いちねんまえであった男の子のことを思い出していた 3日間そのスタイルを目の当たりにして、とても印象に残った たたずまいというには、あまりに若すぎるはずなのに、その美しさに感銘を受けたのだろう 静かな中の強さに感心した それは自然に身についていったものなのか、それとももって生まれたものなのか ほかの年齢だけははるかにおとなのひとたちよりも、遥かに大人のたたずまいをもっていた 幾つになってもおとなになれないひとがいる一方で、10代にしてはるかおとな以上の空気を身につけるというのは、いったいどういうのでしょうねぇ ともかく、たのしみというのは、こういう出会いをいうのかもしれませんねぇ
すぐひとは言って、いえおもってしまいます あと少し~であれば、あと少し~であれば...と。勝手に、こうだから、これは無理あれは不可能とおもってしまうのです それは、なぜでしょうねぇ 簡単でないことが簡単になされたらやっぱり戸惑うからでしょうか 同じようにたしかにおもっていました あと少し、体格がよければ...などと...。体感の太さだけで、大選手がきまらないことは、すでにどこを見ても明らかなのに....。ひとは、ともすると、自分が言われたり、そう思われたりしたら嫌なことを、気付かずに、しかも、自分はそんなこと決してしていないと確信をもってさえして、知らぬ間におなじようなかんがえ、おもいをしていることも、あるのですねぇ
ことばづかいは人格であると教えてくれたひとがありました まさにその通りだとつくづく感じるときがあります ただ相手がだれでもひたすら丁寧であればいいのでもないのだとわたしはおもいます そのちょっとしたさじ加減、相手にそれと気付かせぬ、ことばの選び方... つまりは、日々の息遣いのすべてにそのひとがあらわれるのかもしれません 日々の行い...なのでしょう ひとがみてるみてないでそれがかわるひともあるのかもしれません 面白いものでそれもとことん貫けばいつしか自分がそうしたいとすることを自分自身で常に否定していることになるのですから... (母がそうでした) かっこいいというのは自然体をいうのだと、わたしは思うのですが、それもつきつめると、細胞末端分子と空気の境目がわからなくなるように、どこまでがそれかなど、だれにもわからないといってしまえば、それはそうです
ともあれ かっこよくあるというのは、実にくるしくたいへんなこと... ほんとうにわかるひとにしかわからない、裏地の丹念な刺繍... みたいなものでしょうか ただしいこと(ということじたいつきつめるとわからなくなりますが、ともあれ)と、きもちのいいこと、あっぱれなことが、ともすると、ときにまったく逆であったりもするのですから これでいいのだ。これがたぶん自分のスタイルなのだ とおもえる(自信をもってそれと感じるというより、どこか一抹の諦念というか、哀愁めいた部分が多いようにもおもえますが)部分が少しでも感じられたら、それがかっこよさになるのではないでしょうか... とわたしはおもいます
というような、話とゴルフができるおんなのひとがもし、もしいるならば、地の果てまで言ってもぜひあってみたいとおもう.... 気もしますが、そもそも、たとえいても、おんなどうしになったとたん、そんな話にはならないのでしょうかしらん なぜなら、そんな女性ならきっとおそらく、ゴルフはかっこいいとのがたと過ごすものですから、なんでわざわざ女性なんかと...とおもうでしょうからねぇ かっこよさとはきゅうきょくのやせがまんのさきにある...というのは、じょせいには通じないものなのでしょうかねぇ いえ、そんなことないと、かすかな希望はもってはいるのですけどねぇ(いえ、そのまえに、わたしの場合、自分も人間とおもっている犬みたいなところがあるからいけないのですかねぇ...)tomoare、ひとを、ひとの空気を作り出すものは、日々の(ささやかな)時間と空間の中にあるのでせうねぇ
すぐひとは言って、いえおもってしまいます あと少し~であれば、あと少し~であれば...と。勝手に、こうだから、これは無理あれは不可能とおもってしまうのです それは、なぜでしょうねぇ 簡単でないことが簡単になされたらやっぱり戸惑うからでしょうか 同じようにたしかにおもっていました あと少し、体格がよければ...などと...。体感の太さだけで、大選手がきまらないことは、すでにどこを見ても明らかなのに....。ひとは、ともすると、自分が言われたり、そう思われたりしたら嫌なことを、気付かずに、しかも、自分はそんなこと決してしていないと確信をもってさえして、知らぬ間におなじようなかんがえ、おもいをしていることも、あるのですねぇ
ことばづかいは人格であると教えてくれたひとがありました まさにその通りだとつくづく感じるときがあります ただ相手がだれでもひたすら丁寧であればいいのでもないのだとわたしはおもいます そのちょっとしたさじ加減、相手にそれと気付かせぬ、ことばの選び方... つまりは、日々の息遣いのすべてにそのひとがあらわれるのかもしれません 日々の行い...なのでしょう ひとがみてるみてないでそれがかわるひともあるのかもしれません 面白いものでそれもとことん貫けばいつしか自分がそうしたいとすることを自分自身で常に否定していることになるのですから... (母がそうでした) かっこいいというのは自然体をいうのだと、わたしは思うのですが、それもつきつめると、細胞末端分子と空気の境目がわからなくなるように、どこまでがそれかなど、だれにもわからないといってしまえば、それはそうです
ともあれ かっこよくあるというのは、実にくるしくたいへんなこと... ほんとうにわかるひとにしかわからない、裏地の丹念な刺繍... みたいなものでしょうか ただしいこと(ということじたいつきつめるとわからなくなりますが、ともあれ)と、きもちのいいこと、あっぱれなことが、ともすると、ときにまったく逆であったりもするのですから これでいいのだ。これがたぶん自分のスタイルなのだ とおもえる(自信をもってそれと感じるというより、どこか一抹の諦念というか、哀愁めいた部分が多いようにもおもえますが)部分が少しでも感じられたら、それがかっこよさになるのではないでしょうか... とわたしはおもいます
というような、話とゴルフができるおんなのひとがもし、もしいるならば、地の果てまで言ってもぜひあってみたいとおもう.... 気もしますが、そもそも、たとえいても、おんなどうしになったとたん、そんな話にはならないのでしょうかしらん なぜなら、そんな女性ならきっとおそらく、ゴルフはかっこいいとのがたと過ごすものですから、なんでわざわざ女性なんかと...とおもうでしょうからねぇ かっこよさとはきゅうきょくのやせがまんのさきにある...というのは、じょせいには通じないものなのでしょうかねぇ いえ、そんなことないと、かすかな希望はもってはいるのですけどねぇ(いえ、そのまえに、わたしの場合、自分も人間とおもっている犬みたいなところがあるからいけないのですかねぇ...)tomoare、ひとを、ひとの空気を作り出すものは、日々の(ささやかな)時間と空間の中にあるのでせうねぇ