冥王星移住計画
ひきこもり/ニートを支援するNPOの代表をしていました。
諸般の事情により、昨年末日をもって活動休止いたしました(事実上の廃業)。

ここには、五年くらい前の、精神的に不安定だったころの記事も残っています。内容に問題があるものも多々あるかと思いますが、ご容赦ください。
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

廃業の経緯

 前の前の記事に書いたように、昨年末、2010年12月ごろから、知人の税理士のサポートを受けて、再建策を練りはじめていた。そこに至るまでに、個人的に事業内容の見直しは何度もおこなっていたが、それでもなお運営状態は改善されずにいた。

 おりしも、2010年11月に、昔の恋人と十四年ぶりに再会し、とんとん拍子で、結婚しようそうしよう、ということになった。
 こんなふうにいうと、ハッピーなように思われるかもしれないが、それほど容易な状況というわけでもない。再会したとき、彼女は三十五才、私は三十四才だった。ふつうならどちらもすでに結婚していたとしてもおかしくない年齢といっていい。にもかかわらず、ふたりとも結婚していなかった。それには理由があった。
 私のほうはひきこもり/ニート状態から抜け出したばかりであり、NPOの運営もうまくいっておらず、経済的にはきわめて貧しかった。とても結婚相手を探せるような状況ではなかった。
 そして、彼女のほうはといえば、統合失調症を患っていた。いわゆる妄想型であり、症状はさほど重くはなかったが、毎日薬を飲まなければならず、しかも、その薬は胎児に影響をあたえるものだった。そして、薬の影響もあってか、かなり太っていた。私とはちがった理由で、彼女もまた結婚相手を見つけづらいような状況にあった。

 そんなふたりが再会し、結婚を誓い合った。あきらかに容易な状況ではない。

 いずれにしても、これが廃業の主因といっていい。
 彼女がすでに高齢であるため、高齢出産による母子へのリスクを低減するためには、結婚を急がねばならない。悠長にNPOの立て直しを図っている場合ではなく(立て直しが成功するともかぎらないため、これは確実性にも欠ける)、早急に生活の安定を図る必要があった。結果、廃業を決断し、より堅実な道を、すなわち、組織内労働者となって給与所得を得ることを目指すこととなった。

自分史

 廃業の経緯について話す前に、閑話休題。

 たまたま昨日、自分史をムービー形式で作れるというサイトを見つけ、試しに作ってみた。なんでも、JCBが開五十周年を記念して作った特設サイトだとか。

 以下をご覧いただけば、廃業の経緯についてもおわかりいただけるかもしれない。

 足立区民の自分史

 なんとなく足立区を主題にしてみた。

廃業のご報告

 非営利活動団体デッドビートクラブは、諸般の事情により、昨年末日をもって活動を休止いたしました。再開の具体的な予定はなく、事実上の廃業となります。
 報告が遅れましたことをお詫びしますとともに、関係各位よりの度重なるご厚誼・ご高配に感謝申し上げます。

 堅苦しい挨拶はこのくらいにして、要は廃業です。
 主たる要因は、運営難、ひいては顧客獲得の困難にありました。
 昨年12月から、知人の税理士のサポートを受けて、再建策を練りはじめたところだったのですが、甚だ個人的な事情により、再建を断念することとなりました。

 その個人的事情については、べつの記事で語ります。

ニーチェ「星の友情」

ニーチェの文章を邦訳する機会がありました。既存の訳があれば参考にしようと思い、ググってみたところ、なかなかよい全文訳が見あたらなかったので、せっかくなので、ここに掲載しておきます。なお、英訳をもとにした(ほぼ)逐語訳です。一部、独語原文を参照しているほか、日本語としての通りをよくするため、若干の改編をくわえています。

『悦ばしき知識』「279節 星の友情」

「われわれはかつて友であったが、いまや袂を分かった。だが、それはただしいことであった。あたかもそれが恥ずべきことであるかのように、隠したり曖昧にしたりすることを、われわれは望まない。われわれは異なる目的地と航路をもった二艘の船なのだ。いつの日か、われわれの航路が交わり、かつてそうしたように、歓喜の宴をくりひろげることがあるかもしれない。そして、あたかもともに目指していたおなじ目的地にたどりついたかのように、ともにひとつの日射しを浴びて、ひとつの港で静かに休息することもあるかもしれない。しかし、あるとき、われわれの使命という力強き力が、われわれをふたたび異なる海洋へと、異なる太陽のもとへと連れ去ったのだ。おそらくわれわれがふたたび相見えることはないだろう。たとえ出会うことがあっても、たがいをそれと認識することはできないかもしれない。異なる海における日々、異なる太陽のもとでの日々が、われわれを変えてしまっているであろうから。われわれが袂を分かたざるを得なかったのは、われわれのあずかりしらぬ法によってである。そして、まさにそのことによってこそ、われわれはたがいにより深く敬意をいだくべきなのである。かくして、われわれのかつての友情の記憶はいっそう聖なるものとなるのである。この天空のどこかには、われわれの異なる道筋と目的地がその微小の一部としてふくまれるような、大いなる不可視の軌道が存在するかもしれない。このような思想にまで、われわれはわれわれ自身を導き、高めようではないか。しかし、このような崇高な可能性という意味での友人を超える存在となるには、われわれの人生はあまりに短く、またわれわれの視力はあまりに弱い。だとすれば、たとえ地上では仇敵たることを強いられようとも、星々の世界における友誼を信じようではないか。」

英訳文
"Star friendship.— We were friends and have become estranged. But this was right, and we do not want to conceal and obscure it from ourselves as if we had reason to feel ashamed. We are two ships each of which has its goal and course; our paths may cross and we may celebrate a feast together, as we did—and then the good ships rested so quietly in one harbor and one sunshine that it may have looked as if they had reached their goal and as if they had one goal. But then the almighty force of our tasks drove us apart again into different seas and sunny zones, and perhaps we shall never see one another again,—perhaps we shall meet again but fail to recognize each other: our exposure to different seas and suns has changed us! That we have to become estranged is the law above us: by the same token we should also become more venerable for each other! And thus the memory of our former friendship should become more sacred! There is probably a tremendous but invisible stellar orbit in which our very different ways and goals may be included as small parts of this path,—let us rise up to this thought! But our life is too short and our power of vision too small for us to be more than friends in the sense of this sublime possibility.— Let us then believe in our star friendship even if we should be compelled to be earth enemies."

独語原文
"Sternen-Freundschaft.— Wir waren Freunde und sind uns fremd geworden. Aber das ist recht so und wir wollen's uns nicht verhehlen und verdunkeln,—als ob wir uns dessen zu schämen hätten. Wir sind zwei Schiffe, deren jedes sein Ziel und seine Bahn hat; wir können uns wohl kreuzen und ein Fest miteinander feiern, wie wir es gethan haben,—und dann lagen die braven Schiffe so ruhig in Einem Hafen und in Einer Sonne, dass es scheinen mochte, sie seien schon am Ziele und hätten Ein Ziel gehabt. Aber dann trieb uns die allmächtige Gewalt unserer Aufgabe wieder auseinander, in verschiedene Meere und Sonnenstriche und vielleicht sehen wir uns nie wieder,—vielleicht auch sehen wir uns wohl, aber erkennen uns nicht wieder: die verschiedenen Meere und Sonnen haben uns verändert! Dass wir uns fremd werden müssen, ist das Gesetz über uns: eben dadurch sollen wir uns auch ehrwürdiger werden! Eben dadurch soll der Gedanke an unsere ehemalige Freundschaft heiliger werden! Es giebt wahrscheinlich eine ungeheure unsichtbare Curve und Sternenbahn, in der unsere so verschiedenen Strassen und Ziele als kleine Wegstrecken einbegriffen sein mögen,—erheben wir uns zu diesem Gedanken! Aber unser Leben ist zu kurz und unsere Sehkraft zu gering, als dass wir mehr als Freunde im Sinne jener erhabenen Möglichkeit sein könnten.— Und so wollen wir an unsere Sternen-Freundschaft glauben, selbst wenn wir einander Erden-Feinde sein müssten."

不調

事業運営がなかなか思うようにいかず、12日から14日までの三日間、家にひきこもっていた。事業内容に関して修正すべき部分、梃入れすべき部分がいくつかあるのは自覚していたが、手をつける気になれなかった。

悲観と楽観のあいだでゆらゆらと揺れていた。もともと現在の事業を本業にするつもりでいたが、場合によっては副業とすることにして、別の業に本腰を入れたほうがいいのではないか、ということも考えた。それは要は、現在の事業のために割く労力を減少させることの論理的正当化に過ぎず、端的にいって、自分が怠けることへの言い訳でしかなかった。

正直なところ、先行きが不透明な状況にあっては、これ以上注力することには躊躇せざるを得ない。そもそもこれまでに注いできた労力も相当なものであり、それにも関わらず、結果がともなっていないことを考えると、さらなる注力はどうしてもためらってしまう。もっとも、力の注ぎかたがまちがっていたといわれればそれまでで、思い当たる節もないではないが、いまさらいってもはじまらない。

現状、本業か副業かという、結果想定にもとづく二者択一は割けようと思う。すくなくとも当面は、形式的にも実質的にも本業のままとなる。とりあえず、短期的な結果は求めずにある程度長い目で見て、半年後くらいに軌道に乗ればいいという程度に考え、一定のモチベーションは維持して、ぼちぼちと修正を重ねていこうと考えている。

この三日間のあいだに「副業」的なこともはじめた。せっかく時間もあるのだし、と思い、あらためて小説を書きはじめた。これは退行なのだろうか、それとも前進なのだろうか。結局は結果次第ということになるのだろうが、あまり甘い夢は見るまいとは思う。本業から逃げるために副業に走ったという面があるのも否定し得ない。この副業的なものを続けるにしても、本業をおろそかにせず、どうにかバランスをとるべきなのだろう。

今日は本業がらみで用事がふたつ。中三日の外出となる。

やはり家にいるといろいろ考えすぎていけない。今後は特に用事がなくても、せめて二日に一度は外に出るようにしようかと思う。なんだか「エアー出勤」みたいになりそうでいやだが。

11日間連続の外出

記憶がたしかなら、7月1日から11日までの11日間、毎日外出していた。なんやかんやと用事があったり、遊びに出かけたりしていた。

ふつうのひとにとってはふつうのことだろうが、元ひきこもりにとってはこれは異例中の異例といってもいいくらいのできごとだ。ひょっとすると、こんなに連続で外出したのは、六、七年ぶりかもしれない。

やはり部屋に閉じこもっているよりも、外に出たほうがたのしい。特別なところにいったり、特別なことをしたりしなくても、ただ外の世界をながめるだけでも、それなりにたのしめる。これはひょっとしたら元ひきこもり特有の感覚かもしれない。

難点は金がかかることだ。食事にすら金がかかるなんて驚きだ。金欠の身にとっては、たった数百円でも痛い。マクドナルドで涼むのにも、アイスコーヒー一杯分くらいの金がかかる。そんなのは贅沢だとわかっていても、ときにはやってしまう。

今日は特に用事もない。悲しいかな、仕事の予定もない。その気になれば、家に一日中いられる。が、それに耐えられるかどうか。

以前とは逆に、最近は部屋にこもっていることがつらいと感じる。部屋の中の変わらぬ風景をながめていると嘔吐感を感じる。どうやらすこし精神的な健全さを取り戻しつつあるようだ。それとも、これは過去の引きこもり生活への反動が強迫観念化しているということで、別種の不健全さのあらわれだろうか。

最近は部屋の中でPCで遊ぶことに罪悪感すら感じる。以前は日課のように見ていた2ちゃんねるのいくつかのスレも見なくなった。定期的に巡回していた娯楽系のサイトも見なくなった。一部例外はあり、いまでも見ているところもあるが、PCで遊ぶ時間は極端に短くなった。もっとも、以前が長すぎただけともいえるが。

いまは事業運営がおもしろい。まったく順調とはいえないが、それでもなおおもしろい。やればやっただけ、やらなければやらなかっただけ、ダイレクトに自分に返ってくる。そのような反応の直接性こそが事業運営のおもしろさの核にあると思う。世界に素手で触れている感覚、素手で触れられている感覚。

仮に今回の事業がだめだったとしても、たぶんまたすぐに何かやるだろうと思う。やはり自分で何かをするというのはおもしろい。案外やれてしまう、どうにか立ち回れる、ということもわかったし。

「男子の成熟——小児のとき遊戯の際に示したあの真剣味を、ふたたび見出したこと」(ニーチェ)

まさにそんな感じだ。自分にとって事業運営というのは一種の真剣な遊戯なのだろうと思う。

ネットカフェ宿泊と参院選

昨日は結局すぐには遊びにいかずに、午前中からずっとサイトいじりをしていた。サービス内容の変更をともなうものだったので、いろいろ考えなければならず、ちょっと時間がかかった。午後三時くらいにとりあえず公開できそうなくらいになったのでひとまず公開し、遅めの朝食兼昼食をとったあと、遊びに出かけた。

大塚にいきつけにしているネットカフェがある。以前、どうしても『ウルフ物語』という少女漫画を再読してみたくなり、ググったところ、その大塚の店にあることがわかり、『ウルフ物語』読破後も、なんとなく通いつづけている。特別安いわけでもなく、かわいい店員がいるわけでもなく、椅子の座り心地がいいわけでもない。うちからは自転車で20分くらいかかる。けっこうな距離だ。たぶん探せばもうすこし近くにましな店があるはずだが、開拓するのも面倒なので、惰性的にそこに通っている。

午後四時くらいに大塚駅前に到着し、有料駐輪場に自転車をとめた。その後通りかかった駅前のパン屋でパンをひとつだけ買った。

ネットカフェでは7時間パックを選択した。料金は1,480円くらい。
特に読みたい漫画があるわけでもなかった。てきとうに本棚のあいだをぶらぶらし、よさげなのをひとつ選んでみた。が、つまらなかったので、一巻読んだだけでやめた。いまでは表題もおぼえていない。
その後、ふたたび本棚のあいだをぶらぶら。あいにく漫画にはくわしくない。アニメ化された超有名作品(『NARUTO』『ワン・ピース』など)ならわかるが、それ以外はほとんどわからない。ほとんど手探り状態で本棚のあいだを徘徊した。なるべくなら新しめのものを読みたかったが、古めのものでもいいかと思い直し、古めの漫画が集まっているあたりへ。そこで『いちご100%』なるラブコメを発見した。ジャンプか何かに5年くらい前に連載されていた漫画らしい。

突然だが、これまでの人生で一度もだれにも話したことがなかったことを、ここでカミングアウトしたい。私が人生ではじめて買った漫画の単行本は『きまぐれオレンジ☆ロード』第一巻だ。・・・ああ、いってしまった。ずっと隠していたのに。というか、話す機会がなかっただけだが。
同作は私が小学生のころ少年ジャンプに連載されていた。ジャンプを読む最大の理由がその作品だった。たぶんコミックスを買ったのは、小学四年生か五年生のときだったと思う。そういうことに興味をもちはじめる時期だったのだろう。

『きまオレ』は「男女を三角関係」を中心に据えた作品の中では金字塔といってもいいような作品だと思う。ほかには『電影少女』などもそんな感じだろうか。

『いちご100%』も「三角関係もの」だった。冴えない男が複数の美少女から迫られてあたふたする。まさに男の妄想全開。だが、そこがいい。

19巻まであるようだったが、6時間(最初にほかの漫画を読んで一時間ほどロスしていたので)ではあまり読めなかった。

午後十時くらいの時点でけっこう眠かった。来る前にわりと根をつめて作業していた影響もあったのかもしれない。が、次にまた来たときに続きを読むというのもいやだった。記憶が風化してしまって、作品全体のゲシュタルト性のようなものが損なわれるのがなにより困る。なので、眠いが、そのまま読みつづけることにした。

夜間の8時間パックを追加。料金はこれまた1,480円くらい。

そのまま読みつづける予定だったが、気づけば寝ていた。途中、一度起きたが、寝足りなかったので、時刻を確認してから二度寝した。

座席はふつうのリクライニング式の一人掛けソファだった。背もたれは水平にはならないが、145度くらいまで傾く。寝心地は悪くなかった。何日もこんな環境で寝るのはつらいだろうが、一日くらいなら全然余裕だなと感じた。

結局、四時間くらいは寝ただろうか。起きたあと、『いちご100%』の続きを読みつづけた。

午前七時前に店を出て、午前七時過ぎに家に着いた。そういえば、今日は参院選だったと思い出し、いったん用紙をとり、すぐにまた自転車で投票所へいった。

比例区はやっぱり個人名を書くべきなのだろう。が、不勉強なので、個人を選べなかった。政党名を書いた。こんなことじゃいかんな、と思った。

以前、理想に燃えていた若いころには、代議制民主主義なる不完全きわまりない制度を否定する意味を込めて、白紙投票をしていたこともあった。ひきこもりがMaxに達していたころに一度だけ投票にいかなかったこともあるが、それ以外はかならずいっていた。記憶が定かではないが、たぶん二十代なかばくらいまではずっと白紙投票を続けていたと思う。が、いまではもうそんなことはしない。ふつうに投票している。そんな自分の変化がちょっぴり残念でならない。

結局、おれも体制に取り込まれてしまったのか。

バイト探し保留中

事業の運営資金がやばげなので、バイトでもしてすこし稼いでおこうと考えた。で、実際、アルバイト情報誌やバイト探しサイトでけっこう探したんだが、これといったものがなかった。いや、選り好みしていられる状況ではないので、なんでもいいから、てきとうにやっちゃえばいいんだが、本業のほうでサービス内容を大幅に改変する必要が出てきたので、とりあえずそっちを優先することにして、バイト探しは保留することにした。

本業というのは「ひきこもり/ニート支援」なんだけど、どうにもそれだけでは不十分なようなので、「不登校児の学習指導」もおこなうことにした。最初からそうするべきだったのかもしれない。今日、不登校児がひきこもり/ニート化する事例が増えている。それを防止しつつ、学習指導をおこなう。

需要もおそらく多いだろうから、うまくいけば、中心的収入源となるかもしれない。こっちで収入を確保できれば、バイトする必要もなくなる。まあ、バイトがいやだから、事業内容を拡大するってわけではないんだけど。

つーか、家庭教師経験はあるが、正直なところ、らくな仕事ではない。ちゃんとやろうとすると、それなりに事前準備とか必要だし、授業時間外の労働が意外と多い。めんどっちいので、できることなら、やりたくない。中学レベルの勉強なら教科書ざっと読めば苦もなく教えられるはずだし、事前準備なしの場当たり的な対応でも乗り切れそうだが、大学受験レベルとなると、事前準備なしというわけにはいかず、そうとうきつい。頭もそうとう鈍ってるし、英単語なんかかなり抜けちゃってるし。家庭教師するよりは、なんも考えずに肉体労働でもしてたほうがらくだ。が、そうもいっていられない。

現実的に、ひきこもり/ニート支援では稼ぎづらいという面がおおきい。もちろん、十分な実績を上げて、知名度も高くなって、人員・設備面で基盤を整えれば、そうでもないのかもしれないが、できたばかりの団体にとっては非常に厳しい。・・・というようなことがようやくわかってきた。実際、赤字覚悟の廉価でやってても、問い合わせすらほとんどない(皆無でないのが救いだが)。まあ、サイトのコンテンツにも問題があるのかもしれないが。

いずれにしても、かくなるうえは方針転換もやむを得ない。

「ひきこもり/ニート支援団体」による家庭教師ということで、メンタルケア能力もあるものと期待はしてもらえるだろう。いわば本業が付加価値となる。皮肉なことだが、それもまたいいだろう。

十代の若者と接することには若干抵抗がある。ジェネレーション・ギャップもでかいだろう。が、まあ、どうにかなるだろう。

まじめな話、自分自身、中学時代に不登校経験があるので、なんとかしてやりたい、という思いもある。ひとりひとりとの邂逅を想像すると、やる気も芽生えてくる。父性本能のようなものか。力になってやりたいと心から思う。

とりあえずはサイトとパンフレットを修正しなければならない。契約書もつくらなきゃいけない。今週末の課題。でも、この土日は遊んじゃって、月曜からはじめてもいいかもしれない。まあ、どっちもありか。あわてる必要はない。

てきとー、てきとー。気張らずいこう。いざとなりゃ、しばらくバイトで糊口をしのげばいい。とりあえず貯金残高には注意。まだいちおう余裕はある。諸々の支払いで削られたら、あっというまに厳しくなりそうだが。

概して、「ひきこもり/ニートの親」よりも、「不登校児の親」のほうが年齢的に若いので、インターネットによる宣伝の効果も比較的高いと考えられる。その点がせめてもの救いか。

アフィリエイトとひきこもり/ニート

アフィリエイトで収入を得る道を探るのはひきこもり/ニートにとってありなのかどうか、数日前に改めて考えてみた。当初は「まあ、ありなのかもしれんなー」程度に思ってたが、よくよく考えてみると、中長期的にはあまりよくないのかもしれないという結論に達した。いや、これは暫定的な結論にすぎない。眠い頭でぼんやり考えてみた結果にすぎないので、今後、結論が変わる可能性もある。
たとえば、アフィリエイトで五万くらい稼げたとする。ひきこもり/ニートにとっては、これはけっこうな金額だ。このくらいあれば、食と住を親に依存しうるとすれば、余裕で生活は成り立つだろう。これがまずい。まずいんじゃないかと思う。つまり、現状に満足してしまって、(アフィリエイト以外の道で)現状を打開しようとする意欲が失せてしまう。アフィリエイトで月に20万、30万、あるいはそれ以上の額を稼げるというのは、ごくごくひとにぎりの人間だろう。おおかたの人間はなかなか成功できず、結果、藁にもすがる思いで、玉石混淆の情報商材の中から石ばかりを選んで買ってしまう、たまに玉を見つけても中身を十分に理解できず、あるいは実践できず、宝の持ち腐れに終わる、というようなことになるのではないか。
この情報商材というのも曲者だ。要は電子出版の一形態なのだろうが、非常にグレーな領域というほかない。詐欺ではないが、かぎりなく詐欺に近いものがほとんどなのではないか。そもそも、私の認識ではおおかたの情報というのは「ググれば手に入る」ものだと思っている。情報商材というかたちでしか手に入らず、なおかつ有益な情報というのは、ごくごくわずかだろう。それを取捨選択するにも相応の情報処理能力は必要とされるはずで、たいていのひとには困難なことであるにちがいない。

とはいえ、アフィリエイトであれ、なんであれ、やってみようと思えるだけの意欲と、それを実行に移すだけの行動力があるのはすばらしいことだとは思う。そのふたつがあれば、仮にアフィリエイトで食えなくなったとしても、次の選択肢を見つけ、それを実行に移すことも可能かもしれない。うまく立ち回れるひとはそれでよいのかもしれない。
それに、一時的に糊口をしのぐためのものと考えれば、悪くない。悪くないどころか、積極的に奨励されてもいいのかもしれない。なにしろ、ひきこもり/ニートという状態にあっては、他の手段で金を稼ぐのはきわめて困難だ。だとすれば、アフィリエイト等にたよるのは致し方ない。が、多くの人間にとっては、あくまで一時的なものとして考えるのが無難だろう。

私信

そろそろ昔の同級生やら諸々の知人やらに見つかるころかもしれない。

もし見つけたなら、連絡くれ。
寄付金せがんだりはしない。

でも、無利子で五万くらい貸してくれるとうれしい。
返済期限は三ヶ月後くらいにしてくれ。
実家は東京で、ほかにいくあてもないので、逃げないぜ。
いちおうまじめに事業つづけてるっぽいので、ばっくれる心配はないぜ。
たぶん。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>