料理とゴルフの共通点は、手際のよさ、それがすべてを決めること...なのかもしれません
潔さと段取りのよさと、そして根気のよさ...相反するいくつかを、そのときどきで要求されて、そしてそれはだれかが言ってくれるものではなくて、自分の感性だけを頼りに決めなきゃどうしようもない点...でしょうか いつ打つ動きをはじめるか いつ火を止めるか 材料をどれだけ入れるか いまはなにを優先させてどうするか あえてことばにする必要も時間もないその、見えない刹那せつなに、実に多くのことに気をめぐらして、そして、一見なにごともなかったかのように、ひとつにきめて、それをする.....と、たぶん、いいものができるのだろうなぁ とはおもいます
もっとも味覚を感じるそれとたまをうつ運動神経とが、どこまで共存するものかは、わかりませぬけれど...(ただ、おそろしく手際の悪いひとをみたら、ああこのひとの料理はタベタクナイナァとはおもいますねぇ もちろん口にはだしませんが....)
リズムというのはどこまでがせんてんてきなもので、どこまでが精進のなんとかなのかはわかりませぬけれど、ともあれ、リズムがかわればなにかがかわるのでしょうねぇ だれと一緒に食べるかで、おなじものをたべてもまったく味が違うのとおなじに、リズムとて、そも、そのときどきで、おなじくうかんをわけあうひとによっても、かわってくるものだとはおもいます だからというか、なのでというかはわかりませぬけれど、だれといてもリズムをかえないひとについては、不思議というか、ある意味、すごいなぁとはおもいます いえ、傍目にはそう見えても、やはり、そのひとなりに、そのたびになにかは違っているのかもしれませんが...
そんなことより。なぞがあります。はたして、自分より若くて?綺麗でとてももてるだろうなぁとおもえるじょせいに、こころからやさしくできるおんなのひとはいるのでしょうか?(もちろんははおやも含めてです) これはだれに訊いてもおそらくほんとうのことなどわかりえない質問だということはわかっているのですけれど... 誇りがあって矜持があって、含羞までなくてもいいから、それでも、ひととして、だれかを愛した自信があって、そして、同じようにわかさ(の苦悩)のなかにいるわかいひとに、まったいらなこころで接することのできるひと....いるのでしょうか もちろん、いてほしいなぁとはおもいます こころから そういう意味でほんとうに、こころを許せるというのは、本来いせいしかないのでしょう というのが、わたしの勝手な思い込みによる仮説ですけれど もっとも子どものころの親との関係性によるのもあるのでしょうかしらん わたしのばあい、あまりにてんけいてきな毒りんご(母)に(おもに心的に)苦労を絶えずにあったからですかねぇ
自分でもおもいます ふつう(というのが何を指すのか考えてわかるものなどないですけれど)のひとよりわたしは、じょせいをこわがりすぎてると というより、距離を置くことにひたすら腐心していると ときには、挨拶をしない!と、そのての女性に、あきらかにこちらが悪いという非難をひたすら浴び続けても、いっさい弁明しないで それでも自分のみを守ることを貫こうとするものだから ひとよりいつも余計なわずらわしさをこうむる そんなときもあるのです むしろわたしなどは、わたしを苦手とするひとが敬遠してくれたら、これさいわい 助かるなぁとこころからホッとするから、わたしに話しかけてもらえないと、わあわあと、あろうことか立場の違う人にまで愚痴をこぼすひとには、まったく閉口しきりですが、ともあれ ひとというのはことばで(あえて)いわないこと(いわなくてもわかるひとにはちゃんとわかること)のほうにこそ、ほんとうがあるような気がしてなりません
しっかし、おんなには、おそらくかみさまが定めた定年!があるからでしょうか、それとも、そもそもおんなというものは、およそ恥じらいといいますか品が少なくできているのでしょうか(もちろんひとによると信じたいですが)、実にかなしいことが多くあります その厚かましさといったら、(と書いて、はたとしました、厚かましさの定義の問題かもしれまぬねぇ ともあれ)ありません。だから、女性だけがいる空間においては、挨拶うんぬんなどほんとうは問題の核心ではないのです(とわたしはおもいます)。定年したらみんなオスに成る!とは、おもいたくないですが、本来のしょうがでるのは確かなのかもしれません 気持ち悪いと感じるものは、理屈ではなくその通りであるわけで、ですから、それらから何を言われても身を守らねば始まらない というのが、わかるひとにだけわかるその実際です
ほんに おとこをちゃんとアイセルおんなと、おんなを愛せるおとこのひとと 両方をできるひとはまぁ、別として、ともあれ、わたしがおんなだからかもしれませんが、ぜんしゃのほうが、あっとうてきに少ない そんな気がしてなりません だからおとこのひとのほうがずっとずっとたいへん...ということには確かになりますねぇ そのこととおんなどうしのほんとうの友情が稀有なことと、これもやっぱり無縁ではないのですかねぇ だから、ちゃんと愛せるおんなのほうは、ふだんそれほど着飾ったり色を顔に塗ったり、そんな必要はあまりないのではないかしらん....というのが、ただのひとりごと....なのであります
潔さと段取りのよさと、そして根気のよさ...相反するいくつかを、そのときどきで要求されて、そしてそれはだれかが言ってくれるものではなくて、自分の感性だけを頼りに決めなきゃどうしようもない点...でしょうか いつ打つ動きをはじめるか いつ火を止めるか 材料をどれだけ入れるか いまはなにを優先させてどうするか あえてことばにする必要も時間もないその、見えない刹那せつなに、実に多くのことに気をめぐらして、そして、一見なにごともなかったかのように、ひとつにきめて、それをする.....と、たぶん、いいものができるのだろうなぁ とはおもいます
もっとも味覚を感じるそれとたまをうつ運動神経とが、どこまで共存するものかは、わかりませぬけれど...(ただ、おそろしく手際の悪いひとをみたら、ああこのひとの料理はタベタクナイナァとはおもいますねぇ もちろん口にはだしませんが....)
リズムというのはどこまでがせんてんてきなもので、どこまでが精進のなんとかなのかはわかりませぬけれど、ともあれ、リズムがかわればなにかがかわるのでしょうねぇ だれと一緒に食べるかで、おなじものをたべてもまったく味が違うのとおなじに、リズムとて、そも、そのときどきで、おなじくうかんをわけあうひとによっても、かわってくるものだとはおもいます だからというか、なのでというかはわかりませぬけれど、だれといてもリズムをかえないひとについては、不思議というか、ある意味、すごいなぁとはおもいます いえ、傍目にはそう見えても、やはり、そのひとなりに、そのたびになにかは違っているのかもしれませんが...
そんなことより。なぞがあります。はたして、自分より若くて?綺麗でとてももてるだろうなぁとおもえるじょせいに、こころからやさしくできるおんなのひとはいるのでしょうか?(もちろんははおやも含めてです) これはだれに訊いてもおそらくほんとうのことなどわかりえない質問だということはわかっているのですけれど... 誇りがあって矜持があって、含羞までなくてもいいから、それでも、ひととして、だれかを愛した自信があって、そして、同じようにわかさ(の苦悩)のなかにいるわかいひとに、まったいらなこころで接することのできるひと....いるのでしょうか もちろん、いてほしいなぁとはおもいます こころから そういう意味でほんとうに、こころを許せるというのは、本来いせいしかないのでしょう というのが、わたしの勝手な思い込みによる仮説ですけれど もっとも子どものころの親との関係性によるのもあるのでしょうかしらん わたしのばあい、あまりにてんけいてきな毒りんご(母)に(おもに心的に)苦労を絶えずにあったからですかねぇ
自分でもおもいます ふつう(というのが何を指すのか考えてわかるものなどないですけれど)のひとよりわたしは、じょせいをこわがりすぎてると というより、距離を置くことにひたすら腐心していると ときには、挨拶をしない!と、そのての女性に、あきらかにこちらが悪いという非難をひたすら浴び続けても、いっさい弁明しないで それでも自分のみを守ることを貫こうとするものだから ひとよりいつも余計なわずらわしさをこうむる そんなときもあるのです むしろわたしなどは、わたしを苦手とするひとが敬遠してくれたら、これさいわい 助かるなぁとこころからホッとするから、わたしに話しかけてもらえないと、わあわあと、あろうことか立場の違う人にまで愚痴をこぼすひとには、まったく閉口しきりですが、ともあれ ひとというのはことばで(あえて)いわないこと(いわなくてもわかるひとにはちゃんとわかること)のほうにこそ、ほんとうがあるような気がしてなりません
しっかし、おんなには、おそらくかみさまが定めた定年!があるからでしょうか、それとも、そもそもおんなというものは、およそ恥じらいといいますか品が少なくできているのでしょうか(もちろんひとによると信じたいですが)、実にかなしいことが多くあります その厚かましさといったら、(と書いて、はたとしました、厚かましさの定義の問題かもしれまぬねぇ ともあれ)ありません。だから、女性だけがいる空間においては、挨拶うんぬんなどほんとうは問題の核心ではないのです(とわたしはおもいます)。定年したらみんなオスに成る!とは、おもいたくないですが、本来のしょうがでるのは確かなのかもしれません 気持ち悪いと感じるものは、理屈ではなくその通りであるわけで、ですから、それらから何を言われても身を守らねば始まらない というのが、わかるひとにだけわかるその実際です
ほんに おとこをちゃんとアイセルおんなと、おんなを愛せるおとこのひとと 両方をできるひとはまぁ、別として、ともあれ、わたしがおんなだからかもしれませんが、ぜんしゃのほうが、あっとうてきに少ない そんな気がしてなりません だからおとこのひとのほうがずっとずっとたいへん...ということには確かになりますねぇ そのこととおんなどうしのほんとうの友情が稀有なことと、これもやっぱり無縁ではないのですかねぇ だから、ちゃんと愛せるおんなのほうは、ふだんそれほど着飾ったり色を顔に塗ったり、そんな必要はあまりないのではないかしらん....というのが、ただのひとりごと....なのであります