかぶことば、zetsufuchyo...そのことばが浮かぶことは、気がつくとずいぶんと減ってはいますから、それなりに、慣れてきているのでしょうか。といっても、もののけさんだのいわれたら、そうかしらとおもえるほどのことかもしれず。くだりのかいだんをかつてのように走って降りられないのは、いったいなんのせいなのでしょうかねぇ からだのなかのなにがぬけたらこうなるのでしょうねぇ

すくなからずもののけさんのこうげきにひとりしずかにたえるしかないのときなのでしょう そうおもえば、ながれるときのおもさも、多少は耐えられる気もしますから不思議なものです もうなんかげつもおなじじょうたいがつづいているので、はて、気のせいなのだといわれたら、かえすことばもなく、ただ、げんきになりましたといえるまでは、ちんもくをかたくきめていたのに、はや、こうしてすこしだけ、とろのよっきゅうにまけているしだいです

このまえかたがいたく、てがしびれ、そしてたいおんもさがっているのは、こうじょうせんきのうがおちているせいという、もんしんてすとの番組をやっていましたねぇ びょうきは、なおりたいとおもわないとなおらないのでしょうねぇ このかたをずっとおおう重さはきっともののけさんだろうと、おもっているあいだはきっとそうなのでしょうし ひたすら待つしかないときもあるのでしょうねぇ それをいえば、もうさんじゅうねんもまっていますということになってしまうのですけれど

これいじょうすなおにかけそうにありません もうすこしちんもくのままつらいままいたい そんなかんじでいます  なにかへんかをおそれているといわれたらたぶんそうでしょう いまあるかけがえのないじかんがだいじだからこそ、たしょうつらくともこのままでよい そうおもうゆえのあれこれなのやもしれませぬ なんじゅうねんかかってもまっていたいとおもえるなにかがあるだけで そういいつづけてもいいのかもしれませんねぇ だれしも、だれにでも、そのひとにしかわからないなにかがあるものです