ときどき降りだすととまらなくなってこまることがあると、いつかも書きましたが... いえ、ことばがです。むろん、そのときは書き出しても書き出しても、あとからあとからわいてくるので...しかもしんしゅつきぼつ、じゃんるはとわず、どうじたはつで、あれもこれも....といっても、じつにくだらぬことからささいなことまで...なのだけど。ともあれ、予報などあるはずもなく、ましてや降水確率などまったくわからぬのだから、わくわくしてたのしいといえばたのしいですが、あまりに続くと、18ホールの最終組?を延々まわっているかのような(そりゃいいすぎかな)、たいへん、ひろうがやってくる。だから、いちにちの半分を寝て、のこりで、また書き続ける...なんてことになってしまうnodesu。

いえいえ心配後無用。これでもじぶんのとりあつかいには、かなりな時間を費やしましたゆえ、かなりなれてはいるつもり...。こういうときは、ひたすら降ってくるまま素直に書き出す、はたまた、こりゃほっとけばいいか、さっさとねるべし(寝る?練る?)とかね。いずれにしても、自然の流れは、気象レーダーだけですべてがわかるわけでないのは、だれもがごぞんじの通りでして。でたとこしょうぶにならざるを得ない場合も多々あるわけでして。決断の妙、判断のセンスを問われるのは、ゴルフをみるまでもなく、日常のせつなせつなに訪れるのでありまして...。

ちょっぴりシビアに表現してみますと...。あるとき、ふとおもいました。目に入るものをすべてほしいとなるひとと、とにかく節約倹約と値段だけみて買う買わない(おもに買わない!)を優先してしまうひとと....。実のところ、どちらも同じ!なのでは?と。つまり、どちらも、その時々の状況に応じての判断から逃げている、あるいは自分できちんと選び取る!ことを避けている(あるいはやめている)と、いえるのではありますまいか。と。いささか、シビアな言い方ですが、これは思いついたとき、かなり合点がいきました。かっこよさとまさに直結するのでは?と、おもったからです。幾つもの判断、決断、そして後悔、反省、換気、安堵、納得...そのたいろいろを繰り返して、ひとは、いくらでもかっこよく(はたまた避けてはそれから程遠く?)なっていくのでありますまいか、と。

いまごろ、なにを。当たり前のことをと。おもわれたむきには、ごめんなさい。おんなという生き物はときに、(直感的に)別にどっちでもいいとおもっているものを、半ばかくしんてきに、あ~でもない、こ~でもないと、はたからみると、全くむだとしかおもえないおしゃべりにこうじている場合も確かにありますが、あれは得てしてちかくにいるどうせいをかんさつ、あるいはていさつするための時間をとっているだけかもしれませんねぇ。と、勝手にいまおもいつくまま、いつものように書いていますがときどき、自分でもあとから、なるほど~と、おもえることもあったりするので、ちょっとびっくりしてしまいます。ともあれ。育てるというのは、見守りゆるし、ひたすら受け入れるということなのですかねl。ひたすらせんたくを回避するのでは、やはりいささか、せっかくの才能が、そのまま~になってしまうのでは?と、ひとり勝手におもうのでした。

うう。これ以上書くと、ひなんひはんになってもいけませぬゆえ。ともかく。時間をどうとらえるかで、まったく違うときの流れ方があるやもしれないとは、おもいます。もっとも、かぎりなく、じかんからかいほうされてる、のんきもののわたしがいっても、氷河の一割もの説得力はないですけれども。素晴らしい時間、かんどうできる時間は、ほんに、ひとに目に見えないえいようと、そして時間を経てはじめて気付けるなにかを、あたえ、そして教えてくれるのかもしれませんねぇ。なにかを伝えられるメッセージのあること、素晴らしい時間のすばらしさをわかることができることに、感謝です。おやすみなさい。(ひとりごと:しんぐるはしばふのうえだけにしたいものです^^;)