庭の紅梅が、ふっくらとしたつぼみを膨らませています。花びらがまあるいからでしょうか。視界に映ってくれるだけで、ほっこりとしたあったかい気持ちを運んでくれるような。そんな気がしています。

これほど間が空いたのも、はじめてかもしれませんね。苦しい冬でした。まぁ、例年のこととはいえ、ことしのそれは、簡単にことばにしたくないような、それでいて、こころのそこからだれかに聴いてもらいたいと願っているような、そんな記憶と想いと、想い出がときおり、不意に胸に去来して。いたたまれないような。どうしようもないむなしさのような。戻らない時間のざんこくの前に、なすすべなく立ちすくんでいるような。そんなおもいがいくつもありました。

時間というのものの、果てしなさと、あっけなさと、そしてそれでもそこにいつもある、ありがたさとにくたらしさと、むごさと、やさしさと、いとおしさと、ありとあらゆる感情のいりまじった、そんな時の流れ方というのが、あるのだとわかって、まだ知らないことがたくさんあるのかもしれないという、たのしみと同時にこわさと、おそれの入り混じった... そんな時間をいくつも感じていたようにおもいます。

家族のこといがいに、することがほかにあるとはとてもおもえない、そう、幾度も幾度も繰り返しこころでつぶやいていました。ほかに、なにをどうしたらいいのいうのだろうと、そういうむなしさをこころで幾度繰り返したことでしょう。それを打ち明けると、「生きるしかないのです」などという、当たり前だけど強すぎてかえって起き上がれなくなってしまうような返事がかえってこないという安心できるところにだけ、こころを開いて話せる... ときもあるのかもしれません。

ひとに優しい気持ちを、つかの間思い出してもらえるような、そんなやわらかな梅のつぼみのような短編をいつか、書けたらいいなとは正直おもいねがっていますが。いつのことやらです。果たして、それをどう書いて、どこにとおもうと、気が重くなって。まぁいいかと、おもってしまいます。ずっと書きためておくのも悪くないとおもったりもして。いつかまた、であって話をする機会がもてたらいいなとおもう方がたくさんあります。その方々にもし、わずかでも読んでもらえたらと書いています。

もうひとりのたいせつなひとが逝ってから21年が過ぎました。もっと話したいこと、訊きたいことがやまほどあったのにとおもいます。そのひとの昔を知っている人を、訪ねていきたいとこの春思いました。戦争前、戦争の後。とはいえ、いざとなると、まぁいいかと、こたつに座ったまま動けなくなるわたしです。ああ、さむがいてくれたらなぁ~。いっしょに海まで歩いて、いろんな話をして、砂浜を気持ちよさそに、走り回って~。さむが風のようにいなくなってから、もう、8回目の春を迎えます。いまだに、春の検診と登録の案内のはがきが送られてくるのが、うれしくもあり。さびしくもあり。

と、いうことをこころに浮かぶままに、こうしてここに書けるほどには、少しだけ元気になることができましたm--m。でも、こころのどこかで、元気になれたらなれたで、また、揺り戻されて元気をなくすのではないかという、不安は、やっぱりやっぱりなくはなくて。ふわふわそわそわとあいかわらずのつなわたりのような現実はかわりはないのですけれども。ともあれ。それでも。なんとかかんとかいきてますm--m。(年賀状を下さった方に、それぞれお便りを書いていきたいと、おもっていますm--m)。
とてもつらい一年でした…周りの助けもあって、少し元気になれてる時間もあったのですが、すぐにまた元気をなくしてしまいました

なにもできない自分を責めてばかりいました…
いまは安定して落ち込んでいる…感じです
当初は、元気になれてたころを思い返しては…いまとの落差にさらに落ち込みを深めたりしていましたが…いまは…、それもなくこのまま静かにいるのがいいと思っている…安定的底辺…みたいです


ひとは、苦労できるから頑張れるのですね
それがなくなると、なにもできなくなるのだとしり愕然としました…


悩む元気がなくなると…不思議と落ち着いて落ち込めるのかもしれないです


ものすごく助けをもとめたく感じてるときもありましたが…いまは…、何かをのぞむからつらいのだろうという風です…


いつか、没頭して…書いていられる時間を少しでも持てたらいいなとは、少し願ってはいますが…


どうやったら生きていかれるのだろう…というなやみかたはしなくなりました…

ただ、ひとりの時間が長くなるとき…、こんな感覚のありかたを同じようなことばで話せる時間が、あと少し持てたらいいなと、願ってしまうときもあるんです…


誰かの話に耳を傾けるというのは、とてつもなく難しくて、できるひとがいかに僅かであるかを~


待つだけで、和らぐものがほんの少しでもあってくれたら…いいですね


うまく書けなくてごめんなさいm(__)m
わたしはものを考えられないのかと、自分でも苦笑したくなります。書いているときだけ、素直になれるというのでしょうか。もちろん、ふだん口にすることも気持ちのままなのですけれども。書いているときだけ、言葉がもっと自然なところから出てくる気がするのです。ところが。改めて、何かを書こうとしたとたんに、何もかけなくなってしまう。なんででしょうね。自然体、ではなくなるからでしょうか。

落ち着きましたか?そうよく訊かれます。しかし、なにがどうなったら落ち着いたといえるのでしょう。時が過ぎて、「あ~そういえば、いま忘れてたなぁ」そうおもうことがよくあります。つまり、その都度、いまはちょっとだけホッとできてたのだと、確認しているくらいですから、とても、そんな引っ越しの荷物みたいに、かたずけておちつきましたなんて、いえるわけもありません。「これからどうするのでしょう?」自分でもいつもそう思います。

もう、なんにも出来ないとおもうときと、ひょっとしたら、そのうち、なにかをする元気がうまれるかもしれない、そうおもえるときとがあります。しかし、まだ、いまは残り時間の多さに、気が遠くなることはあっても、時間の多さを楽しみにできるほどの元気はまだでてきません。でてこないものを、無理矢理ひっぱりだそうとしても、こころがつぶれるだけですから、どうしたものかと、自然にでてくるつぶやきのままに、時間のなかに、なんとかとどまっている、といったところでしょうか。

海外などを旅して、ひととであうのを映している番組を見ると、「あ~いいなぁ」とは思えますから、まだ希望がなくなったわけではないのでしょうが、いますぐ、なにかを目指して頑張る!とはなりそうにないですねぇ。ひとは、いざしばるものから解放された途端に、ほんとうになにがしたかったのかわからなくなることもあるのかもしれません。正直、いまはがんばるということばさえ、そばに置きたくない、そんな気持ちです。

とはいえ、生きる気力もないというのでもありません。そういうのとは根本的に違う、そういうマイナスのエネルギーさえない、といえば、さらに聞こえは悪いかもしれませんが、つまりは、冬眠中の生き物のような、そんな感覚です。いざ、書こうとすると、余所行きの文など書けないと思ってしまう、この心理状態がかわるなにかはいつか産まれるのでしょうか。それなら、ブログのような日記形式で書けばいい、そういう心の声もきこえますが、いざとなると。。。

やはり、伝えたい誰か、伝えたいなにか、それが具体的にないとだめなのでしょうね。ゴルフについて、実際にしているひとにしかわからない感覚を書いていけば、さぞ面白いだろうな~あ、とは思います。あとは、きっかけなのでしょうか。いいスコアがでたら、いい内容のゴルフができたら、確かにうれしさはありますが、なにか、もうひとつゴルフをする動機が産まれてこないのです。いま、わたしにできることはこれしかないからなぁという冴えない感覚のうちは、いいゴルフができそうにありませんし。ゴルフも人生と、旅と同じで、だれとするかがすべての気がするわたしですから、それでもって戦いの場にでていくことに、今も疑問が残っています。

ゴルフの雑誌を作りたい、そんなことを勢いよくおもっていたころもありました。いまは、それさえ、気持ちをもって言えないような状態です。とはいえ、あのドライバーショットをお見せしないまま、ゴルフをやめてしまうのも、確かにもったいないとは、おもいます。自分で言うのもなんですけれど。飛んでいく球はそのひとそのものであり、その飛球をみて、ああいいなぁとおもえるひととのラウンドは、確かに味わい深く、その日いちにちがとても有意義におもえるものです。なにを、どうやったら、何かの役に立てるのでしょうか?なるたけ、目立たず、ささやかに、なにかの役に立てたら、いいのですが。。。
ぶりになりますね
ずっと書けずにいた理由は、自分でもよくわからずにいます

パソコンが調子悪くなってしまい、携帯で書いています

こんなことを言うと、だれかをせめているように聞こえはしませんでしょうかと、とても心配ですけれども、そうではなく、ただ自分のなかで、あともう少しおだやかにいかせてあげるすべはなかったのだろうかと、そのことにこころがむくと、つらくてうまく気持ちを立て直せずにいます


つらいのは、そのことではなく、そういうことを言葉に出して、話せることが、できないことからかもしれません


これまで、ずっと先送りにしてきたことに、直面して~、どうにもできずにいることが~つらいのかもしれません


いえ、そうではなく、なにかをがんばりたいとはどうにもおもえないでいることがつらいのか~、はたまた、目に見えるほうの生きるかてではなく、そうではないほうの、いきるすべがわからずにいるからかもしれません


自分でも…、わからないままに…、なにかがうまくできなくて~くるしく思ってしまうのかもしれません


あんなにたくさん、あとからあとから書けていたころがなつかしいです


いまある時間のなかでも、充分にめぐまれているし、感謝もしているんです…


ただ…、どうしたら…いきていけるのでしょうか?…と、目に見えるかてのことではないことについてを…、あれからずっと考えているようにおもいます…
たいせつなひとがゆきました...
とうぶんしばらくあともうすこしはかくまいとおもっていたのですけれど...

たとえばそれがにくしみであってもなんでも、そのつまり、きもちというものをぶつけられる相手がいるということは、もうそれだけでどれほどありがたいことかとわかります

たとえばそれがまったくもうことばをはっすることができないひとであったとしてもです ことばはひとつにすぎないので そこにいれば片方がことばを発しなくても充分にやりとりはできるんです

ただ、ほんとうにすなおなことばをだせるようになるまでに ものすごくおおくのじかんとぎせいとそのほかおそろしいほどとほうもないくろうがひつようだったりするところが 

せつなすぎるところなのかもしれませんね それでもあらゆることをひっくるめて感謝したいと
思えるということや 苦しすぎる想いにむしろ支えられてこうして毎日があることの奇跡に

ふときづいたとき、ひとは過ぎた時間をもうもどせないことに愕然して でもまただから生きられるのかもしれないと またせつなさとかなしみを かけがえなのないひとにむけておもうのかも

しれないですね  かなしみはむしろ安定のすぐそばにあるのでしょうか よろこびのほうが不安定、あぶなかっしさの近くなのでしょうか と思いました

しずかなかなしみにふけっていられるときのほうが こころはむしろ穏やかでいられる気がして...
それはもちろんふかすぎるかなしみにおちこまずにいられるからで...

それはかけがえなのないささえがちかくにあってのことで... もしそれがなければ、のどかに安定のそばにいるなんてとてもいえなかったかもしれません...

ともあれ、書き始める前にこころに次々浮かんでくる語調とは、少し違ったものになっていますが
ともあれ、それらもぜんぶひっくるめてがいまのほんとうであることには変わりなく...

ひたすら、かなしいだけというのではない気もしますが、ともあれ、いまは、この時間の流れのすべてが ともかくたいせつで... 

おもいは...つのりすぎるとかえってことばはでてこなくなるのかもしれないです というより、ぜんぶをいってしまうと なくしたくないものがとんでいってしまそうでこわいのかもしれないですね

(それでも、まだすこし、きどってかいているのかもしれないと自分でおもいます でも恐らく書くということはなにかを少し呑み易く薄めるということと似ていることの気もして...近いうちにまた書きますm--m)
やればやるほど、わかることがふえてきて、そしてまたわからないことがふえてくる...のが ゴルフでして それはたぶん、ほかのどんなことにもいえるのかも とおもいます  料理をしながらいつも、こころに浮かんでいるのは、綺麗なゴルフ 切れのある、潔い、たたずまい!の素晴らしいゴルフをするひとが、料理をしたらば、それは、美味しいに違いなく... 手際のよさ、決断のはやさ、段取りの華麗さ そんなこんながみんな味になってしみこむのだろうなぁ~とおもうと それはすてきなひとといちにちラウンドをすごせるよろこびが、美味しい食事と重なって、なにごとも、かんたんに得られるものでないから素晴らしいのですかねぇ 


決めるというのは、相手文字の如く、その都度なにかを断つことで、なにかをすててなにかを選ぶということで、それをせぬままいくらくらぶをふっても、それは~、う~ん、ちょっと違いますねぇ もちろん、晴れた日、緑の上を気持ちよく歩け、周囲の景色を眺め、そして起伏のある難しさについてその都度かみしめることができたなら、それだけでも十分、かなりは、その機会を満喫できているでしょうとはおもいます ただ、わからぬひとにはけっしてわからぬかもしれないけれども なにもいわない短い一瞬一瞬に、いくつもの逡巡と想像と諦念のすえ、それでも何かを願って、何かを決めて、振るときの、あの静謐、緊張、そして弛緩には、ほかで同じものがなかなか見当たらないたぐいの、濃縮な瞬間があります

そのあと、描く放物線あるいは、それいがの弧を眺めるときのあの時間も、その瞬間に限っては刹那であるにもかかわらず、つかの間、悠久ともおもいたくなるよな一瞬もあって、その幾つかは、間違いなく一生忘れることのないひとときとなるのですから こんなにすばらしいものを ひとはどうして目の前の結果にばかり...おっと、いけませんね わたしの意見はこのくらいで....ともあれ、飛んでいく球筋が描くものは、まぎれもなく、打ったそのひと自身の姿であり、どうにもごまかしようない、そのありのままの姿なのであり、ですから、いいときもそうでないときも、ぜんぶどれもが、いとおしいとおもえたなら、それはきっと、いちにちがなんとうれしく素晴らしいものになるでしょに 愛するというのはもしかしたら、ぜんぶ受け入れるということ?あるいはもしや、ひたすらいいところを見つめることができるちからのことをいうのでしょうかねぇ

そういう意味では、かなしいかなおんなのほうが、まぁいいかの精神には富んでいるのかもしれませんねぇ あのショートパットを思い切り振り切れる勇気?(ただの...無計画?)の持ち主なのですから... こわいものがないといってしまえばそれまでですが、女同士の友情?のあいようをながめていると、それが納得できる気もします その都度その場で、ひとまず得をとるようになんと身軽であることでしょう 器用といえばそれまでですが、矜持とか、仁義とか、忠義をもってるおんなのひとがいたら、それこそ地の果てまででもいってぜひあってみたいものですが...おっと、またしても、わたしの意見になってしまいました ともあれ、そんあ具合ですから、かっこいいひとの奏でるワンショットワンショットには、どんな甘美な音楽にも負けない色気が漂っているのかもしれません おっといい忘れました。ショット、一打というのはあくまで比ゆです ゴルフのそれに限ってのことではなく、ここで書いているのはどれもですが にんげんそのもの~からにじみでる~、というのを言いたかったのは言うまでもありませぬが...  ともあれ きょうはこのへんで
うれしかったのは、わたしがただの自身の現役中の怠慢のせいで、家で浪人するといったときも、父がなにもいわずに、そうさせてくれたこと   その年齢差をいうと、たいていひたすら甘やかされたようにおもわれるようですが 父はわたしがひとりになる時間(の長さ)を考えていたのだとおもいます おそらく、いまのわたしでさえ思いつくよりはるか先のことまで  そのせいでしょうか  いろいろな面で、それはきびしかったと わたしはおもっています なによりこわいとおもっていましたから  普段はただ静かに見守っていてくれるだけでしたが、要所要所で、ものすごく怖く、そしてわたしの選択を容赦なく却下してくれました その(当時は)理不尽のわけをあとになって、わかって何度感謝したことかわかりません

必然か、それともやはりいつもその障害(のようにしか見えなかった)ははの(こころにどうしようもない)ダメージを効果的に与えるひとことのせいか、いずれにせよ、さらにもう1年浪人することになったときもなにもいいませんでした 内心は心配で仕方なかったとおもいますが  あとになってどうしてあのとき国立でなく、同じ自治体に公立があったのにどうしてそれに気付かなかったのでしょうおもいましたが  亥年でもないのにときどき周りが見えなくなるのがわたしの欠点でして  ともあれ  まるで自身の残り時間をからだでわかっていたのだろうか 確かにもしわたしが父ならやっぱり同じ選択をしただろうとおもったこともありました つまり病院にいったらわたしの学費が... いのちを縮めても守りたいものが....(おっと泣きそうになったので 少し視点をかえませう)

いつもおもいます 男の人はどうしてそんなに先のことまで見通せるのかしらということ それはもう尊敬ですし、それ以上に、それがないとおんななどみなよくじつにはちいさなでこぼこにころんでばかりいなくてはならないとおもいます  20年が過ぎたいまにまっても、庭のそここに、父の配慮のいくつものが見つかって、ほんに驚きます  ともあれ たぶん波長というかなにかが合ったのでしょうね  浪人中、講習のための遠征する折にも、さほど多くを会話せずとも こちらが必要な経費分の計画書を渡して...という具合に 経済事情になんとか折り合うようにわたしも工夫をしていましたが ともあれ ことばでなく別の何かで空気を互いが理解していたような(とおもっていたのはわたしだけかもしれませんが)気がします

というと、はははひたすら悪者のようですが 必ずしもそうではないのですが まぁ苦労したことだけは確かなので ははのことはまたいずれ...  というわけで、あれからはや20年が流れました  もしあの夜布団にはいって、突然こころに流れた声に耳を傾けなかったら...(3度目の願書の提出先を直前に張り替えたのですけれども)2年後に揺れることになった街にいたかもしれず... その2ヵ月後にいった父があのときどれほど安堵したかを 少し体力の少なくなった布団の中から何度もいっていました  あの揺れた街は、かつて父が大学進学を果たすことはできなかったけれども進みたいとおもっていた街で、当初わたしが行きたいといいだしたときとてもよろこんでいましたから  ということで 父とははがかって暮らした町にある公立でもなく、少し北にあるその国立にいくことになったのでした 実に2年もよく辛抱したとおもいます
なんのかくやくもないのに  とりわけあとの一年に奇しくもやってくることになったのさむの存在の大きさは父にもわたしにも、とても大きかったようにおもいます

いずれにしてもむすめにとってちちおやというものは、どこまでも味方なのだというのを ことばではなにもいわずに おしえてくれたちちでした  だからでしょうか いまだに おとなの紳士がたはみな 味方になってくれるとおもってしまう のですねぇ 実際、いまでもそうだとしんじてうたがってないですけれども  ただ、せんそうのないじだいに、真のしんしがかつてよりどうしてもすくないのは仕方のないことなのでしょうか もちろんせんそうがいいわけではけっしてありませんが  男の子は鬼が島に行かないと大人になれないというのは、童話を読むまでもなくそうであるようでして かわりになにがしかのたいへんなおもいを、どこかで経ないとおとなになれない のですから  生まれたときからせいしん構造をなにひとつかえずにおとな(というものに一応)なってしまうおんなは、もっと尊敬せねばいかんのです 黙っていることの中にどれほどのことばとおもいというにいわれぬ忍耐がかくれているかを... なあんて、だれもそんなことおんなどうしでは、話たりしないのはどうしてですかねぇ  あれほどいつもおしゃべりばかりしているのに....
「あんたは、おいしいもん、なんでもよう~しってるなぁ~」ははがよくいっていました このちほうなまりにいつのまにかなってしまった どくとくの関西弁で... それは、ためいきのようでもあり、純粋に褒め言葉のようでもあり...  たしかに、口寂しさの緩和用に彼女がかいためておくような駄菓子のほとんどは わたしがてをのばすことはありませんでしたねぇ そういえば
もっとも、胃袋の消化力が違うだけだとおもっていました さいしょのころは  なにしろわたしの愛したさむといっしょに、一年で袋二つ分もお米をたいらげる彼女でしたから... いっぽうのわたしはというと... もってかえったいっしょうがふた月たってもまだ残ってる... そんな状態でしたから、いかに省エネ燃費だったか... というのはまぁ冗談にせよ ともあれ

たべたいものをたべたいときにたべたいだけ... たべたくないというこころがそういうときは、無理にはたべない  そんなことですから、ゆっくりと食べられるときには、必然と、美味しいものを少しだけ... という具合になるんです それは自分で選んだというより、気がつくとそうなっていたとしか... 思えば、うちからでてくる雰囲気、たたずまい、そして風情!^^;などは、たぶん、もしかしたら、そんなうちがわにとりこむものによってもにじみ出てくるのかしら、とおもうこともあります もちろん、食べ物だけでなく、それいじょうに、ことばや気持ちや、そのほかや... ふだんなにげなく流れる時間の中から入ってくる、それぞれのものによってできていくものだろうとは思いますけれども ともあれ

かつじをよむのは、いくつもの理由がありますが ひとつは、だれか、声を聴いてみたいだれかの話に耳を傾けること.... だとおもうので、ほんとうに、こころがよわってしまっているときは、助けを求めるそれさえもできない という具合になるのでしょうし  ゆっくり本をよみたい だれもがおもうことですが 気がつくとなかなかむずかしいことのひとつには ちゃんと最初のページから~とおもうこともひとつでしょうねぇ 子どものころ、それができたのは、有り余る時間と空間と、そして、本がひとつかけがえのない盾だったからでしょうか 盾というのは、大人になってもたとえば電車、たとえば待合室でもそうですが、子どものころは、大人たちからのいろいろなようしゃのない声や要求からつかのま、「待った」を有効にかけてくれる貴重な存在だったのかもしれないと この前、ふと懐かしい納屋の二階にあがったときにおもいました  ともあれ

音楽もそうなのかもしれないですね 懐かしい時代の音やリズムや歌詞にふれると、たまらなく懐かしくせつなく そしていとおしくなってしまいます  もっとも、これはいつかも書きましたが、わたしの場合 まだ生まれていないか、あるいは生まれていても、漫画のドーナツ版しかないよなうちのなかで聴いたとはおもえない曲に、なんともやるせないほどに懐かしい感覚がこみ上げてくるのですから これは いまも理由がわからないままですけれども  それにしても車は、とりわけ夜のそこは、たったひとつのコックピットのようでもあり 音楽に包まれながら、そして黒くて見えない海に沿ったそのこうそくを走っているときの なんともいえない感覚は、もったいなくて言葉にするのがためらわれるものがあります

雪が降り出す日の夜などは、とりわけ、どうしようもない魅惑にひきこまれてしまいます さむがいなくなった日はきっとこんな日だったのでしょう あれからまだ6ねん... もうゆとりをもって懐かしむゆとりができたとおもっていましたが、だめですね おんなじような日かもしれないと思うなかを走っていると.... そのときの彼の心情がいったいどんなものだったかを思うだけでも もうだめです  わがやのおすたちはどうしてもこうもみんなやさしすぎるのだろうって、そのときも泣き止むことのできないあたまでため息したものでしたが、いえ、せかいじゅうのかっこいいおすはみんなそうなのかもしれないとおもうと もっと波ががとまらなくなりそうです  どうかかっこよすぎないでいいからやさしすぎたりならないでくださいと ほんにこころからおもいます  ふ~、入れてもらった曲はほんにどれもいいものばかりですねぇ
まぁその~、いきてるかなしみと、せつなさと、よろこび~(というとかんきのなかにいるのですか?としんぱいをかけたりしないですかと、しんぱいですけれども...ともあれ)が、なにはともあれ、一気におしよせてくる~ ふと、そんなときがあって
それは、ずっとからっぽで(いえ、そうかんじていただけといういみでしょうが)むなしさにあふれていたばしょが、つかのまいそがしすぎるくらいの、たくさんを感じている...という(さっかくかもしれないしという、いつもどこかあきらめににた諦念がついてまわるのは、にんともやはりせつないことですが、ともあれ)うれしさとよわったなぁという、こんわくにみまわれている状態...のことかもしれません(いえ、ほんとはいまをとにかく大事にしたい~という、これまでどおりの気持ちなのですよ)

おいおい、きゅうにどうした?なにがあった?と、いうこえが今にも聴こえてきそうなので、にんとも、はや、きにいってもらえるこたえをかける自信はまっことありませぬが、ともあれ。あまりに、ことばのシャワーのあらしがこんどばかりは、たくさんで、われながら、こうして、ここにも、書き出すより~と、いう心境なのかもしれません たぶん、ものすごくなにか助けをもとめているわけでもないとはおもうのですけれども  はて、どうしたものかな というためらいは やはりあります  これでも....   ああ、もっと平凡に~というのは、生まれていることに気付いてからずっとあるような気がします(生まれているというのは、つまり自分の声と話をするようになった子どものころという意味でしょうか!?)


かつて ほんの短い間教え子だった子の弟が(とうじ彼はまだ10歳くらいの野球少年でした)、いつの間にやら、とても立派な話をできるようになっていて...(たねをあかすと、ぼだいじのおしょうとしてりっぱにつとめていらっしゃいます、という話ですが)、感心と、それと、まぁここだけの話、おやおや精一杯頑張ってことばを口にしているところが、なんともほほえましく...と、感じました 若い人がかわっていく、(月並みな言葉だと成長していくですかね)のに、触れられるというのはとても、うれしいものですね  ひとがそうなれるのも、いろんな形で日々、せっしていかれるまたひとのおかげなのでしょうとおもいます  そうそう、ちなみに、その教え子だったお姉ちゃんのほうは、ほんとにわたしを気に入ってくれたほぼ唯一の女の子でした(もちろん、教え子として~という意味ですよ)ねぇ  きっと、なにか波長があったのでしょうねぇ


対談の名手といわれるひとには、きっとたぶん、なにか、だれの声をも受け入れられるだけの空間がひろがっている(た)のでしょうか  と、おもいます。やさしさ...でも、それは、とてもひとことでいうには惜しいくらいのやさしさ... そういう意味でのやさしさということばには、もちろんつよさと、そしていくつもの繊細な(こころの)ひだと、いろんなせつなさを知っているなにか...が、ある(った)のでしょうか  と、おもいます。ほかのひとの前ではでてこないようなことばやおもいが、そのひとを前にすると、つい、口をついてでてくるような... 言ってる本人が、あれ?っておどろくときもあるかもしれないような...  ホッと自然にこころがうちとけていかれるような....  でも、そんな受け手のほうは、じつはいつもとっても孤独を感じている....  だれかと接してことばにふれられる悦びと同時に、どうしようもないせつなさを抱えている.... のかもしれないですね

ことばは、いちどに多すぎても、かえって相手を不安にさせるものですね この真意はなんだろう~?と、果てしなく考えさせる時間をつくってしまう.... だから、さびしさを和らげてもらえるのですけれど いきすぎると 心に負荷ををかけすぎてしまう(かもしれない)わけですね  じぶんでも、なんともはや~と、いつもためいきなのですけれど わたしには たぶんおそらく 中庸というボタンがさいしょからけつらくしているなのかも.... とおもわねばならぬことは やっぱりとてもしんどい... 部分のほうが多いのです(といったそばから、けろっとしているのがつねなのですけれど....)3日ぶんくらいを一気に眠ったら、とってもとっても長い夢をみていたような感覚でした(ささやかでいいから 夢でない部分がほんのすこしだけもてたらなぁ~)
かつて、ああすごいなぁ~とおもっていたひとがありました 女流哲学者といいますか、文筆家の方で、そのかたが14歳と40歳に宛てて書かれた著書は、ほんに名著だとおもいます これほど、あっぱれば文章を書くことのできる方が、恋愛についてもびしっと、書いては下さらぬものかと、当時からおもってやまなかったのでるけれど  あるところで、わたしは恋愛に向いていないとぴしゃり もっとも、あらゆることばは定義次第、と解釈しますれば、その方のかかれたものは、深遠な人間愛にほかならず、そのひとにとって己のこころのひだとよくを刺激することはさほどのことではなかったのかしら と、おもえないでもなく...

それにしても、わたしのばあいは、母に苦労をしたせいでしょうね 苦労ということばの定義と、その意味するところを正確にいうためには、あしたまでかかって生い立ちのすべてを書かなきゃいけなくなりますから そこはそれ ともかくです つまり、なにごとにもあまりに正直すぎる母にあてられた(ここは食あたりのあたりの意です)せいで、女性というものをこのうえなく苦手としている(と、自分ではおもっている)わたしです  とはいえ、おそらく、これは比較のしようがなく、あるいは、むしろずっとほかのだれかよりも、女性にもこころをひらいているのやもしれず、あるいはむしろずっと女性にもやさしくできているのかもしれず わかりませんが、ともかく、ながくいればいるほどに、こころ打ち解け、無言でも会話ができるようになるのが、いせいなのに対して、ことわたしの場合が感じるには(ですけれど)、あまりに長い時間を一緒にいると、ただ、やきもちやみえかくれするしっとの空気に、へとへとになってしまうので、つい、長くいないようにしてしまうのかもしれません(ようは、うまがあうあわないということだとおもいたいのですが)

なにが平均なのかはわかりませんが、白雪姫の母の成分がひとつもはいっていない女性などもしかしたら、この世にはいないのかもしれませんし、そこまで自分を愛せる女性はいないのかもしれませんが、だからこそ、先人達のなやみくるしみおてほんには、とても関心があります しかし、おそらk面と向かっては、若者がほんとにききたいとおもうことは、直接はおしえてもらえないのではないのかしらん というおもいがあるのは、わたしがまだなにがしかのよくをあきらめきれてないせですかねぇ  まぁなやむことはなく、いつの世も、ほんとにこころをゆるせるのはいせいなのでしょうとおもうと ちょっとホッとする気がします そんなふうに、みんなが異性を愛せたら、まちがいなく平和は訪れるような気がしますけれども そこでもやはり 素晴らしい異性をめぐってのたたかいはおこってしまのかしらん  と、これをさらに噛み砕いておもしろおかしく書いて観られる日が、70歳くらいまで待てば、まわりもたしょう大目にみてはくれるでしょうか

かっこいいひとというのは、たまらなくせつない場面をいくつもいくつもけいけんしてしっているひとのことをいうのでしょうか いまふとおもいました  かっこいいものはだれがなんといってもかっこいいのだから仕方ないのです どうにもならないかもしれないけれども、それでもなんとかこころをむけることだけはわすれるまいと、おもうとき、たまらなくせつなくなりますが、そんなふうにみんなが素直に、だきしめたいものをこころから抱きしめられたらどんなにいいでしょう  っと、こんな話を屈託なくできる、女性のともだちができたなら、それは、ほんとに稀有の軌跡かも知れませんねぇ とはいえ、そのための努力よりも、つい、かっこいいものに触れる時間のほうを、とにかく大事にしたい素直なおもいゆえ、なかなか、じょせいに好まれる文をかくのは、当面むずかしそうなので、ありますm--m