彩香は、遼太の退院を見届けた後帰省した。
「ただいま帰りました。誰かお客様なの?」
玄関には父親のものとは違う男の靴が目に入った。
「おかえりなさい。若松先生がお越しよ」
出迎えた母親の頼子の対応は、タイミングを見計らったように応えた。
「まあ、若松先生が……。ご挨拶しなきゃ」
若松は、敬愛する高校時代の担任である。
卒業後も交流があり、彩香にとっては身近な存在の人であった。
「弁護士の鈴木孝夫先生もご一緒よ」
「鈴木先生、どなただったかしら?」
意味ありげな頼子の言い方に彩香は首を傾げた。
「まだ、言ってなかったわね。若松先生の甥御さんで、三月まで、東京の法律事務所にお勤めされていたの。四月にこちらに帰られて独立された有望な弁護士さんですよ。ご挨拶しておいでなさい」
彩香は、二階の自室に荷物を置いた後、一階奥の和室前で膝をつき、両手で障子を開けた。
「おばんです。若松先生、お久しぶりでございます」
「これはまた、一段と美しくなったね。礼儀正しさは、変わらないね」
若松は、にこやかな笑顔で称えた。
「彩香、ここに座りなさい」
酒の相手をしていた父親の建造が、鈴木の向いに座るように指示した。
「甥っ子の鈴木孝夫だ」
若松は、隣の席の鈴木を紹介した。
「はじめまして。松沢彩香と申します」
鈴木の自己紹介に対し、彩香は丁重に応えた。
「孝夫が、地元で開業することになって、帰ってきたので、そろそろ身を固めたらどうかと勧めたところ、あんたの話になったのじゃよ。そこで、一か月前に建造さんに相談を持ち掛けておったのじゃ」
若松は、ざっくばらんに言った。
「電話では、伝えてなかったが、そういうわけじゃ。鈴木先生は、現役で司法試験に合格して、二四歳で弁護士となったエリートだよ」
建造は、盛んに鈴木のことを褒めた。
若松は、へりくだった言い方で鈴木のエピソードを紹介しながら、一方で彩香の高校時代の思い出話に触れるなど、彩香への敬意を忘れなかった。
彩香は冷静さを装ったが、その場に居たたまれなくなった。
「私、先ほど帰ったばかりで、少し疲れがでてきました。大変申し訳ありませんが、中座させていただいてもよろしいでしょうか」
「お客様に、失礼だろう」
建造は、彩香を咎めるように言った。
「疲れには、休養が一番。ゆっくり休んでください」
若松は、建造をなだめた。
彩香は、机上の遼太の写真を手にして、ベッドの上に寝転がった。
「彩香さん、入るわよ」
暫くして頼子が、彩香の部屋の前で声をかけた。
「彩香さん、突然で驚いたと思うけど、いい話だと思うわよ」
母親から、そうした言葉を聴くとは、彩香は思いもしなかった。
「母さんは、私の見方じゃなかったの?」
「そうだわよ」
「じゃあ、どうしてなの。これまで、私に勧めてくれていたじゃない。私、将来のことを考えて、お付き合いしているといったら、妹からも林田さんの素晴らしさを聴いていると言って、賛成してくれたこと、覚えているでしょう」
「勿論よ。でもね、状況は変わったの。結婚となるとそうはいかないこともあるのよ。あなたの敬愛する若松先生の甥御さんよ。お父さんも乗り気だし、断れないでしょう」
「私、母さんのこと好きだけど、これだけは聞けないわ」
「彩香も親になったら分かるわよ。娘の幸せを考えない親なんていないわ」
「だったら分かって、私の幸せは私が決める。それじゃ、だめなの」
「それはそうだけれど、良い話なのよ。結論は急がないで、ゆっくり考えましょう。それより、今日はせっかく来てくださっているのだから、もう一度降りてらっしゃい」
「お母さん、私疲れているの、悪いけど若松先生によろしくおっしゃって」
「仕方ないわね。私からよく言っとくわ」
頼子は部屋を出た。
彩香はベッドに蹲( うずくま ) り、虚( うつ ) ろな目を遼太の写真に注いだ。
入れ替わるように、高校に通う妹の美紀が入ってきた。
「お帰りなさい。母さんから帰省するよう何度も電話があったのでしょう。帰る草々、辛いわね。父さんも母さんも姉さんの卒業を待って、鈴木さんに嫁がせると乗り気みたいよ。結婚は、当人同士の問題なのに・・・・・・。私、許せないので言ったの。父さんたちが結婚するのじゃない。姉さんの了解も得ないうちに話は進めないで、って。姉さんには、林田さんがいることを、母さんは良く知っているのに、父さんに強く言われて何度も帰ってくるように連絡してたでしょ。私、夕べもそのことで言い合いになったの」
誰よりも気持を理解してくれている妹を、彩香は誇らしげに思った。
「若松先生は、私も大好きな先生よ。でも、親と先生で話を進めて良いはずはないわ。姉さんの気持ちが一番大事だから……。私、姉さんの味方よ」
「美紀、ありがとう。電話の感触からそんな感じがしないでもなかったの。本当は帰りたくはなかったけど……。明日、東京へ発つわ」
「それが良いわ。後のことは、私がうまくやるから安心して」
心強い味方がいることで、彩香の気持ちは少し楽になった。
「林田さんに対する気持ちは、変わらないのでしょう」
「私は、遼太さんをお慕いしているから、ずっと一緒にいたいと思っているの」
彩香は、遼太に対する気持ちを、美紀に語って聞かせた。
「姉さんの愛は、本物よ。純粋だわ。でも、姉さんは消極的すぎるのじゃないかな。私だったら、告白して、気持ちを聞くわよ。そうすれば、責任持って応えると思うわ。林田さんは、きっと恥ずかしがり屋なのよ。自分から言えない人だと思うから、姉さんも、不安に思っているのでしょう」
言い終わってから、美紀はクスクス笑った。
「どうしたというのよ」
「だって、林田さんって、堅物なのでしょう。そんな人が、ガチガチになって姉さんに好きです、そんな様子を想像すると可笑しいの。真面目一本の人って、どんなプロポーズするのかしら。可愛らしいよね」
「そんなこと言っては失礼よ」
彩香もそのことを想像すると愉快な気持ちになった。
来客が帰り、家族四人の夕食になった。
酒が入った建造は、陽気に鼻歌を歌った。
「彩香。鈴木先生はいいぞ。お前の相手にはもったいないくらいだ。向こう様が彩香を是非にと、言ってくれているんだ。いい話だ。断る手はないぞ」
「あなた!」
頼子は、建造の裾を引っ張って嗜( たしな ) めた。
「こういうことは、はっきりしなければいけない。若松先生の甥っ子だし、申し分ない。彩香、鈴木先生とお付き合いをしてみなさい。今日はお前が帰ってくるというから、二人を招いていたが、肝心の彩香がいないから、改めて明日の約束をしたよ」
「明日って?」
「明日の一一時に、駅前のロイヤルホテルで正式に見合いをすることにしたので、心積もりをしておきなさい」
「誰が決めたの?」
美紀が訊いた。
「二人は、彩香に確かめてからと言われたが、わしからきちんと話しておくから心配ないと約束した」
「いくら父さんでもそれは勝手だわ。姉さんの気持ちを考えるべきよ」
美紀は、強い口調で歯向かった。
「お前には関係ないことだ」
建造は言い終わると、寝室へ引きあげた。
「私、明日東京に立ちます」
「そんな。帰ったばかりじゃないの。それに明日のお約束はどうするの?」
頼子は、戸惑った。
「父さんたちが勝手に約束しておいて、約束はどうする、はないと思うわ。私は明日のお見合いは断るべきだと思うわ」
美紀が口をはさんだ。
「何を言うの、美紀は。とんでもないことよ。こんないい条件のお話は、これから先いくら探してもないわよ。いいこと、今は気持がなくても、後で悔やむことになるの。そうなれば後の祭りよ。林田さんが、悪い人だとは思ってはないけど、林田さんからプロポーズされているの?」
彩香は、黙ったまま応えなかった。
「林田さんからは、まだプロポーズされてないのね。彩香さん、あなたのためなの。もし、明日のお約束を破れば、若松先生にも不義理することになるわよ。それでいいの?」
彩香は、唇をかんだ。
「彩香さん、会うだけでいいから会ってね」
彩香は、頼子の話を断りきれなかった。
部屋の窓を開け、空に輝く大群の星を眺めながら、二人の出会いからこれまでのことを思い起こした。
(私は、努力する人が好き。人生は自分自身との闘いだから、真剣に努力する人に言い知れぬ魅力を感じる。遼太さんが、司法試験に打ち込む姿は、まさにそうだ。遼太さんは、何事にもファイトを持って真正面から体当たりしてきた。一年の体育実技で、バレーボールに全力で取り組んだ姿、素敵だった。リーダーシップを発揮して、ユーモアたっぷりで、人を引っ張ってきたその中に私がいた。目標に向かって没頭する中で、友達は遠ざかって行ったけれど、一生懸命努力する姿は、尊敬する。時には恐ろしくて、近寄りがたいと思ったこともあるけれど、唯一の理解者として、ずっと傍にいたい。私の愛を全身で受け止めてくれるまで、欲求不満は、登山で晴らそう。それが私の二四歳の青春なんだわ)
何度も頭の中で反芻( はんすう ) するうちに、無性に遼太に会いたくなった。
寂しは、こらえきれない。
空に向かって、大きな声で遼太の名を叫びたくなった。
空が、俄( にわ ) かに暗くなった。
月に雲がかかり、急に激しい勢いで雨粒が落ちてきた。
遠くで雷鳴が鳴り響いた。
お空は誰かに失恋をして
大粒の涙を流しています
なぐさめてくれる人もいないから
灰色の扉で心を閉ざして
さみしくて…… さみしくて……
仕方がないのですか
今の私と同じように
あなたが必要です
私が安心して暮らすためには
あなたの優しさが必要です
私を優しく包んでくれる
広い心と思いやり深い言葉が……
それから……
あなたの温かさが
今の私には必要なのです
だって今は、雷雨の季節
彩香は、綴った詩を静かに口ずさんだ。
「姉さん入っていい」
美紀が、ギターを小脇に抱えてノックした。
「いいわよ」
彩香は、美紀と話したいと思った。
美紀は椅子に腰を降ろすと、アルペジオでギターをつま弾いた。
美紀の弾く『精霊流し』の曲は、彩香の感傷的な気分を誘った。
「姉さん、この詩心に沁みるわね。メロディをつけていいかしら」
美紀は、机の上のノートに目を留め、ギターをつま弾きながら歌った。
その歌が、彩香の心を一層感傷的にさせた。
彩香は、頼子とタクシーでロイヤルホテルに着いた。
丁度その時、ホテルの駐車場から、若松が鈴木と連れ立って向かってきた。
「昨日はどうも」
若松が頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
頼子は、丁寧にお辞儀をした。
「昨日は突然で、申し訳ありませんでした。また、今日はご無理を言ってすみません」
鈴木が、申し訳なさそうに話した。
「いえいえ、どういたしまして」
笑顔で応える頼子の傍で、彩香は静かに頭を下げた。
四人は、最上階のスカイラウンジに着いた。
そこで改めて、若松から鈴木の紹介があった。
頼子は、言葉少ない彩香を如才ない対応で補った。
「我々がいたのでは、二人は伸び伸びとした話ができないだろうから、あとは任せよう」
「二人きりにしないで」、彩香は心の中で叫んだ。
鈴木は、明るくはっきりとした言葉で、スポーツや芸能、社会問題などの話題に触れながら、彩香の関心ごとを模索しているようであった。
鈴木の時折の質問に、彩香は応えるのがやっとであった。
「ところで、東京のお友達は、司法試験頑張っておられるようですね」
唐突な話に、彩香は動揺し、手にしていたコップが手から滑り落ちた。
「すみません」
鈴木は、急いで従業員を呼んだ。
「お怪我ありませんか。お洋服は大丈夫ですか。それは私どもがしますので、どうぞおかけになってください」
従業員は、優しく声をかけた。
「誰にお聴きになられましたの?」
「昨日お伺いしていた時、彩香さんのお母様からお話をお聴きしました」
「母はどんなことを言っていました?」
「お友達に司法試験を受けて、弁護士になるという方がいるということをお聴きしました。その方は、大層努力されておられるとか」
彩香は、母親がどんな話をしたのか、気にはなったが、それ以上聴くことはやめた。
鈴木は話題を変えた。
鈴木が話題作りに腐心する気持ちを、彩香は理解しつつも話に入ろうとは思わなかった。
「この食事が終われば、今日は帰りましょう。お家まで、タクシーでお送りします」
「いいですわ。自分で帰れますから」
「それでは申し訳ありませんので、お送りさせてください」
「分かりました」
彩香は、それ以上の拒否は失礼になると思った。
鈴木は、助手席に座り、彩香の家に着くと先に降りた。
「今日は、ご無理を申しましたが、会っていただき、ありがとうございました。また、改めてお会いしたいので、よろしくお願いします。おうちの方によろしくお伝えください」
彩香が、門をくぐるのを見届けた後、丁寧にお辞儀をしてタクシーに乗り込んだ。
車の音に気付いた頼子が、玄関戸を開けた。
「早かったわね。で、どうだったの?」
「私、ちょっと疲れたので、一休みしてから話すわ」
頼子は、せっつくことはしなかった。
「夕食ですよ。降りてらっしゃい」
階下から頼子の声が聞こえた。
彩香が席に着くのを待って、全員合掌して食前偈を唱えた。
彩香の帰省中は、それが決まり事になっていた。
「彩香、鈴木君の印象はどうだ」
建造は、ご飯を口に運びながら反応を訊いた。
「私、好きな人がいます」
彩香は、毅然として応えた。
「林田君とかいう男か?」
建造は、ぶっきらぼうに言った。
「そうです。私、林田遼太さんと真剣な気持ちでお付き合いしています」
「それなら、その林田君とやらを一度連れて来なさい」
建造は、訝( いぶか ) った様子で言った。
「お父さんは、私が遼太さんをお連れすると、お断りするのでしょう」
「彩香さん、そう先走ってはだめよ。お会いして、良い方だったらお父さんも反対するわけはないじゃないの」
「そんなこと言っても、若松先生たちとお話が進んでいるのではないですか」
「お前は、鈴木先生がいやなのか」
建造は、詰め寄った。
「鈴木先生は、良い方だと思うわ。私には勿体ないくらいの方だと思います。でも、 私には遼太さんがいます。遼太さん以外の人との結婚は考えたことはありません」
きっぱりと言い切った。
「私明日、東京に発ちます。しなければならないことが、沢山ありますから」
「鈴木先生を断れば、必ず後悔する。そうならないために、言っているのだよ。何も今すぐとはいわない。お前が卒業してからのことだ。それまでじっくり考えればいい」
建造が、心から鈴木との結婚を望んでいることに、やり場のない寂しさを感じた。
彩香が部屋に戻ると、 美紀 が入ってきた。
「姉さん、お父さんもあと五年で定年でしょう。それまでに、姉さんと私を嫁がせたいと思っているの。でも、本心は私か姉さんの相手が、養子になってくれればいいと思っているわ。最近は言わないけど、その話聞いたことあるでしょう。嫁ぐとすれば、嫁ぎ先はできるだけ近くであって欲しいのよ。その方が心強いから。林田さんは長男だし、四国の方でしょう。強がり言っているけど、お父さんは寂しいのよ。娘を取られるように思っているのね。その気持ちは分からないではないけれど、本人の幸せが一番大事よ。三年半に亘る、ひたむきな気持ちを、誰も引き裂くことはできないわ。私も好きな人と結婚する。だって、自分の人生、自分で決めたいじゃない。だから、私精一杯姉さんを応援する。林田さんとうまくいくことを願っているわ」
彩香は、力強い美紀の言葉に勇気を得たが、自分の心の片隅にある僅かな不安には、まだ気付いていなかった。
「姉さんいる」
翌日、出発の準備をしている部屋に美紀が、息を切らして入ってきた。
「これ持って行って」
「何なの?」
「漢方薬よ。薬局が開くのを待って買ってきたの。林田さんには姉さんからと言って差しあげてね」
愛を貫くことが、妹の優しい心遣いにも応えることになる、今はそれが全てだと覚った。