Well,きちんとメールをしたいとおもいながら、なかなかできずにいます。近く、できれば、またラウンドをと願いながら…
女性が読んでいるとおもうと、それだけで、鈍ってしまうのはわたしの深い深い困った性分によるところもあるのですけれど…
さておき。しあわせは、ふしあわせのなかにあって、そのまた逆もたぶん、然りで。ささやかなそれらは、なおさらそうで。つまりは、どちらも、ほどほどにあるのが、もっともいいわけで。いかに、しっとのなみを上手にくぐりながら、ささやかなそれをもつことができるか…
真実はなるたけおおきなこえでいわないほうがいいわけで…。たいせつなものは、いつも、そう、見えないものの中にあるから…。と、おもうのですけれど。そして。おかねに負けるのですか?世間体って、たぶん、己が勝手につくっているものでは?と、おそらく、荘に違いないとおもいながらも、そんなことを、大きな声で言いたくなっていること自体、じぶんのよくをなんとかかなえたいとおもっているからにほかならず。でないなら、ひとそれぞれに、しあわせの基準があって、みえないものがみえないひとには、なにもいうことがないのと同様、基準について、だれかになにかを議論したり、意見したりするのは、言っていることと大きな矛盾であるわけで。
つまりは、おもいよう、考えよう、こころのもちようで、人生の時間をやりすごすよりないわけで。しあわせなときほど、なるたけ、苦労のふりをして、その逆のときはその逆で。賢い人のをみていると、とてもよくわかるのだけれども。ともあれ。なるたけ、わかりにくく書いてしまうのも、やはり、余計なしっとを受けずにいたいと、ほしんの表れなのであり。
いずれにしても、さびしさと、やるせなさや、せつなさ、そしてかなしさとは、少し違うような気もして…。さびしいのでは?と訊かれる度に感じる、なんともいえない、疑問感?たぶん、おそらく、ひょっとしたら、そういう言葉の質問者自体がだれよりも、さびしさを感じているのではないか?という疑問…。これとても、平たく言うと主観のもんだいであるから、比較のしようがないわけで…。それにしても、さびしさってなんでしょう?ひとをうらやんだり、ひとの不幸をちょっとだけ願ってしまったりする、そんなこころのことなのですかね?
それらは、物理的環境だけがもたらすものなのでしょうか?よくはわからないまま書いていますが。ようは、話が通じると感じる時間の有無なのでしょうか。無論、量ではなく、あくまで質でです。してみると、大家族でもさびしいひとはさびしい?それを認めるのがつらいと、つい、ひとのさびしさに目が向くのでしょうか?う~ん。もっとも、この世に、まったくさびしくないひとなど、いないと、わたしは、おもうのですけれど。ただ。ひとに、それを質問したいとおもわないのと、質問する方との違いは、なになのでしょう?
要するに、近い過去、顔も知らない無礼な年配女性に、さびしいのではないか?との、なんとも、ふゆかいなコールを得たから、これだけ、つまらない駄々を書いているのでありまして、それ以上でもそれ以下でもない理由はほかにないのでありまして。
なるたけ。また、ちゃんと、メールできたらとおもっていますm--m。
いつも、心配かけてすみませんm--m
女性が読んでいるとおもうと、それだけで、鈍ってしまうのはわたしの深い深い困った性分によるところもあるのですけれど…
さておき。しあわせは、ふしあわせのなかにあって、そのまた逆もたぶん、然りで。ささやかなそれらは、なおさらそうで。つまりは、どちらも、ほどほどにあるのが、もっともいいわけで。いかに、しっとのなみを上手にくぐりながら、ささやかなそれをもつことができるか…
真実はなるたけおおきなこえでいわないほうがいいわけで…。たいせつなものは、いつも、そう、見えないものの中にあるから…。と、おもうのですけれど。そして。おかねに負けるのですか?世間体って、たぶん、己が勝手につくっているものでは?と、おそらく、荘に違いないとおもいながらも、そんなことを、大きな声で言いたくなっていること自体、じぶんのよくをなんとかかなえたいとおもっているからにほかならず。でないなら、ひとそれぞれに、しあわせの基準があって、みえないものがみえないひとには、なにもいうことがないのと同様、基準について、だれかになにかを議論したり、意見したりするのは、言っていることと大きな矛盾であるわけで。
つまりは、おもいよう、考えよう、こころのもちようで、人生の時間をやりすごすよりないわけで。しあわせなときほど、なるたけ、苦労のふりをして、その逆のときはその逆で。賢い人のをみていると、とてもよくわかるのだけれども。ともあれ。なるたけ、わかりにくく書いてしまうのも、やはり、余計なしっとを受けずにいたいと、ほしんの表れなのであり。
いずれにしても、さびしさと、やるせなさや、せつなさ、そしてかなしさとは、少し違うような気もして…。さびしいのでは?と訊かれる度に感じる、なんともいえない、疑問感?たぶん、おそらく、ひょっとしたら、そういう言葉の質問者自体がだれよりも、さびしさを感じているのではないか?という疑問…。これとても、平たく言うと主観のもんだいであるから、比較のしようがないわけで…。それにしても、さびしさってなんでしょう?ひとをうらやんだり、ひとの不幸をちょっとだけ願ってしまったりする、そんなこころのことなのですかね?
それらは、物理的環境だけがもたらすものなのでしょうか?よくはわからないまま書いていますが。ようは、話が通じると感じる時間の有無なのでしょうか。無論、量ではなく、あくまで質でです。してみると、大家族でもさびしいひとはさびしい?それを認めるのがつらいと、つい、ひとのさびしさに目が向くのでしょうか?う~ん。もっとも、この世に、まったくさびしくないひとなど、いないと、わたしは、おもうのですけれど。ただ。ひとに、それを質問したいとおもわないのと、質問する方との違いは、なになのでしょう?
要するに、近い過去、顔も知らない無礼な年配女性に、さびしいのではないか?との、なんとも、ふゆかいなコールを得たから、これだけ、つまらない駄々を書いているのでありまして、それ以上でもそれ以下でもない理由はほかにないのでありまして。
なるたけ。また、ちゃんと、メールできたらとおもっていますm--m。
いつも、心配かけてすみませんm--m