人生のたいせつな局面で、ジョンQの主人公のような離れ業をやってのけられたら、ほんとうにあっぱれに違いないけれど さすがに、あんな夢のようなことはそうそう起こらない とはいえ、あとになって振り返ってみれば、あれを奇跡といわずして、なにを~と、思えるようなことが、実は、そここにいくつも、あったことがわかる。気付かぬうちに選んでいたり、はたまた、おもっていたわけではないほうこうに、なにかが転がったりして、一時は、もうだめかとおもったつもりが、気付けばあれれ、ということもある。ともあれ。その渦中にあるときは、えてして、ひたすら苦しいだけで、はて、あとの残り時間をいかにしたらいいものか...あたまを抱えるばかりであったり、
うすうす自分でもわかっていながら、あえて厳しく狭く忙しすぎる空間に自分を押し込むことで、悠久(有給?遊休?かんじっておもろいでんな)のときを忘れることに成功している人もいる のかもしれない。
ともあれ。いかようにもなる、ということは、どうにもならないとも、背中合わせでもあるし、一方で、その気にさえなれば、あるいは、その気になるきっかけさえあれば、どんなこともどうにでもなる はずである もっとも、思い通りというのが、長い目で結果的にいいことかどうかなど、だれにもわからぬ妙もある。かなしいかな。一喜一憂。なあんて、いってるうちに、人生の大半がすんでくれたら、いいのにとおもうときあれば、少しでも長く、あのひととのときを、その可能性を残していたいと、おもえる元気なときもある。はたまた。ほんとは、どうしようもなくせつなくて、どんなぎせいを払ってもいいからと、おもっているとしても、こころのどこかで、いや、流れに逆らわないのがいい。なにごとにも機があって、ことを急ぎすぎたら、せっかく成るはずのものさえ、たんめいにおわる...などと、わかったようなおりこうさんの声にこころが揺らぐ。バーディか、最初からあきらめて生涯安定のパーでいいと、自分に言い聞かせるか。
あいとにくしみはせなかあわせという歌詞がふと聴こえてくる たぶんそうなのだろう 想いは深すぎても煮詰まりすぎるし、はて、もし、ほんとうにだれもがうらやむようなことを長続きさせるのはなんと難しいことか だから、ときには、あえてそうでないふりまでせねばならぬのではあるまいか。ならば、最初からあと一歩のところで、多少の不自由にあえてありがたさを見出したほうがいいのではないだろか。『考えるヒント』を書かれた方が実際にそうぐうされた、窮地(ひとによるとあのかたちが究極のサンカク~だといわれるが)は、結局、おんなはどちらも選べなかったとききました。おんな冥利とは、一生いちずにだれかを思い続けられることなのかなぁ。それとも、恋に生き、ほんとに文字通りの命がけのそれをいとわぬひとのことなのですかねぇ。つまりは、どちらも、限りなく多くのおんなのてき?(といいますか、ようするにやきもちの対象)になることを、強いられるのでしょうねぇ。わかりませんが。
いずれにしても、どらえもんのしずかちゃんも、坊ちゃんにでてくるマドンナさんも(どちらも、男性が思い描く女性の理想像なのでしょうねぇ。)(そして、どちらにもお会いしたことないですけれども)もしいたら、ほんとうに、苦悩の連続なのかしらん。ともあれ。おとこのひとをほんとうにこころから好きとおもえるおんなというのは、年齢層があがるにつれて、少なくなってしまうものなのですかねぇ。でも、おられるところにはちゃんとおられる、というのが、きっと救いなのでせう。とはいえ、それとても、定義の問題で、受け止める側の感覚の問題、といってしまえば、どこまでがそうでどこまでがうつか、いえいえ、そうではなく、つまり、そういうことです?たぶんね。などと、書いたそばから、いま言った事をわすれているようなわたしが、ただのこころの体操なみの、気軽さで、こんなことを書くと、また、だいすきなひとのこころをひやひやさせてしまうのでしょう、などと、書くと、ほんとうにだいすぎな人がいまそばにいるのでは?とおもわれたらどうしましょう、なあんて、書いてる独白小説があったら、読んで観たいとおもってくれるひとはいますかねぇ???
うすうす自分でもわかっていながら、あえて厳しく狭く忙しすぎる空間に自分を押し込むことで、悠久(有給?遊休?かんじっておもろいでんな)のときを忘れることに成功している人もいる のかもしれない。
ともあれ。いかようにもなる、ということは、どうにもならないとも、背中合わせでもあるし、一方で、その気にさえなれば、あるいは、その気になるきっかけさえあれば、どんなこともどうにでもなる はずである もっとも、思い通りというのが、長い目で結果的にいいことかどうかなど、だれにもわからぬ妙もある。かなしいかな。一喜一憂。なあんて、いってるうちに、人生の大半がすんでくれたら、いいのにとおもうときあれば、少しでも長く、あのひととのときを、その可能性を残していたいと、おもえる元気なときもある。はたまた。ほんとは、どうしようもなくせつなくて、どんなぎせいを払ってもいいからと、おもっているとしても、こころのどこかで、いや、流れに逆らわないのがいい。なにごとにも機があって、ことを急ぎすぎたら、せっかく成るはずのものさえ、たんめいにおわる...などと、わかったようなおりこうさんの声にこころが揺らぐ。バーディか、最初からあきらめて生涯安定のパーでいいと、自分に言い聞かせるか。
あいとにくしみはせなかあわせという歌詞がふと聴こえてくる たぶんそうなのだろう 想いは深すぎても煮詰まりすぎるし、はて、もし、ほんとうにだれもがうらやむようなことを長続きさせるのはなんと難しいことか だから、ときには、あえてそうでないふりまでせねばならぬのではあるまいか。ならば、最初からあと一歩のところで、多少の不自由にあえてありがたさを見出したほうがいいのではないだろか。『考えるヒント』を書かれた方が実際にそうぐうされた、窮地(ひとによるとあのかたちが究極のサンカク~だといわれるが)は、結局、おんなはどちらも選べなかったとききました。おんな冥利とは、一生いちずにだれかを思い続けられることなのかなぁ。それとも、恋に生き、ほんとに文字通りの命がけのそれをいとわぬひとのことなのですかねぇ。つまりは、どちらも、限りなく多くのおんなのてき?(といいますか、ようするにやきもちの対象)になることを、強いられるのでしょうねぇ。わかりませんが。
いずれにしても、どらえもんのしずかちゃんも、坊ちゃんにでてくるマドンナさんも(どちらも、男性が思い描く女性の理想像なのでしょうねぇ。)(そして、どちらにもお会いしたことないですけれども)もしいたら、ほんとうに、苦悩の連続なのかしらん。ともあれ。おとこのひとをほんとうにこころから好きとおもえるおんなというのは、年齢層があがるにつれて、少なくなってしまうものなのですかねぇ。でも、おられるところにはちゃんとおられる、というのが、きっと救いなのでせう。とはいえ、それとても、定義の問題で、受け止める側の感覚の問題、といってしまえば、どこまでがそうでどこまでがうつか、いえいえ、そうではなく、つまり、そういうことです?たぶんね。などと、書いたそばから、いま言った事をわすれているようなわたしが、ただのこころの体操なみの、気軽さで、こんなことを書くと、また、だいすきなひとのこころをひやひやさせてしまうのでしょう、などと、書くと、ほんとうにだいすぎな人がいまそばにいるのでは?とおもわれたらどうしましょう、なあんて、書いてる独白小説があったら、読んで観たいとおもってくれるひとはいますかねぇ???