健康と、パーは似ている。のかもしれない。それが、なかなか手に出来ないときは、それさえあれば…、なんとかして、それがほしい、そうおもう。ところが。ある程度、それが出来るようになると、途端に、なにが、自然体なのか、ほんとうにたいせつなことはなになのか…。ふと、わからなくなる。ときがある。必ず、パープレイでまとめることのできるひとは、たしかにうまい。のだろう。しかし、横にいても、何かがつまらない。ほんとに、それでたのしいの?うれしいの?と、感じてしまう。自分のこころを素直に満足させるためにではなく、どこかのだれかにほめてもらえること、そのことのために、己のこころに蓋をしてないの?それでほんとにいいの?どちらにしても、時間はいつか終わるんだよ。そう、感じないでもない。
不思議だ。それが、当たり前だとおもっていると、失ってはじめて、そのありがたさ、偉大さに愕然とするし。かといって、あまりに、それに固執せんばかりに、気が付くと、なんでもかんでも、建前?ありき。それのためにそれにために、と、ひょっとしたら、ちっともたのしくない時間ばかり。あるいは、自分のこころに、ほんとはしたくない我慢、そして、さしてほんとはしないでもいい我慢をさえていたり(とういうのではねぇ)。そして、数字のために、それでいいのだと、一抹の疑問に蓋をする。自然体でいること。かっこよさってについて。ひとことで、それをいっても、いろいろある。最初からさらにうえのことをあきらめたようなそれ。いっぽう、ほんとうに、どんなそれのなかでも貴重な貴重なそれもあったりするから。簡単にひとくくりにはできない。
ただ。こころとからだ。たぶん、おそらく、どちらかだけのそれはないのだろうな。どちらが先でもなく。本来なら、歩けない状態なのに、起死回生のヒットが打てたりするし。かとおもえば、数字ではどこもわるくなくとも、気持ちが死んでいてはなにもできない。かたちにばかり、気をとられると、気が付くと、もうもとにはもどれない、スタイルが、しっかり沁み込んでしまっている。そんなこともあるのではなかろうか。たとえばもし。「君はどうしてもっとパーをとりにいかない。無難にとれるときでも、敢えて難しいことをしようとするのだ」そんなことを、非難してくれるひととは、やはり、一緒にラウンドしたいとはおもわない。だろう。いや、自分のできないことをできるひとは、むしろ、ありがたい。のだろうか。いずれにしても、ちょうどいいバランス。その、感覚は、ひとそれぞれ。そして、それは(つまり、スタイルはね)、決してひとに無理矢理強いられるものではなくて、自分のあたまとこころで、必死に考えて、見つけ出していくもの。なあんて。そんな気がしている。