もう書いていないような感覚でいましたが、まだひとつきでしたか...こころのなかで、うかぶことば、zetsufuchyo...そのことばが浮かぶことは、気がつくとずいぶんと減ってはいますから、それなりに、慣れてきているのでしょうか。といっても、もののけさんだのいわれたら、そうかしらとおもえるほどのことかもしれず。くだりのかいだんをかつてのように走って降りられないのは、いったいなんのせいなのでしょうかねぇ からだのなかのなにがぬけたらこうなるのでしょうねぇ

すくなからずもののけさんのこうげきにひとりしずかにたえるしかないのときなのでしょう そうおもえば、ながれるときのおもさも、多少は耐えられる気もしますから不思議なものです もうなんかげつもおなじじょうたいがつづいているので、はて、気のせいなのだといわれたら、かえすことばもなく、ただ、げんきになりましたといえるまでは、ちんもくをかたくきめていたのに、はや、こうしてすこしだけ、とろのよっきゅうにまけているしだいです

このまえかたがいたく、てがしびれ、そしてたいおんもさがっているのは、こうじょうせんきのうがおちているせいという、もんしんてすとの番組をやっていましたねぇ びょうきは、なおりたいとおもわないとなおらないのでしょうねぇ このかたをずっとおおう重さはきっともののけさんだろうと、おもっているあいだはきっとそうなのでしょうし ひたすら待つしかないときもあるのでしょうねぇ それをいえば、もうさんじゅうねんもまっていますということになってしまうのですけれど

これいじょうすなおにかけそうにありません もうすこしちんもくのままつらいままいたい そんなかんじでいます  なにかへんかをおそれているといわれたらたぶんそうでしょう いまあるかけがえのないじかんがだいじだからこそ、たしょうつらくともこのままでよい そうおもうゆえのあれこれなのやもしれませぬ なんじゅうねんかかってもまっていたいとおもえるなにかがあるだけで そういいつづけてもいいのかもしれませんねぇ だれしも、だれにでも、そのひとにしかわからないなにかがあるものです