事務所の慰安旅行は、佳織の一周忌法要後となった。

 令和五年五月八日、新型コロナウイルス感染症の位置付けが、「二類感染症」から、「五類感染症」に変わり、下火になり始めた頃、彩香からいつでも大歓迎で受け入れる、という連絡があった。

 令和六年、薫風が心地良い季節、所員一同は、高知を九時過ぎの特急列車に乗り、途中岡山駅で新幹線に乗り換えて、午後五時前に郡山駅に着いた。

 

        新幹線郡山駅。画像 2/4

 七時間四三分の乗車時間ではあったが、誰の顔からも疲れは見えなかった。

 改札口に近付くと、にこやかに手を振る彩香の姿を見つけた。

「お久しぶりです。皆さん、長時間お疲れになられたでしょう」

 彩香は、紺色の半袖のセーターと長袖のカーディガンが良く似合い、年齢を感じさせない。

 少し長めのレースのカーディガンを上手に着こなし微笑む姿が、一瞬佳織と重なった。

「お宿までご案内します」

 彩香は、タクシーを手配していた。

 ホテルで汗を流した後、彩香はお気に入りの老舗料亭に案内した。

 落ち着いた雰囲気の個室には、次々と一流シェフのこだわった料理が運ばれてくる。

 彩香は、楽しい気分で会話が弾むように、自ら心を開いて自己開示しながら、所員たちとの距離を上手く縮めていく。

 初対面の者たちにも、細やかな気配りで郷土料理や酒を勧め、如才なく接した。

 そうした自然な彩香の対応に、誰もがとすっかり打ち解け合って、楽しい会食が展開された

 私は、にこやかにほほ笑むラミネート加工した佳織の写真を、そっと内ポケットから取り出して同席させた。

 

   

   

 

 次の日から旅行の最終日まで、彩香は付切りで福島県の名所旧跡や地元の人しか知らない穴場などを案内し、分かりやすい説明と郷土の名物料理で、心行くまでもてなしてくれた。

 彩香の誠心誠意の対応に感謝しつつも、帰り際、「ありがとう」の言葉を伝えるのが精一杯であった。

 

     

 

    

「彩香さんがご案内してくれたお陰で、本当に楽しい旅行になりました。彩香さんに心から感謝しています。大先生、ありがとうございました」

 旅行を終えて、事務所に帰った吉田は、私の席にお茶を置いて言った。

「彩香さんは、人の笑顔や喜んでいる姿が嬉しいのだろうね。面倒見の良い、できた人だよ」

 彩香の面倒見の良さは、多くの人に感謝された経験や自分が苦労をした経験から、人にはそんな思いをさせたくないという気持ちからに違いない、と思った。

「実は私、今回の旅行で奥様のこと、ずっと考えていました。初日の会食の席で、彩香さんが、奥様のお写真を手に取られた時、胸が詰まる思いがしました。涙ぐまれていたお姿から、面識がないお二人が、どこかで繋がっているようにも感じました。旅行中、奥様のお写真を持ち歩かれて、写真に向かって優しく話しかけられていた姿にも心が打たれました。奇特な方ですね」

「彼女は、誰からも信頼される誠実で、優しい心の持ち主だよ」

「母は、今回の旅行を楽しみにしていましたので、嬉しかったと思います。彩香さんに、母の思いが通じたのかもしれません。旅行を通して、彩香さんに、凄く親しみを覚えました」

 太一は、お茶を飲み干して言った。

「こんなことを言うと、変に受け取られると思って言えなかったのですが、大先生が、奥様のお手紙を彩香さんに渡された時、奥様から手渡しされているような錯覚に陥りました・・・・・・」

 門田は、意味深長な発言をした。

「本当に不思議ですね。私も奥様の笑顔に触れた気がしました」

「工藤先生まで、そう感じられたのですか。私、あの時、奥様が彩香さんの傍で、優しく微笑まれている姿が見えました。霊感も信仰心もない私ですが、そんなことってあるのですね」

「そうでしたか。皆さんには妻が見えたのですね。妻は、彩香さんに会いたがっていましたので、あの場にいたのでしょう。皆には、黙っていましたが、妻が亡くなる前、スマホに吹き込んだメッセージがあります。聴いてくれますか」

 所員は、スマホから流れる音声を真剣に聴き入った。

「私がそう見えたのはあながち、目の錯覚ではなかったのですね」

工藤は、不思議な体験に納得したようであった。

「先生は、奥様のお気持ちをどう受け止められておられますか」

「吉田さん、それは聴くべきではないよ」

「いいんだ、工藤君。私は、人生を照らしてくれた妻に、心から感謝している。その思いをしっかり抱きしめて、気力体力が続く限りこれからも社会正義に努めることを誓うよ。それが妻に対する答えだ。皆さん、今までどおりよろしく頼みますね」

 目には見えなくても、私には心の中を照らし続けてくれる佳織がいる。

 そして、気心の知れた所員たちや周りの支えが、私に勇気を与えてくれる。

一人ではないのだ。

 陽は、正にここに在る。

 人の優しさを全身で受け止め、最善を尽くそう。

 仏壇の前で手を合わせて、そう誓うのだった。

 かつて陽絶の憂き目にあった時、絶望を希望に変えてくれた救世主はもういない。

 葬儀後、暫くは気を張って悲しみに耐えていたが、佳織の身に付けていた洋服や持ち物など、生活の中に残る余韻が寂しさを増幅させる。

 呆然と窓の外を眺める私の様子を見て、職員たちが心配して声をかけてくる。

 その気遣う気持ちが、寂しさを募らせるが、期待を裏切ってはいけないと、自分に言い聞かせているうちに心に変化が生じてきた。

 敢えて立ち入らなかったパントリーに入り、ワインセラーから佳織の愛飲していたワインを取り出した。

「まずは、キャップシールを切って、そして、ソムリエナイフを時計回りに回して、コルクにスクリューをねじ込むのだけど、その時、真ん中にまっすぐに挿すのがコツなのよ」

 佳織から初めて指南を受けた時の声が蘇った。

「挿す深さは、コルクの底を突き破るギリギリがベストなの。スクリューが真下を向いたままコルクをまっすぐ上にあげるといいわよ」

 当時のことを思い出しながら、テーブルに二つグラスを並べ、ワインを注いだ。

 そのワインを口に含み、前日に下準備したステーキ用の和牛をホットプレートに投入すると、不思議と気持ちが和らいでくるのを覚えた。

「遼ちゃんは、ミディアムレアなのね」

「かおりんは、レアだったね」

「黒毛和牛のレアは、美味しいのよ」

 アルコールが、佳織との世界へいざない、優しさに包まれたまま、ソファーで心地よい眠りに落ちた。

「あの日、面会を勧めたことを悔やんでいる。ごめんよ

「遼ちゃんのせいなんかじゃないわ。私どうしても父に会いたかったの。人生は、いつも好機に恵まれるとは限らないし、タイミングがずれて、取り返しができないことも良くあることでしょう。好機を逃して、二度と手にすることが出来なくても、タイミング悪く失敗しても、常に、前向きな考えでいると、悔いのない人生が送れるのよね。そうした生き方を遼ちゃんは、ずっとしてきたじゃない。自己嫌悪は似合わないわよ。人の優しさを全身で受け止めて、最善を尽くす、そんな遼ちゃん、大好きよ」

 目覚めた時、窓の外はまだ明るかった。

 ゆっくりと流れる雲が人型を形成し、それが恰も笑顔の佳織の姿に見えた。

 

 翌朝、気分は爽快であった。

 暫く休んでいた佳織の遺品整理を再開することにした。

 衣裳部屋の洋服や帽子、かばんなどの小物が整然と収納されている所に、かつて佳織の誕生日に贈った宝石箱を見つけた。

 その中に小さな手帳があり、丁寧な文字で重要な記録が書き留められていた。

 探していた佳織のスマホの暗証番号も記されていた。

 スマホの電源を入れると、未送信のメッセージが見つかった。

 それは、佳織がホテルに隔離されて、六日目に吹き込んだものだった。

 

 私の大好きな遼ちゃん、私、もうだめかもしれない。時々意識が途切れるの。まだ意識があるうちに、最後のお願い聞いてください。遼ちゃんは、寂しがり屋だから、私がいなくなったら、一人で生きていけないのではないかしら。それが心配。遼ちゃんには、まだやることが残っているわ。多くの困っている人を助けることでしょう。そのためには、私に代わる女性の支えが必要よ。その女性は、彩香さんしかいないわ。彩香さんだったら、私、安心できるの。お願い。お願いね。彩香さんは、遼ちゃんに相応しい女性よ。……。私がいなくなっても悲しまないでね。私はいつも遼ちゃんの傍にいます。彩香さんと一緒に、困っている人たちを救ってあげてね。お願いします…………。

 

 

 

 前略

 突然、お手紙を差し上げるご無礼をお許し下さい。

 林田遼太の妻の佳織と申します。

 震災から一〇年、さぞかし大変だったこととお察しいたします。

 私どもで、できることがあれば、遠慮なくお申し付けいただければとても嬉しいです。

 ところで、先の頃は、主人や門田が大変お世話になりました。

 そのうえ、弊所の旅行のご案内をしてくださるとのこと、ご厚意に深く感謝します。

 その節は、どうかよろしくお願いします。

 さて、今日お便りさせていただいたのは、どうしても彩香さんとお話をしたくなったからです。我が家では、一〇年前から彩香さんの話題が良く会話の中に登場するようになりました。主人から聴く彩香さんの心の美しさや優しさに触れると、私自身、洗われるような気持ちになり、是非ともお友達になりたいという願いが日々募り、直接お話ししたくなりました。

 主人に相談したところ、「少し待って」と言われましたので、まずはお手紙を書くことにしました。

 実は、結婚する前に一度、主人から彩香さんのことについて聴いたことがあります。その時は、若かったので彩香さんへの愛が羨ましくも思いました。

 でも、不思議なほど彩香さんに親近感を覚えました。それは、彩香さんの奥ゆかしさに共感し、尊敬の念を抱いたからです。

 今も同じ気持ちですので、心の触れ合いができれば大変嬉しく存じます。

 お構いなければ、お友達として、お電話させていただけないでしょうか。

 益々の酷暑にお身体を崩されませぬよう、どうかご自愛専一にお過ごしください。

                                 かしこ

   二〇二一年七月一五日

                               林田佳織

 鈴木彩香 様

 

 

     

 

 七月一五日といえば、感染が疑われた日の前日ではなかったか。

 佳織は、一体彩香とどんな話をしようと思っていたのだろうか。

 佳織から電話をしたいと言っていた時、させてあげればよかったと悔やんだ。

 佳織を失った悲しみに沈んでいた時、スマホに着信音が聞こえた。

 携帯の相手を見て逡巡した。

 彩香からであった。

 着信音はやがて消えた。

「大先生、鈴木さんからお電話です」

 吉田理恵は、事務所にかかって来た電話を遼太に回した。

「先の頃は、ありがとうございました」

 彩香の声は弾んでいた。

「こちらこそ、大変お世話になり、ありがとうございました」

「お風邪ですか。お声がかすれている気がしますが、大丈夫ですか」

 彩香は、かすれ声に敏感に反応した。

「大丈夫です」

 あえて元気を装って対応した。

「それならいいのですが……。何度かお電話させていただきましたが、連絡が取れなかったものですから心配していました」

「しばらく携帯を別の場所に置いていて気付きませんでした。すみません」

「またお会いできることが嬉しくて、……。お越しになられる頃には、コロナも少しは落ち着いているでしょうから、事務所の皆様に、お会いできることを心待ちにしています」

「所員たちも楽しみにしています」

「私、奥様にお会いできることが凄く楽しみです。それまでに、奥様とお電話で親しくお話ししたい、と思っています。奥様にお電話してもよろしいでしょうか」

 彩香の親密な交流願望は、意外であった。

 佳織と言い合わせたかのような表現に、何か神秘的なものを感じ、強い衝撃を受けた。

「妻は、……。コロナで……」

「感染されたのですか」

「はい」

「お加減は如何ですか」

「ホテルに隔離されで、療養していましたが、……」

「病院での治療になられたのですか?」

「はい」

「それはご心配ですね。奥様がお元気になられますよう、一日も早いご快復を心からお祈りいたします」

 彩香の言葉は、心に重く刺さった。

「先ほどの件ですが、入院する前、妻も全く同じことを話していました。妻は、来年の慰安旅行で、彩香さんに会えることが楽しみで、それまでに電話や手紙の遣り取りをして、友達になりたいと言っていました」

 佳織との約束が、この時になってしまったことに胸が痛んだが、彩香に佳織の願いを精一杯伝えることが責務の様に思えた

「本当ですか。嬉しいです。私、ずっと奥様とお友達になりたいと思っていましたので、奥様のお身体、とても心配です。どうか、お大事になさってください」

「はい、……」

 佳織の死を伝えるタイミングを失い、暗く重い電話になった。 

    

「あなた、彩香さんにお電話したいけど、いいかしら?」

「面識がない女性から、突然電話があれば、身構えるかも知れないね。急な用なの?」

「来年の慰安旅行でお世話になるでしょう。それまでに親しくなっておきたいのよ。本当言うとね、彩香さんには、親しみを感じているので、ずっと前からお友達になりたいと思っていたの」

「だったら、彼女に電話する機会に、その旨伝えておくよ」

「今が、彩香さんとお友達になる絶好の機会だと思うの。お話ししたり、手紙の遣り取りもしたいので、彩香さんへの連絡、よろしく頼みます」

「了解! 電話してみる」

 言葉とは裏腹に、上手く伝える自信はないが、佳織の気持ちは大切にしたいと思った。

 翌日の昼、佳織の父親が入居する老人介護ホームにコロナ感染のクラスターが発生し、入居者全員がPCR検査を受けている様子がテレビ報道された。

「この前、面会出来た時、父さん咳き込んでいたから、心配だわ。ワクチン接種をしていない私にも、感染リスクがあるわね」

 自宅で昼食をとりながら、佳織は不安げな声をあげた。

「感染は、ある程度マスクで防げるとは思うが……」

「絶対大丈夫とは言えないわね。それより、父さんのことが、心配になってきたわ」

 その夜、佳織は三八度の発熱と咳や喉の痛みを訴えた。

 翌朝、保健所から父親が陽性であることの連絡があり、佳織に総合病院で受診するよう指示があった。 

 佳織のPCR検査結果は、次の日の午後「陽性」であることが判明した。

 濃厚接触者にはPCR検査が行われたが、結果は全員陰性であった。

 佳織は、市内のホテルに隔離が決まり、朝方、完全防護服の保健所職員が訪ねて来た。

「奥様の入院の準備が整い次第、ホテルまで保健所の車で送迎いたします」

「同行できますか?」

「同行は出来ません。今後、奥様が陰性になって、お帰りになるまで、接触も一切できません」

 ホテルに着いた佳織は、保健所の職員から簡単な説明を受けた後、書類にサインをして、指定された部屋に向かった。

「遼太さん、私は今ホテルで食事をとっています。隔離されたホテルは、とてもお洒落です。今日は、保健所職員が、保険証や持参した薬の種類と数をメモして、簡単な問診を行いました。ところで、遼太さんには父の情報が入っているでしょうか? 連絡があったら教えてくださいね」

 佳織のスマホから、遼太にメールによる連絡があった。

 面会が認められないため、スマホでしか対応できないのだ。

「退所は早くて発症から一〇日後と聞きました。私は、軽症だから一〇日後には退所できると思います。その間、よろしくお願いします」

 佳織からは、毎日、メールで様子を知らせてきた。

 佳織の父親については、施設から遼太に「日々、快方に向かっている」という連絡が入った。

「父が、快方に向かっていることを聴いて安心しました。私は、まだ本調子ではありませんが、早く良くなって帰りますので、もう暫く待っていてください」

 佳織からのメールはこの日で途絶えた。

 隔離されて六日後、予想外のことが起こったのだ。

 保健所から突然、佳織の病状が激変し、感染症指定医療機関に搬送したと連絡が入った。

 佳織は、我慢強く四〇度の高熱にも耐えていたようだ。

 病院に搬送された時には肺炎を起こし、酸素投与が必要な中等症Ⅱの状態に陥っていた。

 集中治療室が満室のため隔離した病室に運ばれ、治療を受けることになったが、翌日には医師の想像以上に肺炎が進行し、自力での呼吸ができなくなるほど急激な変化が現れていた。

 全身に炎症が出て、集中治療室での治療や人工呼吸器を使った治療が必要となる重症と認定され、熟練した集中治療室での管理となった。

 エクモの治療が開始され、医師や臨床工学技士が二四時間体制で張り付き、看護師も付きっきりとなり、すべてのスタッフの力を結集した「チーム医療」によって佳織の命が守られる体制が敷かれた。

 

      

 

 ICUに入った医療スタッフの懸命な集中治療にも拘わらず、集中治療室に入って二日後、佳織は、肺の機能が回復できないまま逝った。

 

 感染拡大防止のため、遺体は病院からそのまま火葬に回されることとなり、呆気ない別れとなった。

(コロナの対応について、医療スタッフの大変さは理解するが、なぜもっと早く病院で治療をさせてはくれなかったのか。政府や行政は、遺族に対する配慮が余りにも欠けている)

 不信感は、募るばかりであった。

(これまで、傍でいつも励まし支え続けてきてくれた佳織の一生は何だったのか。佳織は本当に幸せだったのだろうか。自分は、佳織に精一杯の愛情を注いできただろうか)

 悔し涙が、止めどなく溢れる。

 葬儀が終わり、一箇月を過ぎた後、佳織の遺品整理をしている中で、彩香宛の手紙が見つかった。

 

 横断歩道の前で倒れた遼太の体を抱き抱えて、タクシーで病院に搬送したのは、野田佳織だった。

 商社に勤める佳織は、海外勤務から本社勤務となり、帰国した足で、遼太のアパートに向かっていた途中、この出来事に遭遇した。

 病院での検査で、軽い外傷と内蔵系に疾患が見つかり、遼太の入院が告げられると、佳織は、職場の了解を得て、病院での付き添い看護を始めることにした。

 遼太の病状は、献身的な佳織のサポートもあって回復が早く、一週間で退院できることになった。 

「遼ちゃんの退院を祝って、乾杯!」

「ありがとう。かおりんの帰還を祝って、乾杯!」

          

 

「私の帰還もお祝いしてくれるのね。ありがとう」

「以前、かおりんが海外勤務を終えたら帰還祝いをすると約束しておきながら、今日は、こんな素敵なホテルのリッチなコース料理を予約までしてもらっていたとは、申し訳ない。ありがとう」

「何よ。改まって。でも嬉しいわ。遼ちゃんが覚えていてくれたこと。それとそんな言葉が聞けて、誘った甲斐があったわ」

 佳織は、嬉しさを隠さなかった。

「良く考えてみると、二人きりで食事をするのは、足摺旅行以来よね」

「そうだね。早いものだね」

「遼ちゃんとこうして食事ができるなんて本当に嬉しいわ。病院の先生から、お酒も少しだけなら良いと、了解を得ているので心配せずに飲みましょう」

「本当に手回しがいいね。いつも感心するよ」

「遼ちゃんのためなら、何でもするわよ。でも、日本酒党の遼ちゃんの希望を訊かずに、ワインを頼んじゃって、ごめんね」

「謝ることはないよ。本当言うと、ワインは、初めてなんだけど、このワイン、凄く美味しいよ。日本酒と同じぐらい好きになりそうだ」 

 赤ワインには、甘味と酸味、それに渋みの加わった奥深い味わいがあった。

「良かったわ。遼ちゃんのお口に合うようで。ワインの味わいを決める要素は、原料のぶどうだけでなくて、気候や土壌と地形、つくり手の四つがあると言われているの。今日は、遼ちゃんの退院のお祝いだから、最高のワインを注文しておいたの」

「最高のワインって、高いんじゃないの」

「ごめんなさい。最高のというのは、値段のことではないわ。遼ちゃんが最高と言って飲んでくれたらいいなという意味よ。私のお給料で、高価なワインが注文できるわけないじゃない」 

 佳織は、一瞬戸惑ったが、笑顔で煙に巻いた。

「高給取りでないとは言わせないよ。でも、ありがとう。このワイン最高だよ。かおりんの優しい心遣いに、心からお礼を言うよ」

「遼ちゃんって、やっぱり素敵だわ。人の気持ちを大事にしてくれるから」

澄んだ眼で直視する佳織を見て、共に歩んで欲しいという思いが、自然に湧きあがるのを覚えた。

「かおりん、僕が司法試験に合格したら、正式に付き合ってくれないかな」

 失恋の痛手を、佳織に癒してもらうなどという安易な気持ちではなかった。

 自分を慕ってくれる女性の気持ちを、二度と裏切るようなことはしないと、入院中考えていたのだ。

 

       

「えっ! 本当なの、嬉しいわ。今、ここで、遼ちゃんからその言葉が聞けるなんて……」

 佳織は、目頭を押さえた。

「今まで、かおりんの気持ちを無視していてごめん。かおりんの気持ちを分かっていながら、大事な女性(ひと)がいたので、どうしてもその気持ちに応えることができなかった。本当にごめん」

 ありのままを佳織に伝えた。

「何となくわかっていたわ。遼ちゃんは、隠し事が出来ない人だから。でも、私、遼ちゃん以外の人には、全く関心がないの。だから、仕事と遼ちゃんのことだけをいつも考えているの」

「ありがとう。その女性が、結婚したショックで落ち込んでいたけど、入院中毎日かおりんの姿に触れて、身も心も救われたよ。長い間、心の中に見え隠れしていたかおりんへの思いに気付くこともできた。自分勝手で、寂しがり屋の僕を支えてくれないだろうか」

「私、今の遼ちゃんの気持ちを聴けて本当に嬉しい。しっかり支えるわ」

「かおりんには、隠し事はしたくないから、その女性のことについて聞いて欲しいけど、いい?」

「お互いに隠し事はしないことにしましょう。遼ちゃんが好きだった人のこと、是非聴かせて欲しいわ」

 彩香との出会いから、結婚に至るまでの話について、佳織は身を乗り出すようにして聴いた。

「私、彩香さんの優しさと人柄、そして献身的な愛に共感するわ。お友達になりたいな」

「いつの日か、そういう機会があるといいね」

 佳織は、彩香の姿を自分に重ねて聴いているように見えた。

遼ちゃん、司法試験は口述が最終試験なのよね」

「そうだよ」

「自信の程は?」

「ちょっぴりあるよ」

「ちょっぴりなの?」

「いや、自信は、ある」

「遼ちゃんのその言葉、聴きたかったのよ。最終試験が終わったら、どこか行きたいわね」

「かおりんの行きたいところに行こう」

「私、豊かな自然が残る屋久島に行きたい。屋久杉などの原生林や多様な動植物など、魅力があるから一度行ってみたいと思っていたの」

「じゃあ、いつか結婚すれば新婚旅行で行くことにしよう。それまでは、日帰りで美味しいものを食べ歩きしよう」

「そうしましょう。本当に楽しみだわ」

 佳織の底抜けに明るい表情が見えた。

 

 この年、遼太は口述試験に合格し、二年間の司法修習を終え、銀座の安藤法律事務所で弁護士として五年目を迎えていた。

「林田君、佳織さんとの結婚については進んでいるかね」

「随分遅くなりましたが、来年三月に式を挙げることにしました」

「そういう話になっているのなら良かったよ」

「ご心配いただき、ありがとうございます。式は、東京で行い、披露宴は地元でやろうと思っています。大先生に折り入ってお願いですが、結婚式の仲人をしていただけないでしょうか」

「若い二人を祝福できるのは嬉しいね。喜んで引き受けるよ」

 佳織は、その年の暮れ、残務処理を済ませて仕事を辞め、結婚式までの間地元に帰った。

 翌一九八一年三月一一日、東京で結婚式を挙げた後、遼太と佳織は地元に戻り、一週間後地域を挙げての祝福を受けた。

 佳織が希望する屋久島への旅行が実現したのは、結婚を誓ってから八年が経っていた。

 翌年、長男太一が誕生し、その後長い歳月を経て顧客との信頼関係が築かれ、事務所は順風満帆な歩みを続けていた。 

「早いものだね。結婚して三〇年、事務所を構えて二〇年だよ。かおりんには、本当に感謝している。ありがとう」

「面と向かって言われると、照れるじゃない。でも、私、幸せよ。最愛の男性(ひと)一緒になれたのだから、本当に嬉しいの。見えない力にずっと導かれてきたように思うわ」

「信心があるとか、ないとかは関係なく、確かにそういう力の存在は感じるから不思議なものだ。かおりんと結ばれたことは、それだけ縁が深かったということだろうね。今が、自分たちにとって、一番良い時かも知れない」

「私もそう思うの。でも、あの時は衝撃だったわ。突然、目の前で倒れた人があなたと知って、どうしようかと思ったわ。そのことがあったから、今の私たちがあるのだけど・・・・・・」

「そうだね」

「いろんなタイミングが重なって、私は、幸せを掴むことが出来たけど、あの頃の彩香さん、どんな思いだったでしょうね。きっと辛かったと思うの。でも、今は、幸せでしょうから、過去を振り返っても仕方ないですね。私、彩香さんに会ってみたい。なぜか、惹かれるのよ。友達だったらいいな、とずっと思って過ごしてきたの。そんな機会が欲しいわ」

 佳織が、彩香の話題に触れたのは、東日本大震災発生当日の朝であった。

 

「大先生、お帰りなさい」

 事務所に、吉田理恵の元気な声が響いた。

「彩香さんとの再会は如何でしたか? 例の電話の件についても、よろしければお聴かせください」

「長い歳月を経ての再会だったので、遠い昔を懐かしく思い出して不思議な気持ちだった。震災時にかけた電話の件については、芯の強い女性(ひと)だから、私のことを(おもんばか)って、ああいう言い方になったようだ。心が行き違いにならずに済んで良かったよ」

彩香さんにとっても、大先生との四七年ぶりの再会は、意義深いものになったでしょうね。私が出る幕はなかったです」

 工藤は、安心した表情を示した。

「大先生が彩香さんと再会されて、とても嬉しいです。でも、勝手に段取ったことは、お詫びします」

「いや、門田君と丸山君のお陰だよ。二人の行動がなければ、生涯彩香さんと会うこともなかったから、本当に感謝している。君がここに就職した翌年、法科大学院に入り、修了の年に司法試験に合格して、今また、こうして一緒に仕事してくれていることにも凄く感謝しているよ」

「そう言っていただいて、有り難うございます。私は、大先生のお陰で弁護士になることができましたので、大先生には深く感謝しています」

「実に不思議な巡り合わせだよね。それにしても、今回は世話をかけたね」

「実は、一〇年前、大先生から彩香さんのお話をお聴きした時、もし弁護士になることができたら、彩香さんを訪ねてみようと(こころ)(ひそ)に思っていました。丸山さんに相談したところ、大先生に内緒で、二人の再会の機会をつくろう、という話になりました。そこで、奥様の了解を得て計画を練りました」

「妻も関わっていたのですね」 

「奥様が、少しでもいやな顔をされたらやめるつもりでしたが、大変喜んでくださって、『是非、計画を進めましょう』と言ってくれました。奥様は、『彩香さんと友達になりたい』とも話されておられました」

 

 門田は弁護士になった年、丸山に彩香と会える機会を作って欲しいと依頼していたことがある。

 丸山から門田に連絡が入ったのは、彩香の伴侶の喪が明けた翌年のことだった。

 震災後一〇年を経た春の日、門田は丸山の世話で、郡山駅前のホテルにおいて、彩香と会う機会を得た。

 チェックインを終えた門田は、ホテル側に三人の夕食の準備の確認などを行い、ロビーで二人を待った。

「お久しぶりです。この度は、大変お世話をおかけしました」

「久しぶりだね。元気そうで良かった。今日は、門田君に会えることを楽しみにしてやって来たよ。妻もよろしく言っていた」

 ロビーに現れた丸山は、にこにこ顔で返した。

「ありがとうございます。奥様には、本当にお世話になりっぱなしで、何のお返しも出来ていませんが、どうかよろしくお伝えください」

「伝えとくよ。コロナ感染の規制さえなければ、門田君と外で一杯やりたいところだが、仕方ないね。でも、ここは感染対策が徹底したホテルだから安心して飲めるな」

「そうですね。私も街に繰り出したい気持ちはありますが、次の機会と言うことで・・・・・・。丸山さん、お見えになられたのではないですか」

 そこはかとなく気品が漂う女性が、丸山に近づいて来た。

「丸山さん、お久しゅうございます。お電話で何度かお話ししましたので、ご無沙汰という気はしないですが、卒業以来ですね。お元気そうで良かったです」

「本当に久しぶりです。私は、定年後県の再雇用で三年ほど働いた後、一般企業で七〇歳迄勤めて、今は家で好きなことをしています。お陰で、退職後太りました。私と違って、彩香さんは、相変わらずスタイルも良く、お綺麗ですね」

「丸山さんは、本当にお上手ですね。私も年には勝てません」

「そうそう、紹介が遅れましたが、林田遼太法律事務所の門田君です」

「門田祐二と申します。今日はご無理をお聞きいただき、ありがとうございました。お目にかかれてとても光栄です」

 門田は、緊張の面持ちで自己紹介した。

「はじめまして。鈴木彩香と申します。お会いできて嬉しいですわ」

 にこやかに会釈を返す彩香に、丸山は、門田との出会いや今日に至った経緯などについて説明した。

「今日は、私が良く利用するお店にご案内させていただこうと思っていましたが、次に機会があれば、是非そうさせてくださいね」

「彩香さんは、美しさだけでなく気遣いも、全く変わってないですね」

「丸山さんのにこやかでお優しいお人柄も、少しも変わってないですから、何だか安心します」

 門田は、ホテルのレストランで、二人の四方山話(よもやまばなし)を聴きながら、如才なく振る舞う彩香に関心を示した。

 

       

 

「ところで、遼太さん、お元気ですか」

 興味深く聴き入っていた門田に向かって、彩香は尋ねた。

「元気です。大先生は、彩香さんに会いたいご様子です」

「遼太さんが、ですか」

 彩香は、怪訝(けげん)そうに応えた。

「そうです。大先生はずっと彩香さんのことを気にかけておられます」

 門田は、彩香を真正面から見据えて、真剣な口調で続けた。

「震災の年、大先生からお電話があったと思いますが、そのことについて、彩香さんのご事情も顧みず、一方的で大変失礼な話をしてしまったと、悔やまれていました」

「そうだったのですね。あの時、遼太さんのお声、何十年ぶりにお聞きしたでしょうか。懐かしかったですが、驚いてしまって、言葉が見つからず、十分な対応ができませんでした。本当に申し訳なく思っています」

 彩香は、目を伏せた。

「彩香さん、私も林田も、今でも彩香さんの友達ですよね。友達として一度林田に会ってやってくれませんか」

 丸山は、柔和(にゅうわ)な表情を浮かべた。

「今は、私の気持ちは吹っ切れていますので、遼太さんさえ構わなければ、お会いしたいです」

 四七年ぶりの彩香との再会の背景には、こうした経緯があった。

           

 

 彩香は、郡山駅で遼太を出迎えた。

「お久しぶりです。出迎えていただいて、ありがとうございます」

「お久しゅうございます」

 深々とお辞儀する姿、変わらない話し方や仕草に、再会できた喜びをひしひしと感じた。

「今日は、遠方からお越しいただき、ありがとうございます」

 落ち着いた雰囲気の割烹料亭で、彩香は改めて挨拶した。

「こちらこそ、こうして時間を作っていただき、再会できて本当に嬉しいです」

 彩香を目の前にして、一気に当時の気持ちが甦った。

「震災の年、一方的な電話をして、申し訳ありませんでした」

「その時の電話のことは、良く覚えています。最初の一声で遼太さんと分かりました。遼太さんのお声を聴いた時、懐かしかったです。嬉しくもありました。ですが、何と言えばいいのでしょう。意地というものでしょうか、同情されたくない思いから、よそよそしい対応になりました。私こそお詫びしなければいけません」

 気丈な彩香の思いが伝わってきた。

「とんでもない。謝るのは私の方です。大災害で大変な時、あなたの気持ちを考慮することもなく、一方的な支援の話をしてしまいました。心からお詫びします」

「遼太さんのお気持ちは、有り難かったです。ですから、謝られると困ってしまいます。あの時、私は自分の生活の中に、遼太さんを持ち込みたくないという気持ちがありました。遼太さんには遼太さんのご家庭があります。昔のことは昔の楽しかった思い出として、それでいいと思って電話を切りました。でも、遼太さんからのお電話は、嬉しかったです。本当です」

「私が、彩香さんの気持ちに寄り添うことができていたら、大事な青春時代においても、あなたを振り回すことはなかったでしょう。年を重ねてはじめて、若かった頃の勝手な自分が見えて恥ずかしいです。上野の喫茶店で『女は弱いものですよ』と言われた意味にも気付かず、後悔しました。自業自得ですが、自分が情けなく思いました。これまでのことについて、この機会に、心の底からお詫びします」

「お気持ちは嬉しいですが、私、遼太さんに謝ってもらおうと思って、お会いするといったのではありません。そんなこと、もうすっかり忘れています。心配はご無用です。私は、懐かしい友人にお会いしたかっただけです」

「今回も、独りよがりになりましたが、長い間心にあった謝罪の気持ちを、やっと伝えることが出来ました」

「遼太さんは、昔のままね。全然変わっていないわ。そんな正直な遼太さん、嫌いじゃないわよ。私、遼太さんのこと少しも恨んではいませんから心配しないで。でも、これで良かったの。優しい主人と結婚できて、子どもにも恵まれて、幸せをつかむことができました。いい人生を過ごしてこられたことを感謝しています。そのうえ、今日は懐かしい友達に会えたので、とても嬉しいの。本当よ」

 彩香が気持ちを(おもんばか)って再会してくれたことに、感謝の気持ちを伝えて、帰高したのだった。          

 

「大先生の生き方はとても尊敬していますが、女性の立場からいえば、彩香さんの気持ち、良く分かります。当時の彩香さんは、本当に辛かったと思います」

 吉田は、彩香の気持ちを代弁するかのように言った。

「吉田さんも思うことはあるだろうけど、あの頃は、今の試験制度とは違って、極めて過酷だったから、そうした時代背景を考えると、私は大先生のことも理解できるよ」

 工藤は、解説するように話した。

「過酷な試験だったのですね。でも、再会を認めてくれた奥様の心の広さには敬服します」

 吉田は、佳織の気持ちを慮った。

「私は、再会できて良かったと思っているの。夫が心につかえるものがあれば、私も同じなの。夫婦というのはそういうものなのよ。だから、私から会いに行くのを勧めたの。私は、彩香さんのこと、大好きよ。二人が会えて、お互いに本心を語り合えたことは本当に良かったと心から思うの。この気持ちに、嘘はないわ」

 いつの間に現れたのか、佳織が会話に加わった。

「私、奥様のお気持ちを聞いて、胸がしびれてしまいました」

 吉田は、感動の面持ちを見せた。

「コロナ感染が収束すれば、皆で郡山に行きませんか

「奥様、大賛成です。是非、そうしましょう」

 吉田の賛同する声に、拍手が響いた。

 

 

 七月一日、論文式試験の初日を迎えた。

 憲法と民法の問題は、想定していた内容が出題され、快調な滑り出しとなり、二日目の刑法と商法も、構成用紙に重要な論点を挙げて、難なく解答できた。

 続く三日目の民訴、四日目の労働法も、余裕のある仕上がりとなったことに気を良くし、最終日の社会政策の対策を練ろうと、自室の机の前に座った時だった。

 突然、昨年の記憶が、フラッシュバックして、頭の中が真っ白になった。

 試験会場から病院へ運ばれるまでの光景や感覚、情動や音までが鮮明に思い出され、気持ちが高ぶり、鼓動が激しくなって寒気に襲われた。

 滲み出る汗を手で拭いながら、腹式呼吸を試み、周りを見渡したり、眼を上下左右に動かしたりしているうちに、徐々に気分が和らいできた。

 心が落ち着いてくると、無性に彩香が恋しくなった。タンスの上に置いていた彩香の手紙を何度も読み返しては、手紙の中に存在する彩香を想像した。

 いつの間にか、頭の中は幸せなイメージが広がり、手のひらや胸が温かくなってくるのを感じた。

 

 翌朝、机上にある手紙を頭上に掲げ、成功を念じて試験会場へと足を運んだ。

 昨年、失敗した社会政策の問題は、対策を練った甲斐あって、二問とも一気に書き上げ、見直しも十分できた。 

(今回は大丈夫だ。論点も記述の仕方も、良かったはずだ。誤字脱字もない。終わった。終わったぞ。無事終えることができたのは、すべて彩香のおかげだ)

 彩香の住む東の方角に向かって、深く頭を下げ感謝の気持ちを捧げた。

 帰宅途中で電話ボックスを見付けると、はやる気持ちを抑え、ダイヤルを回した。

「もしもし、松沢さんのお宅ですか」

「はい。そうです」 

「彩香さん。林田です」

「林田さんですね。私、妹の美紀です。はじめまして。林田さんのことは、姉から伺っています」

 美紀の声は、彩香と見分けることが出来ないほど酷似していた。

「妹さんですか。はじめまして。僕も美紀さんのことは、聴いています。お姉さんと声が似ていますね」

「良くそういわれます。姉は、私のこと何て言っていましたか?」

「良く気が利く頼りがいのある妹だ、と誉めていましたよ。僕には妹がいないから、そんな妹が欲しいと話したこともあります」

「どうもありがとうございます」

「今日は、試験の最終日だったのでしょう。姉が言っていました。どうでしたか?」

「何とか、出来ました。お姉さんに、その試験の報告をしようと思ってお電話しました。お姉さんはいますか」

 暫く美紀の沈黙が続いた。

「姉は、ここにいないのです」

 ためらいがちな返事であった。

「どちらにお出かけですか?」

「お嫁に行きました」

 美紀は、数秒間の沈黙の後、辛そうに応えた。

「えっ! いつですか?」

「先月の二〇日です。弁護士の鈴木先生と結婚しました。林田さん、どうか、姉を責めないでくださいませんか。姉は、嫁ぐ日まで、林田さんのことを話していました。結婚式の日の朝も、遼太さんに何とお詫びすればいいか、と言って涙を浮かべていました。嫁ぐ日の前日、林田さんからいただいたそれまでのお手紙を机の前に出して、何度も何度も読み返していました。そして、その日の夕方、目にいっぱい涙をためて、庭でお手紙を焼いていました。林田さん、姉を許してあげてください。姉は、林田さんのことが本当に大好きでした。林田さんとの結婚をずっと夢見ていたのです。本当です」

 ハンマーで殴られたかのような強い衝撃であった。

「姉は、親の反対を押し切ってでも、卒業後東京に残って、林田さんを支えたいと言っていました。卒業を前にして、林田さんの意思を確認した時、振られたと思ったようです。可哀そうなくらい落ち込んでいました。そんな中で、葛藤しながら、親に勧められた方と結婚することになりました。『遼太さんのように強くなれなかった。目の前の幸福を求めてしまって・・・・・・。本当に、弱い女です。ごめんなさい』と、涙していました。姉の気持ちを、どうか察してあげてください。お願いします」

 いつも、どんな時も、自分を照らし続けてくれていた陽が、突然途絶えた。そんな耐えがたい過酷な現実に直面して、目の前が真っ暗になった。

「もしもし、林田さん……」

 美紀の言葉は、もはや耳に入らなかった。

(今まで、何のために司法試験に賭けてきたのだ。それは彩香と二人で事務所を開いて、困っている多くの人を救うためではなかったのか。無理を押してまで、頑張ることができたのは、彩香がいたからではなかったのか。生き甲斐を失ってしまった今、これからどうすればいい……) 

 陽絶の衝撃が、全身を貫き、張りつめていた緊張の糸が切れて、暫くその場に立ちすくんだ。

 茫然自失の状態で、ふらつきながらアパートに向かう途中、赤の信号が点灯する横断歩道の前で、膝から崩れ落ちた。

 激しいクラクションの音と共に、スキール音を立て一台のタクシーが急停止した。 

 そのタクシーから、白いスーツを身にまとった若い女性が降りたかと思うと、崩れた体を抱きかかえてタクシーに乗せ、そのまま浅草方面へと向かった。

 その日、陽の絶えたアパートの部屋に、鈴木彩香と記された一通の手紙が投入されていた。 

 その手紙には、結婚に至った経緯とお詫びがしたためられていた。 

「あったわ」

 彩香が、法務省の庭で人垣をかきわけ、夢中になって受験番号を探し、歓喜の声を挙げた一年前と、今日の喜びは全く違う。

 隣に彩香がいない虚しさと寂しさで心が満たされず、いつしか受話器を握り締めていた。

「はい、松沢です」

 電話の声から母親だと分った。

「彩香は、留守にしています」

「何時頃、お帰りでしょうか」

「時間は、分りません」

「それでは、林田から電話があったとお伝え願えませんか」

 母親に、彩香への連絡を依頼して受話器を置いた。

 彩香の存在が、日を追って大きくなっていくのと裏腹に、彼女の心が離れていっているように感じ、手紙に素直な気持ちを託すことにした。

 

 

 冠省

 彩香さん、あなたが好きです。この言葉で気持ちを表す事なんかできないほど、あなたを必要としています。不思議なものです。あなたが傍にいるときは、有難さに気付かなかった。僕のためにいつも優しい配慮を示してくれたあなたに、僕は優しい言葉一つ返せなかった。そればかりか、あなたを振り回してばかりの僕に、愚痴一つ言わず、いつも親身になって寄り添ってくれました。今になって、あなたの真心に気付くのだから、本当に鈍感な男です。

 あなたが僕の心に入ってこようとすると、ペースが崩されることを恐れて、距離を取ってきたや、上野の喫茶店で、あなたの心を受け止めることができなかったことはとても悔やんでいます。「女は弱いものですよ」という言葉に、どれだけ重い意味があったのかを深く考えもせず、自分勝手でした。

 目標達成には、犠牲がつきものと思っていましたが、決して犠牲にしてはいけないものがあることに気付きました。今こそ、本心を伝えなければ、掛け替えのない存在のあなたを失うことになると焦っています。

 初めて会った日、茶店で、僕の話を夢中で聴いてくれたあなたに、好意を抱いて以来、その気持ちは全く変わっていません。むしろ強力になっています。あなたがいなくては、自分の存在そのものが意味をなしません。

「離したくない」という切実な思いを持ち続けながら、これまで封印し続けてきた自分は本当に愚かでした。 

 卒業の打ち上げパーティの時、語ってくれた思いはおぼろげながら覚えています。酔っていましたが、僕があなたを「好きだ」と言ったのは本心です。

 オンリーワンのあなたを傷付けてはいけないと、本能を抑制してきたのですが、実際は嫌われたくなくて、理性を装っていたのかもしれません。

 司法試験を大上段に振りかぶり、あなたの気持ちに真剣に応えようともしなかった卑怯な男に、愛する資格はないと言われれば、言葉はありません。

 健康を害し、心が暗い闇に陥り、卒業までに合格するという目標を失いかけた時も優しく包み込んでくれたあなたを、このまま拘束していいものかと真剣に思いました。

 一緒に見た寅さんのセリフ「焼けのやんぱち日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが私しゃ、入れ歯で歯が立たない」という言葉を口ずさんでは、葛藤の日が続きました。

 それでも諦めず、取り組めたのは、陽の光を放ち続けてくれたあなたがいたからです。必ず勝利するという今の自信は、あなたの存在です。

 弁護士になって、あなたを妻にしている夢は何度も見ました。あなたが必要なのです。あなたは、心の伴侶です。

 これまでの一切を、心からお詫びします。

 この気持ちを理解してくれたら、返事をください。待っています。

    六月五日

                                 遼太                                                     

 心の伴侶 彩香 様

 

 拝復

 お手紙拝読させていただき、涙がこぼれました。こんな私を、必要とすると言っていただいて泣けました。嬉しかったです。本当です。遼太さんのお気持ちを分かってあげられなくて、不安の日々を過ごしたこともありました。でも、お詫びなんて、とんでもないことです。私こそ、お詫びをしなければなりません。遼太さんの本心に気付いていながら、確証が持てなかった弱い自分を情けなく思います。本当にごめんなさい。

 こうしてお手紙いただき、晴れがましいものがございます。気持ちにけじめもつきました。本当にありがとうございました。

 今は、来るべき試験に精出されていることと思います。遼太さんは、必ず合格します。私はそれを確信しています。

 どうか初志貫徹なさってください。

 毎日、近くの文殊地蔵様にお参りし、合格を祈っています。

 最後になりましたが、お身体、くれぐれもご自愛なさってくださいね。

    六月一〇日

                          彩香

 敬愛する遼太 様

 

                            

 五月第二日曜日、三度目の短答式試験の日を迎えた。

 会場の門をくぐると、背後から山城が声をかけてきた。

「やあ! 久しぶりだね。彩香さんは、元気?」

「元気だと思うけど、暫く連絡が取れてないから、詳しいことが分らないんだ」

「え! 連絡取ってないの?」

「ちょっと、できてないんだよ」

「忙しくても連絡ぐらいはしないと、誰かにさらわれちゃうよ」

 思いもよらない山城の言葉に心が揺れ、もやもやした気持ちが生じたが、教室に入り、問題用紙を前にすると、気持ちは切り替わった。

 試験を難なくこなすと、せいせいとした気分で、電話ボックスに急いだ。

 彩香に出て欲しいと願いながら、ゆっくりダイヤルを回す。

「はい、松沢です」

 その声は、紛れもなく彩香であった。

「彩香さん」

「あっ! 遼太さん」

 声を聴いた嬉しさで、涙腺が緩んだ。

「お電話ありがとう」

「良かった! 声が聴けて。試験が終わった報告をしたくて・・・・・・」

「え! 今日の試験、受けられたの? 前年の合格者は、免除されるのでしょう」

「そうだけど、実力を試したくて・・・・・・」

「遼太さんの実力なら、合格は間違いないわ」

 優しい声の後、短い沈黙があった。

「ごめんなさい。便りも出さずに・・・・・・」

「そんなことはいいんだ。声が聴けただけで、それだけで嬉しいよ」

「お手紙嬉しかったわ。ありがとう」

「これまで、本当にごめん。会えなくなって、君がどれだけ大きな存在だったか、よく分ったよ。会いたい。会って詫びたい。傍にいて欲しい・・・・・・」

 初めて言葉で、正直な気持ちを伝えた。

「遼太さん、……」

 受話器から、彩香の息遣いが感じられた。

「今は、会うことは出来ないけど、気持ちが聞けて、嬉しいわ。……」

 囁くような声が返ってきたが、再び、沈黙が続いた。

「あとは、論文式ね。合格祈っています」

「ありがとう。君の激励が何よりの励みになるよ」

「私のお願い、聞いてくださる。決して無理はしないこと。身体を、大切にすること、お願いね」

 どこか寂しい響きがあった。

「無理はしない。体を大事にして、今年は必ず期待に応える。約束する。美術館にも行こう。そして、一緒に新しいスタートを切ろう。それを信じて頑張る」

「ごめんなさい」

 彩香は間髪をいれず、言葉を続けた。

「今まで十分なことができなくて、ごめんなさい。遼太さんのことはいつも見守っています。心から応援しています」

「ごめんなさいと言われてびっくりしたよ。今まで十分なことができてないのは僕の方だから、それは、こっちの台詞だよ。本当にごめん。合格したら、伝えたいことがあるので、あと少し待っていてください」

「私が尊敬する遼太さんですもの、必ず合格すると信じています。朗報を待っています」

 彩香の言葉に陰りを感じながらも、この時は目標達成が、彩香と人生を共有することに繋がると信じていた。

 三月二五日、卒業式を迎えた。

 大講堂の中央には、第九〇回卒業式の横断幕が掲げられ、壇上には、馴染みのある教官の顔が並んでいる。

 式典に参列する卒業生の力強い校歌斉唱の後、学長は「稔るほど頭の垂れる稲穂かな」という言葉を引用し、社会に出ても常に謙虚な姿勢で臨んで欲しいと式辞を述べた。

(もうこうした話も聞けなくなるな。この場にいられるのは、稲穂のような存在の彩香がいてくれたからだ。ありがとう)

 グレーのスーツの胸元に、真白なコサージュをつけた彩香は、五列前の左斜めの席で、学長の話に耳を傾けている。その彩香に向かって、心の中で礼を述べた。

 

 

 

  教室で卒業証書を受け取った後、中庭での全学部共通の卒業パーティに丸山と向かった。

 四年間一緒に学んだ学友たちとの別れを惜しみながら、思い出話に耽っている目の前を彩香と流水が横切った。

 

 

「そろそろ失礼するよ」

「もう新潟へ帰るのか」

「チケットをとっているからごめんな。また会おう」

 一時間も経たない内、丸山が別れを告げた。

 周りから一人、二人と去っていくのを見送りながら、彩香が現れるのを待った。

(今まで、一度でもこんなことがあっただろうか。何か、おかしい)

 会場を離れ、彩香が居そうな心当たりを探し廻ったが、何処にも見当たらない。

 諦めて、近くにいた友人に声をかけ、上野に向かった。

 かつて荒川と別れた居酒屋の暖簾をくぐると、当時の寂しい別れを思い出し、友人たちへの惜別の感情が湧いた。

 学生生活を振り返り、話題が広がって親睦は深まっていく。

 一方、頭の中は彩香のことで一杯になっていく。

 友人が楽しそうに語り、豪快に飲食する傍で、自分の心だけが乖離しているのに気付いた。 

 友に別れを告げ、ひょっとしたらという思いを抱いて、一人大学に引き返した。

 まばらな人影の中、職員がパーティの後片付けに追われている。

 晴れやかな舞台裏は、周到な準備や後始末に追われ、(あで)やかさが寸分も存在しないということを改めて認識し、今の自分にとって、最も相応しい場所で、飲み直そうと考えた。

 近くの酒屋で、日本酒を買い込み、薄汚れた四畳半のアパート独り呷るように飲んだ。

 焼けるような胃の痛みに襲われながらも、飲み続けた。

 いつしか、胃も腰の痛みも刺激的な快感に変わる中、彩香との思い出が、脳裏を駆け巡り、涙が止めどもなくこぼれ落ちる。

 電話ボックスから、居るはずのない彩香の部屋に電話をかけた。

 受話器から聞こえる機械的な応答に、大切にしていたものが一瞬にして失われていくような感覚を覚えた。

 翌朝は、ひどい目眩がして、布団に崩れ、そのまま意識が遠のいた。

 目覚めた時には、激しい頭痛と倦怠感に襲われ、それを知った大家が四〇度を超える高熱に慌てて、氷枕と風邪薬を用意して介抱してくれたお陰で、四日目にやっと起き上がることができた。

 優れない体調の中、罰が当たったかと、自問しながら彩香に手紙を書いた。

 

冠省

 お元気でお過ごしのことと思います。

 卒業式の日、飲み過ぎて翌日は二日酔いに風邪を併発し、三日間寝込みました。まだ今も少し頭が重い状態が続いていますが、数日後には良くなると思います。

 ところで、卒業式の朝、赤ベコをいただきましたね。僕も竜馬像の置物を手渡そうと準備していました。中庭のパーティの後、皆と別れてゆっくり二人きりで話ができると思っていましたので、あなたを探したのです。

 ところが、どこにも見つけることができず、アパートで寂しく一人酒をしました。

僕は今まで、司法試験以外のことは、タブーのように避けてきました。でもそれが如何に自分の心を偽ってきたか、やっと分かりました。

 もっと早く、あなたがどれだけ大切なのか、なくてはならない存在の女性なのかを自覚していたなら、決してあなたを離さなかったでしょう。

 連絡がとれなくなってからあなたの存在がとても大きくなっています。今無性に会いたい。そして詫びたい。もう、あなたを離さない。いつまでも傍にいてください。この気持ちは本当です。

 このことをお伝えして、筆をおきます。

    三月二九日

                                 遼太

 彩香 様

 

 二週間経っても返事がなく、公衆電話から電話をかけた。

 呼び出し音が鳴る。

 不安がよぎった。

「もしもし、松沢さんですか」

「はい。そうです」

「林田と申します。彩香さんおいでませんでしょうか」

「彩香は出かけております」

「何時頃帰られますか」

「妻も居ないので、私は分りません。誠に申し訳ありませんが、またにしてください」

 厳かな男性の声で、受話が切られた。

 言い知れぬ寂しさが、気持ちを動揺させる。

 一週間後、再び電話をした。

 年配の女性の声だった。

「彩香は、出かけておりますが……」

「そうですか。では、林田から電話があったとお伝えください」

 連絡を期待して、受話器を置いた。

 その後も彩香から、連絡はなかった。