そのときどきに去来するきもちなど、いずれそのうちかたちを変えるのだから、つまらないもの…、もし、そういわれたら、たぶん、きっとその通りだ。だから、このところ、去来している、これまでの、どんなのとも、ちょっと違うような感じのするそれを、じぶんでも、ちょっぴりもてあましてもいる。とはいえ、時間は、容赦なく、いや、ありがたいことに、刻々と流れてくれるから、いずれ、おちつくところにおちつくのだろうな、という想像はつく。だが、しかしだ。じぶんでも、これまで、こうやって、書くことで、落ち着かせることができたり、それなりに整理できたなぁと、おもうことも多分にあるけど、こんかいばかりは、はて、これは、どこからどうくるものかしらん、と、いささかならず、戸惑ってもいるのです。
いえ、とはいえ、何かに、ものすごく悲観しているわけでも、(もちろん楽観しているわけでも)、あるいは、なんでしょう、とても期待いっぱいに無邪気になれるわけでもないかわりに、どうしようもなく冴えなく塞ぎこんでいるのとも、少し違う…、でも、なににそんなに慎重になっているのか、自分でも分からぬ塊が、胸の中に去来している。のです。悩めるということは、ほんとはとってもしあわせなことなのに。本にもありました。しあわせというのは、つねに、達成されてしまったそこにはあらず、あともう少しでそれにむかっているところ…、にしかないのだと。なるほど、そうでしょう。でも、いえ、ただ。なにかを願わずにいられないのも、また、ひとのこころでして。ところが、かなってもいないのに、もしかなったら…、もっとつらいことがあるのではないかしらん、いや、どこかのだれかのしつぼうと引き換えにかなうのだったら、いっそかなわないほうが…。なあんて、ただの奇麗事としかいいようのない理屈に心は覆われ、ひととき、素直とやせ我慢の板挟みになりもします。
不思議なもので、なにかを息をつめて一心にまっているとき、えてしてそれは訪れず、ふと、気がほかにそれたとき、ふと、別のことにこころがむきかけたとき、思いがけず、その、まちわびたものが、少し遅れてやってくる。そんなことは、日常のちいさなことごとでも、実感をもってわかっているのに、いざ、人生の一大事となると、こころがそれを忘れられるわけもなく、それでもじぶんで、必死に、じぶんに、いいきかせる。あんまりおもうな、おもっても、どうにもならぬものはならぬのだ、どうあれ、じぶんのこころに素直にいきていくよりほかないではないか…、と。そして、実際、自分でもそうだそうだと、納得しているのに。ふとしたときに、心の叫びがあたまをもたげる。そうして、理屈っぽく語りだす。ほんとうにそれでいいの?ほかのことをぜんぶあきらめたからといって、いちばんに願っていることがやってくるとは限らんよ…。どうして、そう不器用なのかねぇ…。と。そう、まるで悪魔の囁きみたいに。
と、書いてみたけど、このところ、去来するこころの靄の正体は、どうやら、ひとことで合点がいくほど単純ではないのか、それとも、季節柄のただのブルーなのか…。柄にもなく、くよくよしているきょうこのごろです。変化をどうしようもなく切望するこころと、いまの自分には外に出て闘う覚悟も信念もちっともできてない自信のなさと。なにかを、ものすごく願っていながら、それをことばにした途端、消えてなくなってしまうのではないかという、どうしようもない惧れと…。たとえば、ことばの約束がものすごく大きな支えになる場合もあるだろし、反対に暗黙のほうが救われる場合だってあるだろうし…。うう。いや、きっと、どうあれ、この苦悩は、過ぎてから思い返せば、間違いなく、貴重で思い出深い時間時間になるに違いないのは確かなのだけどなぁ。ほ~んに、ひとにはそれぞれ、そのひとに(似)合った、どうしようもない運と流れがあるのでしょうか(ほんのときたまだけど、うけとめるというのと、あきらめるというのは同じ意味のことばにおもえて、ちょっぴりかなしくなります。かなしみとよろこびは、きっとおなじだけあるはずなのにね)。