それは、なんというか、ひとのよさわによるものだろうとおもいます。いや、もしかするとそれだけでは説明しきれないものなのかも…ともおもいますが。ある方から、ゴルフのお誘いをいただき、そのお礼状を書く際に、一大決心でもって少しだけふれたことについてです。自分でもどうして、これほどまでにいやな感覚が残ってしまっているのだろうとおもいます。とらうまということばは、安易に使うべきでないとおもっていますが、それでもやはりそうなのだろうなぁと、認めざるを得ないようななにか…。
つまりは、その方を共通のゴルフの恩人とするひとで、わたしがどうしても二度と顔を合わせたくない(というより、正確にはそのひとの耳に、わたしの話題が入らずにくれたらそれで十分)とおもうひとがあります。ひとには、だれしも弱い部分、あとで振り返って反省したくなることなど、いくらでもあるものですが。そういうやさしいことでは、どうしても腑に落ちないほどの、かなしみに満ちた仕打ち…のようなもの。が、どうやら、わたしをして、そのひとに少しでも近づきたくないと思わせてしまうもののようです。
そのひとのゴルフは、正確無比。とりわけ、バンカーショットやパターについては、実に見事です。まったく非の打ち所がないというのはこういうのをいうのだろうなぁと、思われる一打を繰り出します。実際、何度も一緒にラウンドしてもらったことがあり、実際大いに勉強になりました。ですから、その意味ではそのひとも、わたしにとっては、ゴルフの恩人であるのかもしれません。実際、年下でもありましたし、尊敬とまでは至らずとも信頼はしていました。あるときまでは…。礼儀正しく、ひとへの対応もそつがなく、とてもバランスのとれたひとだとおもっていました。あるときまでは…。
ときおり、ひとずてに入ってくるそのひとの別のある面を評したことばを、最初耳にしたときも、恐らくなにかの間違いだろうと、おもうほどでしたから。だれにでも、だれかのことが妙に気に入るというのがある反面、その反対もあるだろうとは思います。そこで、次になにをするかは、そのひとの品格の問題なのだろうとおもいます。みえないところ(というのは、実際にはないものだとわたしはおもうのですが)で、実に巧妙に…としかいいようがありません。ほんとうに、その才能を別のところに生かせたらどんなにいいでしょうにおもえるほどの、見事なものです。それだけに、のほほ~んと、おもてもうらもなく生きているものには、時に青天の~、と思える事態が起きてしまうのかもしれません。
ともあれ。そのひとから、実際にわたしがこうむったことは、もちろん詳しく書きませんが、われながら、ここまでわたしがだれかのことを苦手をおもうのは、後にも先にも~と、おもえるほどです。それでも、そのことは、件の恩人をはじめ、ほかにも共通の知人はありますが、これまでほとんど漏らすことはありませんでした。(当然のことでしょうが)。それでも、せめて、わたしが苦手としているということだけでも、伝えようと一大決心をして、先のお礼状の中に数行だけしたためました。文字通り一大決心でした。(たいていの場合はそのうち明けをあきらめ、恩人への連絡をあきらめるのでしょう。)
つまり、何がいいたいかというと、ひとになにかを伝えるということがいかに難しいということです。あのひとがきらいだすきだというのは簡単ですが、ときに、だれかの邪魔をしたいと考えている人が関係してくると、とても神経が磨り減ります。たとえば、ただ自分がわるものになることですべてが解決するなら(ということは実際にはなかなかないですが)、いっそ楽ですが。だれかを悪く言うこともできず、かといって、本当にどうしようもなく苦手としているのに、何事もないかのように振舞い続けるのも、かなり神経が消耗します。(無論、社会というのは、大なり小なりそういうことの連続なのだと思いますが)。
それにしても。尊敬するだれかに気に入られたいとおもうのは、当たり前の心情です。つぎに、その方が別のだれかとも親しくしていて、そのひとと自分の相性があまりよくない場合…。そんなことは、どこでも普通にありえます。そっと、苦手な相手とは距離をとりつつ、自分は自分であろうとするひとと、苦手な相手の邪魔をしようと画策してしまうひとと…。いるのはどうしてでしょう。知らぬが仏にできるひとと、見えるところ聞こえるところどこまでも追いかけてしまうひとと…。無論、世界のすべてが前者ならば、確かに戦争は決して起こりますまい。舌切り雀や白雪姫の童話をひくまでもなく、誰の心にも悪魔はあるものでしょうし、醜い部分はあります。しかし…。それでも、別の誰かの存在を許せるものと、そうでないものの違いはなんなのでしょうか?
考えれば考えるほどに、人間というものの本質に迫ってしまう気がしないでもないですが…。真のやさしさでしょうか。その温もりを、ただありのままに信じられるかどうか…。ひとのものを奪ったりせずとも、天の分け前はきっと(いつか必ず)自分のところにもやってくると信じられるなにか…。(いや、別のことに頭を切り替えれば、なんとか独り占めできたらいいのにとおもうけれども、時間的誤差にはどうしてもかなわず叶わぬことは確かにありますねぇ)。単純には子供のころに親からもらった愛情(の量)でしょうかとおもいますが。兄弟姉妹が多くいても、ひとにきちんとやさしくできる方はちゃんといるのですから…。にんともかんともです。
たとえば、嫁と姑のように、年齢的(時間的)圧倒的優劣がすでに決している場合、もしくは、互いが互いを同じくらい疎ましくおもっている場合というのは、ある意味わかりやすい構造なのかもしれません。もんだいは(そして、多くの場合のかなしみの発生は)、一方は別にどうってことないと受け止めているのに、片方がどうしても鬱陶しいと感じている場合でしょうか。まぁ、ほとんどはこういうことなのでしょうね。一言でかたずけると、それを評して劣等感というのでしょうか?ちなみに、先に書いた私が苦手とするひとは、最近家族をもたれたようです。不思議ですが、それを聞いてとてもホッとしました。そのことで、そのひとの毒が少しでも薄まればいいとおもった(=心から願った)からに違いありませんが…。
つまりは、その方を共通のゴルフの恩人とするひとで、わたしがどうしても二度と顔を合わせたくない(というより、正確にはそのひとの耳に、わたしの話題が入らずにくれたらそれで十分)とおもうひとがあります。ひとには、だれしも弱い部分、あとで振り返って反省したくなることなど、いくらでもあるものですが。そういうやさしいことでは、どうしても腑に落ちないほどの、かなしみに満ちた仕打ち…のようなもの。が、どうやら、わたしをして、そのひとに少しでも近づきたくないと思わせてしまうもののようです。
そのひとのゴルフは、正確無比。とりわけ、バンカーショットやパターについては、実に見事です。まったく非の打ち所がないというのはこういうのをいうのだろうなぁと、思われる一打を繰り出します。実際、何度も一緒にラウンドしてもらったことがあり、実際大いに勉強になりました。ですから、その意味ではそのひとも、わたしにとっては、ゴルフの恩人であるのかもしれません。実際、年下でもありましたし、尊敬とまでは至らずとも信頼はしていました。あるときまでは…。礼儀正しく、ひとへの対応もそつがなく、とてもバランスのとれたひとだとおもっていました。あるときまでは…。
ときおり、ひとずてに入ってくるそのひとの別のある面を評したことばを、最初耳にしたときも、恐らくなにかの間違いだろうと、おもうほどでしたから。だれにでも、だれかのことが妙に気に入るというのがある反面、その反対もあるだろうとは思います。そこで、次になにをするかは、そのひとの品格の問題なのだろうとおもいます。みえないところ(というのは、実際にはないものだとわたしはおもうのですが)で、実に巧妙に…としかいいようがありません。ほんとうに、その才能を別のところに生かせたらどんなにいいでしょうにおもえるほどの、見事なものです。それだけに、のほほ~んと、おもてもうらもなく生きているものには、時に青天の~、と思える事態が起きてしまうのかもしれません。
ともあれ。そのひとから、実際にわたしがこうむったことは、もちろん詳しく書きませんが、われながら、ここまでわたしがだれかのことを苦手をおもうのは、後にも先にも~と、おもえるほどです。それでも、そのことは、件の恩人をはじめ、ほかにも共通の知人はありますが、これまでほとんど漏らすことはありませんでした。(当然のことでしょうが)。それでも、せめて、わたしが苦手としているということだけでも、伝えようと一大決心をして、先のお礼状の中に数行だけしたためました。文字通り一大決心でした。(たいていの場合はそのうち明けをあきらめ、恩人への連絡をあきらめるのでしょう。)
つまり、何がいいたいかというと、ひとになにかを伝えるということがいかに難しいということです。あのひとがきらいだすきだというのは簡単ですが、ときに、だれかの邪魔をしたいと考えている人が関係してくると、とても神経が磨り減ります。たとえば、ただ自分がわるものになることですべてが解決するなら(ということは実際にはなかなかないですが)、いっそ楽ですが。だれかを悪く言うこともできず、かといって、本当にどうしようもなく苦手としているのに、何事もないかのように振舞い続けるのも、かなり神経が消耗します。(無論、社会というのは、大なり小なりそういうことの連続なのだと思いますが)。
それにしても。尊敬するだれかに気に入られたいとおもうのは、当たり前の心情です。つぎに、その方が別のだれかとも親しくしていて、そのひとと自分の相性があまりよくない場合…。そんなことは、どこでも普通にありえます。そっと、苦手な相手とは距離をとりつつ、自分は自分であろうとするひとと、苦手な相手の邪魔をしようと画策してしまうひとと…。いるのはどうしてでしょう。知らぬが仏にできるひとと、見えるところ聞こえるところどこまでも追いかけてしまうひとと…。無論、世界のすべてが前者ならば、確かに戦争は決して起こりますまい。舌切り雀や白雪姫の童話をひくまでもなく、誰の心にも悪魔はあるものでしょうし、醜い部分はあります。しかし…。それでも、別の誰かの存在を許せるものと、そうでないものの違いはなんなのでしょうか?
考えれば考えるほどに、人間というものの本質に迫ってしまう気がしないでもないですが…。真のやさしさでしょうか。その温もりを、ただありのままに信じられるかどうか…。ひとのものを奪ったりせずとも、天の分け前はきっと(いつか必ず)自分のところにもやってくると信じられるなにか…。(いや、別のことに頭を切り替えれば、なんとか独り占めできたらいいのにとおもうけれども、時間的誤差にはどうしてもかなわず叶わぬことは確かにありますねぇ)。単純には子供のころに親からもらった愛情(の量)でしょうかとおもいますが。兄弟姉妹が多くいても、ひとにきちんとやさしくできる方はちゃんといるのですから…。にんともかんともです。
たとえば、嫁と姑のように、年齢的(時間的)圧倒的優劣がすでに決している場合、もしくは、互いが互いを同じくらい疎ましくおもっている場合というのは、ある意味わかりやすい構造なのかもしれません。もんだいは(そして、多くの場合のかなしみの発生は)、一方は別にどうってことないと受け止めているのに、片方がどうしても鬱陶しいと感じている場合でしょうか。まぁ、ほとんどはこういうことなのでしょうね。一言でかたずけると、それを評して劣等感というのでしょうか?ちなみに、先に書いた私が苦手とするひとは、最近家族をもたれたようです。不思議ですが、それを聞いてとてもホッとしました。そのことで、そのひとの毒が少しでも薄まればいいとおもった(=心から願った)からに違いありませんが…。