考えたことがあります。もし反対の立場だったら...と。かつての、あるとき、おもったのは、次の通りです。相手のことをほんとうに、心底すきでいる場合と、もう、どうでもいいとおもっている場合、恐らく、どちらも全体の1割ぐらいと仮定して...つまりは、全体の8割はそのどちらもでもない...わけで。つまりは、せけんていやらよくやら、いえ、大半は名誉だろうなぁとおもいます。そりゃめんぼくかかなり減るわけですから...いえ、一時的にとはいえ。それがわかってて決断できる人は少ないでしょう。もとより、そんな英断ができるくらいなら、恐らく、先のさいしょのほうの1割に入っているわけで...。つまり、そういうことに、きれいな納得というのは恐らくないでしょう。ただ、時間をかけてのこころの融解いがいは...それでも、伝わるものはいつか伝わる...。

わたしは、そうおもっていますが、それでも、なにかがおもいどおりにいってしまうことへの、おそれは確かにあります。ひょっとしたら、ちょっとぐらいうまくいかない部分を残しておくほうが、幸運が、あるいは残された救いが増えるのではないか...という憂慮です。どうしようもなく、願いをせつぼうしてしまう素直な想いと、つまりは、そんなちょっと足りないを求めてしまう、つまり言い換えると(目論見や計算といったものと結局はおなじなのかもしれないとおもいますが)、ほどほどにおさえるのがきっといいと、いうそんな願いとが、いつも、葛藤しています。小さなことが、うまくいったり、いかなかったりするたびに、あっちにいったりこっちにいったりしながら、自分のこころを宥めるのも、そんななかのひとつのしゅうかんかもしれません。

それにしても、六条のみやすんどころさんをもちだすまでもなく、太古の昔から、文字通り醍醐桜がはじめて土に根をおろしたそのころから、おなじことはくりかえされてきたことなのだろうとおもいます。だれもが、若紫にあるいは藤壺にとねがうでせう。いえ、なかには、ほんとうのしあわせを、もっとひろいめでとらえられるひともいるかもしれません。Dr.リチャードのように、あいするものをなくしても、それでもなお、スタイルを貫き信念をまもりぬけたらと、だれもがおもうかもしれません。歴史の中ではて、それができたひとはどれだけいるだろうと、おもうと確かにむねがつぶれる気がします。父がおんきゅうをことわったように、もしかしたら、戦地で銃弾に倒れていたのがそのひとではなく、父であったなら、いまごろわたしはいないわけですし...だれもが、そんな奇跡をくぐりぬけての生だとおもうと、簡単にしんでいいひとなどいないと心底おもえます。

とはいえ、闘いは闘いなのですねぇ。だれもが、どんな理屈やいいわけを述べても述べなくても、闘わねばならいときというのは、あるのかもしれません。無論、ここでいっているのは、現実に巌流島へ出かけていく!といっているのではありませんよ。念のため。つまり、持久戦も含めて、どんな形でも、相手に、「仕方ない」とおもってもらうのも、これも、恐らくひとつの闘いなのだろうなぁ~と、おもって、しんみり、あるいはときには、愕然とも、するものです。こういうときに、闘いなのだがら、仕方ないでしょ!と、バッサリと勝ち負け(あって)当然!と葛藤なく思えるこころの持ち主なら、いっそ天晴れだなぁ~とおもいますが。もし、かつことになって余分な悪意にさらされたくない、というのも、むしろひとつの自己防衛、自己憐憫にすぎぬとおもいながらも、おもうものは、おもうのだから仕方ありません。なんとか、融けない氷はなるたけ少なくしたい...そうおもってしまいます。(もっとも、これでは、人気の出るげんじものがたりは描けそうにありませんねぇ~)