まっすぐにたつのは、ひじょうにむずかしい。いつも、そこにたつたびにおもう。ぴたっと、なにかがきまったときは、自然にからだがうごいて、すっときれいにきまる。うごくまえから、予感がある。うまくいくときと、どうしても、うまくいかないときのちがいはなんなのだろうか。(いいかたがむずかしいが)こんな機会でもないと、いまでは、いつもかつもそこに出かけていきたいとは、おもわないので(ようは、だれといくかなのだ、すべては)。もちろん、れんしゅうなんてしない。れんしゅうはなにか?ととわれれば、つねにいつでも、それがれんしゅうであり、それは、いつも、そこが人生なのだから…。練習ってなんだ?っていいたくなる、わたしは、ちょっとおへそまがりかな。だって、練習して、あんまりうまくいったら、それこそ、ちっともおもしろくないではないか。れんしゅうしないでも、うまくできてこそたのしいのではないか。いや、言い方がちとまずいか。ようは、そうする動作をすることが、たのしいなら、それは、れんしゅうであってもれんしゅうではなく、自らそうしたいたのしい時間なのだから、それなら、そうすればいい。したくないことを、自分にかすのは、こころによくない。しごとではないのだから…。なあんて、おもってるからだめなのかな。


ともあれ。ふとおもう。ティーショットのような、平静さと自信と、こころに漂う感覚(覚悟なのか、ただのつかの間の静謐の味わいなのか…)を、それを、グリーンの上でももつことができたら…。たぶん、これまでにない、感覚が、さらに、ふかい部分(それが醍醐味?チーズを作る過程の第五=醍醐、の状態に、語源があるらしいが)が、味わえるのだろうかなぁ。でも、そうなると、たぶん、ハラハラできなくて、面白さがなくなっちゃったらいやだな、とも、おもうし。ともあれ、いくらでも、姿勢しだいで、目の前のライは難しく出来るし、もとめることを(つまり、飛球の軌跡の多彩さを)、創造していけば、いくらでも、愉しみ方は拡がるのだろうな。ただ、きょうのは、はんぶんしごとみたいなものだから(すみません)、しかたないけど、まるで、渡る世間~の、ドラマそのものみたいな、おばさんの口をてきとーにやりすごしながらの、時間時間は、ほんまにほんまに、ある意味、精神力の究極サーキット、劇厳筋トレ!?みたいで、はなはだ、無駄な労力の浪費(m--m)の、気もしたけど。嫁に行くというのは、きっとこういうことに耐えるということなのだろうなと、おもうと、確かに、心底(先人たちの)偉さにたじろぎもするし、ほんに、毒リンゴをうまく解毒できないまま、おとなになってしまった(約半分の??)おんなたちの、たいへんさをおもいしる、教室、であったとおもえば、まぁ、少しは、面白いけれど…。無論、しごとでなかったら、そんなひとと、休日のたいせつなひとときをともにするのは、確かにゴメンですねぇ。ほんに、いろいろな、にんげがいるのですねぇ。ふ~。


そんなことはともあれ。このごろ、そうやって、かつては、あれほど、しゃかりきにやってたくせに、なのだが、いまでは、その、反動もあってか、ひたすら、のびのびすることをおもいきりたのしむことこそ、いみがある、と、おもってしまうので、いっさい、(冒険の)妥協をしない!ものだから…。(だから、そこで、スコアがすべてとおもってるどこかのババア(おっと失礼!)に、「おや、もったいない!」なんて、軽々しく言われるものなら、カッチ~ン!!となってしまうのだな。それでもなお、そんなひとと、なるたけ関わりたくないものだから、きちんと、スコアで勝つことのないように知らず知らずにまわってしまう、自分のオヘソの曲がり具合に、われながら、ちと、もどかしかったりもするのだけどな。それがスタイルのだから、仕方がない!とも、おもっているのだ。なかなか、たいへんでしょ?^^;)。おっと、また横道にそれてしまいました。ともあれ。そんな風な、感覚になってからというもの、実は、正直、自分で自分が打った、球筋に癒されることが、ある。(手前味噌もいいとこだが)。でも、きっと、そういうことではないのかなぁ。スポーツをするって。違うかなぁ。幾つになっても、こころに正直に、のびのびと、成長できたら…。体力と、こころのちから(つまりは知力?)は、互いに補いあうようになっていくという。つまり、年の熟を重ねていけば、きっと、それまでには、みえていなかったものが、いろいろ見えてくるということなのだろうとおもう。常に、新しい発見がある。そんな、感覚が、わかりあえて、共有できる…、そんなひとと、一緒にいられたら…。そんなことをおもいながら、歩いていた。いや、歩いている。