三月二五日、卒業式を迎えた。
大講堂の中央には、第九〇回卒業式の横断幕が掲げられ、壇上には、馴染みのある教官の顔が並んでいる。
式典に参列する卒業生の力強い校歌斉唱の後、学長は「稔るほど頭の垂れる稲穂かな」という言葉を引用し、社会に出ても常に謙虚な姿勢で臨んで欲しいと式辞を述べた。
(もうこうした話も聞けなくなるな。この場にいられるのは、稲穂のような存在の彩香がいてくれたからだ。ありがとう)
グレーのスーツの胸元に、真白なコサージュをつけた彩香は、五列前の左斜めの席で、学長の話に耳を傾けている。その彩香に向かって、心の中で礼を述べた。
教室で卒業証書を受け取った後、中庭での全学部共通の卒業パーティに丸山と向かった。
四年間一緒に学んだ学友たちとの別れを惜しみながら、思い出話に耽っている目の前を彩香と流水が横切った。
「そろそろ失礼するよ」
「もう新潟へ帰るのか」
「チケットをとっているからごめんな。また会おう」
一時間も経たない内、丸山が別れを告げた。
周りから一人、二人と去っていくのを見送りながら、彩香が現れるのを待った。
(今まで、一度でもこんなことがあっただろうか。何か、おかしい)
会場を離れ、彩香が居そうな心当たりを探し廻ったが、何処にも見当たらない。
諦めて、近くにいた友人に声をかけ、上野に向かった。
かつて荒川と別れた居酒屋の暖簾をくぐると、当時の寂しい別れを思い出し、友人たちへの惜別の感情が湧いた。
学生生活を振り返り、話題が広がって親睦は深まっていく。
一方、頭の中は彩香のことで一杯になっていく。
友人が楽しそうに語り、豪快に飲食する傍で、自分の心だけが乖離しているのに気付いた。
友に別れを告げ、ひょっとしたらという思いを抱いて、一人大学に引き返した。
まばらな人影の中、職員がパーティの後片付けに追われている。
晴れやかな舞台裏は、周到な準備や後始末に追われ、艶やかさが寸分も存在しないということを改めて認識し、今の自分にとって、最も相応しい場所で、飲み直そうと考えた。
近くの酒屋で、日本酒を買い込み、薄汚れた四畳半のアパートで独り呷るように飲んだ。
焼けるような胃の痛みに襲われながらも、飲み続けた。
いつしか、胃も腰の痛みも刺激的な快感に変わる中、彩香との思い出が、脳裏を駆け巡り、涙が止めどもなくこぼれ落ちる。
電話ボックスから、居るはずのない彩香の部屋に電話をかけた。
受話器から聞こえる機械的な応答に、大切にしていたものが一瞬にして失われていくような感覚を覚えた。
翌朝は、ひどい目眩がして、布団に崩れ、そのまま意識が遠のいた。
目覚めた時には、激しい頭痛と倦怠感に襲われ、それを知った大家が四〇度を超える高熱に慌てて、氷枕と風邪薬を用意して介抱してくれたお陰で、四日目にやっと起き上がることができた。
優れない体調の中、罰が当たったかと、自問しながら彩香に手紙を書いた。
冠省
お元気でお過ごしのことと思います。
卒業式の日、飲み過ぎて翌日は二日酔いに風邪を併発し、三日間寝込みました。まだ今も少し頭が重い状態が続いていますが、数日後には良くなると思います。
ところで、卒業式の朝、赤ベコをいただきましたね。僕も竜馬像の置物を手渡そうと準備していました。中庭のパーティの後、皆と別れてゆっくり二人きりで話ができると思っていましたので、あなたを探したのです。
ところが、どこにも見つけることができず、アパートで寂しく一人酒をしました。
僕は今まで、司法試験以外のことは、タブーのように避けてきました。でもそれが如何に自分の心を偽ってきたか、やっと分かりました。
もっと早く、あなたがどれだけ大切なのか、なくてはならない存在の女性なのかを自覚していたなら、決してあなたを離さなかったでしょう。
連絡がとれなくなってからあなたの存在がとても大きくなっています。今無性に会いたい。そして詫びたい。もう、あなたを離さない。いつまでも傍にいてください。この気持ちは本当です。
このことをお伝えして、筆をおきます。
三月二九日
遼太
彩香 様
二週間経っても返事がなく、公衆電話から電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
不安がよぎった。
「もしもし、松沢さんですか」
「はい。そうです」
「林田と申します。彩香さんおいでませんでしょうか」
「彩香は出かけております」
「何時頃帰られますか」
「妻も居ないので、私は分りません。誠に申し訳ありませんが、またにしてください」
厳かな男性の声で、受話が切られた。
言い知れぬ寂しさが、気持ちを動揺させる。
一週間後、再び電話をした。
年配の女性の声だった。
「彩香は、出かけておりますが……」
「そうですか。では、林田から電話があったとお伝えください」
連絡を期待して、受話器を置いた。
その後も彩香から、連絡はなかった。





















