彩香は、遼太の退院を見届けた後帰省した。

「ただいま帰りました。誰かお客様なの?」

 玄関には父親のものとは違う男の靴が目に入った。

「おかえりなさい。若松先生がお越しよ」 

 出迎えた母親の頼子の対応は、タイミングを見計らったように応えた。

「まあ、若松先生が……。ご挨拶しなきゃ」

 若松は、敬愛する高校時代の担任である。

 卒業後も交流があり、彩香にとっては身近な存在の人であった。

「弁護士の鈴木孝夫先生もご一緒よ」

「鈴木先生、どなただったかしら?」

 意味ありげな頼子の言い方に彩香は首を傾げた。

「まだ、言ってなかったわね。若松先生の甥御さんで、三月まで、東京の法律事務所にお勤めされていたの。四月にこちらに帰られて独立された有望な弁護士さんですよ。ご挨拶しておいでなさい」

 彩香は、二階の自室に荷物を置いた後、一階奥の和室前で膝をつき、両手で障子を開けた。

 

 

「おばんです。若松先生、お久しぶりでございます」

「これはまた、一段と美しくなったね。礼儀正しさは、変わらないね」

 若松は、にこやかな笑顔で称えた。

「彩香、ここに座りなさい」

 酒の相手をしていた父親の建造が、鈴木の向いに座るように指示した。

「甥っ子の鈴木孝夫だ」

 若松は、隣の席の鈴木を紹介した。

「はじめまして。松沢彩香と申します」

 鈴木の自己紹介に対し、彩香は丁重に応えた。

「孝夫が、地元で開業することになって、帰ってきたので、そろそろ身を固めたらどうかと勧めたところ、あんたの話になったのじゃよ。そこで、一か月前に建造さんに相談を持ち掛けておったのじゃ」

 若松は、ざっくばらんに言った。

「電話では、伝えてなかったが、そういうわけじゃ。鈴木先生は、現役で司法試験に合格して、二四歳で弁護士となったエリートだよ」

 建造は、盛んに鈴木のことを褒めた。

 若松は、へりくだった言い方で鈴木のエピソードを紹介しながら、一方で彩香の高校時代の思い出話に触れるなど、彩香への敬意を忘れなかった。

 彩香は冷静さを装ったが、その場に居たたまれなくなった。

「私、先ほど帰ったばかりで、少し疲れがでてきました。大変申し訳ありませんが、中座させていただいてもよろしいでしょうか」

「お客様に、失礼だろう」

 建造は、彩香を咎めるように言った。

「疲れには、休養が一番。ゆっくり休んでください」

 若松は、建造をなだめた。

 彩香は、机上の遼太の写真を手にして、ベッドの上に寝転がった。

 

 

「彩香さん、入るわよ」

暫くして頼子が、彩香の部屋の前で声をかけた。

「彩香さん、突然で驚いたと思うけど、いい話だと思うわよ」

 母親から、そうした言葉を聴くとは、彩香は思いもしなかった。

「母さんは、私の見方じゃなかったの?」

「そうだわよ」

「じゃあ、どうしてなの。これまで、私に勧めてくれていたじゃない。私、将来のことを考えて、お付き合いしているといったら、妹からも林田さんの素晴らしさを聴いていると言って、賛成してくれたこと、覚えているでしょう」

「勿論よ。でもね、状況は変わったの。結婚となるとそうはいかないこともあるのよ。あなたの敬愛する若松先生の甥御さんよ。お父さんも乗り気だし、断れないでしょう」

「私、母さんのこと好きだけど、これだけは聞けないわ」

「彩香も親になったら分かるわよ。娘の幸せを考えない親なんていないわ」

「だったら分かって、私の幸せは私が決める。それじゃ、だめなの」

「それはそうだけれど、良い話なのよ。結論は急がないで、ゆっくり考えましょう。それより、今日はせっかく来てくださっているのだから、もう一度降りてらっしゃい」

「お母さん、私疲れているの、悪いけど若松先生によろしくおっしゃって」

「仕方ないわね。私からよく言っとくわ」

 頼子は部屋を出た。

 彩香はベッドに(うずくま)り、(うつ)ろな目を遼太の写真に注いだ。 

 入れ替わるように、高校に通う妹の美紀が入ってきた。

「お帰りなさい。母さんから帰省するよう何度も電話があったのでしょう。帰る草々、辛いわね。父さんも母さんも姉さんの卒業を待って、鈴木さんに嫁がせると乗り気みたいよ。結婚は、当人同士の問題なのに・・・・・・。私、許せないので言ったの。父さんたちが結婚するのじゃない。姉さんの了解も得ないうちに話は進めないで、って。姉さんには、林田さんがいることを、母さんは良く知っているのに、父さんに強く言われて何度も帰ってくるように連絡してたでしょ。私、夕べもそのことで言い合いになったの」 

 誰よりも気持を理解してくれている妹を、彩香は誇らしげに思った。

「若松先生は、私も大好きな先生よ。でも、親と先生で話を進めて良いはずはないわ。姉さんの気持ちが一番大事だから……。私、姉さんの味方よ」

「美紀、ありがとう。電話の感触からそんな感じがしないでもなかったの。本当は帰りたくはなかったけど……。明日、東京へ発つわ」

「それが良いわ。後のことは、私がうまくやるから安心して」

 心強い味方がいることで、彩香の気持ちは少し楽になった。

「林田さんに対する気持ちは、変わらないのでしょう」

「私は、遼太さんをお慕いしているから、ずっと一緒にいたいと思っているの」

 彩香は、遼太に対する気持ちを、美紀に語って聞かせた。

「姉さんの愛は、本物よ。純粋だわ。でも、姉さんは消極的すぎるのじゃないかな。私だったら、告白して、気持ちを聞くわよ。そうすれば、責任持って応えると思うわ。林田さんは、きっと恥ずかしがり屋なのよ。自分から言えない人だと思うから、姉さんも、不安に思っているのでしょう」

 言い終わってから、美紀はクスクス笑った。

「どうしたというのよ」

「だって、林田さんって、堅物なのでしょう。そんな人が、ガチガチになって姉さんに好きです、そんな様子を想像すると可笑しいの。真面目一本の人って、どんなプロポーズするのかしら。可愛らしいよね」

「そんなこと言っては失礼よ」

 彩香もそのことを想像すると愉快な気持ちになった。

 

 来客が帰り、家族四人の夕食になった。

 酒が入った建造は、陽気に鼻歌を歌った。

「彩香。鈴木先生はいいぞ。お前の相手にはもったいないくらいだ。向こう様が彩香を是非にと、言ってくれているんだ。いい話だ。断る手はないぞ」

「あなた!」

 頼子は、建造の裾を引っ張って(たしな)めた。

「こういうことは、はっきりしなければいけない。若松先生の甥っ子だし、申し分ない。彩香、鈴木先生とお付き合いをしてみなさい。今日はお前が帰ってくるというから、二人を招いていたが、肝心の彩香がいないから、改めて明日の約束をしたよ」

「明日って?」

「明日の一一時に、駅前のロイヤルホテルで正式に見合いをすることにしたので、心積もりをしておきなさい」

「誰が決めたの?」

 美紀が訊いた。

「二人は、彩香に確かめてからと言われたが、わしからきちんと話しておくから心配ないと約束した」

「いくら父さんでもそれは勝手だわ。姉さんの気持ちを考えるべきよ」

 美紀は、強い口調で歯向かった。

「お前には関係ないことだ」

 建造は言い終わると、寝室へ引きあげた。

「私、明日東京に立ちます」

「そんな。帰ったばかりじゃないの。それに明日のお約束はどうするの?」

 頼子は、戸惑った。

「父さんたちが勝手に約束しておいて、約束はどうする、はないと思うわ。私は明日のお見合いは断るべきだと思うわ」

 美紀が口をはさんだ。

「何を言うの、美紀は。とんでもないことよ。こんないい条件のお話は、これから先いくら探してもないわよ。いいこと、今は気持がなくても、後で悔やむことになるの。そうなれば後の祭りよ。林田さんが、悪い人だとは思ってはないけど、林田さんからプロポーズされているの?」

 彩香は、黙ったまま応えなかった。

「林田さんからは、まだプロポーズされてないのね。彩香さん、あなたのためなの。もし、明日のお約束を破れば、若松先生にも不義理することになるわよ。それでいいの?」

 彩香は、唇をかんだ。

「彩香さん、会うだけでいいから会ってね」

 彩香は、頼子の話を断りきれなかった。

 部屋の窓を開け、空に輝く大群の星を眺めながら、二人の出会いからこれまでのことを思い起こした。

(私は、努力する人が好き。人生は自分自身との闘いだから、真剣に努力する人に言い知れぬ魅力を感じる。遼太さんが、司法試験に打ち込む姿は、まさにそうだ。遼太さんは、何事にもファイトを持って真正面から体当たりしてきた。一年の体育実技で、バレーボールに全力で取り組んだ姿、素敵だった。リーダーシップを発揮して、ユーモアたっぷりで、人を引っ張ってきたその中に私がいた。目標に向かって没頭する中で、友達は遠ざかって行ったけれど、一生懸命努力する姿は、尊敬する。時には恐ろしくて、近寄りがたいと思ったこともあるけれど、唯一の理解者として、ずっと傍にいたい。私の愛を全身で受け止めてくれるまで、欲求不満は、登山で晴らそう。それが私の二四歳の青春なんだわ)

 何度も頭の中で反芻(はんすう)するうちに、無性に遼太に会いたくなった。

 寂しは、こらえきれない。

 空に向かって、大きな声で遼太の名を叫びたくなった。

 空が、(にわ)かに暗くなった。

 月に雲がかかり、急に激しい勢いで雨粒が落ちてきた。

 遠くで雷鳴が鳴り響いた。

 

 

 お空は誰かに失恋をして

 大粒の涙を流しています

 なぐさめてくれる人もいないから

 灰色の扉で心を閉ざして

 さみしくて…… さみしくて……

 仕方がないのですか

 今の私と同じように

 

 あなたが必要です

 私が安心して暮らすためには

 あなたの優しさが必要です

 私を優しく包んでくれる

 広い心と思いやり深い言葉が……

 それから……

 あなたの温かさが

 今の私には必要なのです

 だって今は、雷雨の季節

 

 彩香は、綴った詩を静かに口ずさんだ。

「姉さん入っていい」

 美紀が、ギターを小脇に抱えてノックした。

「いいわよ」

 彩香は、美紀と話したいと思った。

 美紀は椅子に腰を降ろすと、アルペジオでギターをつま弾いた。

 美紀の弾く『精霊流し』の曲は、彩香の感傷的な気分を誘った。

「姉さん、この詩心に沁みるわね。メロディをつけていいかしら」

 美紀は、机の上のノートに目を留め、ギターをつま弾きながら歌った。

 その歌が、彩香の心を一層感傷的にさせた。 

 彩香は、頼子とタクシーでロイヤルホテルに着いた。

 丁度その時、ホテルの駐車場から、若松が鈴木と連れ立って向かってきた。

「昨日はどうも」

 若松が頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 頼子は、丁寧にお辞儀をした。

「昨日は突然で、申し訳ありませんでした。また、今日はご無理を言ってすみません」

 鈴木が、申し訳なさそうに話した。

「いえいえ、どういたしまして」

 笑顔で応える頼子の傍で、彩香は静かに頭を下げた。

 四人は、最上階のスカイラウンジに着いた。

 

 

 そこで改めて、若松から鈴木の紹介があった。

 頼子は、言葉少ない彩香を如才ない対応で補った。

「我々がいたのでは、二人は伸び伸びとした話ができないだろうから、あとは任せよう」

「二人きりにしないで」、彩香は心の中で叫んだ。

 鈴木は、明るくはっきりとした言葉で、スポーツや芸能、社会問題などの話題に触れながら、彩香の関心ごとを模索しているようであった。

 鈴木の時折の質問に、彩香は応えるのがやっとであった。

「ところで、東京のお友達は、司法試験頑張っておられるようですね」

 唐突な話に、彩香は動揺し、手にしていたコップが手から滑り落ちた。

「すみません」

 鈴木は、急いで従業員を呼んだ。

「お怪我ありませんか。お洋服は大丈夫ですか。それは私どもがしますので、どうぞおかけになってください」

 従業員は、優しく声をかけた。

「誰にお聴きになられましたの?」

「昨日お伺いしていた時、彩香さんのお母様からお話をお聴きしました」

「母はどんなことを言っていました?」 

「お友達に司法試験を受けて、弁護士になるという方がいるということをお聴きしました。その方は、大層努力されておられるとか」

 彩香は、母親がどんな話をしたのか、気にはなったが、それ以上聴くことはやめた。

 鈴木は話題を変えた。

 鈴木が話題作りに腐心する気持ちを、彩香は理解しつつも話に入ろうとは思わなかった。

「この食事が終われば、今日は帰りましょう。お家まで、タクシーでお送りします」

「いいですわ。自分で帰れますから」

「それでは申し訳ありませんので、お送りさせてください」

「分かりました」

 彩香は、それ以上の拒否は失礼になると思った。

 鈴木は、助手席に座り、彩香の家に着くと先に降りた。

「今日は、ご無理を申しましたが、会っていただき、ありがとうございました。また、改めてお会いしたいので、よろしくお願いします。おうちの方によろしくお伝えください」

 彩香が、門をくぐるのを見届けた後、丁寧にお辞儀をしてタクシーに乗り込んだ。

 

 

 車の音に気付いた頼子が、玄関戸を開けた。

「早かったわね。で、どうだったの?」

「私、ちょっと疲れたので、一休みしてから話すわ」

 頼子は、せっつくことはしなかった。

「夕食ですよ。降りてらっしゃい」

 階下から頼子の声が聞こえた。

 彩香が席に着くのを待って、全員合掌して食前偈を唱えた。

 彩香の帰省中は、それが決まり事になっていた。

「彩香、鈴木君の印象はどうだ」

 建造は、ご飯を口に運びながら反応を訊いた。

「私、好きな人がいます」

 彩香は、毅然として応えた。

「林田君とかいう男か?」

 建造は、ぶっきらぼうに言った。

「そうです。私、林田遼太さんと真剣な気持ちでお付き合いしています」

「それなら、その林田君とやらを一度連れて来なさい」

 建造は、(いぶか)った様子で言った。

「お父さんは、私が遼太さんをお連れすると、お断りするのでしょう」

「彩香さん、そう先走ってはだめよ。お会いして、良い方だったらお父さんも反対するわけはないじゃないの」

「そんなこと言っても、若松先生たちとお話が進んでいるのではないですか」

「お前は、鈴木先生がいやなのか」

 建造は、詰め寄った。

「鈴木先生は、良い方だと思うわ。私には勿体ないくらいの方だと思います。でも、  私には遼太さんがいます。遼太さん以外の人との結婚は考えたことはありません」

きっぱりと言い切った。

「私明日、東京に発ちます。しなければならないことが、沢山ありますから」

「鈴木先生を断れば、必ず後悔する。そうならないために、言っているのだよ。何も今すぐとはいわない。お前が卒業してからのことだ。それまでじっくり考えればいい」

 建造が、心から鈴木との結婚を望んでいることに、やり場のない寂しさを感じた。

 彩香が部屋に戻ると美紀が入ってきた。

「姉さん、お父さんもあと五年で定年でしょう。それまでに、姉さんと私を嫁がせたいと思っているの。でも、本心は私か姉さんの相手が、養子になってくれればいいと思っているわ。最近は言わないけど、その話聞いたことあるでしょう。嫁ぐとすれば、嫁ぎ先はできるだけ近くであって欲しいのよ。その方が心強いから。林田さんは長男だし、四国の方でしょう。強がり言っているけど、お父さんは寂しいのよ。娘を取られるように思っているのね。その気持ちは分からないではないけれど、本人の幸せが一番大事よ。三年半に亘る、ひたむきな気持ちを、誰も引き裂くことはできないわ。私も好きな人と結婚する。だって、自分の人生、自分で決めたいじゃない。だから、私精一杯姉さんを応援する。林田さんとうまくいくことを願っているわ」

 彩香は、力強い美紀の言葉に勇気を得たが、自分の心の片隅にある僅かな不安には、まだ気付いていなかった。

「姉さんいる」

 翌日、出発の準備をしている部屋に美紀が、息を切らして入ってきた。

「これ持って行って」

「何なの?」

「漢方薬よ。薬局が開くのを待って買ってきたの。林田さんには姉さんからと言って差しあげてね」

 愛を貫くことが、妹の優しい心遣いにも応えることになる、今はそれが全てだと覚った。

 

 

 気付いた時は、病院であった。

 

 

「随分うなされていましたね」

 看護師は、輸液バックを取り替えながら、月曜日に精密検査があると告げた。

 看護師と入れ替わるかのように、彩香が入ってきた。

「元気そうね。良かった」

「お見舞い、ありがとう。心配かけたね」

「本当に驚いたわ。昨日、私試験会場に行っていたの。そうしたら、救急車が来たでしょう。胸騒ぎがしたの。患者が遼太さんと分かって、私心臓が止まるかと思ったわ。今日、元気そうな顔が見られて、ほっとしたわ」

 彩香は、安堵の表情で持参した花を花瓶に刺した。

 

 

「ここに運ばれてきた経緯は、余り覚えてないんだ。試験放棄ということになるのかな」

「試験のことは、一旦忘れて。今は、療養が一番よ」

「そうだね。でも、月曜日の精密検査の結果、暫く入院ということになれば、来週も家庭教師ができなくなる。そうなったら、悪いけど連絡してくれないかな」

「心配しなくて大丈夫! 私に任してくださらない」

「任すのはいいけど、どうするの」

「私が代りにするわ。遼太さんのようにはいかないけど」

「それは有難いが、君だって困るだろ」

「いいのよ。私一度、中高生の家庭教師をしたかったの。だから嬉しいの」

「来週は一〇日と一三日がその日に当たっているんだ」

「知っているわ。火曜と金曜。四時からが安達さん、七時からが田所さんでしょ。場所も良く知っているわ」

「場所も知ってるの?」

「智恵ちゃんのお母さんと忠志君のお母さんは、私の母と姉妹なの。隠してたわけじゃないのよ。親戚だというと、遼太さんが気を使うと思って黙っていたの。ごめんなさい。遼太さんのお陰で、私も鼻が高いの。叔母たちは、今時の若い者にしては珍しいほど、言葉使いも良く礼儀正しい方だって誉めているわ。それに、教え方が上手だから、成績が伸びたと大層喜んでいるの」

(一体どれ程までに彩香に支えられているのか)

 余りにも非力な自分に嫌悪感を抱きつつ、彩香の優しさに打ちのめされる思いであった。

 

 検査の結果、急性膵炎、逆流性食道炎、萎縮性胃炎、胃潰瘍及び十二指腸潰瘍の痕跡、胆のう炎、虫垂炎という診断が下された。

 医師から、膵炎の治療と共に虫垂炎の手術と当面の入院を指示された。

 

 

 その晩、布団を被って泣いた。

 論文式試験に絶好のコンディションで臨むことができなかったことを悔やんだ。

 日常の健康管理の不十分さに、言い知れぬ悔しさと情けなさが込みあげ、止めどなく涙がこぼれた。

 朝を迎えた時点で、翌年に勝負を賭ける決心が固まった。

 

 彩香は、毎日病院を訪ね、その日あったことを話した。

 ちょっとした出来事でも彩香が話すと、爽やかに聞こえる。

「いつものように、御茶ノ水駅から大学に向かっていたら、二、三歳になる子どもが歩道で転んだの。自転車も走っていたから危ない、助けなきゃ、と思って近づこうとした時よ」

 彩香は、熱の入った話し方に変わった。

「みすぼらしいなりっていうと失礼な言い方になるわね。何と言ったら良いかしら、そう着古した服装の男の人、その人が、駆け寄ってその子どもを抱き起こしたの」

「子どもは、驚いただろうね」

「そうなの。その男の人が『大丈夫かい』そう言って、介抱しながら、その子のズボンの埃をはたいておとしたの。すると急に、その子が泣き出したのよ」

「いきなり知らない人に抱き起こされたのだから、驚いて泣いたわけだ」

「そうだと思うわ。ここからが大事な話よ。立ち話に夢中になっていた母親が、その男の人の身なりを見て、(さげす)むような表情で、『何をするの!』そう言ったの。私、最初から見ていたから、その母親に事情を話さなければと思ったの。そうしたら、その男性はどうしたと思う」

「僕なら、その母親の誤解を解くために説明するよ」

「事情をきちんと説明するという遼太さんは立派よ。でもその男性は、違っていたの。私は、男性から母親の保護責任を注意されても仕方ないと思うわ。でも、それをしないで、静かな口調で『子供から目を離さないようにお願いします』、そう言って、その場を立ち去ったの。私、感動したわ」

「よく出来た人だね。素晴らしい話だよ。で、その母親は、その後どうだったの」

「凄く(いき)り立っていたのに、その男性の礼儀正しい姿に何かを感じたのかも知れないわ。ぼんやりとした様子で、暫く、後ろ姿を見つめてその場に立ち尽くしていたのよ」

 彩香は、その光景に余程の共感を覚えたようであった。

「今日も長話になったわね。日曜日には、智恵ちゃんと忠志君を連れてくるわ」

彩香は、試験の話題に触れようとしない私を気遣って、元気づけてくれるのだ。

 日曜日、田所智恵と安達忠志が病室に訪れた。

智恵は、母親や友達と一緒に織ったという千羽鶴を差し出した。

「本当はね、彩香おばさんの分が多いの。それは言わないで、って言われているから、秘密よ」

 彩香が病室を離れた隙に、智恵は、無邪気な顔で耳打ちした。

「僕は、読み終わった本を、退屈しないようにと思って持ってきました」

 忠志は、はにかみながら、分厚い漫画の本を数冊ベッドに置いた。

 午後、主治医が回診にやって来た。

「経過は順調だから、来週には退院できますね」

 聴診器をはずして、にこやかに伝えた。

「先生、ありがとうございます」

「お礼は、松沢さんに言いなさい」

 彩香に向かって主治医言葉を続けた。

「彼の順調な回復ぶりはあなたのお蔭ですよ。これからは、余り無茶をしないように監督してくれますか」 

 

 

 笑顔で病室を出る主治医と看護師に向けて、彩香は頭を下げた。

「ありがとう」

「どういたしまして、本当に良かったわ」

彩香は、正視される視線をそらせて目頭を押さえた。

 

 その晩、遼太は夢を見た。

「林田先生!」

 事務所のソファーで新聞を読んでいたところに、血相を変えて、男が駆け込んできた。

「横領罪で、訴えられました。助けてください」

 必死に(すが)り付く男は、丸山博だった。

「大丈夫です。任せてください」

「どうぞ、丸山さん」

 お茶を差し出したのは、彩香であった。

「あなた、明日は丸山さんの公判ですね。無実を証明する書類も整えています」

「いつも彩香には感謝しているよ」

「初めて聞く優しい言葉だけど、本当に嬉しいわ」

 彩香はとびっきりの笑顔を見せた。

 場面は、公判に変わった。

 検事席に山城、裁判長席には高木が座っている。

 検察側の主張に対し、理路整然と無実を挙証し、勝訴となった。

 

 

 いつの間にか彩香の実家が舞台になっていた。

「彩香、林田君とは、今すぐ別れなさい」

 父親は、激しい剣幕で彩香を攻め立てる。

「別れません。認めてくれないなら、二度と家に出入りすることはいたしません。長い間、大変お世話になりました」 

 着の身着のままで、家を飛び出した彩香を、必死で捜す中で目覚めた。

 

 二週間に及ぶ入院で、彩香の存在の大きさと健康の大事さを痛感することになった。

 

 

 短答式試験が間近に迫った。

 これを突破しないことには、論文式試験に挑戦できない。

 時間との闘いとなったが、家庭教師は続けることにした。

 高二の田所智恵と中三の安達忠志が成績アップで喜んでいることや、彩香の紹介であることを考えると辞める訳にはいかないのだ。

 二人から、学校生活の悩みや進路など相談されることが増えたことは、却って気分転換になった。

 一方、睡眠時間は四時間に削り、銭湯は月三回と決めて時間確保に努めた。

 星法会研究室の答案練習会は、四月二九日の総合択一をもって終了となった。

 総合択一を除く二七回の平均点は、六〇点満点中、五六.五点で、優秀者五名の中の一人に選ばれたが、荒川が良く口にしていた「自信は油断の別名」と言う戒めが感情を抑え、高揚感に浸ることはなかった。

  

 五月一三日の母の日、準備万端整えて蒼天を仰いだ。

 雲一つない空が、総合択一で九〇問中八五問正解だった意味を暗示させる。 

 

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 試験会場に向かう途中、浅草寺に参拝して御神籤を引いた。

「吉」、月出漸(月ようやく出る)との文字が目に飛び込んできた。

 足取り軽く会場に着いたが、そこは、前回同様受験者が醸し出す張り詰めた空気に包まれていた。

(三万人受験して最終合格は、五〇〇名前後だから、艱難(かんなん)辛苦(しんく)に耐えても極一部の者しか幸せはつかめない。過酷な試験を承知の上で、大学生活をエンジョイすることもせず、際限なくこの試験に縛られるのだけはごめんだ。この緊張感に耐えるのも勝利への一歩なのだ

 沈黙が支配する教室で、問題と答案用紙が配布された。

 静かに目を閉じ、気持ちを落ち着かせた。

 チャイムの音で、おもむろに問題用紙をめくった。

 第一問民法、第二問刑法、第三問憲法と基本的な問題が続き、順調な滑り出しとなった。

 ところが、思わぬ展開が訪れた。

 四〇問を終えた頃、得意の憲法で迷う問題に直面したのだ。

 その後、立て続けの難問にペースが乱れた。

(ここで詰まれば、今年もだめだ)

 焦りが生じ、頭の中が混乱する。

 思考力が鈍り、時間だけが浪費される。

 脂汗が滲み、せっぱ詰まった時、「喝!」という生禅寺管長の声が耳に響いた。

 静かに目を閉じ、肩の力を抜いた。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 繰り返すうちに、徐々に冷静さを取り戻した。

 後回しにした問題も、焦りが消えると分かる問題であった。

 試験終了後の気分は、爽快だった。

 軽やかな足取りで、電話ボックスに向かった。

 淡いブルーのスーツを着た女性が、手を振りながら駆けてきた。

「今、電話をかけようと思っていたところだよ」

「心配で、来てしまったわ。で、どうだったの?」

「途中憲法で(つまづ)いて、焦ったよ。どうにか切り抜けたけど、焦りって怖いね」

「焦りは禁物って言うわね。でも、遼太さんなら大丈夫! 私が保証するわ」

「ありがとう。そう言ってもらって、安心したよ」

「そうよ。本当に安心していいわよ」

「じゃあ、新宿でボウリングでもして、リフレッシュしようか」

 入学の年、流水や丸山を加えた四人で、後楽園でボウリングしたことを思い出していた。

「いいわね。あの時以来よね」

 ごった返す街を歌舞伎町からコマ劇場に向けて歩いた。

 映画館の前を通ると、刺激的なポスターが目に飛び込んできた。

 彩香の視線を気にして、咄嗟にポスターから目を離し、別の映画館に隣接するミラノボールに入った。

 

 

「遼太さん、雪辱戦ね。私負けたら、映画代おごるわね。決して手加減しないわよ」

 一位彩香、二位丸山、三位遼太、四位流水という記憶が甦った。

「あの時は、知り合ったばかりだったから、花を持たせてあげたけど、映画代を賭けるとなると話は別だ。負ければ、コーヒーもつけてやるよ」

「私もコーヒー、じゃなくてクリームソーダーつけるわよ」

 クリームソーダーは、佳織と足摺にドライブした時、初めて口にしたのだが、それ以来、好物になっていた。

「お見事! でも残念ね。練習ボールで」

 

 

 拍手しながら、茶目っ気たっぷりな言い方をする彩香は可愛いい。

 ストライクは、練習ボール以外には二回だけだった。

「フェミニストの僕には、どうしても女性を負かすことはできないよ」

「あら、そうかしら。はっきり自分の実力を認めたら」

「君が上手だということは認めるよ。久々だったから、調子がでなかっただけだけどね」

「でも、ストライクが出るたび、調子取り戻したよ、と言っていたじゃない」

 屈託なく笑う彩香を見て、心が安らぐ。

「映画代は、おごるよ」

「いいのかしら?」

「約束は、守らなきゃ」

「男はつらいよ」を上演する映画館の窓口で、チケットを購入して館内に入った。

 席に腰を降ろした後、タイミングを見ながら両手を広げた。

 彩香の腕に触れることを期待したが、うまくいかない。

 映画に集中する彩香の隣で、平静を装いスクリーンに目を向けた。

 寅さんは、どこにでもいそうで、実際にはいない、人情味が厚く共感を呼ぶ。

 最後に失恋の痛手を負う寅さんの姿を、自分に重ね合わせながら展開するシーンに注目しつつ、寂しさを隠しながら、二枚目ぶって最後に別れる寅さんの胸中に想いを馳せた。

 

 

 真心で接する大事さを教えてくれる寅さんのように、自分は、真剣に彩香に接してきただろうか。

 映画の余韻を残して、近くの喫茶店に入った。

「コーヒー、おごるよ」

「本当にいいの?」

「勿論だよ。ところで、寅さんのような人は好き?」

「好きです。私、真剣に取り組む人、大好きです」

 彩香の言葉には、含みがある様に思えた。

  

 短答式合格発表の五月三〇日を迎えた。

「やあ、君たち来ていたのか?」           

 高木が、右手を挙げて近寄ってきた。

「先輩、おめでとうございます」

「君こそおめでとう。本番はこれからだよ。君ともライバルという訳だ。どうだ、一杯やらないか?」

 高木は、銀座の路地裏にある「異骨相」に二人を誘った。 

 

 

 暖簾をくぐり、二階の隅の座敷に腰を降ろした。

「ここの料理はうまいよな、林田君」

「はい」

「今日は、おごるよ」

「いいのですか、先輩」

「いいとも。貧乏学生と違って、働いているのだよ」

 高木は、にこにこしながら応えた。

「それでは、お言葉に甘えてご馳走になります」

「我々が、最後まで勝ち残ることができるように乾杯!」

 大ジョッキを重ね合わせた。

 

 

「高木先輩と遼太さん、おめでとうございます。次の合格も期待しています」

「ありがとう。彩香さん。僕は合格したら、ご老師様の生誕の地を訪ねて、ご本尊様に参拝したいと思っている。勿論それだけじゃない。本場のカツオのたたきを食べたいし、四国カルストや四万十川、足摺や室戸、桂浜の龍馬像、龍河洞、そして牧野植物園など見所満載の高知を回りたい。その時は、林田君案内してくれるか」

「いいですよ。いつでもご案内します」

「そうはいかない。目的が達成されてからだ。そんなこと言っていたら、いつになるか分からないか」

 高木は、とぼけて見せた。

「彩香さんもどうだい。一緒に行かないか?」

「ええ、行きたいわ」

「ところで、君たち、二人の将来のことは考えているのか?」 

 高木は、酔いに任せて突っ込んだ質問をした。

「勿論、考えています」

 その時、彩香が向けた真剣な目に熱いものを感じた。

「そうか、それなら言うことはない」

 高木は、それ以上踏み込まず、次の試験に向けての話題に移った。

 店を出ると、高木と彩香を地下鉄銀座駅まで見送り、二人を見届けてから、実家に電話をかけた。

 

「電話ボックス」のブログ記事一覧-midVamo

 

「母さん、すっかり遅くなりましたが、母の日おめでとう。今日まで電話もせず、心配かけました。母さんへのプレゼントは、試験に合格したことの報告です。他に何も贈物がありません。ごめんなさい」

「ありがとう。何よりも嬉しい贈物よ。……」

 電話の向こうで、声を詰まらせて涙ぐむ母の姿を想像すると胸が詰まった。

 

 七月二日から五日間に亘って、論文式試験が行われた。

 体調が芳しくなく、机に向かうと、喉から腹部にかけて焼けつく様な症状が出て、胃がきりきり痛む。

 深夜には、胸が締め付けられ、心臓が止まるのではないかと思うほどの痛みに襲われた。

 そんな痛みに耐えながら一日目の憲法と民法の試験に臨んだ。

 憲法の第一問は「法律又は条例により土地利用の規制を定める場合における憲法解釈上の問題点について説明せよ」という基本問題であった。財産権の保障と土地利用の規制、補償、条例による規制の問題を論点に据えて、一気に書きあげることができた。

 第二問の「内閣が条例を締結して効力を発生させた後、国会の承認を求めたが、国会はその一部を修正して承認した。この国会の行為及びその効力について説明せよ」という問いもどうということのない問題だった。

 構成用紙に論点を挙げ、書き始めようとした時、急にわき腹に激しい痛みが走った。

 苦しさの中で、不十分さを残したままの提出となった。

 行きつけの病院で、急性虫垂炎と診断され、入院と手術を勧められたが、痛み止め注射で乗り切ることにした。

 痛みに耐えながら、どうにか四日間を終え、試験最終日を迎えた。

 社会政策の第一問は「ILOの組織と活動を概説し、同機関の社会政策上の重要性について論述せよ」という問題であった。

 読むつもりで買ってあった飼手真吾・戸田義男の『ILO条約と日本労働法』だが、体調不良で目が通せず、論点が不十分で惨憺(さんたん)たる出来となった。

 第二問の「我が国の公的年金保険が当面する諸課題について論ぜよ」という問題に向かっていた時、次第に意識が薄れていくのを感じた。

 

 

 三が日も過ぎ、穏やかな日常生活に戻った。

「来年は、お前も卒業だ。だめだったら帰って来なさい。県の採用試験を受けて、公務員になってくれると安心する」

 一家団欒での食事中、和正が発する言葉に、由意が静かに頷く。

「一生懸命に頑張っているのに、それはむごいよ。公務員になるくらいなら、何のために家を出たかわからないよ」

 敏宏は、反対の声をあげた。

「家は僕が継ぐから、兄貴にはやりたいことをやらせてあげて」

 続いて、正十が発言した。

「能力には限界というものがある。勝負に敗れたら、潔いのが大事だ」

 和正は、諭すように言う。

「遼太、お前はどうだ」

 茂が口を開いた。

「我が儘だとは分っていますが、どうかやり切らせてください。必ず、合格します」

「遼太の気持ちは、良く分かった。みんなで応援するから安心しなさい」

 茂の傍で、鶴代が頷きながら、優しい表情を浮かべた。 

 その慈愛に満ちた姿に、何度癒やされたことだろう。

「厳しいことを覚悟の上でやるというからには、決して弱音を吐くことなくやり抜きなさい」

 和正は、折れた。

「私は、遼太の体が心配なの。無理はしないでね」

 体を気遣う由意は、生禅寺の管長にもよく電話をしている。

「みんな、ありがとう。東京にも親身になって支えてくれる女性(ひと)がいるので、無理はしません。合格したら紹介します」

「兄ちゃん、どんな女性? 名前は」

「松沢彩香という、親切で思いやりがある素敵な女性だよ」

「結婚するの?」

「今は、できないけど、いずれそうなればと・・・・・・」

「素敵な女性がいるんだね。良かった」

 敏宏は屈託ない笑顔を見せる。

「そんな女性がいるなら、早く連れて来なさい」

 昔堅気の茂が、祝言を急げと言い出した。

「その話は、合格が決まってからということにしませんか」

 和正の説得で、茂は納得した。

「松沢さんという方がいれば、安心だわ」 

「色々配慮してくれますので、助かっています」

「ほっとしました。ところで、いつ発つの?」

「答案練習会が、一三日から始まるので、六日に発ちます」

「じゃあ、必要なものをそろえるわね」

 由意は席を立ち、鶴代と食器の片付けにかかった。

 

 

「遼太、お前に見せたいものがあるから、ちょっと来なさい」

 茂は、書斎の金庫から株券や金の装飾などを取出した。

「遼太、やるからには死に物狂いでやれ。家(うち)

 

 

()は自然林が多いから、山の木を少し売れば、一千万や二千万はいつでも入る。土地は余るほどあるし、株はいつでも換金できる。お金のことは何の心配もしなくていい。いくらでも出してやるから、それだけの覚悟でやれ」

「それは、金なの?」

「すべて純金だから相当の値がつくはずだ」

「気持ちは嬉しいけど、先祖が残した大切なものに手は付けたくないです」 

「わしは、一〇代目の与一の孫になるが、一一代目を継いだ。与一には、二人の男の子がいたが、一人は徴兵を逃れるため、子のない資産家の養子になった。後継者となるはずの芳次は、博打に手をだして、数町歩の田を人手に渡した挙句、人にだまされて多額の金品まで失った。そんな放蕩息子の芳次を勘当して、五歳だったわしが全財産を譲り受けて家を継ぐことになった。戦後、農地改革で随分田畑を手放したが、それらも買い戻して、山も増やした。それをお前に譲ろうと思っている。勿論、和正も承知している。しかし、お前が弁護士になるのであれば、農地は弟に譲って、株券と自然林が繁る山林を全てあげよう。生活費や独立費用に役立てたらいい」 

 茂は、系譜を示しながら、縷々説明を加えた。

「おじいちゃん、有り難う。大変心強いです。でも、東京では、艱難辛苦を乗り切る覚悟で生活すると決めてるので、合格した暁にお願いします」

「そうか、分かった。それではお前が出発する前の晩に、門出を祝う席を設けよう。何事もけじめが大事だからな」

 宴会には、親戚や友だち、近所の人たちが大勢集まった。

「今から遼太が、弁護士になるという決意表明をします」

 大伯父の山村伊佐治が、宴会を取り仕切った。

「家の跡も継がず、上京して三年になります。そんな身勝手な私を温かく見守ってくれる皆さんや家族には本当に感謝しています。弁護士になると大見得を切った以上、必ず試験を突破して、社会正義を貫く弁護士になります。そして地域に貢献することをお約束します」

 山村の指名に応えて、弁護士を目指した理由などにも触れ、謝意を込めて挨拶した。

「遼ちゃんの強い志、しっかり伝わったわよ。私がいつも応援していること忘れないでね」

 佳織は、酌をしながらにこやかな笑みを見せた。

太が、弁護士になれば、今までみたいに、気安く呼び捨てできなくなるな」

「遼ちゃんが弁護士になって帰ってくるの、楽しみにしているわよ」

 みんなの前で目標を宣言したことで、期待や励ましが強くなり、有言実行の重みを背負うことになった。

 

 

 翌朝、小さな駅には黒山の人だかりができていた。

 日常良好な交流が、今こうして多くの人の温かい見送りに繋がっているのだ。

 見送ってくれる人たちに、それぞれお礼を述べて改札口に進んだ。

「僕も兄ちゃんみたいになるんだ」

 くりくり頭の敏宏が、無邪気に言う。

「正十、おじいちゃんやおばあちゃん、親父、おふくろのこと、よろしく」

「遼太、みんなが応援しているぞ。出発に際して、何か一言挨拶を頼む」

 山村伊佐治の大きな声がする。

 野口英世が柱に書き残した「志を得ざればこの地を踏まず」という言葉が、咄嗟に浮かんだ。

「学ならずんば、死すとも帰らずという決意で、頑張って弁護士になって帰ってきます。家族のことをよろしくお願いします」

 気障っぽい挨拶となった。

 見送る人たちの拍手に送られ、たった一人ホームで列車を待った。

   

 

 列車が到着するや、急いで席に着き窓を開けた。

 ディーゼル機関車の車輪が、レールの継ぎ目を通過する音が、徐々にスピードを上げていく。

 目頭に手をやる祖父母や白髪が目立つようになった両親が、手を振り続ける。

 三年前、家族の期待を裏切るようにして上京したことは、責められても仕方ないのだが、それを許してくれた寛容さと深い愛情に胸が詰まる。

 見送る人たちの姿が視界から消えた時、列車と並行して、線路沿いを一台のスカイラインが走るのが見えた。

  

 

 

 一二月二五日、東京発一九時七分の夜行列車「瀬戸」に乗車した。

 ウトウトしながら、一晩中寝台列車に揺られ、翌朝六時一二分に宇野駅に着いた。

 宇高連絡船出港までは、一八分の乗り換え時間があり、慌てず乗船できた。

 一時間の船旅には、名物うどんがお決まりのコースだ。

 ところが、朝が早いためか三〇分経過しても船内放送がない。

 販売所に足を運んでみると、販売所の窓口は閉じたままで営業する気配がない。

 楽しみにしていたことが消えたことは、衝撃だった。

 船が高松港に着岸する様子を見届けた後、築港から高松駅に接続する桟橋を小走りに進むと、駅のホームに待機する列車が見えた。

 窪川行の急行列車に一番に乗り込み、外の景色を楽しみながら、ゆったりとした気分に浸った。

 途中、久礼駅で鈍行に乗り換えた後、二四ものトンネルをくぐると、懐かしい故郷の景色が現れた。

 

 

 東京出発から、一八時間余りを要したが、疲れは全く感じない。

 車窓から、自宅前の畑で鍬を振る、鶴代の姿が目に飛び込んできた。

 駅舎を出て数歩進むと、鶴代が駆け寄ってきた。 

「遼太や、良く帰ってきたね。二年ぶりじゃね。元気じゃった? 良かった。良かった。荷物は、こっちへ」

 七〇歳を超えた鶴代の嬉しそうな顔が、光輝いて見えた。

「ただ今、おばあちゃん」

 鶴代は荷物を大事そうに抱え、優しくにこやかな笑顔を見せた。

 その姿を見て、懐かしさと安らぎで、胸が一杯になった。

「遼太が帰ってきたよ」

 玄関先で鶴代が、大きな声をあげた。

「良く帰ってきた。元気だったか。みんな心配していたぞ」

 いち早く飛び出してきた茂は、満面の笑みを浮かべて遼太を迎えた。

「お帰りなさい。少しやせたかね」

 痩せた体を見て、心配そうに由意が尋ねた。

「このとおり元気だから大丈夫だよ」

「勉強ははかどっているか。見通しはどうだ?」

 和正は、進捗状況が気になっているようだ。

「今度の試験に、勝負をかけます」

「じゃあ、来年は合格だね」

 役場に勤める正十の期待する言葉には、気が引き締まる。

「凄いね、兄ちゃん。僕も頑張るね」

「敏宏は頑張り屋だから、受験勉強が心配だ。無理はするな。健康が一番だよ」

 己を省みる思いだ。

「さあさ、早く中に入って、ゆっくり休め。今日は、帰省祝いだ」

 茂は、くつろいだ表情を見せ、家族の思いを告げた。

 和正は、早速行動を開始し、正十を伴って新鮮な魚の買い出しに出かけた。

 鶴代と由意が、田舎寿司作りに取り掛かると、茂は手慣れた様子で材料を構え、敏宏は奥座敷の掃除や食器等の準備を始めた。

 数時間後には、奥座敷のテーブルの上に鰹のたたきや刺身、田舎寿司を盛った皿鉢料理が所狭しと並べられ、全員が勢揃いした。

「遼太の帰省祝いと目標達成を期して乾杯!」

 茂の乾杯の音頭によって、賑やかな談笑が始まった。

「遼太、おかえり」

「元気な顔を見て安心した」

「まあ、飲め」

「この鮎の煮付けは、お前の好物だろ」

「お刺身もお寿司も食べてね」

 帰省を喜ぶ家族に囲まれ、田舎の味を満喫できる幸せを心から実感する。 

 安らぎの中に浸る自分を顧みて、東京の生活が、如何に空虚で、苦しい戦いの場なのか、改めて意識が鮮明になる。

(居心地良い環境と戦場、その両極端の生活が、現実なのだ。「艱難汝を玉にす」というなら、安らぎの経験こそ、優しさが身に付くはずだ。今、この至福の時間を最大限大切にしよう)

 翌朝、鶴代と由意が仏壇にご飯とお水を供えるありふれた姿に、祖先を敬い、家族の幸せを念じる気持ちを感じて心が動いた。

 上京前には、毎日目にしていた光景なのだが、新鮮に映る。 

「たまに帰ってきたのだから、もう少しのんびり過ごしたらどうか」

「勉強ばかりでなくて、外に出て思い切り遊んでおいで」

 茂や鶴代は、健康を考えて幾度も勧める。

「机に向かうのも大事だが、散歩でもいいから体を動かしなさい」

 和正も健康が一番だと言う。

 父親には、これまで反発ばかりで素直に聞き入れなかった自分を反省し、近くの地蔵堂に詣でた。

 家族の愛情が、今になってなぜこうも心に響くのだろう。

 

 正月二日、中学時代の同窓会が開かれたが、勉強に夢中になり、一時間遅刻してしまった。

「来てくれたの。良かったわ。遼ちゃんが来ないから家を訪ねようと思っていたところよ」

 会場に足を踏み入れると、ロビーで帰り支度をしていた野田佳織が声をかけてきた。

「遅れてごめん」

「いいわよ。会えたから。タクシー断ってくるわね。待ってて」

 佳織は、東京にある大手商事会社に勤めている。

「東京で何度か誘ったけど、上手に断られたわね。手紙を書いても、返事はないし……。試験勉強で忙しいとは思うけど、一度は付き合ってね。私、海外勤務になりそうなのよ」

「そうなのか。優秀な社員だから期待されているのだろうね。海外から帰ってきた時に、帰還祝いをするよ」

「本当なの? 嬉しいわ。でもずっと先になるわね。試験が優先でしょうから、仕方ないけど……。でも、約束よ」

「分った。約束するよ」

 和室から賑やかな声が聞こえてくる。

「じゃ、行こうか」

「そうね」

 佳織の話し足りなさそうな顔を見て、申し訳ない気持ちが生じた。

「皆さん新年おめでとう。今年もよろしく」

 拍手が鳴った。

「駆けつけ三杯!」

 幹事が、並々と注いだコップ酒を差し出した。

「一気! 一気!」

 掛け声に合わせて、三杯飲み干すと、司会がすかさず、近況報告を求めた。

 近況報告を終えると、歌のリクエストがあった。

 それが遅刻者に対する儀式だという。

「神田川」を熱唱し、喝采を浴び、献杯を受ける羽目となった。

「ちょっと飲みすぎたみたいだ」

 すきっ腹に、杯の応酬は、気持ち良さを通り越していた。

「大丈夫なの? これ飲んで頂戴」

 佳織が、厨房からもらってきた水が美味しい。

「暫く、ここで横になってて」

 佳織に促され、座布団を丸めた上に頭を置くとそのまま記憶が途絶えた。

「宴たけなわですが、ここで一旦、中締めにします」

 一本締めの後、思い思いに二次会に向かった。

「しっかり肩につかまってね」

 佳織に支えられ、崩れるようにハイヤーに乗り込んだ。

「着いたわよ。入って」

 手入れの行き届いた日本庭園に設置された池に、照明灯に照らされて、錦鯉がゆうゆうと泳いでいるのが見えた。

 

 

「ここはどこ?」

「私の家なの。両親は母屋だから気兼ねはいらないわ。暫く休んでもらおうと思って」

 佳織は、両親と弟の四人家族で、父親は県内で屈指の建設会社を経営している。

 広い敷地内には、別棟があり、リビングにはピアノや豪華なソファーが置かれている。 

 ソファーに掛けるとそのまま意識が消えていった。

 

 

 どれくらい経つだろう。

 夢うつつの中、頬に柔らかい何かが触れたように感じた。

 そして、自分の手が彩香の体に触れたようにも思えた。

 突然、部屋の電話が鳴った。

「分かったわ。三〇分後に行くからここには来ないでね」

 佳織が、()慳貪(けんどん)に返している声に目覚めた。

「二次会に行くのか」

「ここに来ると言うから、私から行くことにしたわ」

「自分はもう限界だから帰るよ」

「じゃあ、待っていて。ハイヤーを呼ぶわ」

 車に乗り込むと、自分の服から(かす)かに漂う(かぐわ)しい香りに気付いた。

(彩香を抱きしめていた気がする。温かみのある感触だったが、夢だったのだろうか)

 星法会から手紙が届いた。

 一〇月第一日曜日からの答案練習会日程と準室員の入会金の連絡であった。

 一〇月七日、午前一〇時からの答案練習会に、準室員を含めた一〇〇名を超える者が集まっていた。

 憲法の第一問は、「法律が国会で可決されたがその法律は違憲の疑いが強く、国民の権利を大幅に奪うものだと考えた天皇は、その法律を公布しない場合の憲法上の問題点を指摘せよ」という問であった。

 論点は、天皇が国会で可決した法律を公布しないという行為が許されるか、天皇の公布しない法律が国民を拘束するかの二つだと判断して、難なくこなすことができた。

 第二問の「営業の自由について、判例を素材として検討せよ」という問は、前年一一月最高裁大法廷で、小売商業調整特別措置法三条一項を巡って出された判決を知っていなければならないものだが、彩香の資料提供が役立った。

 昭和三〇年一月の最高裁判決の公衆浴場法二条二項の問題と絡めながら、一気に書き上げた。 

 午後、二時間に亘る出題者の講評があった。

 一問が三〇点満点だから、二問で五〇点以上は間違いないと確信し、会場を後にした。

 翌日の午後、遼太は馬酔木の定席(じょうせき)に腰をおろし、いつもどおり鞄から専門書を取り出した。

 

 

 喫茶店での学習は、癒しの効果がある。

「お待たせしました」

 彩香の明るい声が聞こえた。

「お預かりしていた物、遅くなってごめんなさい」

「ありがとう。いい匂いがするね。気持ち良く寝ることができそうだよ」

 丁寧なアイロン掛けが見て取れた。

「で、どうだったの、答練?」

「以前もらった資料のお蔭で、論点は外さずに出来たよ。何とかやっていけそうだ」

「資料が役に立てたようで、良かったわ。これは、最新の資料よ」

 配慮が行き届く彩香の支えに意を強くした。

 彩香の気持ちに応えるために、自宅学習の時間を一日一〇時間確保すると決めた。

 その日は、午後五時から机に向かった。

 気が付くと、翌日の午前一〇時になっていた。

 トイレ休憩もなく、一七時間ぶっ通しで学習したのは初めてのことだった。

 そんな無茶を繰り返すうち、矯正視力がわずか一か月で一・二から〇・八まで落ち、変えたばかりのメガネの度数が合わなくなった。

 

 二回目の答練の刑法総論は、緊急行為と中止犯に関する問であった。

 前者は、昭和四〇年の司法試験の問題に類似しており、後者は、昭和一一年と三九年に司法試験に出題された問題だった。

 基本書の欄外に過去問を記す安藤の教えは、的を射たものだと覚った。

 講評後、前回の答案が返却された。

 一問目は二九点、二問目は二八・五点で、最高点であった。

 有頂天になって、水道橋駅から彩香に電話をかけ、原宿駅で彩香を出迎えた。

 

 

 かつて荒川と散歩した時の思い出の地である明治神宮へ、どうしても彩香を連れて行きたいと思っていたのだ。

 鳥居をくぐると、目の前を楽しそうに手を繋いで歩くカップルの姿が目に入った。

 彩香は、遼太の左隣で手を後ろに回し、小石を蹴飛ばした。

 今だ! 

 バッグを右手に持ち替え、さりげなく彩香の肩に手を回そうとした。

 タイミングが合わない。

 寄り添うカップルの姿から目をそらし、芝生に腰を降ろした。

 

 

「今日の出来は、どうだったの?」

「自分としては、最高の出来だったよ」

「素晴らしいわね! 私、信じていたわよ」

 素直に喜びを表わす彩香の肩を、抱きよせたい衝動にかられるが、彩香への愛情表現は、こうして二人の時間を共有することなんだと、自分に言い聞かせ空を仰ぎ見た。

 紅に染まる空は、己の気持ちを表わしているようだ。

 そして、夕日から愛おしい彩香の眩しさが伝わってくるように思えた。

 

 

 昭和四七年の答案練習会は、一二月二四日が最後の日であった。

 休まず一二回参加して、六〇点満点中五四点を下回る回はなかった。

 現役で突破する自信が深まった。

 野口英世の生家を訪ねた時、自分が納得する理由がない限り、帰省はしないと決意し、以来帰省していない。

 合格の見通しがたった今、家族に会いたい気持ちの高まりを押さえられなくなった。

 年末年始の帰省に心が動く。

 そこで、三つの理由を考えた。

 一つは、現役で司法試験に合格するという覚悟を家族に伝え、背水の陣に追い込む。

 二つは、実家で英気を養い、健康を取り戻す。

 三つは、正月に家族全員の写真を撮りお守りにする。

 取って付けた理由であろうとも、自分が納得すれば良いと思った。

 

 

 

 遼太と別れたその足で、彩香は流水を誘い、水道橋にある星法会の司法研究室を訪ねた。

 モルタル造りの二階建ての研究室は、年期が入っており、長く続く廊下の壁は薄暗く異様な雰囲気があった。

「この建物の中で、死闘が繰り広げられているのね。法曹界を目指す者の執念と気迫が感じられるわ」

 彩香は、身震いしながら流水を見た。

「私も体が凍る思いがするわよ」

 流水は、厳しさの一端を目の当たりにし、彩香と共に奥へと進んだ。

「何かご用ではないですか」

 小脇に本を抱えて、階段を降りてくる学生が不審げに問うた。

「山城さん、おいでますか?」

 彩香は、恐縮気に訊いた。

「どうしたの。二人そろって」

 学生から伝え聞いた山城が、右手を挙げて近寄ってきた。

 血色の良い山城は、たくましく見えた。

「昨日の結果が、分かっていたら教えていただけないかと思って・・・・・・」

 彩香は、遼太の入室試験の結果を尋ねた。

「林田君は、昨日受験していないよ。どうして受けなかったのか君も知らないの?」

 驚くような山城の問に、彩香は、不安がよぎった。

「彼の論文は、三番だったよ。凄いよ。研究室出身の弁護士や検事、判事、修習生たちが試験官をしてくれているけど、彼の答案を見てみんな誉めていたよ。だから昨日、林田君が来なかったことは残念だよ。一体どうしたのだろうね」

 山城は、心配そうな表情を浮かべた。

「私も知らないの。でも、それだけいい論文を書いているなら、正室員として認められないかしら」

 彩香は、懇願した。

「棄権した以上、だめだよ。だけど、準室員として毎週日曜日の答案練習会に通うことはできるから、林田君には、はがきで答案練習の日程を知らせるよ」

「受けなかったのは、恐らく体調が悪かったからよ。顔色が悪かったもの。遼太さんが、だめだった、としか言わなかったのは、心配させたくないと思ったからよ。でもね、私、遼太さんが正室員にならなくて良かったと思っているの」

 研究室を後にして、彩香は安心したかのように流水に率直な気持ちを伝えた。

「私も同じことを思っていたの。あの研究室の重苦しい雰囲気だと、遼太さん益々、のめり込んで、体を壊してしまいそうな気がするのよ」

「そうなの。だから結果的には、良かったのよ。今日のことは、遼太さんには秘密にしましょうね」

 彩香は、悲壮な決意で取り組む遼太の姿を思い浮かべていた。

「もちろんだわ」

「今日は、遼太さんに栄養をつけて元気になってもらいたいと思うの。すき焼きはどうかしら?」

「大賛成よ」

 遼太は、階段を上ってくる聞き覚えのある声に気付いた。

 咄嗟に、万年床の布団を二つ折りに丸めて押し入れに入れた。

「こんにちは」

 二人を迎え入れると、丸めた布団が開き戸から勢いよく落ち、綿(わた)(ぼこり)がたった。

 布団を収納し直して、座布団を取り出した。

「遼太さん、そんなに気を遣わなくてもいいわよ。私がやるわ」

「お客さんにさせるわけにはいかないよ」

「折角こうして私たちが訪ねてきているのよ。そんなこと言っちゃだめよ。彩香さんにさせてあげなさいよ」

「時々は空気の入れ替えもいいのよ。さわやかな気分になるわよ」

 彩香は、窓を開け放ち、空気を入れ替え、流水と共に、部屋の掃除を始めた。

 遼太は、お湯を沸かし急須に注いだ。

「遼太さんの入れるお茶、美味しいわ。今日はね、この前御馳走になったでしょう。 だから流水さんを誘ってお返しに来たの。腕によりをかけて御馳走するわね」

 座卓の上のすき焼き鍋からいい匂いが漂ってきた。

「乾杯しない」

 流水は、ワインを取り出してグラスに注いだ。

「遼太さん、飲んでもいいの?」

 心配そうに彩香は訊ねた。

「大丈夫だよ。ワインは身体にいいから、嬉しいよ」

「遼太さんの健康を祈って、乾杯!」

 彩香の発声で、遼太はすべてが見通されていると覚った。

 

 

「そして、私たちのいつまでも続く友情のために、乾杯!」

 すかさず流水は続けた。

 すきっ腹に入るアルコールは、酔いの回りが早く顔が紅潮した。

「このすき焼き、最高に美味しいよ」

「どんどん食べてね。お肉は十分にあるわよ」

 満足そうに頬張る遼太に、彩香は促した。

 

 

 和やかな時間は、過ぎるのが早い。

「遼太さん、これ近くの漢方薬局にあったハブ茶だけど、体にいいのよ。酔い冷ましにみんなで飲みましょう。残りは毎日、煎じて飲んでくださいね」

 彩香は、大量に入ったハブ茶の袋を渡した。

「布団もたまには干してね」

「干しても、この部屋には陽が差し込まないから無意味だよ」

「風が少し当たるだけでも違うのよ」

 南向きの窓を開けると、手を伸ばせば届きそうな真新しい五階建てのビルが建ち、陽は完全に遮断されている。

 西の窓を開けると、老朽化した二階建て木造長屋のプライベートの世界が丸見えで、遮光カーテンでの遮断を余儀なくされている。

 南と西の窓に、布団を干すことはできないのだ。

 彩香を安心させるため、遼太は首を縦に振った。

「これ、洗ってきます」

 帰り支度を始めた彩香は、布団カバー、シーツ、枕カバーをビニール袋に入れた。

「自分で洗うよ」

「だめよ。預かります」

 遼太は、彩香の思いやりが嬉しかった。

 

 

 九月に入り、前年度断念した司法研究室の試験に遼太は万全の態勢で臨んだ。

 試験は、必須の憲法と刑法又は民法の選択となっていて、遼太は得意の刑法を選択した。

 憲法の第一課題は、幸福追求の権利、第二課題は財政に関する憲法上の原則であった。

 二つの基礎基本問題を難なくこなすと、緊張感がほぐれ、心に余裕ができた。

 続く刑法の「可罰的違法性」の問題と「共同共謀正犯」の二つの課題についても、専門書や大学の講義で興味を持って学習を深めていたため、実力が発揮できた。

 一週間後、大学の掲示板に合格発表があった。

「さすがね。合格パーティを開きましょう。流水さんと丸山さんにも連絡するわね」

 三八名の合格者の中に、遼太の名前を目ざとく見つけた彩香は、満面の笑みを湛えた。

「ちょっと待って。次の週に口述試験があるから、それに合格してからにしてもらえないかな」

「いいわよ。楽しみね」

 彩香は、あっさり引き下がった。

 翌日、遼太のアパートに手土産をさげて彩香が、顔を覗かせた。

「私に何かお手伝いできないかと思って、やって来たわ」

 思いがけない訪問であった。

「それじゃあ、この演習問題から質問を頼むよ」

 本棚から口述試験のための演習問題集を取り出した。

「いくわよ。甲は乙から絵画を買い受け、乙がこれを丙に甲の住所に運ばせる途中、丙はこれを毀損(きそん)してしまった。甲はどのような請求ができますか」

 裁判官の法衣にも似た黒っぽい服装の彩香は、真剣な眼差しで質問する。

「だめよ。私を試験官と思ってくださいね」

「はい。甲は乙に対して損害賠償の請求ができます」

「乙ですか。乙は何もしていないのですよ」

 本を膝に置いたまま、彩香は不審そうな素振りを見せた。

「乙は、安全に絵画を運ぶべき債務を果たさなかったことにより、債務不履行責任が生じます」

「丙に対しては、どうですか」

 試験官になりきって、彩香は突っ込んだ質問を続ける。

 民法を終えると刑法、そして憲法と休みなく続け、気付くと三時間が経過していた。

「八〇点は固いわね」

 彩香は、安心したかのように話した。

「遅くなったから帰るわね」

「あり合わせだけど、夕食を一緒にしよう」


 遼太は、帰ろうとする彩香を引き留めて、折りたたみの卓袱台(ちゃぶだい)を用意し、残り物の御飯と何度も沸かした味噌汁、味がしみ込んだ煮物を皿に盛った。

「おいしいわ」

 彩香は、食事を満足そうに口に運び遼太がお代わりを勧めるとそれに応じた。

「不思議な縁ね。私たち」

 彩香は、出涸(でが)らしの茶を口にしながら、二人の出会いに触れた。

 遼太も当時をしみじみと振り返り、感慨に耽った。

「食事美味しかったわ。今度は私が御馳走する番ね」

 彩香は、腕時計に目をやった。

「もうおいとましなきゃ」

「そうか。今日はありがとう」

 遼太は、このまま二人の時間が、続いて欲しいと願う気持ちを押し殺した。

「苦言を呈するようだけど、お部屋の掃除もたまにはしなくちゃね。今度、掃除に伺うわね」

 爽やかな笑顔を残して、彩香はアパートをあとにした。

 次の日から、遼太は、自宅学習をさらに一時間増やして励んだ。

 口述試験の前夜、遼太は急に倦怠感に襲われた。

 翌朝七時に目覚めたが、頭の芯が(うず)き、心臓の激しい鼓動と気だるさで、起き上ることができない。

(二年前と同じ悲哀を、また味わうのか)

 朦朧(もうろう)とした意識の中で、遼太は再び眠りについた。

 再度目覚めた時には、正午を回っていた。

 口述試験までは、二時間ある。

 準備を整え、表通りに出たが、体がふらつき、胃液までもが込み上げてくる。

 断腸の思いで、試験会場に向かう足を病院に向け、辿り着いた病院の窓口で受診を求めた。

「急患以外日曜日は受け付けていません」

 事務担当の冷たい返事に、為す術もなく待合室の長椅子に伏せた。

 青ざめた表情で横になる遼太に気付いた看護師の配慮で、受診が認められ診察が行われた。

 

「免疫機能が落ちていますので、炎症が起こりやすい体になっています。風邪のウィルスも悪さをしていますから、点滴をしておきましょう」

 当直医の適切な処置によって、翌朝には体調が元に戻っていた。

(肝心な時、いつも不幸に見舞われるのは、神に試されているのか。今は甘受して受け入れるが、必ず乗り越えてやる)

 遼太は、もやもやした気持ちを切り替えようと散歩に出かけた。

 日頃見慣れた景色も、改めて見ることで違った趣があることに気付き、自分の気持ちに余裕がなければ、見えるはずのものも見えないと覚った。

(彩香のことをもっと真剣に考える必要があるのかもしれないな)

 四時限開始ぎりぎりに、三号館の講義室に入ると、中央の前から二列目の席に、髪を外巻きにカールし、淡いグレーの服を着た彩香の後ろ姿が見えた。

 気付かれないようにと、最後尾の席で小六法をめくった。

 顔を上げた瞬間、振り返った彩香と顔があった。

 彩香は、授業が終わるのを待っていたかのように駆け寄ってきた。

「入室試験どうだった? 日曜日の晩、家に着いたころを見計らって、お電話したのよ。大家さんが留守だと言っていたので、心配だったわ。今朝から探していたのよ」

「ごめん、ダメだった」

「そうだったの。分かったわ」

 彩香は問いただすことはしなかった。

 

 

 

 

 六月一日、法務省の掲示板前には、多くの人が群がっていた。

 彩香は、遼太が手にする受験票を確認し、必死で八二五番を探した。

 遼太は、他の受験生が必死で番号を探すのを横目で見ながら、ゆったりとした足取りで彩香を追った。

 首をうなだれ、寂しそうに去る幾人もの後ろ姿に悲哀を感じながらも、その姿は他人事のように捉えていた。

 

 

 彩香は、再度、最初から番号の見落としがないか、確かめようとしている。

「帰ろう」

「来年があるわ」

 明るく振る舞う彩香に、遼太はさばさばとした表情を見せ、両手を広げ、体を大きく反らした。

「銀座へ出てみようか」

「銀座を散歩するの、素敵ね」

 二人は日比谷公園を突っ切り、晴海通りから四丁目の教文館ビル前に来た。

「これから、一杯やろうか」

「えっ! 本当? 嬉しいわ」

 彩香の弾む声は、青空に響いた。

 遼太は、道路を隔てた裏通りに足を進め、土佐料理専門店の暖簾をくぐった。

 従業員の案内で二階に上がった二人は、大広間を衝立で区切った隅の席に腰をおろした。

 外はまだ日が高く、客はまばらであった。

「まずは、土佐の地酒とカツオのたたきを注文するね」

「カツオのたたき、良いわね」

 彩香は、メニューに目を通しながら、土佐料理に関心を示した。

「どうぞ」

 程なくして、運ばれてきた徳利の首をつかみ、酌をする彩香にほんのりとした色気を感じながら、二人きりで酒を酌み交わす時間は、至高のひと時であった。

 こうした日常生活が訪れる日のことを想像して、飲む酒はひときわ味わい深い。

「このカツオのたたき美味しいわね。高知ではこんな新鮮な美味しいもの毎日食べているの?」

「実家に帰ると食卓にはでるけど、毎日は食べていないよ」

「そうよね。毎日だったら飽きるわよね」

 

 

 彩香は、酌をしながら高知の話をして欲しいとせがんだ。

「土佐の人間は、この店の名前と同じ『異骨相(いごっそう)』なんだ」

 酔いに任せ、土佐人気質を語り始めた。

「私、お店の看板を見て異骨相ってなんだろうと疑問に思っていたところなの」

「頑固で気骨のある男のことだよ。豪快で、反骨精神があるから、喧嘩にもなる。自分の主義や信念を貫くために、権力を持つ者にも歯向かうし、気乗りしないことは行動に移さない。自説が間違っていると分かっても考えを改めずに、反論の機会を探るということもある。自分が考えると同じように、相手も考えて行動しないと気が済まないところは、思いやりや繊細さに欠ける面かな。些末(さまつ)なことを気にしないで、物事を大きく捉えるところは、人間の度量が広くて常識に囚われないと言えるかもしれないけど、虚栄心があって自分を実際よりもよく見せようとする、そんなところがある」

 自分のこれまでを回想しながら話を進めた。

「土佐の男の人って、みんなそうなの」

 彩香は(いぶか)しげに訊いた。

「自分もそうだけど、実家の祖父は、相当な異骨相だよ」

 公職選挙法に違反した茂の話に移った。

「警察で一週間取り調べを受けた後、皇太子の結婚によって大赦で解放されたけど、県の発展には現職知事をおいて外にないと信じて、積極的に知事選の選挙運動をしていたことを覚えているよ」

 遼太は、幼いころの記憶をたどりながら話した。

「警察署長を前に、『あなたの名前が山田茂さんで、元総理が吉田茂、検挙された私が林田茂とは、一字違いで偉い違うもんよのう』と祖父が言うと、その言葉に山田署長が打ち解けて、個人的に大層仲良くなったと言っていた。選挙の裏金がどういう経路を辿ったかということについて、一緒に連行された者は、すべてを話したようだけど、決して口を割らなかったというから相当な異骨相だと思う。そういう頑固さにも敬服している。祖父は、山田署長が笑いながら『林田さん、あなたの異骨相には兜を脱ぎます』と言われたと話していたよ」

「私、異骨相に関心が惹かれるわ」

「そう言って肯定する人は、多くはいないと思うよ」

「そうなの? 人間的で、好ましいと思うわよ」

 遼太は、自分が誉められているようで、気をよくした。

「遼太さん、このお酒本当に美味しいわね」 

 彩香は、勧められるままに猪口(ちょこ)に口をつけ杯を空けた。 

「遼太さんもどうぞ」

「高知では、相手に杯を差し出して敬意を表すという献盃をするのが一般的なんだ。してもいいかな」

「ええ、嬉しいわ」

 彩香が酌をする酒を飲み干して、その杯を彩香に手渡した。

 彩香は、遼太の飲み干した猪口の口をくわえると、一滴も無駄にすることなく飲み終え、その唇がついた猪口の周りを手で拭って返盃した。

 その猪口からは、ほのかに甘い酒の味がする。

「こんなに飲むの、初めて」

 注がれるまま盃に口をつける彩香の頬は、ほんのり赤みを帯び、そこはかとない色気が漂う。

 そんな愛嬌のある彩香を抱きしめたい衝動に駆られるのだが、気持ちをかみ殺し酌を続けた。

 会話は途切れることなかった。

 冗談が飛び交い、笑いが絶えない時間が流れた。

(今までに、こんな語らいがあっただろうか。もっと配慮して接すればよかったな)

 自分を責めるような気持ちで、彩香を見つめた。

「今だけ、あやっちて呼んでいいかな」

「いいわよ。遠慮しないで」

「あやっち、本当に可愛いね」

 彩香の表情が、輝きを見せた。

「どうもありがとう」

 さらりと受け流す返事の中に、はにかんだ様子が見える。

「君を一度、高知へ案内したいな」

「えっ! 本当なの。嬉しいわ。私、遼太さんの郷里(おくに)へ、前から一度是非行ってみたいと思っていたの」

 喜びを全身に表した。

「でも、本当?」

「本当さ。必ず連れて行くよ。今年の夏はだめだけど、来年か、卒業した年に、きっと連れて行くよ」

 桂浜や龍河洞、高知城、五台山、四国カルスト、室戸岬、足摺岬など、初めて見る景色に絶叫する彩香の姿を思い浮かべた。

 運転席の隣に彩香がいて、ロマンチックな夜を迎える。

 その夜景を眺める二人を想像すると思わず、顔が火照った。

「来年の夏だとすると、司法試験の方はいいの?」

「大丈夫。来年は合格してみせるよ。短答式に合格すれば、月一日から五日間で論文式が終わる。そうすれば、九月の口述試験まで多少余裕があるから行けるよ」

 心配そうに訊ねる彩香に、自信を示して言い切った。

「目に虫が入ったみたい」

 彩花は、目頭にハンカチを当てて涙を(ぬぐ)った。

 いつの間にか大広間は、満席になっていた。

 遼太は、請求額が心配になり、周囲を見渡すふりをして、仕切書に目をやった。

「トイレに行ってくるね」

 財布には、ぎりぎりの金額しかない。

 長居はできないと思った。

「そろそろ出ようか」

 トイレから戻るなり言った。

「ええ、……」

 彩香は頷きながらも、立ち上がる気配はなかった。

 だが、これ以上居るわけにはいかない。

「すっかり、酔ってしまったよ。夜風に当たろうか」

「そうしましょう」

 階段を降りようとする遼太に、彩香はさりげなく一万円札を差し出した。

「大丈夫だよ、バイトの金が入ったから」

 見栄を切った。

「お願い。使って」

 彩香は、懇願するように迫った。

「気持ちは、喜んで戴くよ」

 その金を収めさせ、支払いを済ますと財布には二〇円しか残らなかった。

 店を出て、夜風に当たりながら西銀座方面に向かった。

 途中、街頭に占いの明かりが見えた。

「ねえ、見てもらわない?」

 彩香は、遼太の腕を引っ張った。

「僕はいいよ」

「でも、占ってもらいたいの。お願い」

「じゃあ、君だけ占ってもらったら」

 断る遼太を尻目に、彩香は占い師に近づいた。

「結婚線はどうなっていますか?」

「結婚は、……」

 ほんのり赤ら顔の彩香を見て、占い師が言いかけると、彩香は聞き漏らすまいと神妙な顔付きになった。

「二五歳の夏あたりですね。相手は、自由業で社会的に地位のある方と結ばれそうですね」

「自由業というと、例えば弁護士さんとかお医者さんとかですか」

「そうですね」

 彩香は、さらに詳しく年齢やその人の住んでいる方角、生まれてくる子供は何人かなど、食い入って訊いた。

 遼太は、彩香の大きな関心が結婚であることを察し、その期待に応えるために、試験を突破する、今はそれしかないと思った。

 有楽町駅で彩香を見送った後、至福の時間の余韻を楽しみながら、アパートに向けて歩いた。

 遼太は、数日ぶりに外の空気に触れた。

 気持ちのいい朝を実感し、心が明るくなった。

 急がなくては……。

 早々の遅刻は嫌だからな、そんなことを心の中で呟きながら、足早に駅に向かった。

 地下鉄田原町駅から神田まで、そこから中央線で御茶ノ水といういつもの経路を辿(たど)った。

 駅を出ると大学までは一〇分、その道路沿いに小さな水仙が、黄色い花を咲かせていた。

 そんな様子を垣間見る心の余裕があった。

 

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 学期初めは学生が増える。

 バイトや遊びで、余り授業に参加しない学生たちも手続等でやってくる。

 新入生らしき初々しい姿も見える。

 希望に満ちて楽しそうな会話があちらこちらから聞こえてくる。

 二年前の入学時、心細さを抱えながらも、喜びと夢の実現を求めて輝いていた自分がそこにいたことを思い起こした。

「遼太さーん」

 背後から呼び声が聞こえた。

 振り返ると、手を振りながら駆けてくる彩香の姿が見えた。

 手を挙げて、大きな声で応えた。

 水玉模様のワンピースが風に揺れている。

 彩香に会って、季節が春だということを再認識した。

「お元気でしたか」

 彩香の声は弾んでいた。

「うん。君は」

「私は、風邪ひとつ引かなかったわ。でも、どうしたの。目が真っ赤よ。医務室で見てもらったら」

 彩香は、心配げに遼太を見た。

「そうかな。別に、異常は感じないけど……」

 意に介さなかった。

「いよいよ、試験迫ってきたわね」

「死に物狂いで頑張るよ」

「無理はしないで。それでなくても没頭する方だから心配なの。気軽な気持ちで挑戦して欲しいの」

(気軽な気持ちで挑戦するなどできるわけがない。この試験に成果が出なければ意味はないのだ)

 悲壮な雰囲気を気遣う彩香に、唇を噛み締めたまま、首を軽く縦に振った。

 

 初めて挑戦する司法試験(短答式)の日がやってきた。

 短答式試験は、憲法、民法、刑法の三科目について、九〇問(各科目三〇問ずつ)、三時間で行う。

 会場の三田大学に到着すると、あふれんばかりの人影を目にした。

 かつて荒川と司法試験会場で見た受験者たちの姿を思い起こした。

 彼らのように執念を燃やしている自分が、今ここにいるかと思うと、不思議な気持ちになった。

 二千人を超えると思われる受験生には、一人のGパン姿も見えない。

 人並みの服装に安堵しつつ、会場案内の掲示板で、第一校舎一二三番教室を確かめた。

 教室では、正面に向かって左から四列目、前から四番目の八五二番の座席が確かにある。

(ついに、その時が来た。何としても勝利をこの手に収めてやる)

 彩香のためにも、実現するのだと意気込むと武者震いが起こった。

 入室時間四〇分前、教室前で司法試験用六法を開き、追い込みをしていた時だった。

「やあ!」

 荒川慶介が遼太の肩を叩いた。

 一瞬心が和らいだが、入室の合図で、再び緊迫したムードに包まれた。

「一時四五分までにトイレに行きたい人は行きなさい」

 試験官からの指示に、再度トイレに行ったが、後ろに長い列が出来て、全く用が足せない。

 係員からの説明の後、瞑想して心を落ち着けた。

 チャイムが鳴ると答案用紙に受験地、受験番号、氏名を書き終え、一問一分以内の快調な滑り出しとなった。

 一時間を経過した頃、目の疲れを覚えた。

 涙を手で拭い、瞬きを繰り返しながら取り組んだ。

 さらに一時間を経過すると、思考力が急激に低下し始め、民法の問題で躓いた。

 九〇問を終えた時、制限時間三時間のベルがけたたましく鳴った。

 

 

 遼太は、荒川に誘われ、浜松町から大島行の連絡船の船着き場に出た。

「この向こうが大島だ。連絡船に乗って一度行ったことがある。いいところだよ」

 荒川はぽつりと言った。

 遠くから汽笛を鳴らし、船着き場に向かってくる船が見えた。

「あれが大島からの船だ。友達が小学校の先生になって赴任しているので、彼を訪ねて行ったが、忙しくて東京にはなかなか出られないと言っていたよ」

 荒川は、寂しげに岸壁に着いた船から降りてくる者たちを一人ひとり眺めた。

「誰一人知った人がいないね」

 荒川は、その言葉に反応せず、考えに(ふけ)ったままであった。

「林田、僕は明後日、郷里に帰るよ」

 荒川は海を見つめながら、強張った表情で帰郷を告げた。

「合格発表は見ないのか?」

「どうせだめだから」

「何弱気言ってるんだよ。合格しているかもしれないじゃないか。その時はどうする?」

「その時は、友達に知らせて欲しいと頼んである」

「論文式は、受けに来るんだろう」

「一応は、ね。だが、だめだよ。もう」

 荒川は精根尽き果てたような言い方だった。

 遼太はその言葉が、寂しかった。

(卒業後も、小学校の夜警をしながら一生懸命頑張ってきたじゃないか。あれほど合格するまでやると言っていたのに。頑張り屋の荒川が途中であきらめるとは、なぜなんだ)

 遼太は、その疑問を荒川に問い詰めることができなかった。

「林田、人には能力というものがある。そして資質というものもある。人は努力をすれば、確かに能力は伸びる。『努力は天才に勝つ』といわれるとおり努力は必要だ。だが、その能力には限界がある。限界を感じたんだ。それと資質だが、俺には残念ながら政治家の資質もない。自分のことは自分が一番良く分かる。能力も資質もない人間が、果たしていくら頑張ったところで、どうなる。何も実らないよ。だから帰郷して、自分の新しい道を進もうと思う。かと言って、お前は俺と同じ道を歩むな。林田ならできる。能力も資質も十分に備わっている。それは俺が保証する。だから決して逃げることなく、突進して欲しい。俺の夢のためにも、頼むよ」

 後ろ向きの姿が不似合いな頑張り屋が、漏らした言葉とは思えなかった。

 荒川は、言葉を続けた。

「この試験は、五百人に一人の合格という日本で最難関の苛酷な試験だ。合格した者だけが、陽の目を見る。そうでない者は、世に出ることもなく、社会から葬り去られる。だから俺のような凡人は、早い時期に見切りをつけなければ、身の破滅になる。幸いにも、別の生き方をしようという気になった。自分の能力の限界がそれを知らせてくれた」

 荒川の語る言葉が胸を衝き、反駁(はんばく)する気にはなれなかった。

 寂しげな姿に、深い憂いを感じ、居たたまれない気持ちになった。

「送別会をしよう。試験の打ち上げを兼ねてやろう。御馳走するよ」

 アメヤ横丁で買い物があるという荒川を誘い、上野駅前の居酒屋に入った。

 大広間を区切った二階の一角に陣取り、銚子二本と焼き鳥四人前を注文した。 

「司法試験は断念するが、教職をとっていたので、田舎でのんびり教師でもして暮らすよ」

 かつてのにこやかで、意気揚々としていた荒川の姿はどこにもない。

「いいか、決して諦めるな。お前ならできるから」

荒川は、遼太の手をがっしり握った。

「本当に、それでいいのか」

「俺には、俺の生き方がある。それをやろうと思っているから悔いはない。今までやったことは、無駄にはしないさ。お互いに頑張ろうぜ」

「分かった。じゃあ、もう少し飲んでいこう」

 追加注文の手を挙げようとすると、荒川はその手を(おさ)えた。

「明日の朝帰省する。今日は、準備があるのでこれで失礼するよ」

 寂しそうな後姿を残して、荒川は店を出た。

 送別に一五〇〇円しか支出できなかった不甲斐無さとやるせなさで心が痛んだ。

 

 アパートに戻ると、忘れないうちに自己採点を始めた。

「甲男は乙女と婚姻したが、乙女は前夫丙との間、未成年の子丁がいる。この場合の正解をあげよ」という問いは、「甲が丁を養子とするには、乙及び丙の承諾を必要とする」という誤答を選択していた。

 丁が一五歳未満なら法定代理人が代諾する(七九七条)ため、乙丙いずれか親権者の承諾(八一九条一、二項)で足りる。一五歳以上であれば単独でなしうるのだ。

刑法の詐欺罪の該当については、「債権者が盲目であることをいいことに債務を免れる目的で、公害企業移転促進のための署名と称して、債務免除の証書に署名させた」という誤答を選んでいた。

 詐欺罪の成立には、欺罔―錯誤―財産的処分行為―財物又は財産上の利益の取得といった構成要件が、主観的には故意によって包括され、客観的には因果的連鎖に立つことが必要なのだが、誤答には錯誤に基づく財産上の処分行為がないのだ。

 そうしたミスに気付く度、地団太踏んだ。

 問題を思い起こしてチェックすると、誤答が一二問あったことが確認できた。

 九〇問中八〇問の正答が合格ラインだ。

 この時点で不合格を覚悟したが、不思議と挫折感はなく戦いに挑む意欲に燃えた。

 

 翌日、遼太はキャンパスを思い思いに行き交う学生を眺めていた。

(この中で何人が必死になって受験し、何人が今同じ境遇にいるのだろうか)

「遼太さん、試験どうでした?」

 彩香は中庭にいる遼太に近づき問いかけた。

「馬酔木でゆっくり話そう」

 窓際のいつもの席に着くと、彩香は、促すように試験の様子を尋ねた。 

「話を聴いただけでも、その会場の雰囲気が伝わってきます。三時間にも亘る試験って、自分自身との闘いですね。忍耐強い努力は、必ず大きな喜びに結び付くと私信じています」

 今回は、期待に応えることができない、そのことを考えると遼太は心苦しさが募った。

「遼太さんはとても無理をしてしまうことが多いので、身体が心配です。くれぐれも留意してくださいね」

 彩香は、ぶどうの件以降、健康を心配する言葉が増えた。

 命がけの覚悟で臨んでいることが分ると、彩香の心配を増幅させることになる。それだけは、口にすまいと遼太は黙って頷いた。

 

 その日、彩香の心配をよそに、一日八時間以上、一か月二五〇時間の自宅学習を目標に置き、日常生活もすべて翌年の試験に照準を合わせた。

 銭湯は、三八円から五五円に値上がりしたため、これまでの一週間に一度から一〇日に一回とし、買い出しはその帰りに、まとめ買いをする。

 洗濯は、銭湯でその日まで身に付けていた下着をタオル代わりにして使い、ワイシャツは一か月、同じものを身に付ける。ズボンは一年間洗わない。ひげは、剃らない。

 部屋の掃除は月一回、布団はそのときにあげる。

 勉強に没頭すると、必然的にそうした生活になっていた。

 身なりには頓着しないが、彩香が心配する三度の食事は欠かさない。

 風呂の帰り、顔見知りの八百屋に立ち寄ると、段ボールに入った処分品を見つけた。

「これ、いくらですか?」 

「半端ものだから御代はいらないよ」

 威勢のいい女将(おかみ)が、段ボール箱に詰まった野菜を気前よく提供してくれた。

 半端ものでも、食べられるものばかりだ。

 中には新鮮な売り物のトマト、キュウリ、レタス、人参、大根なども混じっている。

「学生さん、応援しているわよ。頑張って」

 女将は、店の前を通る遼太を見つけると、良く声をかけて安価で野菜をわけてくれる。

 気持ち良い対応の女将に励まされる度、元気をもらう。

 

 

 自炊は、簡便な料理法に徹した。

 ジャガイモの皮をむき煮付け、それに他の野菜を加え味付けする。

 次の日には、それがシチューとなったり、カレーになったりする。

 豚汁になることも、おでんにもなることもある。

 一度に大鍋一杯に煮込んだものを、一週間かけて食べる。

 料理時間の短縮には、野菜を補充し、毎日沸かすだけで足りる。

 そうした日常であった。