たとえば、あのとき。(あのときというのは、雪山で彼を探して駆けずり回った夜のことだが)。どうして、わたしは大声をだせなかったのか?武道館の裏山なんて、家があるわけでなし、いくら深夜でも、いくらでも出せたはずだ。確かに、老いた彼の耳は遠かった。ほとんど見えてないらしい目ほどにではないにせよ、それでも衰えていた。だから、耳よりも、まだ充分働くはずの、鼻に訴えるべく、そこらじゅうに、わたしの足跡を、つまり匂いをつけたほうが…。しかし、それでは、もし、動けなくなっていたとしたら…。やはり、声で呼ぶべきだった。のだろう。でも、あのとき、どうしてもそれが出来なかったのは、あの期に及んで、自分自身の羞恥心か?それとも、こころのどこかに、もし、彼が自ら望んだのなら、そしてまた、彼女がそうしたいとおもってそうしたのなら、もし仮に、見つかっても、今までと同じ暮らしはできないのではないか?いますぐ、わたしがここに戻って、彼の面倒をみられるのか?それはつまり、彼女との同居を意味するんだぞ?それに耐えられるのか
?…。はたして、そのとき、そこまで周到に考えたかどうか…。さだかではないが、いまこうして、ことばになるということは、あながち間違ってはいまい。つまりは、こころのどこかで、やっぱり自分のことが大事だったというわけだ。情けなく、どうしようもなく、哀しいが、それもまた事実なのだろう。
だから、いま、何を言いたいわけでもないのだが。しかし、あのとき、声を出せなかった後悔は、何年たったいまでも、こうして、ずっとこころのどこかに、わだかまりとして残っている。ただの自己憐憫だと、言われたらそうかもしれないが。ときに。なにかをした後悔よりも、しなかった後悔の方が、あとに大きく残るとひとはいう。それは、ときと場合による。例としてはふさわしくないが、わたしにとってのゴルフは、それだ。あのとき、ほんとうに、ゴルフを選択したのが正しかったのか?それと引き換えに失ったもののほうが、ずっと大きかった気もして、それはとても大きい後悔になった(ときもあった)。いや、いまだに、どっちがよかったかなんて、正直わからない。無論、いま確かに、ゴルフのお陰で、救われていること、助けられていることもたくさんある。だけど…、というのは、これは、永遠に続くだろうと、正直おもう。ちょっと大袈裟だけど。どこを、どう生きても、あるいはどの道を通っても、恐らく、後悔や苦労は、それぞれにあるのだろうというのは、わかる
。ときに、ひとは、ともすると、二者択一を自らに無理やり課してしまう。無論、その通りのときもあれば、実際には、それ以外の道がある場合だってあるだろう。あるいは、こころが弱ると、あらゆる可能性に目を開くゆとりがもてずに、目の前にたった二つきりの道をつくって、急いで答えをほしがってしまうのかもしれない。
どんなかたちでも受け容れる!そう、自分に言い聞かせつつも…、どっちの場合でも大丈夫!という、こころを作るのは、正直、むずかしい。おもいがとげられなかったときに、こころが死んでしまわぬように…、そっちの予防にばかりちからを、入れてしまうと、肝心の、願いを祈る方のこころがよわくなってしまう。かといって、ひたすら、何が何でも…、となると、周りが見えなくなるし。でも、それぐらいでないと、ほんとうの願いは叶わぬ。そういうひともある。すると、こんどは、守りのこころがすっかりおろそかになって…。ふとしたことで、くじけてしまう…。…。なあんて。そんな風に、考えてしまうこと自体、わたし自身の、よくであり、勝手であり、なんとかして自分を守らねば…、そんな弱さのあかしなんだろうなって、おもいます。自分の気持ちを、うまく(コントロールということばはつかいたくないぞ)~、なんでしょう、そう、うまくつきあって、どんなときでも、それでもなお、愉しみ、自分自身を眺めるゆとりのようなものを、もっていられたらいいのだけど
…。ひとは、ひとと、気持ちをぶつけあったり、話し合ったり、そうやって、交流が、空気の交歓があってはじめて、進歩したり、成長したり、あるいは、癒されたりするものであろうし。それでもなお、日々、目の前にあらわれる、いろいろな感情と折り合ったり、向き合ったり…。無論、それでいいのだ!ってね。おもうのだけど。ときどき、自分ではない、だれかに、こころからそう言ってほしいよぉ~、そうおもってしまうこともあるんだな。
?…。はたして、そのとき、そこまで周到に考えたかどうか…。さだかではないが、いまこうして、ことばになるということは、あながち間違ってはいまい。つまりは、こころのどこかで、やっぱり自分のことが大事だったというわけだ。情けなく、どうしようもなく、哀しいが、それもまた事実なのだろう。
だから、いま、何を言いたいわけでもないのだが。しかし、あのとき、声を出せなかった後悔は、何年たったいまでも、こうして、ずっとこころのどこかに、わだかまりとして残っている。ただの自己憐憫だと、言われたらそうかもしれないが。ときに。なにかをした後悔よりも、しなかった後悔の方が、あとに大きく残るとひとはいう。それは、ときと場合による。例としてはふさわしくないが、わたしにとってのゴルフは、それだ。あのとき、ほんとうに、ゴルフを選択したのが正しかったのか?それと引き換えに失ったもののほうが、ずっと大きかった気もして、それはとても大きい後悔になった(ときもあった)。いや、いまだに、どっちがよかったかなんて、正直わからない。無論、いま確かに、ゴルフのお陰で、救われていること、助けられていることもたくさんある。だけど…、というのは、これは、永遠に続くだろうと、正直おもう。ちょっと大袈裟だけど。どこを、どう生きても、あるいはどの道を通っても、恐らく、後悔や苦労は、それぞれにあるのだろうというのは、わかる
。ときに、ひとは、ともすると、二者択一を自らに無理やり課してしまう。無論、その通りのときもあれば、実際には、それ以外の道がある場合だってあるだろう。あるいは、こころが弱ると、あらゆる可能性に目を開くゆとりがもてずに、目の前にたった二つきりの道をつくって、急いで答えをほしがってしまうのかもしれない。
どんなかたちでも受け容れる!そう、自分に言い聞かせつつも…、どっちの場合でも大丈夫!という、こころを作るのは、正直、むずかしい。おもいがとげられなかったときに、こころが死んでしまわぬように…、そっちの予防にばかりちからを、入れてしまうと、肝心の、願いを祈る方のこころがよわくなってしまう。かといって、ひたすら、何が何でも…、となると、周りが見えなくなるし。でも、それぐらいでないと、ほんとうの願いは叶わぬ。そういうひともある。すると、こんどは、守りのこころがすっかりおろそかになって…。ふとしたことで、くじけてしまう…。…。なあんて。そんな風に、考えてしまうこと自体、わたし自身の、よくであり、勝手であり、なんとかして自分を守らねば…、そんな弱さのあかしなんだろうなって、おもいます。自分の気持ちを、うまく(コントロールということばはつかいたくないぞ)~、なんでしょう、そう、うまくつきあって、どんなときでも、それでもなお、愉しみ、自分自身を眺めるゆとりのようなものを、もっていられたらいいのだけど
…。ひとは、ひとと、気持ちをぶつけあったり、話し合ったり、そうやって、交流が、空気の交歓があってはじめて、進歩したり、成長したり、あるいは、癒されたりするものであろうし。それでもなお、日々、目の前にあらわれる、いろいろな感情と折り合ったり、向き合ったり…。無論、それでいいのだ!ってね。おもうのだけど。ときどき、自分ではない、だれかに、こころからそう言ってほしいよぉ~、そうおもってしまうこともあるんだな。