横断歩道の前で倒れた遼太の体を抱き抱えて、タクシーで病院に搬送したのは、野田佳織だった。

 商社に勤める佳織は、海外勤務から本社勤務となり、帰国した足で、遼太のアパートに向かっていた途中、この出来事に遭遇した。

 病院での検査で、軽い外傷と内蔵系に疾患が見つかり、遼太の入院が告げられると、佳織は、職場の了解を得て、病院での付き添い看護を始めることにした。

 遼太の病状は、献身的な佳織のサポートもあって回復が早く、一週間で退院できることになった。 

「遼ちゃんの退院を祝って、乾杯!」

「ありがとう。かおりんの帰還を祝って、乾杯!」

          

 

「私の帰還もお祝いしてくれるのね。ありがとう」

「以前、かおりんが海外勤務を終えたら帰還祝いをすると約束しておきながら、今日は、こんな素敵なホテルのリッチなコース料理を予約までしてもらっていたとは、申し訳ない。ありがとう」

「何よ。改まって。でも嬉しいわ。遼ちゃんが覚えていてくれたこと。それとそんな言葉が聞けて、誘った甲斐があったわ」

 佳織は、嬉しさを隠さなかった。

「良く考えてみると、二人きりで食事をするのは、足摺旅行以来よね」

「そうだね。早いものだね」

「遼ちゃんとこうして食事ができるなんて本当に嬉しいわ。病院の先生から、お酒も少しだけなら良いと、了解を得ているので心配せずに飲みましょう」

「本当に手回しがいいね。いつも感心するよ」

「遼ちゃんのためなら、何でもするわよ。でも、日本酒党の遼ちゃんの希望を訊かずに、ワインを頼んじゃって、ごめんね」

「謝ることはないよ。本当言うと、ワインは、初めてなんだけど、このワイン、凄く美味しいよ。日本酒と同じぐらい好きになりそうだ」 

 赤ワインには、甘味と酸味、それに渋みの加わった奥深い味わいがあった。

「良かったわ。遼ちゃんのお口に合うようで。ワインの味わいを決める要素は、原料のぶどうだけでなくて、気候や土壌と地形、つくり手の四つがあると言われているの。今日は、遼ちゃんの退院のお祝いだから、最高のワインを注文しておいたの」

「最高のワインって、高いんじゃないの」

「ごめんなさい。最高のというのは、値段のことではないわ。遼ちゃんが最高と言って飲んでくれたらいいなという意味よ。私のお給料で、高価なワインが注文できるわけないじゃない」 

 佳織は、一瞬戸惑ったが、笑顔で煙に巻いた。

「高給取りでないとは言わせないよ。でも、ありがとう。このワイン最高だよ。かおりんの優しい心遣いに、心からお礼を言うよ」

「遼ちゃんって、やっぱり素敵だわ。人の気持ちを大事にしてくれるから」

澄んだ眼で直視する佳織を見て、共に歩んで欲しいという思いが、自然に湧きあがるのを覚えた。

「かおりん、僕が司法試験に合格したら、正式に付き合ってくれないかな」

 失恋の痛手を、佳織に癒してもらうなどという安易な気持ちではなかった。

 自分を慕ってくれる女性の気持ちを、二度と裏切るようなことはしないと、入院中考えていたのだ。

 

       

「えっ! 本当なの、嬉しいわ。今、ここで、遼ちゃんからその言葉が聞けるなんて……」

 佳織は、目頭を押さえた。

「今まで、かおりんの気持ちを無視していてごめん。かおりんの気持ちを分かっていながら、大事な女性(ひと)がいたので、どうしてもその気持ちに応えることができなかった。本当にごめん」

 ありのままを佳織に伝えた。

「何となくわかっていたわ。遼ちゃんは、隠し事が出来ない人だから。でも、私、遼ちゃん以外の人には、全く関心がないの。だから、仕事と遼ちゃんのことだけをいつも考えているの」

「ありがとう。その女性が、結婚したショックで落ち込んでいたけど、入院中毎日かおりんの姿に触れて、身も心も救われたよ。長い間、心の中に見え隠れしていたかおりんへの思いに気付くこともできた。自分勝手で、寂しがり屋の僕を支えてくれないだろうか」

「私、今の遼ちゃんの気持ちを聴けて本当に嬉しい。しっかり支えるわ」

「かおりんには、隠し事はしたくないから、その女性のことについて聞いて欲しいけど、いい?」

「お互いに隠し事はしないことにしましょう。遼ちゃんが好きだった人のこと、是非聴かせて欲しいわ」

 彩香との出会いから、結婚に至るまでの話について、佳織は身を乗り出すようにして聴いた。

「私、彩香さんの優しさと人柄、そして献身的な愛に共感するわ。お友達になりたいな」

「いつの日か、そういう機会があるといいね」

 佳織は、彩香の姿を自分に重ねて聴いているように見えた。

遼ちゃん、司法試験は口述が最終試験なのよね」

「そうだよ」

「自信の程は?」

「ちょっぴりあるよ」

「ちょっぴりなの?」

「いや、自信は、ある」

「遼ちゃんのその言葉、聴きたかったのよ。最終試験が終わったら、どこか行きたいわね」

「かおりんの行きたいところに行こう」

「私、豊かな自然が残る屋久島に行きたい。屋久杉などの原生林や多様な動植物など、魅力があるから一度行ってみたいと思っていたの」

「じゃあ、いつか結婚すれば新婚旅行で行くことにしよう。それまでは、日帰りで美味しいものを食べ歩きしよう」

「そうしましょう。本当に楽しみだわ」

 佳織の底抜けに明るい表情が見えた。

 

 この年、遼太は口述試験に合格し、二年間の司法修習を終え、銀座の安藤法律事務所で弁護士として五年目を迎えていた。

「林田君、佳織さんとの結婚については進んでいるかね」

「随分遅くなりましたが、来年三月に式を挙げることにしました」

「そういう話になっているのなら良かったよ」

「ご心配いただき、ありがとうございます。式は、東京で行い、披露宴は地元でやろうと思っています。大先生に折り入ってお願いですが、結婚式の仲人をしていただけないでしょうか」

「若い二人を祝福できるのは嬉しいね。喜んで引き受けるよ」

 佳織は、その年の暮れ、残務処理を済ませて仕事を辞め、結婚式までの間地元に帰った。

 翌一九八一年三月一一日、東京で結婚式を挙げた後、遼太と佳織は地元に戻り、一週間後地域を挙げての祝福を受けた。

 佳織が希望する屋久島への旅行が実現したのは、結婚を誓ってから八年が経っていた。

 翌年、長男太一が誕生し、その後長い歳月を経て顧客との信頼関係が築かれ、事務所は順風満帆な歩みを続けていた。 

「早いものだね。結婚して三〇年、事務所を構えて二〇年だよ。かおりんには、本当に感謝している。ありがとう」

「面と向かって言われると、照れるじゃない。でも、私、幸せよ。最愛の男性(ひと)一緒になれたのだから、本当に嬉しいの。見えない力にずっと導かれてきたように思うわ」

「信心があるとか、ないとかは関係なく、確かにそういう力の存在は感じるから不思議なものだ。かおりんと結ばれたことは、それだけ縁が深かったということだろうね。今が、自分たちにとって、一番良い時かも知れない」

「私もそう思うの。でも、あの時は衝撃だったわ。突然、目の前で倒れた人があなたと知って、どうしようかと思ったわ。そのことがあったから、今の私たちがあるのだけど・・・・・・」

「そうだね」

「いろんなタイミングが重なって、私は、幸せを掴むことが出来たけど、あの頃の彩香さん、どんな思いだったでしょうね。きっと辛かったと思うの。でも、今は、幸せでしょうから、過去を振り返っても仕方ないですね。私、彩香さんに会ってみたい。なぜか、惹かれるのよ。友達だったらいいな、とずっと思って過ごしてきたの。そんな機会が欲しいわ」

 佳織が、彩香の話題に触れたのは、東日本大震災発生当日の朝であった。