三月に入り、卒業予定者名簿が法学部の掲示板に張り出されたその日、彩香から電話があった。

「今年は、例年以上に多数の留年者が出たようだけど、私たち四人の卒業が決まって良かったわね。これから郡山を立って、一九時四七分に上野に着きます。駅前のベコという喫茶店でお会いしたいけど、いいですか?」

 何か、意味ありげな言葉であった。

 上野で、夕食を済ませた後、東北線の長いホームの中央あたりで彩香を待つことにした。

 混雑したホームに列車が到着すると、乗降者で身動きできやないほど押され、行き違いなく会えるか心配になりながら探した。

 人波が途切れはじめた頃、白のブラウスに赤いスカート姿の女性が目に入った。

「出迎えてくださったのね。ありがとう。勉強がお忙しいのにお呼び立てしてすみません」

「いや、会えて嬉しいよ。荷物を持とう」

「このバッグはいいわ。重くもないから。これはお土産ね」

 彩香は、司法試験の最新情報が詰まった雑誌と郷土玩具の赤べこの包を差し出した。

「ありがとう。パーティでは迷惑をかけたね。あの後、帰省していたの?」

「そうなの」

 彩香は、言葉少なに答えた。

 二人は、広小路口から道路を挟んだ向かいビルの三階に足を運んだ。

 深刻な表情は似つかない彩香だが、喫茶店に入ってからも硬い表情は続いた。

(一生を決める大事な話をする覚悟に違いない。だが、まだ受け入れる準備は、できていない。後、半年何も言わず待ってくれないだろうか。勝負に賭ける気持ちが揺らぐのが怖い)

「彩香さんと、生禅寺で修業した時のこと思い出すよ」

 コーヒーに口をつけるや、彩香が核心に触れずにすむような話題を切り出した。

 

 

「私もよ。あの時は本当に楽しかったわ」

「自分のおっちょこちょいの性で、随分迷惑かけたね」

「そんなことないわ。遼太さんは、さすがご老師様のお孫さんと思いました」

「あの時は、祖父に会わせることができずごめん」

「いいわよ。私どうしてもお会いしたくて訪ねたの。お会いできて嬉しかったわ。ご老師様は、本当に凄いお力をお持ちですね」

 生禅寺の話題になると、彩香の目が輝いた。

 そこで、生禅寺の話題に絞って話を進めた。

 彩香は、真剣に耳を傾けた。

 時計は、一〇時を指した。

 話題が、司法試験から、卒業について切り変わった時、彩香は切り出すタイミングが来たという素振りを見せた。

「遼太さん、卒業されたらどうします?」

「今年合格するしか道はないから、他のことは一切考えず、司法試験に全力を集中するよ」

 彩香の求める答えでないことは、承知していた。

「遼太さん、結婚のこと、どう考えています?」

 

 

 彩香が勇気を振り絞り、祈るような気持ちで、問いかけた言葉であることは理解できた。

「試験に合格することしか頭の中にないんだ。一日も早く弁護士になって、困っている人たちを助けたい。それが正直な気持ちだよ」

「彩香と一緒にいたい」と答えたいが、それは、彩香を拘束するだけでなく、自身が雁字搦(がんじがら)めになって、目標達成が難しくなる。リスクが大き過ぎる、と考えた結論だった。

「そうなのね。遼太さんの気持ち、良く理解しました」

 息を飲むようにして、返事を待つ彩香の気持ちを打ち砕き、踏みにじったことは、彩香の厳しい表情から見て取れた。

(大好きだ、待って欲しい。そう言うことができれば、どんなに楽だろう。合格まで、どうか待って欲しい)

「遼太さん、司法試験頑張ってくださいね」

「ありがとう。力一杯がんばるよ」

 彩香は、待ってくれるという安易な気持ちで受け止めた。

「もうすぐ卒業ね。本当に長かったわね。でもこの四年間、一生懸命努力してきたことは無駄にならなかったと思うわ。私、女だてらに法律を勉強して、人から変わり者のように見られたけど、私にとっては本当に良かったと思っている。そして、何よりも遼太さんとお知り合いになれたことが」

「僕だって同じだよ。生涯で一番の収穫は、君との出会いだよ。これからもしんどいことが続くと思うけど、支えを励みに頑張るよ」

 時計は一一時になろうとしていた。

「いけない。すっかり遅くなった。終電に遅れては困るから出ようか」

「ええ」

 彩香は(うなず)きはしたものの、立ち上がる気配がない。 

「遼太さん、女と言うのは弱いものですよ」

 この時、決別とすがる思いを混在させて発した言葉の意味や満身(まんしん)創痍(そうい)の中、固い決意をして重い腰をあげたことには、全く気付いてはいなかった。

 上野駅の改札口まで、彩香は一言も口を利かず、後ろを振り返ることもなく、そのまま改札口から消えた。

 一晩中、「女は弱いものですよ」という言葉が、耳に焼付いて離れない。

 流水と丸山がいなくなると、急に静かになった。

「少し横になってもいいかな」

「じゃあ、このお水を飲んで、しばらく隣の炬燵で休んで頂戴」

 彩香は、片付けに取り掛かった。

 

 

「遼太さん、起きてくださる」

 片付けを終えた彩香が、身体を軽く揺すった。

「もう少しだけ、……」

「それじゃあ、私の膝枕でいいかしら。目は閉じていてもいいので、私の話を聴いてね」

 彩香にとって、唯一のチャンスが訪れた。

「私、遼太さんをずっとお慕いしてきました。尊敬しています。いつも一緒にいたい、そう思っています」

 ほとばしるように口をついて出る、彩香の内に秘めた重大な思いを、初めて耳にしながらも、それは朦朧とした意識の中であった。 

「最初、遼太さんを見た時、面白い方と思いました。何事にも前向きに取り組む遼太さんの姿にいつの間にか、心惹かれるようになりました。遼太さんが大好きです」

 薄れていく意識の中で、彩香の「大好き」と言う言葉に反応して、同じ言葉を呟いた。

「初めて遼太さんに会った日、馬酔木に行きましたね。あの時、本当に驚きました。憲法の相対的平等と合理的差別について、輝いた目で、私に話してくれたでしょう。私、あの時の内容、今でも覚えています。こんなにも打ち込んで勉強されているのかと感心しました。弁護士になりたいという思いが、すごく伝わってきました。遼太さんの真剣に取り組む姿を身近に見て、在学中に合格すると確信しました。でも、体を酷使してまで頑張る姿を見るのは辛かったです。それだけではありません。心が司法試験に向いて、私の方を振り向いてくれることがなかったことが寂しくて、一人泣いたことがあります。何て鈍感な人、と言い知れぬ腹立たしさを覚えたこともあります。それでも、慕い続けてきました」

 額に、冷たいものを感じた。

「私を女としてみて欲しい。そんな私の心はお見通しだったのでしょう。だから、私も自分の心を殺していました。好意を持ってくれているとでも思わなければ、みじめでしょう」

 額を拭う柔らかな感触があった。

「私との距離を縮めようとしないのは、どうしてですか。目標達成のためなら、本当に犠牲はやむを得ないのですか。脇目も振らず取り組んで、無理がかかってしまうのに、なぜ急ぐの。もう少し余裕の気持ちでいて欲しい、遼太さんの心に入り込んでいける隙間が欲しいと、ずっと思っていました。遼太さんのためなら、私は無理を惜しみませんが、遼太さんは、無理しないで欲しい。私を本当に必要としてくれるなら、しっかりつかまえていてください。そうしないと、私……」 

 睡魔との戦いの中で、燃えるような熱い手から熱気が伝わってくるのを感じた。

「私、今お見合いの話が進んでいます。両親は大賛成です。私は気が進みません。でも今、遼太さんの支えがなくなったら、私……。私、目の前の話に……。しっかりつかまえていて欲しいの。お願い」

 彩香の言葉が、途切れ途切れに耳に入ってきた。

 息苦しさに目が覚めると、うとうとした彩香の顔が覆いかぶさっていた。

「ごめんなさい」

 彩香は、顔を離した。

「水が欲しい」

 彩香から受け取ったコップの水を、一気に飲み干した。

 

 

「今、何時だろうね」

「今、午前一時半を少し回ったところだから、バスも電車もないわよ」

「それなら、もう少し寝かせて。朝早く帰るから」

「いいわよ。ゆっくりしていって頂戴」

 炬燵で朝を迎えた。

 

 打ち上げパーティの翌日、二日酔いによる頭痛を抱えながらも、計画に沿って無茶なスケジュールをこなした。

 そうした我武者羅な姿勢が、体調を悪化させた。

 食後三〇分間の休憩後、(どん)(さん)があり、嘔吐(おうと)を繰り返す中、腰の痛みで、背中を伸ばすこともできないでいた。

 そんな症状が続く日々、彩香から手紙が届いた。

 

 今日は福島の空は曇っています。丁度私の心のように。ここしばらく気持ちがめいっているのです。ダメなんです私……。ふと旅に出たくなります。また、根本的に自分の性格を変えて見たくもなります。誰かに説教して欲しいような。厳しく自分をいじめてみたいような、坐禅したいような、いろんな複雑な気持ちがいっぱい。満たされない気持ちがいっぱい。女の子なんて弱いなあとつくづく感じます。表面だけでからいばっているのですから。センチメンタルな気分からか、何か大変くだらないおしゃべりをして申し訳ありません。頑張ってくださいね。

  二月一五日

                                 彩香

 遼太 様

 

拝復

 いつものように代わり映えしない、薄汚れたままの東京の空に、青空を見た日のことを今、思い出しています。

 上野公園を散歩した時の空の青さは、格別だったよね。

 控えめで何事も善意で受け取る、そんな優しさと配慮の行き届いた行動に助けられて、今の自分が存在します。心から感謝しています。

 手紙には、満たされない気持ちがいっぱいとありますが、これまでは聴いてもらうばかりで、一度も真剣に話を聴くことをしなかったことを申し訳なく思います。

 今年の美術館訪問が実現すれば、その時には呪縛からも解放されていますので、自ら責任ある言動であなたに接することができます。

 どうか、その時まで、時間をください。

    二月二〇日

                                   遼太

 彩香 様

 

 これまで意図的に、本心を表現することを(はばか)ってきたことが、限界に近付いてきていることを感じながらも、今はまだ、支えることも受け入れることもできない、という気持ちを込めて投函したのだった。

 

 

 

 五時半を少し回った頃、彩香のアパートに着いた。

「こんにちは」

「いらっしゃい。さあ、どうぞ」

 玄関先で、彩香は微笑んだ。

「丸山さん、ご一緒じゃなかったの?」

「彼は、渋谷で用を済ませてから来ると言っていたよ」

「外は寒かったでしょう」

 中から流水の声が聞こえた。

「今日は、温かいほうだよ」

「そう、良かったわ。それじゃあ、私、丸山さんを出迎えにそこまで行ってみるわね」

  流水は、ダウンコートを身に着けて出かけた。

「緑に囲まれた,環境の良い所に住んでいるんだね」

「ここは、静かだし、陽当たりも良いから気に入っているの」

「僕のアパートとは、雲泥の差だよ」

「ごめんなさい。そんなつもりで言ったのではないのよ」

「分ってるよ。今の住まいは、住めば都とは違うけど、厳しい境遇から抜け出そうという気概を与えてくれるから、(あなが)ちマイナスだけでもないよ」

 部屋に入ると、六帖のダイニングキッチン、その左側がトイレと風呂で、襖を開けると、南向きの六帖間になっている。

 ベージュのじゅうたんを敷き詰めた部屋の壁には、有名画家の作品が掛かっており、花瓶に挿された梅の花からは、ほのかな甘い香りが漂っていた。

「これは誰の作品?」

「東山魁夷の『山谿秋色』という作品のコピーなの。志賀高原の晩秋を描かれたもので、気に入っているわ」

「芸術に疎いから良さは分らないけど、こうして見ていると味わいがあるね」

「芸術は、鑑賞しようとする気持ちが大事なの。私、遼太さんと美術館に行きたい。そんなことずっと思っているの」

「合格したら行こう。約束するよ」

「本当なの。嬉しい。今年の秋ぐらいになるのかな。楽しみだわ」

「期待に応えるためにも頑張るよ」

「私、どんなことでもお手伝いするから、言ってね」

「ありがとう。今日、ここに来て、随分収穫があったよ」

「何?」

 様々な蔵書が収納された、スチール製の書棚が並ぶのを見て答えた。

「君の大智如(だいちじょ)()の姿に触れて、これまでの自分を恥ずかしく思うよ」

「とんでもないわよ。そんなに買い被らないで……。遼太さんの凄さは、私とは比較にもならないわ。私、遼太さんを心から尊敬しているの」

「ありがとう。そう言ってくれるのは嬉しいけど……」

「本当よ。遼太さん、素敵だもの」

 熱い眼差しが向けられた。

「今日は、お招きありがとう。ささやかなものだけど、感謝の気持ちを受け取ってくれるかな」

「ありがとう。開けていいかしら」

「どうぞ」

「私、このブローチ欲しかったの」

 彩香は、初めてのプレゼントを抱きしめて、鏡の前に駆け寄った。

「どう似合うかしら」

 着ている服の胸元に当てて、誇らしい表情を見せた。

「とても、よく似合っている」

「ありがとう。遼太さん。変ね。嬉しいのに。どうしてかしら」

 彩香が、ハンカチを目に当てたところに、流水が帰ってきた。

「どうぞ、入って」

「遅くなって、ごめん」

 頭をかきながら、丸山が入ってきた。

「彩香さん、皆がそろったので、打ち上げパーティを始めましょうか」

 テーブルの上に並んだ手料理を前に、流水が促した。

「遼太さん、乾杯の音頭お願いしていいかしら」

「それでは、僭越ながら一言。試験、お疲れ様! 四年間本当にありがとう。この友情をいつまでも大切にして、乾杯しよう」

「乾杯!」 

 ダイニングルームで、四人はグラスに注がれたシャンパンを手に、声をそろえた。

 

   

 

  

「凄いご馳走だね!」

 丸山の顔がほころんだ。

「美味い! こんな美味い料理初めてだよ」

 丸山は、流水によそってもらった料理を、美味そうに頬張った。

「丸山さん、そのセリフ前にも聞いたわよ。安藤先生のお宅でね、覚えていない?」

 流水は、まんざらでもない様子で言った。

「そうだった。あの時も、本当に美味かったよ。今回も二人で作ったの? 林田も食べてごらんよ」

「丸山の言うとおりだ。本当に美味しい! こんな美味しい料理が食べられるなんて幸せだな」

「こうした料理、毎日食べたくはない?」

 流水は、遼太の目を見て、含みのある言葉を放った。 

「勿論、食べたいよ」

「そうなの。できないこともないかもよ」

 流水が、彩香に視線を移すと、丸山は、意味を察したかのように表情が緩んだ。

「流水さんは、四月から有名企業の社員だね」

 丸山は、話題を変えた。

「就職は決まっていても、卒業できるか心配よ」

「流水さんが、卒業できなければ、卒業できる学生は誰もいないよ。僕は、流水さんほど直向(ひたむ)きに努力する人、他に見たことがないよ」

 真顔になって、流水を見た。

「ありがとう。そう言う丸山さんこそ、県の上級試験にも合格するほど、何事にも真摯に取り組んだわよね。その姿勢、本当に素敵だと思うわ」

「自分を誉めてあげてもいいかなあ」

 丸山は、頭を掻きながらおどけた。

「それぞれが頑張ったから、今日の日を迎えることができたのよね」

 流水は、学生生活を振り返るように、しみじみと話した。

「私たち、散り散りになるのね」

 彩香が、ぽつりと呟いた。

「そうね。寂しくなるわね」

「年に一度はみんなで会おうよ。林田、いいだろう」

「それはいいね。是非、そうしよう」

「じゃあ、それを皆で誓って、大いに飲もう」

 陽気な丸山のリードで会話が弾み、あっという間に一升瓶が空いた。

「今頃気付いたけど、これは高知の酒だね。どおりで美味いはずだよ。ねえ、彩香さん」

 丸山は、ラベルを見ながら彩香に笑顔を送った。

「そうなの。デパートの地下で売っていたわ。美味しいでしょう」

「彩香さんの心は、もう高知に飛んでいるのかな」

「そうよ。でも、誰かさんは、そのことに気付いてないのよ」

 流水は、丸山の言葉を受けて遼太に視線を向けた。

「え! 俺のこと?」

「さあ、その人はおそらく鈍感な人よ」

「じゃあ、違うかな」

「違うという人には、鈍感な人が多いのよ」

 流水は、切歯扼腕した。

「流水さん、遼太さんは鈍感じゃないわ。それより、今日は歌いましょうよ」

「じゃあ、自分から歌うよ。いいかな」

 丸山は、流水のギター伴奏で、「よしだたくろうの「旅の宿」と「岬めぐり」を絶唱した。

 その後、「神田川」「精霊流し」「ふれあい」などを合唱するうちに、物悲しい雰囲気に包まれた。

「しんみりしちゃったから、陽気に戻そう」

 そう言って丸山は、ガロの「学生街の喫茶店」を歌い出し、再び合唱が始まった。 

 三時間余、歌っては飲み、日本酒は三本目に入った。

「随分ごちそうになったね。そろそろ帰らなきゃ。林田、どうする?」

「林田さんには、少し残ってもらって、私たちは引き揚げましょう」

 

 新年おめでとう。頑張っていることだろう。

①  男が一〇年間一つのことに集中したら、大概のことはできる。②〇〇君は仕事をしているか風呂に入っているか、飯を食っているかしない限りは机の前にいる。③受験生活は極めてシビアになるが「長く細く」はいけない。自分の能力に疑問を感じたり、体力的限界を感じてもへこたれてはいけない。強い意思と太い神経で、そういう状況を切り抜ければ、必ず合格する。④結局は、いろんな学問をコツコツ勉強する以外に頭を良くする手はないと思うに至った。⑤「成せば成る、成さねば成らぬ」のであり「成らぬは、人の成さぬなりけり」である。⑥自信とは油断の別名であるから、大いなる不安こそ勝利への途である⑦最後の勝利を得てから初めて笑え

 以上、合格体験記からの抜粋だが、貴君の検討を祈る!

   昭和四九年元旦

 

 

 荒川の年賀状を見ながら、気持ちを奮い立たせ、必勝を心に誓った。

 誰も同じような壁に突き当たり、それを切り抜けて合格していると思えば、腰の痛みや足へ走る(しび)れはこらえるしかないのだ。

 

「林田さん、お電話かかっているわ」

 一階の大家から呼び出しがあった。

 上京した彩香からの電話だった。

「ねえ、遼太さん、今度卒業試験が終わったら、みんなで打ち上げパーティやりましょうよ。流水さんともそんな話をしているの。いいでしょう」

「それはいいね。で、メンバーは?」

「遼太さんと丸山さん、そして流水さんと私。その四人でどうですか?」

 気心の知れた仲間が集まるのは、最後になるかもしれない。

「私のアパートにお招きしたいのですが、いいかしら」

「それは嬉しいよ」

「流水さんとも話し合って決めたのよ」

「初めての訪問だね。楽しみにしているよ」

 

 最終学年の最終試験は、二科目だけであった。

「終わった。バッチリだ。意外と簡単だったな。とにかく大学生活はこれで終わった」

 脈絡(みゃくらく)のない他愛(たあい)も無い言葉が、次から次へと頭に浮かんでは消える。

 それは、図らずもこの校舎で学び、語らい、笑い、喜び、憂い、悩んだものへ、今別れを告げるかのような心の動揺でもあった。

(短かったな、この四年間)

 思い出を回想しながら、キャンパスを一周して時計を見た。

 約束の六時までには、二時間近くある。

(どんな部屋に住んでいるのだろうか、早く訪ねて会いたい。それにしても、彼女の最近の様子は、何時もと、どことなく違っている気がする。今日は、ただの打ち上げパーティというだけのものではないぞ。「愛の告白……」彩香は愛の告白をしようと言うのではないのか。卒業を控え、彩香は就職も決めていない。東京に残るつもりか、それとも郷里に帰るのか、卒業後に進む道を委ねようとしているのではないか。彼女に対する気持ちを確認しようと思っているのかもしれないぞ)

 そんなことを考える一方、思い上がりをせせら笑う自分もいた。

 

 電車は、新宿に着いた。

 彩香の喜びそうな贈り物を求め、新宿ステーションビル内のアクセサリー売り場に足を運んだ。

 アクセサリー売り場に来るまでに、最初に目に留まった牛革のハンドバッグの値札に目をやって、愕然(がくぜん)となった。桁が違うのだ。

 

 

 バッグを贈るのを諦め、この売り場に足を向けたのだった。

 彩香が身に付けると似合うだろうと、桜皮細工のブローチを見つけるや、ためらいもなくそれを注文した。

(同じ値段なら、銀のネックレスの方が良かったかな、いや先程見た薄緑のスカーフも良かったな、ちょっと早まった気もするな)

 店員から包みを受け取るまで、あれやこれやと考えるうち、彩香が、桜皮細工のブローチを着け、牛革のハンドバッグを持って、公園で待ち合わせをしている姿が浮かんだ。

 

 

 彩香の隣を颯爽(さっそう)と歩く背広姿の男の胸に「公正と平等」を示す天秤(てんびん)と、「正義と自由」を示す向日葵(ひまわり)の金バッジが光り、その光が反射して彩香の顔が輝く。

  男は、大きな幸福を掴んだ喜びを逃すまいと、こぼれるような笑みを湛える彩香の手をしっかり握りしめて離さない。 

 そんな(まぶ)しい光景を想像して、楽しい気分に浸った。

 鈴木が帰った後、建造と頼子は、彩香を前にして説得を続けた。

「彩香さん、鈴木先生は、心の大きい方だから何も言われなかったけど、心は傷付いたのではなかったかしら。お父さんが言い過ぎた面は、私からも謝りますが、お父さんはあなたの将来にとって、いい話だと思うから勧めているの」

「言い過ぎたことは、悪かった。彩香の気持ちが分らないではないが、孝夫君は誠実で信頼できる男だ。それだけではない。彼には、何か縁のようなものを感じるのだよ」

「あら、不思議ね。私も会う度に、そんなめぐりあわせのようなものを感じるのよ」

 二人共、彩香と鈴木は何らかの縁によって結ばれていると言う。

「林田さんは、彩香さんのことを本当に大事に思ってくれているのですか。そうであるなら、何らかの行動があってもおかしくはないですよね」

「遼太さんは、私がお見合いしていることは知りません。話をすれば、直ぐにでもお父さんやお母さんに、挨拶に来てくれます」

 彩香は、自信有り気な表情で意地を張った。

「孝夫君は、弁護士として嘱望されている。家柄もいいし、人間的にも素晴らしい。林田君とは、大学の友達でいいじゃないか。彼もそう思っているかもしれないぞ」

「鈴木先生は、彩香さんを必ず幸せにしてくれます。私たちの前で、はっきり意思表示されたでしょう。林田さんは、どんな素性のお方ですか」

 頼子は、建造をサポートした。

「遼太さんは、旧家の立派なお家の方ですが、家柄とか素性とか、そんなことは結婚には関係ないことです。そんな考えは、通用しません。遼太さんは、努力家で、誠実で、目標に向かって一生懸命取り組まれる尊敬できる人です。私が、結婚したい男性(ひと)です」

「彩香さん、林田さんは今年初めて、短答式に合格したのでしょう。まだ先が長いわよね。先の保障がない人を待つつもりなの?」

「遼太さんは、器用な人ではないので、試験に向かって一生懸命です。努力家ですから、間違いなく合格します。そんな遼太さんを支えたい、それが私の気持ちです」

「間違いなく合格するって言うけど、一流大学の()り抜きの人たちが受験して、六〇倍もの倍率を突破しなければならない最難関の国家試験なのでしょう。都南大の合格者が一番多いと言っても、全員合格という訳でもないわよね。それに、林田さんの健康、大丈夫なの? 妹たちからも耳にするので、心配なのよ」

 彩香は、言葉に窮した。

「私には遼太さんがいますから、鈴木先生のことは、頭の中にはありません」

「そんなにその男が良いなら、この家から出ていけばいい」

 建造は、業を煮やして言い放った。

「分かりました。出ていきます」

「ダメよ、お父さん。言い過ぎよ」

「今の言葉は、撤回する。悪かった」

 建造は、頭を下げた。

「彩香さん、考えてごらんなさい。遼太さんが来年合格されても、弁護士として独立するまでには、司法研修所での二年間を含めると、少なくてもあと三年かかるでしょう。その年に結婚するとして、遼太さんはおいくつになるの」

「二八歳です」

「林田さんは、早生まれと言っていたわね。あなたは、遅生まれだから学年は一つ下でも、その年には二八歳になるでしょう。これは、順調に言っての話よね。遼太さんが合格しないことだって考えておかなきゃならないし、・・・・・・。年を重ねるにつれて女性は何かと厳しくなってくるのよ。遠くの幸せを追いかけるより、今ある近くの幸せを逃さないことが大事なの。チャンスは、一旦逃すと二度と巡ってはこないのよ。そのことを良く考えてね」

 母親は、急所を衝いた。 

 

 鈴木は約束の時間に、濃紺の背広に花柄のネクタイ姿で現れ、五色沼に彩香を誘った。

 五色沼は、流入する火山性の水質の影響や、植物・藻などにより、緑、赤、青などの様々な色彩を見せる数十の湖沼群に囲まれた景勝地である。

 二人は、コバルトブルーの瑠璃(るり)(ぬま)や、磐梯山の眺めがよい毘沙門(びしゃもん)(ぬま)、水中植物が美しい模様を描く弁天(べんてん)(ぬま)など、変化のあるトレッキングコースのうち、毘沙門沼から赤沼、深泥沼へと足を進めた。

 

 

 彩香は、周囲の美しい景観を楽しむ様子もなく、鈴木の話を黙って聞きながら、青、緑、オレンジと場所によって色が異なる深泥沼の変化に目を移した。

「彩香さん、あのベンチで休憩しましょうか」

 真っ青な弁天沼に差し掛かかると、鈴木は、遊歩道沿いの静かな休憩所に彩香を誘った。

 

「彩香さんが中学生の頃から、私が関心を寄せていたことは、前にもお話しましたが、お宅にお伺いして、彩香さんと初めて言葉を交わした時、将来の伴侶になる女性だと強く感じました。おじから聞いていたとおり、心優しくて、芯が強いとても素敵な女性であると確信しました。彩香さんが林田君に好意を寄せられていることは承知していますが、私は彩香さんを幸せにする自信があります。彩香さんを必要としています。こうしてお話できる機会が持てたのは、深いご縁によるものだと思います。これからもこうしたお時間をいただけないでしょうか」

 鈴木から、縁という言葉が発せられた。  

「大変有難いお言葉ですが、今の私は、鈴木先生のお気持ちにお応えする準備ができていません」

 彩香は、正面から鈴木を見て返事をした。

「厚かましいと思われても仕方ありませんが、私は、待ちます」

「私の心変わりは、期待しないでくださいね」

「それでも待ちます」

「これまでご結婚を考えられた方は、おいでなかったのですか?」

「学生時代にお茶を飲んだりした友人はいますが、結婚について考えたことはなかったです。地元に帰ることが決まって、おじの家を訪ねた時、おじに彩香さんとのお見合いの仲介を頼みました。そして、・・・・・・」

 彩香は、鈴木の言葉を聴きながら、「遠くの幸せを追いかけるより、今ある近くの幸せを逃さないことが大事なの。チャンスは、一旦逃すと二度と巡ってはこないのよ」という頼子の言葉を思い起こしていた。

 その夜、彩香は遼太と楽しく過ごした時間を回想し、重大な決心を固めた。

 彩香は、鈴木の強い想いが記された手紙を受け取り、葛藤の日々を過ごしていた。

 揺れ動く心の内を誰にも相談できないまま、母親に電話をかけた。

「あら、彩香さん、元気でやっているの?」

「ええ。母さんは、元気?」

「ぎっくり腰になったけど、治療を始めて随分楽になったわ」

「炊事や洗濯など、不自由ではないの?」

「美紀さんが、手伝ってくれるから大丈夫よ」

「父さんは元気?」

「父さんは、相変わらずだけど、少し丸くなってきたわ。気弱になった様にも思うわ。彩香さんのこと、心配しているのよ。一度帰ってらっしゃい」

「一週間ほど帰省しようかしら……」

 電話を終えた彩香は、帰り支度を始めた。 

「良く帰ってきたわね」

 玄関を開けると、腰に手を当てて、掃除をする頼子の姿があった。

「母さん、お腰大丈夫なの? 無理しないでね」

「無理はしないようにしているわ。お陰で、随分良くなったから、安心して」

「父さん、気弱になったって、本当?」

「あなたのことが気になっているのね。あなたに幸せになってもらいたいのよ。『彩香に無理を言っていると思うか』と聞くことがあるわ。でも、鈴木さんとのお話は、あなたのためになると思っているのね。だから、何とかまとめたいと思っていることは確かよ。小さい頃から、目の中に入れても痛くないほど可愛がってきたあなたを、近くに置いておきたいのかもしれないわ。そんなところに気弱な面が見えるの」

「美紀も変わりない?」

「希望の進路に向かって、頑張っているわ」

「美紀は、頑張っているのね。私もしっかりしなきゃ……」

「しっかりしているところは、あなたに似ているわよ」

「そうかな」

「そうよ。彩香さんが、都南大の法学部に行くと言った時、父さんを説き伏せたじゃないの」

「母さんが、私を支えてくれたお陰よ」

「父さんは、地元の国立大学に進んでもらいたかったのよ。私は、あなたがやりたいことを、させてあげたかったの」

「嬉しかったわ。母さん、あの時は、ありがとう」

「本当に、時が経つのは早いものね」 

「そうね。卒業まであと四か月……。あっという間だったように思うわ」

「これまでの大学生活を振り返っての感想は?」

「とても充実した学生生活だったわ。良い出会いがあったし、勿論、勉強もしたわよ。父さんや母さんには、心から感謝している」

 

 

「林田さんとは、その後どうなの?」

「母さん、私の背中を押してくれるの?」

「彩香さんの気持ちは、分かるわよ。父さんも分かっているわ。妹たちからも林田さんの人柄について聴いているわ。でもね、長年連れ添ってきた父さんの気持ちに、寄り添う自分がいるの。彩香さんが幸せになる道はどれだろうか。今、夢中になっている人なのか、地元で将来を嘱望されている人と結ばれるのが幸せか、そんなことを考えた時、父さんの気持ちが少し優先するの。あなたに冒険させたくないのよ。不思議なのよ、人は年を重ねるにつれて、身体が思うようにならなくなるから、どうしても保守的な考えになっていくのね」

「若い時だったら考えは違っていたの?」

「違っていたかもしれないわ」

「だったら、応援して欲しいな」

「あなたの気持ちは、理解しているわよ。でも、この年になって考えることは、今言ったとおりなの。年がいくと頑固になるって言うでしょう。お父さんの頑固さは、あなたのことを考えてのことなの。それは理解してあげて頂戴」

 その日の夕方、建造は食事の席で、鈴木の話を持ち出した。

「折角、彩香が帰ってきたのだから、明日の晩、鈴木先生を招こう」

「そうしましょう、ね! 彩香さん」

 彩香は、躊躇の表情を示したが、拒むことはしなかった。

 翌日の夕刻、鈴木が松沢家を訪ねてきた。

「彩香さん、このお銚子、奥の座敷に持って行って頂戴。笑顔でね」

「おばんです」

 彩香は、笑顔を見せた。

「先のころは、ありがとうございました」

 溌剌(はつらつ)とした鈴木の声が返ってきた。

 彩香は、母親から言われていたように、鈴木に丁寧に酌をした。

「ありがとう。彩香さんもどうぞ」

「お父さんもどうぞ」

 建造は、鈴木が酌をした盃の酒を一気に飲み干して献杯した。

 

 

「先生、一杯どうぞ」

「御流れ喜んで頂戴します」

 鈴木は、盃に満たされた酒を飲み干して返杯した。

「お父さんから先生と呼ばれるのは、どうも気が引けます」

「何と呼べばいいのかな」

「孝夫でいいです」

「じゃあ、孝夫君と呼ぼう」

 彩香は、親子関係を模索しているかのような、二人の姿を不審げに眺めた。

「彩香さん、大学生活も終盤に近づいてきましたね」

「ええ」

「今年も司法試験の合格者数は、都南大が一番でしたね。お友達の林田君はどうでした?」

「短答式は、問題なかったのですが、論文式は、本当に惜しかったです」

 彩香は、遼太の健康面には触れなかった。

「短答式に合格する力があるのですから、もうすぐですよ」

「彩香は、その青年に振り回されてしょうがないですわ」

 酒に酔った建造は、軽いノリで口走った。

「お父さん、遼太さんの悪口は言わないでください」

「林田君のことは、諦めなさい」

 建造の声は高くなった。

「鈴木先生、私、今林田遼太さんとお付き合いしています。ですから、このお話お断りさせていただいて構いませんか」

 彩香は、明確に意思を伝えた。

「彩香さん、今ここで、結論は出さないでください。お願いします。私は、林田君との付き合いを承知のうえで、お見合いをさせていただきました。手紙にも書きましたが、彩香さんを中学時代から知っています。そして、好意を抱いて心の中で育んできました。彩香さんを幸せにするという自信があります。どうか私という人間を見ていただけないでしょうか」

 鈴木は、彩香の目を優しい眼差しで見つめた。

「孝夫君の誠意に応えることは、人として大事なことだ」

 建造は彩香に、鈴木の真心に応えよう強く促した。

「彩香さん、二人でお話する時間をください。明日一〇時にお伺いしますので、どうかよろしくお願いします」

 彩香は、鈴木の申し出を拒絶できなかった。

「一つ大事なお願いがあるけど、聞いてもらえるかな」

「どうしたの?」

「恩を仇で返すようで、心苦しいけど、家庭教師辞めていいかな」

「それが遼太さんの大事なお願いなら、私から安達・田所両家の叔母達にきちんと話して、了解してもらうわ」

「申し訳ない。ありがとう」

「家庭教師の件は、心配しないで」

「本当にごめん。実は、もう一つあるんだ。いいかな」

「何なの?」

「君には、言葉で言い尽くせないほど感謝している。ありがとう。一緒にいるとリラックスできて、居心地がいいので、つい甘えて頼ってしまうけど、こうした至福の時間を、末永いものにするため、もう失敗はできない。そこで、今はデイトを暫くお預けにして、身を切る覚悟で臨もうと思う」

「背水の陣で臨むということなのね。そう言われるのなら、仕方ないけど、遼太さんが、自分を追い込む姿を見るのは、とても辛いわ。無理をしないで欲しい、という私の気持ちは、分ってくださいね」

 彩香のささやかな抵抗だった。

 その後、丸山には交流の一旦打ち切り宣言を行い、過酷なスケジュールに沿って学習を進め、答案練習会では、常に九割を超す成績を確保するまでになった。

 そうした中、寝起きに、布団を持ち上げた途端、その場に(うずくま)り、動けなくなってしまうという予期せぬ事態に遭遇した。

 腰から足先にかけて鋭い痛みが走り、手首を動かすだけでも、強烈な痛みが全身を貫く。 

 じっとして動かず、小一時間が経過した後、柱につかまり立ちをした瞬間、再び腰から下に電気が走るような痛みが走る。

 喘ぎながら病院に向かうのだが、一歩踏み出す度、腰がガクガクと揺れ、上半身と下半身がわずかな支えでしか繋がっていない感覚で崩れそうになりながら、やっとのこと、稲荷町の総合病院に辿り着いた。

「ヘルニアでしょう。痛いですよね。主人もあなたと同じ恰好をしていました。三カ月ほど前に手術したのですが、今ではかえって(ひど)くなっています。いつも私がマッサージしてあげているのですが、効果がなくて困っています。この病気は治りにくいですから大変ですよ」

 待合室のソファーでうずくまる姿を見て、中年女性が声をかけてきた。

「どうされました?」

 診察室に入るなり、異様な体勢を見て医師が尋ねた。

「今朝、布団をあげようとした時から、腰の痛みが続いています」

「前からそういう症状はありましたか?」

「数年前にぎっくり腰をやったことがありますが、立つことも座ることもままならない激しい痛みは初めてです」

「レントゲンとCTで見てみましょう」

 

 検査は、短時間で終わった。

「椎間板ヘルニアですね。背骨と背骨の間にはクッションの役割をしている椎間板があります。椎間板は、中心に髄核という柔らかいゼリー状の組織があって、その外側を繊維(せんい)(りん)という繊維組織が覆っています。椎間板ヘルニアは、髄核(ずいかく)が何らかの原因で繊維輪の中から脱出した状態です。林田さんの場合は、第四腰椎と第五腰椎の間が極端に狭まっていますので、その髄核が神経を圧迫して痛みを起こしています。かなり重症ですね」 

 医者は、画像を見ながら説明した。

「治るのでしょうか?」

「治療すれば、随分楽にはなります」

「完治はしないのでしょうか」

「ブロック注射や牽引、温湿布などの治療法で痛みがなくなる人もいますが、完治は難しいです。根治治療は手術です」

「手術すれば良くなるのですか?」

「人にもよりますので、完全に良くなると断言はできませんが、今よりは随分楽になります」

「危険性はありませんか?」

「手術をするのですから、危険は伴います」

「手術しないで済む方法があればそうしたいです」

「分かりました。しばらく注射と牽引で様子を見てみましょう」

 アパートに帰ると、高木から電話があった。

「久々に君の声が聴きたくなってね。様子伺いに電話をかけたのだよ。元気にしてるか?」

「椎間板ヘルニアで、病院に行っていました」

「それはいけない。痛いのか?」

「今、少し治まっていますが、激痛を経験しました」

「それならいいところを紹介する。藤山先生の知り合いが、江古田で岡田医療研究所というカイロプラティックの治療をしているから、そこで治療すれば完治するよ」

 高木からの情報で、岡田医療研究所を訪ねると、二階建ての民家の門柱に、小さな看板がかかっていた。

 玄関を入ると、治療室に五〇歳前後の整体師の姿が見えた。

 整体師は、物理療法で曲がった骨を強制するという説明をした後、上半身下着一枚で、ベッドの上にうつ伏せになるよう指示した。

 

 

「これから一週間通ってください。完全に治して見せますから」

 三〇分間の施術で、不思議なほど痛みが和らいだ。

 毎日通い、一週間が経過した。

「先生、だいぶ良くなった感じはしますが、まだ痛みが残っています。完全には治らないものでしょうか?」

「あなたはかなりの重症です。思ったよりひどい。あと一か月ぐらい辛抱して通ってください。必ず治して見せますから」

 治療費は、初回三千円で二回目から二千円となったが、往復一四〇円の電車賃を合わせると毎日、二千一四〇円が消える。

 節約のため、食事は三〇円の即席ラーメンか、一〇〇円のフランスパンを昼夜二回に分けて食べ、時々、八百屋からもらうキャベツと三〇円のサバ缶を栄養補給にする生活が始まった。  

 

 法務省の掲示板には、次のような掲載があった。

 

 昭和四八年度司法試験第二試験論文式による筆記試験の合格者の受験地・受験番号及び氏名は、次のとおりである。なお、口述試験は九月二〇日から東京都渋谷区代々木神園町三番一号オリンピック記念青少年総合センターにおいて行う

        昭和四八年八月三一日    

                      司法試験管理委員会委員長 

 

「どうなの、心境は?」 

「落ち着いたものさ。今日を起点に、新たな出発をする覚悟はできている」

  気持ちとは裏腹な言葉が、口を衝いて出た。

 彩香がさしかける日傘の隙間から、彩香に気付かれないように受験番号と氏名を探した。

「あった。あったぞ!」

 いきなり隣の男が、声を上げた。

 その喜びの声は、胸を突いた。

 

 

 合格者は、前年の五六六名から七二名減少し、四九四名であった。

 都南大の合格者は、一四七名から、八八名に激減していた。

 掲示板の前で肩を落とし、唇をかむ人、黙ってじっと見つめる人、目を伏せ打ちひしがれる人たちの過酷な光景を目の当たりにして、他人事ではない現実に胸が詰まる。   

「残念だったわね。でも、来年があるわ」

 彩香の慰めの言葉を黙然(もくねん)として聞き流しながら、重い足取りで、日比谷公園を通り抜けた。

「お茶でも飲もうか」

 喫茶店に彩香を誘った。

「来年の試験で、最後にする。後悔はしたくないから、死に物狂いで頑張るよ」

「遼太さんの実力は、十二分にあるのだから、そんなに自分を追い込まなくてもいいのではないかしら。身体が心配です。健康が一番ですよ」

「それは、分っている。でも、次の挑戦で決めなければ、もう後がないんだ」

「無理はしないで、……ね。身体だけは、大切にして欲しいの。お願い」

 嘆願するような彩香の言葉をこの時、噛み締める心の余裕はなかった。

 

  上野駅に着いた彩香は、荷物をコインロッカーに預け、地下鉄銀座線に乗り換えた。

 稲荷町駅を通過してから、彩香は乗り越したことに気付いた。

 下車した田原町駅の通路の階段を上り詰めると、陽は大きく傾いていた。

 夕暮れ時の仏具店が建ち並ぶ心寂(うらさび)しい街の風景が、彼女の速い足取りを誘う。

「おばんです」

「え! どうしたの。郷里に帰ったのではなかったの?」

「やっぱり東京がいいわ。元気だった?」

 

 

「君のお蔭で、この通り元気だよ」

「良かったわ」

 彩香は、飛びっきりの笑顔を見せた。

「これ、漢方薬よ。良く効くから飲んでね」

 紙包みを受け取ろうと差し出した手に、彩香の手が触れた。

 その手を、そっと握りしめた。

 燃えるような彼女の熱い手の触感は、何かを訴えているようだ。

 抱きしめて確かめたい衝動に駆られる。

(だめだ。感情に任せると、純な宝物を壊してしまうかも知れない。大事にしなければ……) 

「これは、早速使用させてもらうよ」

 一瞬の動揺もなかったかのように、紙包みを受け取った。

「遼太さんは、女性には関心がないの?」

「大いにあるよ。好きな女性は、特に、……」

「好きな女性とは、どんなお付き合いをしたいの?」

「自分にとってはとても高尚な存在だから、世俗的な欲求は求めずに、大切に付き合いたいと思っている」

「世俗的って?」

「本能で、欲求を満たそうとすることだよ」

「世俗的なお付き合い、したことはあるの?」

「勿論ないよ。素敵な女性(ひと)は裏切りたくないから……。そのお陰で、こうして毎日頑張れている。いつも感謝しているよ」

 彩香の目を見つめて言った。

「そうなのね……」

 彩香の表情が、一気に和らぐのを感じた。

「あと、四、五日すれば論文式の合格発表があるので、一緒に見に行ってもらえるかなあ」

「ええ。是非そうさせてもらうわ」

「結果は分かっているから、期待はしないで欲しいんだ」

「それは、発表の日まで分からないわよ。自信持たなきゃ」

「そうだね。精一杯やった結果を、確かめるのは大事だよね」

「楽しみにしてるわよ」

 彩香は、遼太の退院を見届けた後帰省した。

「ただいま帰りました。誰かお客様なの?」

 玄関には父親のものとは違う男の靴が目に入った。

「おかえりなさい。若松先生がお越しよ」 

 出迎えた母親の頼子の対応は、タイミングを見計らったように応えた。

「まあ、若松先生が……。ご挨拶しなきゃ」

 若松は、敬愛する高校時代の担任である。

 卒業後も交流があり、彩香にとっては身近な存在の人であった。

「弁護士の鈴木孝夫先生もご一緒よ」

「鈴木先生、どなただったかしら?」

 意味ありげな頼子の言い方に彩香は首を傾げた。

「まだ、言ってなかったわね。若松先生の甥御さんで、三月まで、東京の法律事務所にお勤めされていたの。四月にこちらに帰られて独立された有望な弁護士さんですよ。ご挨拶しておいでなさい」

 彩香は、二階の自室に荷物を置いた後、一階奥の和室前で膝をつき、両手で障子を開けた。

 

 

「おばんです。若松先生、お久しぶりでございます」

「これはまた、一段と美しくなったね。礼儀正しさは、変わらないね」

 若松は、にこやかな笑顔で称えた。

「彩香、ここに座りなさい」

 酒の相手をしていた父親の建造が、鈴木の向いに座るように指示した。

「甥っ子の鈴木孝夫だ」

 若松は、隣の席の鈴木を紹介した。

「はじめまして。松沢彩香と申します」

 鈴木の自己紹介に対し、彩香は丁重に応えた。

「孝夫が、地元で開業することになって、帰ってきたので、そろそろ身を固めたらどうかと勧めたところ、あんたの話になったのじゃよ。そこで、一か月前に建造さんに相談を持ち掛けておったのじゃ」

 若松は、ざっくばらんに言った。

「電話では、伝えてなかったが、そういうわけじゃ。鈴木先生は、現役で司法試験に合格して、二四歳で弁護士となったエリートだよ」

 建造は、盛んに鈴木のことを褒めた。

 若松は、へりくだった言い方で鈴木のエピソードを紹介しながら、一方で彩香の高校時代の思い出話に触れるなど、彩香への敬意を忘れなかった。

 彩香は冷静さを装ったが、その場に居たたまれなくなった。

「私、先ほど帰ったばかりで、少し疲れがでてきました。大変申し訳ありませんが、中座させていただいてもよろしいでしょうか」

「お客様に、失礼だろう」

 建造は、彩香を咎めるように言った。

「疲れには、休養が一番。ゆっくり休んでください」

 若松は、建造をなだめた。

 彩香は、机上の遼太の写真を手にして、ベッドの上に寝転がった。

 

 

「彩香さん、入るわよ」

暫くして頼子が、彩香の部屋の前で声をかけた。

「彩香さん、突然で驚いたと思うけど、いい話だと思うわよ」

 母親から、そうした言葉を聴くとは、彩香は思いもしなかった。

「母さんは、私の見方じゃなかったの?」

「そうだわよ」

「じゃあ、どうしてなの。これまで、私に勧めてくれていたじゃない。私、将来のことを考えて、お付き合いしているといったら、妹からも林田さんの素晴らしさを聴いていると言って、賛成してくれたこと、覚えているでしょう」

「勿論よ。でもね、状況は変わったの。結婚となるとそうはいかないこともあるのよ。あなたの敬愛する若松先生の甥御さんよ。お父さんも乗り気だし、断れないでしょう」

「私、母さんのこと好きだけど、これだけは聞けないわ」

「彩香も親になったら分かるわよ。娘の幸せを考えない親なんていないわ」

「だったら分かって、私の幸せは私が決める。それじゃ、だめなの」

「それはそうだけれど、良い話なのよ。結論は急がないで、ゆっくり考えましょう。それより、今日はせっかく来てくださっているのだから、もう一度降りてらっしゃい」

「お母さん、私疲れているの、悪いけど若松先生によろしくおっしゃって」

「仕方ないわね。私からよく言っとくわ」

 頼子は部屋を出た。

 彩香はベッドに(うずくま)り、(うつ)ろな目を遼太の写真に注いだ。 

 入れ替わるように、高校に通う妹の美紀が入ってきた。

「お帰りなさい。母さんから帰省するよう何度も電話があったのでしょう。帰る草々、辛いわね。父さんも母さんも姉さんの卒業を待って、鈴木さんに嫁がせると乗り気みたいよ。結婚は、当人同士の問題なのに・・・・・・。私、許せないので言ったの。父さんたちが結婚するのじゃない。姉さんの了解も得ないうちに話は進めないで、って。姉さんには、林田さんがいることを、母さんは良く知っているのに、父さんに強く言われて何度も帰ってくるように連絡してたでしょ。私、夕べもそのことで言い合いになったの」 

 誰よりも気持を理解してくれている妹を、彩香は誇らしげに思った。

「若松先生は、私も大好きな先生よ。でも、親と先生で話を進めて良いはずはないわ。姉さんの気持ちが一番大事だから……。私、姉さんの味方よ」

「美紀、ありがとう。電話の感触からそんな感じがしないでもなかったの。本当は帰りたくはなかったけど……。明日、東京へ発つわ」

「それが良いわ。後のことは、私がうまくやるから安心して」

 心強い味方がいることで、彩香の気持ちは少し楽になった。

「林田さんに対する気持ちは、変わらないのでしょう」

「私は、遼太さんをお慕いしているから、ずっと一緒にいたいと思っているの」

 彩香は、遼太に対する気持ちを、美紀に語って聞かせた。

「姉さんの愛は、本物よ。純粋だわ。でも、姉さんは消極的すぎるのじゃないかな。私だったら、告白して、気持ちを聞くわよ。そうすれば、責任持って応えると思うわ。林田さんは、きっと恥ずかしがり屋なのよ。自分から言えない人だと思うから、姉さんも、不安に思っているのでしょう」

 言い終わってから、美紀はクスクス笑った。

「どうしたというのよ」

「だって、林田さんって、堅物なのでしょう。そんな人が、ガチガチになって姉さんに好きです、そんな様子を想像すると可笑しいの。真面目一本の人って、どんなプロポーズするのかしら。可愛らしいよね」

「そんなこと言っては失礼よ」

 彩香もそのことを想像すると愉快な気持ちになった。

 

 来客が帰り、家族四人の夕食になった。

 酒が入った建造は、陽気に鼻歌を歌った。

「彩香。鈴木先生はいいぞ。お前の相手にはもったいないくらいだ。向こう様が彩香を是非にと、言ってくれているんだ。いい話だ。断る手はないぞ」

「あなた!」

 頼子は、建造の裾を引っ張って(たしな)めた。

「こういうことは、はっきりしなければいけない。若松先生の甥っ子だし、申し分ない。彩香、鈴木先生とお付き合いをしてみなさい。今日はお前が帰ってくるというから、二人を招いていたが、肝心の彩香がいないから、改めて明日の約束をしたよ」

「明日って?」

「明日の一一時に、駅前のロイヤルホテルで正式に見合いをすることにしたので、心積もりをしておきなさい」

「誰が決めたの?」

 美紀が訊いた。

「二人は、彩香に確かめてからと言われたが、わしからきちんと話しておくから心配ないと約束した」

「いくら父さんでもそれは勝手だわ。姉さんの気持ちを考えるべきよ」

 美紀は、強い口調で歯向かった。

「お前には関係ないことだ」

 建造は言い終わると、寝室へ引きあげた。

「私、明日東京に立ちます」

「そんな。帰ったばかりじゃないの。それに明日のお約束はどうするの?」

 頼子は、戸惑った。

「父さんたちが勝手に約束しておいて、約束はどうする、はないと思うわ。私は明日のお見合いは断るべきだと思うわ」

 美紀が口をはさんだ。

「何を言うの、美紀は。とんでもないことよ。こんないい条件のお話は、これから先いくら探してもないわよ。いいこと、今は気持がなくても、後で悔やむことになるの。そうなれば後の祭りよ。林田さんが、悪い人だとは思ってはないけど、林田さんからプロポーズされているの?」

 彩香は、黙ったまま応えなかった。

「林田さんからは、まだプロポーズされてないのね。彩香さん、あなたのためなの。もし、明日のお約束を破れば、若松先生にも不義理することになるわよ。それでいいの?」

 彩香は、唇をかんだ。

「彩香さん、会うだけでいいから会ってね」

 彩香は、頼子の話を断りきれなかった。

 部屋の窓を開け、空に輝く大群の星を眺めながら、二人の出会いからこれまでのことを思い起こした。

(私は、努力する人が好き。人生は自分自身との闘いだから、真剣に努力する人に言い知れぬ魅力を感じる。遼太さんが、司法試験に打ち込む姿は、まさにそうだ。遼太さんは、何事にもファイトを持って真正面から体当たりしてきた。一年の体育実技で、バレーボールに全力で取り組んだ姿、素敵だった。リーダーシップを発揮して、ユーモアたっぷりで、人を引っ張ってきたその中に私がいた。目標に向かって没頭する中で、友達は遠ざかって行ったけれど、一生懸命努力する姿は、尊敬する。時には恐ろしくて、近寄りがたいと思ったこともあるけれど、唯一の理解者として、ずっと傍にいたい。私の愛を全身で受け止めてくれるまで、欲求不満は、登山で晴らそう。それが私の二四歳の青春なんだわ)

 何度も頭の中で反芻(はんすう)するうちに、無性に遼太に会いたくなった。

 寂しは、こらえきれない。

 空に向かって、大きな声で遼太の名を叫びたくなった。

 空が、(にわ)かに暗くなった。

 月に雲がかかり、急に激しい勢いで雨粒が落ちてきた。

 遠くで雷鳴が鳴り響いた。

 

 

 お空は誰かに失恋をして

 大粒の涙を流しています

 なぐさめてくれる人もいないから

 灰色の扉で心を閉ざして

 さみしくて…… さみしくて……

 仕方がないのですか

 今の私と同じように

 

 あなたが必要です

 私が安心して暮らすためには

 あなたの優しさが必要です

 私を優しく包んでくれる

 広い心と思いやり深い言葉が……

 それから……

 あなたの温かさが

 今の私には必要なのです

 だって今は、雷雨の季節

 

 彩香は、綴った詩を静かに口ずさんだ。

「姉さん入っていい」

 美紀が、ギターを小脇に抱えてノックした。

「いいわよ」

 彩香は、美紀と話したいと思った。

 美紀は椅子に腰を降ろすと、アルペジオでギターをつま弾いた。

 美紀の弾く『精霊流し』の曲は、彩香の感傷的な気分を誘った。

「姉さん、この詩心に沁みるわね。メロディをつけていいかしら」

 美紀は、机の上のノートに目を留め、ギターをつま弾きながら歌った。

 その歌が、彩香の心を一層感傷的にさせた。 

 彩香は、頼子とタクシーでロイヤルホテルに着いた。

 丁度その時、ホテルの駐車場から、若松が鈴木と連れ立って向かってきた。

「昨日はどうも」

 若松が頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 頼子は、丁寧にお辞儀をした。

「昨日は突然で、申し訳ありませんでした。また、今日はご無理を言ってすみません」

 鈴木が、申し訳なさそうに話した。

「いえいえ、どういたしまして」

 笑顔で応える頼子の傍で、彩香は静かに頭を下げた。

 四人は、最上階のスカイラウンジに着いた。

 

 

 そこで改めて、若松から鈴木の紹介があった。

 頼子は、言葉少ない彩香を如才ない対応で補った。

「我々がいたのでは、二人は伸び伸びとした話ができないだろうから、あとは任せよう」

「二人きりにしないで」、彩香は心の中で叫んだ。

 鈴木は、明るくはっきりとした言葉で、スポーツや芸能、社会問題などの話題に触れながら、彩香の関心ごとを模索しているようであった。

 鈴木の時折の質問に、彩香は応えるのがやっとであった。

「ところで、東京のお友達は、司法試験頑張っておられるようですね」

 唐突な話に、彩香は動揺し、手にしていたコップが手から滑り落ちた。

「すみません」

 鈴木は、急いで従業員を呼んだ。

「お怪我ありませんか。お洋服は大丈夫ですか。それは私どもがしますので、どうぞおかけになってください」

 従業員は、優しく声をかけた。

「誰にお聴きになられましたの?」

「昨日お伺いしていた時、彩香さんのお母様からお話をお聴きしました」

「母はどんなことを言っていました?」 

「お友達に司法試験を受けて、弁護士になるという方がいるということをお聴きしました。その方は、大層努力されておられるとか」

 彩香は、母親がどんな話をしたのか、気にはなったが、それ以上聴くことはやめた。

 鈴木は話題を変えた。

 鈴木が話題作りに腐心する気持ちを、彩香は理解しつつも話に入ろうとは思わなかった。

「この食事が終われば、今日は帰りましょう。お家まで、タクシーでお送りします」

「いいですわ。自分で帰れますから」

「それでは申し訳ありませんので、お送りさせてください」

「分かりました」

 彩香は、それ以上の拒否は失礼になると思った。

 鈴木は、助手席に座り、彩香の家に着くと先に降りた。

「今日は、ご無理を申しましたが、会っていただき、ありがとうございました。また、改めてお会いしたいので、よろしくお願いします。おうちの方によろしくお伝えください」

 彩香が、門をくぐるのを見届けた後、丁寧にお辞儀をしてタクシーに乗り込んだ。

 

 

 車の音に気付いた頼子が、玄関戸を開けた。

「早かったわね。で、どうだったの?」

「私、ちょっと疲れたので、一休みしてから話すわ」

 頼子は、せっつくことはしなかった。

「夕食ですよ。降りてらっしゃい」

 階下から頼子の声が聞こえた。

 彩香が席に着くのを待って、全員合掌して食前偈を唱えた。

 彩香の帰省中は、それが決まり事になっていた。

「彩香、鈴木君の印象はどうだ」

 建造は、ご飯を口に運びながら反応を訊いた。

「私、好きな人がいます」

 彩香は、毅然として応えた。

「林田君とかいう男か?」

 建造は、ぶっきらぼうに言った。

「そうです。私、林田遼太さんと真剣な気持ちでお付き合いしています」

「それなら、その林田君とやらを一度連れて来なさい」

 建造は、(いぶか)った様子で言った。

「お父さんは、私が遼太さんをお連れすると、お断りするのでしょう」

「彩香さん、そう先走ってはだめよ。お会いして、良い方だったらお父さんも反対するわけはないじゃないの」

「そんなこと言っても、若松先生たちとお話が進んでいるのではないですか」

「お前は、鈴木先生がいやなのか」

 建造は、詰め寄った。

「鈴木先生は、良い方だと思うわ。私には勿体ないくらいの方だと思います。でも、  私には遼太さんがいます。遼太さん以外の人との結婚は考えたことはありません」

きっぱりと言い切った。

「私明日、東京に発ちます。しなければならないことが、沢山ありますから」

「鈴木先生を断れば、必ず後悔する。そうならないために、言っているのだよ。何も今すぐとはいわない。お前が卒業してからのことだ。それまでじっくり考えればいい」

 建造が、心から鈴木との結婚を望んでいることに、やり場のない寂しさを感じた。

 彩香が部屋に戻ると美紀が入ってきた。

「姉さん、お父さんもあと五年で定年でしょう。それまでに、姉さんと私を嫁がせたいと思っているの。でも、本心は私か姉さんの相手が、養子になってくれればいいと思っているわ。最近は言わないけど、その話聞いたことあるでしょう。嫁ぐとすれば、嫁ぎ先はできるだけ近くであって欲しいのよ。その方が心強いから。林田さんは長男だし、四国の方でしょう。強がり言っているけど、お父さんは寂しいのよ。娘を取られるように思っているのね。その気持ちは分からないではないけれど、本人の幸せが一番大事よ。三年半に亘る、ひたむきな気持ちを、誰も引き裂くことはできないわ。私も好きな人と結婚する。だって、自分の人生、自分で決めたいじゃない。だから、私精一杯姉さんを応援する。林田さんとうまくいくことを願っているわ」

 彩香は、力強い美紀の言葉に勇気を得たが、自分の心の片隅にある僅かな不安には、まだ気付いていなかった。

「姉さんいる」

 翌日、出発の準備をしている部屋に美紀が、息を切らして入ってきた。

「これ持って行って」

「何なの?」

「漢方薬よ。薬局が開くのを待って買ってきたの。林田さんには姉さんからと言って差しあげてね」

 愛を貫くことが、妹の優しい心遣いにも応えることになる、今はそれが全てだと覚った。