「あったわ」

 彩香が、法務省の庭で人垣をかきわけ、夢中になって受験番号を探し、歓喜の声を挙げた一年前と、今日の喜びは全く違う。

 隣に彩香がいない虚しさと寂しさで心が満たされず、いつしか受話器を握り締めていた。

「はい、松沢です」

 電話の声から母親だと分った。

「彩香は、留守にしています」

「何時頃、お帰りでしょうか」

「時間は、分りません」

「それでは、林田から電話があったとお伝え願えませんか」

 母親に、彩香への連絡を依頼して受話器を置いた。

 彩香の存在が、日を追って大きくなっていくのと裏腹に、彼女の心が離れていっているように感じ、手紙に素直な気持ちを託すことにした。

 

 

 冠省

 彩香さん、あなたが好きです。この言葉で気持ちを表す事なんかできないほど、あなたを必要としています。不思議なものです。あなたが傍にいるときは、有難さに気付かなかった。僕のためにいつも優しい配慮を示してくれたあなたに、僕は優しい言葉一つ返せなかった。そればかりか、あなたを振り回してばかりの僕に、愚痴一つ言わず、いつも親身になって寄り添ってくれました。今になって、あなたの真心に気付くのだから、本当に鈍感な男です。

 あなたが僕の心に入ってこようとすると、ペースが崩されることを恐れて、距離を取ってきたや、上野の喫茶店で、あなたの心を受け止めることができなかったことはとても悔やんでいます。「女は弱いものですよ」という言葉に、どれだけ重い意味があったのかを深く考えもせず、自分勝手でした。

 目標達成には、犠牲がつきものと思っていましたが、決して犠牲にしてはいけないものがあることに気付きました。今こそ、本心を伝えなければ、掛け替えのない存在のあなたを失うことになると焦っています。

 初めて会った日、茶店で、僕の話を夢中で聴いてくれたあなたに、好意を抱いて以来、その気持ちは全く変わっていません。むしろ強力になっています。あなたがいなくては、自分の存在そのものが意味をなしません。

「離したくない」という切実な思いを持ち続けながら、これまで封印し続けてきた自分は本当に愚かでした。 

 卒業の打ち上げパーティの時、語ってくれた思いはおぼろげながら覚えています。酔っていましたが、僕があなたを「好きだ」と言ったのは本心です。

 オンリーワンのあなたを傷付けてはいけないと、本能を抑制してきたのですが、実際は嫌われたくなくて、理性を装っていたのかもしれません。

 司法試験を大上段に振りかぶり、あなたの気持ちに真剣に応えようともしなかった卑怯な男に、愛する資格はないと言われれば、言葉はありません。

 健康を害し、心が暗い闇に陥り、卒業までに合格するという目標を失いかけた時も優しく包み込んでくれたあなたを、このまま拘束していいものかと真剣に思いました。

 一緒に見た寅さんのセリフ「焼けのやんぱち日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが私しゃ、入れ歯で歯が立たない」という言葉を口ずさんでは、葛藤の日が続きました。

 それでも諦めず、取り組めたのは、陽の光を放ち続けてくれたあなたがいたからです。必ず勝利するという今の自信は、あなたの存在です。

 弁護士になって、あなたを妻にしている夢は何度も見ました。あなたが必要なのです。あなたは、心の伴侶です。

 これまでの一切を、心からお詫びします。

 この気持ちを理解してくれたら、返事をください。待っています。

    六月五日

                                 遼太                                                     

 心の伴侶 彩香 様

 

 拝復

 お手紙拝読させていただき、涙がこぼれました。こんな私を、必要とすると言っていただいて泣けました。嬉しかったです。本当です。遼太さんのお気持ちを分かってあげられなくて、不安の日々を過ごしたこともありました。でも、お詫びなんて、とんでもないことです。私こそ、お詫びをしなければなりません。遼太さんの本心に気付いていながら、確証が持てなかった弱い自分を情けなく思います。本当にごめんなさい。

 こうしてお手紙いただき、晴れがましいものがございます。気持ちにけじめもつきました。本当にありがとうございました。

 今は、来るべき試験に精出されていることと思います。遼太さんは、必ず合格します。私はそれを確信しています。

 どうか初志貫徹なさってください。

 毎日、近くの文殊地蔵様にお参りし、合格を祈っています。

 最後になりましたが、お身体、くれぐれもご自愛なさってくださいね。

    六月一〇日

                          彩香

 敬愛する遼太 様