庭の紅梅が、ふっくらとしたつぼみを膨らませています。花びらがまあるいからでしょうか。視界に映ってくれるだけで、ほっこりとしたあったかい気持ちを運んでくれるような。そんな気がしています。
これほど間が空いたのも、はじめてかもしれませんね。苦しい冬でした。まぁ、例年のこととはいえ、ことしのそれは、簡単にことばにしたくないような、それでいて、こころのそこからだれかに聴いてもらいたいと願っているような、そんな記憶と想いと、想い出がときおり、不意に胸に去来して。いたたまれないような。どうしようもないむなしさのような。戻らない時間のざんこくの前に、なすすべなく立ちすくんでいるような。そんなおもいがいくつもありました。
時間というのものの、果てしなさと、あっけなさと、そしてそれでもそこにいつもある、ありがたさとにくたらしさと、むごさと、やさしさと、いとおしさと、ありとあらゆる感情のいりまじった、そんな時の流れ方というのが、あるのだとわかって、まだ知らないことがたくさんあるのかもしれないという、たのしみと同時にこわさと、おそれの入り混じった... そんな時間をいくつも感じていたようにおもいます。
家族のこといがいに、することがほかにあるとはとてもおもえない、そう、幾度も幾度も繰り返しこころでつぶやいていました。ほかに、なにをどうしたらいいのいうのだろうと、そういうむなしさをこころで幾度繰り返したことでしょう。それを打ち明けると、「生きるしかないのです」などという、当たり前だけど強すぎてかえって起き上がれなくなってしまうような返事がかえってこないという安心できるところにだけ、こころを開いて話せる... ときもあるのかもしれません。
ひとに優しい気持ちを、つかの間思い出してもらえるような、そんなやわらかな梅のつぼみのような短編をいつか、書けたらいいなとは正直おもいねがっていますが。いつのことやらです。果たして、それをどう書いて、どこにとおもうと、気が重くなって。まぁいいかと、おもってしまいます。ずっと書きためておくのも悪くないとおもったりもして。いつかまた、であって話をする機会がもてたらいいなとおもう方がたくさんあります。その方々にもし、わずかでも読んでもらえたらと書いています。
もうひとりのたいせつなひとが逝ってから21年が過ぎました。もっと話したいこと、訊きたいことがやまほどあったのにとおもいます。そのひとの昔を知っている人を、訪ねていきたいとこの春思いました。戦争前、戦争の後。とはいえ、いざとなると、まぁいいかと、こたつに座ったまま動けなくなるわたしです。ああ、さむがいてくれたらなぁ~。いっしょに海まで歩いて、いろんな話をして、砂浜を気持ちよさそに、走り回って~。さむが風のようにいなくなってから、もう、8回目の春を迎えます。いまだに、春の検診と登録の案内のはがきが送られてくるのが、うれしくもあり。さびしくもあり。
と、いうことをこころに浮かぶままに、こうしてここに書けるほどには、少しだけ元気になることができましたm--m。でも、こころのどこかで、元気になれたらなれたで、また、揺り戻されて元気をなくすのではないかという、不安は、やっぱりやっぱりなくはなくて。ふわふわそわそわとあいかわらずのつなわたりのような現実はかわりはないのですけれども。ともあれ。それでも。なんとかかんとかいきてますm--m。(年賀状を下さった方に、それぞれお便りを書いていきたいと、おもっていますm--m)。
これほど間が空いたのも、はじめてかもしれませんね。苦しい冬でした。まぁ、例年のこととはいえ、ことしのそれは、簡単にことばにしたくないような、それでいて、こころのそこからだれかに聴いてもらいたいと願っているような、そんな記憶と想いと、想い出がときおり、不意に胸に去来して。いたたまれないような。どうしようもないむなしさのような。戻らない時間のざんこくの前に、なすすべなく立ちすくんでいるような。そんなおもいがいくつもありました。
時間というのものの、果てしなさと、あっけなさと、そしてそれでもそこにいつもある、ありがたさとにくたらしさと、むごさと、やさしさと、いとおしさと、ありとあらゆる感情のいりまじった、そんな時の流れ方というのが、あるのだとわかって、まだ知らないことがたくさんあるのかもしれないという、たのしみと同時にこわさと、おそれの入り混じった... そんな時間をいくつも感じていたようにおもいます。
家族のこといがいに、することがほかにあるとはとてもおもえない、そう、幾度も幾度も繰り返しこころでつぶやいていました。ほかに、なにをどうしたらいいのいうのだろうと、そういうむなしさをこころで幾度繰り返したことでしょう。それを打ち明けると、「生きるしかないのです」などという、当たり前だけど強すぎてかえって起き上がれなくなってしまうような返事がかえってこないという安心できるところにだけ、こころを開いて話せる... ときもあるのかもしれません。
ひとに優しい気持ちを、つかの間思い出してもらえるような、そんなやわらかな梅のつぼみのような短編をいつか、書けたらいいなとは正直おもいねがっていますが。いつのことやらです。果たして、それをどう書いて、どこにとおもうと、気が重くなって。まぁいいかと、おもってしまいます。ずっと書きためておくのも悪くないとおもったりもして。いつかまた、であって話をする機会がもてたらいいなとおもう方がたくさんあります。その方々にもし、わずかでも読んでもらえたらと書いています。
もうひとりのたいせつなひとが逝ってから21年が過ぎました。もっと話したいこと、訊きたいことがやまほどあったのにとおもいます。そのひとの昔を知っている人を、訪ねていきたいとこの春思いました。戦争前、戦争の後。とはいえ、いざとなると、まぁいいかと、こたつに座ったまま動けなくなるわたしです。ああ、さむがいてくれたらなぁ~。いっしょに海まで歩いて、いろんな話をして、砂浜を気持ちよさそに、走り回って~。さむが風のようにいなくなってから、もう、8回目の春を迎えます。いまだに、春の検診と登録の案内のはがきが送られてくるのが、うれしくもあり。さびしくもあり。
と、いうことをこころに浮かぶままに、こうしてここに書けるほどには、少しだけ元気になることができましたm--m。でも、こころのどこかで、元気になれたらなれたで、また、揺り戻されて元気をなくすのではないかという、不安は、やっぱりやっぱりなくはなくて。ふわふわそわそわとあいかわらずのつなわたりのような現実はかわりはないのですけれども。ともあれ。それでも。なんとかかんとかいきてますm--m。(年賀状を下さった方に、それぞれお便りを書いていきたいと、おもっていますm--m)。