七月一日、論文式試験の初日を迎えた。

 憲法と民法の問題は、想定していた内容が出題され、快調な滑り出しとなり、二日目の刑法と商法も、構成用紙に重要な論点を挙げて、難なく解答できた。

 続く三日目の民訴、四日目の労働法も、余裕のある仕上がりとなったことに気を良くし、最終日の社会政策の対策を練ろうと、自室の机の前に座った時だった。

 突然、昨年の記憶が、フラッシュバックして、頭の中が真っ白になった。

 試験会場から病院へ運ばれるまでの光景や感覚、情動や音までが鮮明に思い出され、気持ちが高ぶり、鼓動が激しくなって寒気に襲われた。

 滲み出る汗を手で拭いながら、腹式呼吸を試み、周りを見渡したり、眼を上下左右に動かしたりしているうちに、徐々に気分が和らいできた。

 心が落ち着いてくると、無性に彩香が恋しくなった。タンスの上に置いていた彩香の手紙を何度も読み返しては、手紙の中に存在する彩香を想像した。

 いつの間にか、頭の中は幸せなイメージが広がり、手のひらや胸が温かくなってくるのを感じた。

 

 翌朝、机上にある手紙を頭上に掲げ、成功を念じて試験会場へと足を運んだ。

 昨年、失敗した社会政策の問題は、対策を練った甲斐あって、二問とも一気に書き上げ、見直しも十分できた。 

(今回は大丈夫だ。論点も記述の仕方も、良かったはずだ。誤字脱字もない。終わった。終わったぞ。無事終えることができたのは、すべて彩香のおかげだ)

 彩香の住む東の方角に向かって、深く頭を下げ感謝の気持ちを捧げた。

 帰宅途中で電話ボックスを見付けると、はやる気持ちを抑え、ダイヤルを回した。

「もしもし、松沢さんのお宅ですか」

「はい。そうです」 

「彩香さん。林田です」

「林田さんですね。私、妹の美紀です。はじめまして。林田さんのことは、姉から伺っています」

 美紀の声は、彩香と見分けることが出来ないほど酷似していた。

「妹さんですか。はじめまして。僕も美紀さんのことは、聴いています。お姉さんと声が似ていますね」

「良くそういわれます。姉は、私のこと何て言っていましたか?」

「良く気が利く頼りがいのある妹だ、と誉めていましたよ。僕には妹がいないから、そんな妹が欲しいと話したこともあります」

「どうもありがとうございます」

「今日は、試験の最終日だったのでしょう。姉が言っていました。どうでしたか?」

「何とか、出来ました。お姉さんに、その試験の報告をしようと思ってお電話しました。お姉さんはいますか」

 暫く美紀の沈黙が続いた。

「姉は、ここにいないのです」

 ためらいがちな返事であった。

「どちらにお出かけですか?」

「お嫁に行きました」

 美紀は、数秒間の沈黙の後、辛そうに応えた。

「えっ! いつですか?」

「先月の二〇日です。弁護士の鈴木先生と結婚しました。林田さん、どうか、姉を責めないでくださいませんか。姉は、嫁ぐ日まで、林田さんのことを話していました。結婚式の日の朝も、遼太さんに何とお詫びすればいいか、と言って涙を浮かべていました。嫁ぐ日の前日、林田さんからいただいたそれまでのお手紙を机の前に出して、何度も何度も読み返していました。そして、その日の夕方、目にいっぱい涙をためて、庭でお手紙を焼いていました。林田さん、姉を許してあげてください。姉は、林田さんのことが本当に大好きでした。林田さんとの結婚をずっと夢見ていたのです。本当です」

 ハンマーで殴られたかのような強い衝撃であった。

「姉は、親の反対を押し切ってでも、卒業後東京に残って、林田さんを支えたいと言っていました。卒業を前にして、林田さんの意思を確認した時、振られたと思ったようです。可哀そうなくらい落ち込んでいました。そんな中で、葛藤しながら、親に勧められた方と結婚することになりました。『遼太さんのように強くなれなかった。目の前の幸福を求めてしまって・・・・・・。本当に、弱い女です。ごめんなさい』と、涙していました。姉の気持ちを、どうか察してあげてください。お願いします」

 いつも、どんな時も、自分を照らし続けてくれていた陽が、突然途絶えた。そんな耐えがたい過酷な現実に直面して、目の前が真っ暗になった。

「もしもし、林田さん……」

 美紀の言葉は、もはや耳に入らなかった。

(今まで、何のために司法試験に賭けてきたのだ。それは彩香と二人で事務所を開いて、困っている多くの人を救うためではなかったのか。無理を押してまで、頑張ることができたのは、彩香がいたからではなかったのか。生き甲斐を失ってしまった今、これからどうすればいい……) 

 陽絶の衝撃が、全身を貫き、張りつめていた緊張の糸が切れて、暫くその場に立ちすくんだ。

 茫然自失の状態で、ふらつきながらアパートに向かう途中、赤の信号が点灯する横断歩道の前で、膝から崩れ落ちた。

 激しいクラクションの音と共に、スキール音を立て一台のタクシーが急停止した。 

 そのタクシーから、白いスーツを身にまとった若い女性が降りたかと思うと、崩れた体を抱きかかえてタクシーに乗せ、そのまま浅草方面へと向かった。

 その日、陽の絶えたアパートの部屋に、鈴木彩香と記された一通の手紙が投入されていた。 

 その手紙には、結婚に至った経緯とお詫びがしたためられていた。