ただ、いまの、このときは、ことばにしたら、ほんのわずかのことばにしかならない、そのおもいをしずかにかみしめていたい、そんな、気分なのだが。それでも、ことばにしてみて、おもう。ときに、おもっていることは、ことばにしないと、いけないのだなぁ~と。おもっていることは、ことばにしようと、せずにおこうと、かわらぬのだから…、と、いう気もしていたが、やはり、ことばにしてはじめて、しかとするものもあるのかなぁ~と。ことばは、かたちにして、あるいは、おとにして、はじめて、その意味がうまれ、かたちを生む、その、第一歩になるのかなぁ~と。つまり、ことばには、きっと、おおきなちからがあるのかもしれないと。ふと、おもう。
だから、それが、ひとたび、ひとを傷つける方に使われたら、きっと、それだけ、大きな傷をつくってしまうのだと。やはり、ことばも人格なのだろうか。なにかを、おもっているだけだと、あれこれ、あれこれ、おもいなやみ、そして、たじろぎ、うろたえ、そして、右往左往してしまう、こともあるけれど。ひとたび、たとえ、自分自身のなかの声とでも、ことばを交わし、よし、こうしよう、ここだけは、耐えよう、あれだけは、あきらめずにいよう、そんな、なにかが、ふと、胸にしみこませることができたとき、おもわぬ、ちからが湧いてくることがある。そんな気がするから、だから、ひとの声は、かくも、ひとを元気にさせる、力があるのかもしれない。
言葉を交わす、声を交わす、そのひとつひとつは、ときに、とても、他愛のないことでも、そのこと自体が、とってもありがたく、知らず知らずに積み重ねたそれは、きっと、つらいとき、思いがけず、力を加えてくれるのかもしれない。ちょっと、大袈裟だけど、時の流れは、ときに、想いも寄らなかった展開を生む…、というか、ドコでどんな風にいても、やはり、いくばくかの覚悟と、忍耐と、そして、苦労はつきもので。じゃあ、はじめから、なにかをあきらめてやってくる苦労と、そうでないところで訪れる苦労と、どっちが頑張り甲斐があるか…。そんな風に、結局考えてしまうわたしは、やっぱり、どこか楽天家で、能天気で、そして、結局、いずれにしても、いつも、自ら苦労を引き受けにいってしまう、苦労症というやつなのですかねぇ。
ただ、本人がそれをそうと感じていないだけで…。う~ん。でも、これはこれで、たいへんだけど、そこらへんには決してないもので、あるよな気もして、だから、少しだけたいへんだけど、少しだけ、頑張り甲斐のある、時間をほんの少しもたれているのかなぁ。ふと、そんな気もしている。ともあれ。一歩のちからを、少しずつでもあたためていかれたら…、そんなふうに、願い、そして、おもっている。