ときどき、こころが少し捩れてしまいます。こころとは、はんたいのことをことばにしてしまいます。そして、あとで、くいています。つい、さきまわりしていいひとになり、自分で自分のこころに壁をつくっているだけだというのは、あとになってわかるのですが、そのときは、どうにも、ことばを発せずにはいられないしょうどうにまけてしまいます。つまりは、よわいのです。ほんねをくちにしちゃいけないいけない、そうきめてしまっているのは、とりもなおさず、じぶんのこころなのに…。それでも、くよくよ、なやんでしまうというのは、それだけ、可能性(願い)のあることだからなのに…。なかなか。すなおになれません。ながい時間のなかには、それでもそういうこともありましょうよ。精一杯背伸びしている心の中のもうひとつの声がします。(そこでも、やっぱりやせ我慢しようとしている自分がかなしいような、なさけないような、そんな気もしますが)。それでも、ことばにしているその内容も、かといって決してうそではなく、実際に、そう願ってもいることでもあるから、余計に、こころはねじれるのでしょうね。
なにをどう願おうと、どうにもできない自然の流れがあるのはわかります。でもしかし。そのことと、はなから、なにかをあきらめてしまうこころをふやすこととは、まったく別のことであるのに、こころは、ともすると、よわさにじょうじて、そんな理屈の中に逃げ込んでしまいます。いずれにしても、時がかいけつしてくれます。それだけはまちがいがない…、というのは、わかっているだけに、いまこうしてていいのだろうか?日々のほんのちいさな決断の(つみかさねの)なかに、おおきななにかをけっていづけるなにかがあるのでは?なあんて、柄にもなくくよくよしています。なにかをおくびにもださず、けろりとして、(願いを)我慢して生きるのは、実は(ほとんどのひとには気付いてもらえないけど、だからこそ)とっても、かっこいいことなのでしょう。とはいえ、どうせしぬまでのいのちです。なにを遠慮するのだ。我慢してどうなる。あとで、あのときどうしてできなかったのか。そんな悔いだけはいやに違いない…、というのを、実はほかでもなく、自分自身のこころに必死で言っているのです。ひとには簡単に言えることが、自分の事となると…。どうしてこうも、せつない…、のでしょう。
それでも、逃げているのとは違う…、とはおもっているのですが、ひょっとしたら、ただ、時間を延ばして逃げているだけなのかも…、ともおもいます。ほんとに、どうしたのでしょうね。柄にもなく、ほんによわきなきょうこのごろです。こういうときこそ、へんにじたばたせず、それでも、ひたすら自然の流れにみをまかせる…よりないのですけれどね。さきのことはわからない。きがつくと、そのことばをだしています。ということは、とりもなおさず、ほんねはその逆。わかりたいよ~と、おもってるということなのでしょうね。ほんとに、なんだか、ほんとにほんとに、どうしようもなく、かっこわるい自分であるというのがみにしみてわかります。ちょっとだけつらい時期…というのは、だれにも、あるいは、どんなことがらにも、あるのでしょう。だから、努力しないでいいというのとは、ちがいますが。じたばたしてもしかたないことでもあります。こういうとき、たださわさわと、風のように(風邪じゃあ…ないですよ^^;)ふわふわと、でもけっして(想いの)灯を消してしまうことなく、どんなかたちだって、どんとうけてみせますよ!ってな風情でいられたら、さぞ、かっこいいでしょうね。そりゃあ、胸のうちでは、どうにも心配でたまらず、しちてんばっとう…、しているとしても…。