ほんとうに、人生というやつは(生意気な言い方でごめんなさい)、ほんとうに、なんともいえない、ものですねぇ。どうして、こうも、いつも、いろんな意味で、劇的なのだろうって、おもうけれども、正直、こころのどこかでは、だから、生きていかれるのだとも、おもっています。いつどうなるかわからない、って、ところがあるから、諦めずに生きていられるっていうかね。


つまりは、わたしはエライし、あなたもエライ。みいんなエライ。(って、言い切っちゃうと、それはそれで、ちょっぴりせつないかぁ~)。ともあれ、見えないところの、葛藤や、ドラマにこそ、きっと生きてる醍醐味があるのかもしれない。とも、ちょっとおもったり。(ああ、やっぱりせつないねぇ)。簡単に、ほら安泰、ほら安心、だからいいでしょ~、なあんて、自慢したくなってしまうような状態。というのは、ひょっとしたら、どこにもないのかもしれないし。仮にあったとしても、それは、ただ、余所行きの~、というか、こころのどこかに蓋をして…、あるいは、こころでいろんな葛藤を重ねてそれらをみいんな乗り越えたあとになって、やっとやってくる状態…、なのかもしれないなぁ。


つらいとき。ふと、こう考える。いまを考えるからつらいんだよ。たとえば、20年後、30年後、いましたいけど、どうしてもできないことを、そのときに、よ~し、もう、文句は言わせないぞ~って、少しぐらいわがままを、貫いても、きっと、許されるとおもうでしょ?なぜなら、70歳、80歳を超えたひとには、そうさせるだけの、なにかがあるし。実際、そういうエピソードがどこかにあったら、ほんとにとっても素敵だし。25年待って、ようやっと、居心地のいい場所をてにできたものと、同じだけ待って、やっと自分の気持ちを正直にうちあけられたものと…。そこだけ、言うと、ほんとに、泣ける話ですねぇ。ほんと、ドラマはどんな風に続くのでしょうねぇ。まるで、ひとごとみたいに、そんな風に、考えることで、救われる心の部分があるのだとしたら…。少しでも、自分にやさしくしてほしいと、こころからそうおもいます。


それにしても。この前、ふと目にしたテレビですが。寂光院が燃えて、その身を完全に黒焦げにしてもなお、倒れず、厳然とその姿を顕し続ける、(建令門院)徳子さんのその仏の像に、胸を突く偉大な何かを感じました。てんごくとあらゆるじごくを味わったというそのひとの、生きとしいけるその時間が、数百年超えても尚、何かを伝えんとするその姿に圧倒され、そして、同時に、理屈(奇麗事)だけではどうしようもない、人間といういきもののさがというか、ほんとうをみせられた気がしました。答えなんて、簡単に見つからないから生きられるんだ、という、ちょっとすねたおもいと、それでもなお、願いはさいごまで捨てずにいたいという、必死な想いと…。ひとは、いつでも、そんな気持ちと闘っているのではないかなぁ。どこに、どうやっていても、必ず訪れる葛藤や想いのはざまで…。ただ、すべてのひとに、いい顔などできない、ということだけは、確かなようですねぇ。だから、(生きるとは)覚悟、なのですかねぇ。


たぶんだけど。じっさいに、目に見える部分はどうあれ、こころの(なかの)正直に忠実にいるっていうのは、それだけで、とっても偉大なことなのではないかなぁ。そこで、すぐになにかを形にできるできないということとは、まったく別に。それらを、みいんなわかったうえで、いつも、あれるようにある。そこにある。そんな姿勢で歩くことができたら…。たとえもし、目に見える何かがあとに残らなかったとしても、充分に生きた価値はあったといえるのではないかなぁ。まぁ、はんぶんはわたしがわたし自身に言ってるのですけどね。。