後期の授業が開始された日、キャンパスで彩香が手を振って近付いてきた。

「お久しぶりね。元気そうで良かったわ」

「君こそ元気そうだね」

「そうなの。生禅寺で御老師様にお会いできたから、元気溌剌よ」

 

 

 彩香は、上京できなくなった話題には触れなかったが、生禅寺での出来事や登山の話を、楽しそうに語った。

「私の話ばかりでごめんなさい。遼太さんは、法律事務所での実務経験どうでした?」

「凄く勉強になった。遣り甲斐も感じたし、意欲も燃えたよ」

 遼太も饒舌になった。

「夏休みのバイトが終わったから、少し休んで適当なバイトを探そうと思っている」

「私、心当たりがあるの。少し待っていただける?」

 数日後、彩香は遼太を馬酔木に誘い、中高生相手の家庭教師のバイトを紹介した。

「目白台にある安達さんと田所さんというお隣同士のお家なの。遼太さんに相談もしないで、火曜と金曜の週二回、四時から六時まで安達さん、七時から九時までが田所さんということで話を進めているのだけど、いいかしら。勿論、気に入らなければ断ってもらってもいいの」

「断るなんてとんでもない。ありがとう」

「じゃあ、私の方で先方に連絡しておくわね」

 彩香は、何を相談しても遼太の希望に応えてくれる不思議な女性だと思った。

 遼太が、司法試験に話題を変えた時だった。

「遼太さん、私、あなたを見ていると、時々ふと心配になったり、不安になったりすることがあるの……」

 彩香は、重々しい言葉の後、深刻な顔に変わった。

「遼太さんを見ていると、いつも悲壮な覚悟が窺えます。決してそれが悪いという訳ではありません。むしろ素晴らしいことだと思っています。でも……」

 彩香は、言いかけて一瞬口を(つぐ)んだ。

 その後、意を決したように言葉を続けた。

「私、自分の目標に向かって一歩一歩歩んでいる姿、努力する姿、大変尊いと思います。遼太さんは、思ったことをすぐ実行に移すタイプですよね。自分の信念を貫き通す姿や一途な努力は、心から尊敬もし、お慕いもしています。私なんか、人一倍のんびりしていますから、うらやましくなります。それは、私が理想とする姿でもあります。でも……」

 神妙な彩香の顔から、何を語ろうとしているのか、遼太は固唾を飲んで、後に続く言葉を待った。

「でも……」

 再び、その言葉が発せられた。

(この重苦しい空気は何だろう。今まで、こうした圧迫感を感じたことはない)

「遼太さんを見ていると、ある時はどうしてそんなに急ぐのかな、せっかちすぎるのではないのかな。また、いろいろ気が付くし……。性格なのかな、疲れないのかな、などと心配してしまいます。もう少しのんびりとした心の余裕を願っています」

 大人しくて、いつも遼太の話には真剣に耳を傾け、感動した様子で笑顔を見せるいつもの彩香とは違う。

 ひと言ひと言を噛みしめるように話す彩香の姿に初めて触れた。

「失礼なことを言ったと思います。でも、身体あっての試験ですから、何よりも健康に留意して欲しいのです」

(彩香には、悲壮感が漂う姿にしか映っていないのだろうか。満たされない寂しさが、そう言わせているのか。愛おしい彩香のために頑張っている気持ちは、通じてないのだろうか)

 遼太は、強烈なパンチに戸惑った。

 

 この年、司法研究室の入室試験は受けなかった。

 徳田弁護士が、便宜を図ると言ってくれたが、自分の力で合格しなければ意味はないと思ったのだ。

 入室すれば、厳しい日課に追われ、今の自分のペースが崩れるとも思ったからだ。

「入室試験どうだったの?」

 彩香は、大学の図書館に向かう遼太を見付けて声をかけた。

「その方が良かったかもしれないわ。一人で勉強したって、合格する人はするわ」

 意外なほど、あっさりした彩香の励ましであった。

 家庭教師のバイトを続けながら、生協や古本屋で手に入れた司法試験に定評のある書籍を、陽の光が差し込まない部屋で、月一五〇時間程読み込んだ。

 序説から最後のページまで六法全書とコンメンタールを参照しながら読み進め、(つまづ)くと、再び最初に返るという精読学習を二年間続けたことで、基本書はすっかりマスターし、読むスピードも格段に速くなっていた。

 三月末には、短答式科目の憲法、民法、刑法の三科目の他、論文式を見据えて商法、民事訴訟法、労働法、社会政策の四科目にも目を通すことができた。

四月に入ると、午後七時から午前三時までの八時間学習をノルマに課し、短答式当日までに憲法七〇時間、民法一七〇時間、刑法八〇時間、判例一〇時間、条文二〇時間という数値目標を設定して、机に向かった。

 気が張りつめた時間、遼太はふと心の安らぎを誰かに求めている自分に気付いた。

(何で俺はこんなに一生懸命にやっているのだろうか)

 分かっているはずの答えを、呟く日々が増えた。

 新学期を迎え、定期健康診断を終えたが、遼太は疲れを覚えていた。

(俺にとって必要なのは、短答式試験までの学習時間だ)

 そう言い聞かせて、雑念を払いひたすら机にかじりついた。

 

 

 

「林田君、お茶に行くか」 

 藤山と徳田が高木を伴い、裁判所に出かけた後、安藤は、向かいビル一階の茶廊という喫茶に遼太を案内した。

 店内は、広々として落ち着いた雰囲気で、デパートでの買い物を終えたと思われる婦人客が目についた。

 遼太は、ソファーに深く腰かけると、不思議とリラックスできた。

「勉強は進んでいるかね?」

 安藤は、にこやかな表情を向けた。

「少しずつ進んでいます」

「そうか。君は実にいい顔相をしているね。骨相学からすると、目の高さより下に耳があるのは、将来の成功を表しているのだよ。目も輝いているし、君は数年以内に合格するはずだ」

 骨相学うらないをして、安藤が激励してくれるのを遼太は嬉しく思ったが、安藤の耳は、遼太の耳よりさらに低い位置にあり、しかも見事な福耳である。

 大黒天の耳たぶに似て、とても大きくて厚い。

 これが成功相に違いないと、腑に落ちた。

「大先生は、どうして弁護士になられたのですか?」

「子供のころから弁護士になりたいと思っていたが、前に話したような事情でそれが適わなかった。ご老師との出会いが転機となって、二三歳で明和大学専門部に入学し、卒業の大正一五年に行政科、司法科の試験に挑戦した。結果は振るわなかったので、昭和二年度の試験にすべてをかける決意をして、友人たちに一年間の絶交を宣言した。勤めの傍ら毎月一〇〇時間必死で勉強した。それだけでは、満足できなかったから、受験の三か月前だったが、思い切って会社に辞職を申し出た。自分の生涯の運命を決める三か月で、絶対間違いなく合格する方法を考えたよ。その頃、明治二九年以降の各大学、専門学校、高等文官、判検事登用、弁護士試験、外交科、司法科、行政科の試験で出題された問題を、悉く網羅した問題集があったので、これだと思った。この問題集の全問題が一問残らず答案が書ける自信がついたら必ず合格すると考えたから、一問題でも、出来ない問題がないように死に物狂いで勉強した」

 熱がこもった話に、遼太は引き込まれていった。

「勉強場所は、図書館ではなく、深山幽谷を選んだ。飯能から一六キロ奥にある山の頂上にあるお寺で、三か月一千時間を勉強するというノルマを作った。日割りにすると一一時間余りになる。朝四時に起きて、六時に梵鐘を鳴らし、朝食と休憩の時間を除いて午前中六時間、午後は四時間、そして夜間は二時間。一〇時には就寝するという鉄則を敢行した。書物を読むときは、問題と対照、問題を見ながら頁をめくる。そして、全問題の理解に努める。異常な執念をもって勉強を続けた……」

 遼太は、身を乗り出すようにして聴いた。

「そのようにして一千時間のノルマを克服した時、これでよし、と思った。会社にも辞職届を郵送した。はじめの行政科試験の時に、梵鐘を突いて余韻を耳にしながら瞑目した。そして、今回の試験に合格するかどうか、暗示を与え給え、と一心天を念じて、梵鐘に刻んであったお経の文字を指先で押さえたところ、消という文字だった。その意味は分からなかったが、次の司法科試験の時も同じようにやってみた。今度は、願という字を押さえていた。その意味も分からなかった。その後二つの試験に合格したので、その消と願という字は、一体何だったかと考えた。消願、それは願いが消えるという意味になるが、勿論そんな熟語は辞書にもなければ、仏教の経典にもない。はっと気が付いたよ。それは御願成就の意味ではなかったかと。受験前のこのような不思議な暗示は、ご老師の導きだったような気がする」

 驚きの展開に、思わず固唾を呑んだ。

「二つの試験に合格したが、少年時代からの夢だった弁護士の道に進むことに決めた。在野法曹として正義と人道の輝かしい旗を掲げ、正しく弱い者に味方して、社会の不正不義と戦う。まさにそれが、弁護士の使命だと考えて、弁護士になった」

 弱い者に味方し、不正不義と戦う、という安藤の生き方に心が揺さぶられた。

「開業にあたって、一つ、不正不義不徳なる事件提訴はしない。二つ、不正不義不徳なる人物との交遊は避ける。三つ、総ての事件は、社会正義に則って処理する。四つ、大小難易如何なる事件にも全力を尽くす。五つ、正しく弱き者のためには無料で奉仕する、という方針を決めた。そして、手持ちの手帳のとびらには、思考、発言、態度すべて高潔なれと自警の言葉を記して、一切の娯楽勝負事はしない、それが私の生き方になっている」

 安藤の壮絶な生き方は、まさに自分が求める生き方と符合する。

 遼太は敬意を表し、己の信念を貫く決意を固めた。

「ところで、林田君、君は見ていて気持ちがいい。安心できる。そこで、君に家の留守番を頼みたい。お盆の前から、しばらく家族で郷里の九州に旅行することになっているので頼むよ」

「私でよろしかったら、是非留守番をさせてください」

 私宅の留守を任せるという安藤の信頼が嬉しかった。

 

 安藤が、九州に旅立つ日、目黒区青葉台にある安藤の自宅を訪ねた。

 一日中陽の射さない、薄汚れた遼太の部屋とは雲泥の差だ。

 都心で庭付きの一戸建てに住めるのは、クライアントに誠心誠意向き合い、社会的な信用を得た結果、手にしたものに違いない。そう考えると、艱難辛苦に耐え、全力投球で頑張ろうという意欲がわいた。

「ごめんください」

 玄関先で、ブザーの音がした。

 遼太は、目覚めたばかりの寝惚け眼で、玄関を開けた。

 大きな買い物包みを手にした彩香と流水が、大きなスイカをぶら下げた丸山と現れた。

 三人を応接室に招き入れると、遼太は慣れぬ手つきでカルピスを注いで差し出した。

「あら、こんなことしてもらっては……。私たちがやりますのに」

 彩香は、申し訳なさそうに言った。

「林田さんは、ここで丸山さんと坐って居てくださる。暫く流水さんと二人、台所借りるわね」

 彩香と流水は、持参した食材を袋から取り出して、調理場で料理をつくり始めた。

「林田さん、丸山さん、お食事構えましたのでこちらへどうぞ」

 四方山話に盛り上がっていた所に、彩香から声がかかった。

 散らかっていた居間は、片付けられて、テーブルの上に豪勢な手料理が並んでいた。

 

 

「すごい御馳走だね。食欲をそそられるよ」

 丸山は、感嘆の声をあげた。

「お腹壊しても知らないわよ」

 流水はおどけて言った。

「私たち、心を込めて作ったわ。お口にあえば嬉しいけど」

「余りにも見事だから、手を付けるのが勿体ない気がする」

 遼太は色とりどりの美しい料理に感心して、箸を付けるのをためらった。

「美味しい! 林田食べてみろよ」

「本当に美味しいよ」

 遼太は、彩香と流水の目を見て、感じたままの気持ちを伝えた。

「作り甲斐があったわね。彩香さん」

「ええ。美味しいと言って食べていただくと私たちも嬉しいわ」

 丸山は、目の前の料理をあっという間に平らげて、お代わりを求めた。

 追加された新しい料理が、運ばれてきた。

「美味しい料理を食べると、心が浮き立つよ」

「レタスとトマトなら、まだ残っているわよ」

 満足気に食べる丸山に、彩香が促した。

「それじゃ、お願いするかな」

 丸山は、まだ入るというジェスチャーで要求した。

「じゃあ、待ってて、すぐ持ってくるわ」

「松沢さん、僕がやるよ。皆と一緒に座っていてよ」

 遼太は、台所に向かう彩香の後を追いながら伝えた。

「いいわよ。私たちお手伝いに来たの。遼太さんはあちらでお話をしてて」

 流水は、食べ終えた食器の片付けを始めた。

 遼太が、その皿を台所に運ぶのと行き違いに、彩香は丸山にリクエストの料理を提供した。

「遼太さん、このぶどう洗ったの?」

 遼太が台所で見付けて、運んできたぶどうを見て、彩香は怪訝そうに言った。

 

 

「いや、洗ってないけど」

「だめよ。洗わなくては。消毒しているから体に悪いのよ」

 彩香は、台所でぶどうをきれいに洗浄してテーブルに置いた。

「これで大丈夫よ」

「洗わなくちゃいけないのかなあ。こうして食べると皮に触れることもないよ」

 遼太は、両手でぶどうをつまみ出すようにして、中身だけを口に入れた。

「それでもだめですよ。果物や野菜は洗わなければ恐いの。遼太さん、これからは何でも洗って食べてくださいね」

 彩香が、念を押すのは、深い思いやりだと遼太には理解できた。

 食後四人は、大学生活や将来のことについて語り合った。

 遼太は、弁護士になるという決意を述べた。

 丸山は、上級試験に挑戦し、生活基盤が整い次第結婚すると抱負を述べた。

「私は、専門職としてキャリアを積むつもり。勿論、結婚はするわよ。結婚しても、仕事は続けるわ」

 流水も結婚について触れた。

「松沢さんは、どうするの?」

 丸山は、関心を示した。

「私、卒業すれば、遼太さんのようにとても司法試験は無理だけど、何か資格を取りたいと思うわ。できれば司法書士をやってみたいと思っています」

 ためらいがちな返答であった。

「松沢さんは、結婚について関心はないのですか。女性は、年頃になるとそれが一番気になるのでは、と思っていたけど」

 丸山の質問に、彩香はどう応えるのだろうか、遼太はさりげないそぶりで耳を澄ました。

「私も女性として、結婚ということに無神経ということではないのですが、今のところ結婚ということはあまり考えてないです」

 彩香が一瞬戸惑い、言葉を選んで話したことが遼太には分かった。

 流水の顔が曇ったことからもそれは間違いないと確信した。

「折角だから、みんなで記念写真を撮ろう」

 遼太は、庭にセットしていたカメラをオートスイッチに切り替えて、彩香の横に立った。

 流水の水玉のスーツと彩香の黄色いスーツは、季節に調和して映えた。

「そろそろお(いとま)する時間になったわ。林田さん楽しかったわ。ありがとう」

「そうね、バスの時間もあるし」

 名残り惜しそうな彩香の言葉に、流水も同調した。

「いやあ、本当に楽しかったよ。料理もおいしかったし、いろんな話ができて、満足、満足」

 丸山の顔が、笑顔で余計に丸く感じ、別れの寂しさを緩和させた。 

「野菜、必ず洗って食べてくださいね。どうか、体を大切にしてくださいね」

 バスに乗る際、彩香は遼太にそっと告げた。

 バスから手を振る丸山や流水の底抜けの笑顔とは対照的な彩香の笑みに、いつか高木が、「女性が黄色い服装を身に付ける時は欲求不満だ」と言っていたのを、思い出した。

 車窓から何かを言おうとする彩香の姿には、どこか憂いが漂うのだ。

 瞬(またた)く間に過ぎた楽しい時間の後の別れに、不安を抱いたまま遼太は手を振った。

 寂しさが夕焼け空に同化して,切なさと愛しさが心を包んだ。

 

 

 一週間後、安藤一家が旅行から帰って来る日、遼太は庭の掃き掃除や室内の掃除などを丁寧に行ったが、時間はかからなかった。

 彩香や流水が、しっかり済ませてくれていたからだ。

「ご苦労さん。すっかり綺麗に片付いているね。君に頼んで良かったよ。これはお礼だ」

 遼太は、安藤から五万円が入った封筒を受け取り、成就感を得てアパートに帰ると、彩香からの手紙を見付けた。

 

 私は、帰途、生禅寺に帰山しました。二泊三日と短い期間でしたが、感激の数日でした。思いがけなく、夜八時ごろ三階で夏安居の感想文を整理していたところ、御老師様にお会いでき、少しお話しして戴きました。感激と嬉しさで一杯でした。

 丁度三回目の帰山でした。「是非、来年の夏安居にはおいでなさい」とおっしゃって戴きました。できるだけ機会を見つけて生禅寺に帰りたいと思います。

 お話は変わりますが、勉強の方は如何ですか。私は気ばかり焦って集中して、身を入れて勉強に専念できず困っています。そうばかりも言っておられませんので、頑張ろうと思います。

 どうぞ、遼太さんもお身体にお気をつけて。

 必ず、どんなものでも洗って食べてくださいませ!

 感謝の気持ちを込めて、ペンをとりました。

   八月一五日

                                 彩香

 遼太 様

 

 宛名と差出人の表示がこれまでと違う。遼太は、親密な関係を求めようとする彩香の気持ちを推し量った。

 数日後、彩香から、突然電話があった。

「一週間後、上京します。その時お会いしましょう」

彩香の声は弾んでいた。

 これまで彩香は大家に気兼ねして、電話はかけてこなかったが、何か特別な用事でもあるのだろうか。それとも会いたい思いが募ってのことだろうか、勝手な想像を巡らせては、期待が膨らんだ。

 その後、突然、速達が届いた。

 

 毎日、蒸し暑い日々のみちのくです。東京は如何でしょうか。お電話で元気そうなお声が聞けて、ファイトを燃やしているご様子が窺えました。ところで、急に自宅の用でいけなくなってしまいました。遼太さんとお会いして、いろいろお話できることを楽しみにしていたのですが……。申し訳ありません。九月にお会いできることを楽しみにしております。どうぞ健康にはくれぐれも留意して勉強がんばってくださいませ!

 

 一体どうした都合なのか、不安な気持ちが生じ、学習意欲が湧かず数日が経過した。

「林田君、順調に勉強が進んでないと見えるな」

 遼太の心の中を見通したかのような安藤の言葉だった。

「まあ、かけなさい」

 事務所は、皆が出払(ではら)い、安藤と二人だけだった。

 安藤は、ソファーに深くかけて、母一人子一人の貧しかった時代を振り返り、自分の幼少時代から青年時代のことを話し始めた。

 大正三年木浦にわたって郵便局で勤務したことや、大正五年に帰国後福岡歩兵連隊に入隊し、厳しい軍律の中で過酷な訓練を行ったこと、その後、分隊長となってシベリアに出征したことなどについて触れた。

 九州から単身で上京し、代議士の家で書生をしながら、勉強し大学に入学したことも語った。

「君に以前話したが、寺に籠った時、一日の学習量を決めて、その時間に満たなければ、一週間以内に必ずその分を取り返す。時間を超えた分は繰り入れず、目標時間は完全消化する。そんな勉強だったよ」

 安藤の目は輝きを放ち、迫力があった。

「教科書の欄外に、かつての司法試験の問題や、自分がテーマとして設定した問題を書き、問題意識をもって読み進めていくといい。一つぐらい分からないのがあってもいいだろうという甘い考えは決してだめだ。司法試験というのは、理解力、判断力、推理力を必要とする試験だから、常に洞察する力を養わなければならない。そのためには、問題意識を持って、本を読み進めなければ、力はつかない」

 熱の籠った話に、引き込まれた。

「司法試験は、執念の試験だ。執念がなければいつまでたっても合格はしない。試験ばかりではない。裁判だってそうだ。法の正義、これに賭ける執念がなければ、立派な弁護士にはなれない」

 安藤は、優しい眼差しを注ぎつつも、説得力のある話を続けた。

 それから数日後、何気なく立ち寄った本屋で、「一枚の雑誌の口絵 ‐正義は神の如し-」と題した安藤のエッセイが掲載された雑誌を目にした。

「正義は神の如し、裁判所こそ正義の殿堂であらねばならぬ。その裁判所という文字は弁護士にも置き換えることもできる」と述べられていた。

 安藤の「正義は神の如し」という信念を頭の中に焼き付け、金儲けではなく、正義を貫く仕事こそが、弁護士の使命だと心に刻んだ。

 安藤法律事務所で、簡裁、家裁、地裁、高裁、最高裁へと足を運び、書類の閲覧や記録に触れ、公判や口頭弁論が傍聴できたことで、遼太の夢はさらに大きく広がった。

 

 

 

 遼太は、勉強に没頭できる時間を確保するため、本屋でのアルバイトを辞めた。

「林田君」

 背後から、高木が声をかけてきた。

「裁判所からの帰りに、君を訪ねて来たところだ。ちょっと付き合わないか」

 高木は、卒業後銀座の安藤法律事務所に勤めながら、司法試験に挑戦していた。 

「ここだよ」

 銀座四丁目の教文館ビル前で、高木は足を止めた。

「凄いね。銀座のど真ん中にあるなんて」

 エレベータで五階に着くと、安藤信夫法律事務所の文字が目に飛び込んできた。

 

 受験新報のグラビアを飾ったことのある有名な先生と、他に二人の弁護士の名前が分厚いガラス戸に記載されていた。

「大先生は、オーナーとの信頼関係が厚いので、この様な良い場所に事務所を構えることができているんだ。遠慮しないで、どうぞ」

 高木は、戸惑う遼太に促した。

 事務所に入ると、若い女性事務員が柔やかな笑顔で迎えてくれた。

「いつも話している林田君だよ」

「こちらは、事務の斎木さん」

「はじめまして、斎木由紀と申します。高木さんからお話は伺っています。今、先生たちは話し合いをしていますので、ここでしばらくお待ちくださいますか」

「林田です。よろしくお願いします」

 笑顔が素敵な女性に、はにかみながら遼太は対応した。

 パーテーションで区切られた所からは、訴訟に関する打ち合わせの声が聞こえた。

「大先生が主任弁護士だから、それぞれの事務所から先生達が来ているんだよ。ここでちょっと待っていてくれないか」

 高木は、そう言って自分の机に向かった。

 遼太は、待合室にある雑誌を手にしたが、弁護団たちが交わすリアルな刑事事件の内容が漏れ聞こえ、体が震える思いがした。

 暫くすると、胸にひまわりの花をモチーフにしたバッジを付けた五人の弁護士が、遼太の目の前を横切った。

 バッジの真ん中に描かれている天秤は、人権を大切にした「公正と平等」を表しており、「自由と正義」を求め、「公正と平等」を期すという理念のバッチに、遼太は心が惹かれた。

「林田さん、こちらへどうぞお入りください」

 斎木は、手前のソファーに遼太を案内した。

「先生方にご紹介させていただきます。林田遼太君です」

 高木は、三人の弁護士に遼太を紹介した。

「都南大二年の林田遼太です。よろしくお願いします」

 直立不動であった。

「楽にして、おかけなさい」

 奥の席から、にこやかな笑顔で声をかけたのは、安藤信夫であった。

「林田君、大先生だよ。そして、こちらの先生が藤山先生、君の斜め前におられる先生が徳田先生」

 高木は、全員の紹介を終えた。

「君が生禅寺のご老師のお孫さんかね。まあ、おかけなさい。高木君から話を聞いていたので、是非会いたいと思っていたよ」

 安藤は、遼太の前の長椅子に腰をおろすと柔和な目で話しかけた。

 大きな福耳に特徴があり、顔全体に優しさがあふれていた。

(受験新報の写真どおりだ。自分は今、日本初の再審請求で冤罪を晴らした有名な先生の前にいる)

 遼太は、かしこまった。

「祖父をご存知ですか?」

「良く知っているよ。私の家は煙草の製造販売をしていたが、日露戦争後煙草が政府の専売に移ったものだから、その補償金で事業を始めることになった。ところが、それが失敗して破産してしまったものだから、あれは大正三年九月だったか、高等小学校を卒業した翌年、韓国に向けて出発することになった。その船に君のおじいさんが乗っておられて、心細くなっていた私に声をかけてくれたんだよ。その時の力強い言葉を支えにして、木浦郵便局で一年近く働いて、翌年の八月に帰国することになったのだが、乗った船で再びお会いした。本当に不思議なご縁だと思う。ご老師は、中国で厳しい修業をされて法力を会得されておられたから後光が見えた。そのオーラの発する凄まじい力で観法していただいて、自分の将来に明るい光を照射してくださった。信じられない体験をいくつも目の当たりにして以来、先生と仰いでお慕いしている。そうしたご縁が、今日の君との出会いに繋がっているのだから,本当に嬉しいよ」

 慈愛に満ちた安藤の目は、遼太に安堵感を与えた。

「大先生は、そんなご縁をおもちだったのですか?」

 安藤の絶大な信頼を受け、事務所を切り盛りしている藤山が、安藤の隣の席に腰をおろし、興味津々に尋ねた。

 敏腕弁護士として名を馳せる藤山は、現役で司法試験を三番で合格した秀才で、市ヶ谷大学を首席で卒業し、出身大学からの強い要請で民法の授業も担当している。

「そうだよ。だから、私はこれまでご老師の謝恩会は一度も欠かしたことはない」

 安藤は、当然のことだと言わんばかりに応えた。

「高木君からは、ご老師の法力が凄いとは聴いてはいたのですが、大先生は体験されておられたのですね? 感心してしまいました」

 気さくな性格の徳田は、目を丸くして言った。

「生禅寺の御神体を知っているかね? ご老師が若い頃、仏様が夢枕に立って指示された山中から掘り起こされたという白銀大明神だよ。ご実家に安置されていたそれが、いつの間にか消えたそうだ。探しても見つからないからすっかり諦めていた時、再度夢枕に現れて同じ場所から発掘されたという因縁深い仏様だよ。霊験あらたかな仏様だから参拝すると力が湧いてくるよ」

 安藤は、事務所の職員たちを説得するかのように語った。

「ご老師様は、生まれながらそうしたお力をお持ちだったのでしょうね?」

 藤山は、驚きを隠さなかった。

「ご老師は、幼い頃から近くの地蔵堂などに出かけて坐禅を組んだり、仏教の書物を読みあさるなど普通の子供とは違っておられた。インドや中国での厳しい修行で法力を身に付けられておられるので、私は直刀法を受けたことがある」

「直刀法とは、どのようなものなのですか」

 藤山は、率直な質問をした。

「災いを避け、絶対安心の境地に入るため、腹に刀を突き刺して切り裂く法力のことだよ」

 安藤は、ワイシャツをめくりあげて、腹部を指さした。

「傷はないですね。恐くなかったですか」

「直刀法は修業しているお弟子さんが、大伝法の時授けられるものだから、滅多にない機会と思ったので、特別にやってもらった。正直言って恐ろしかったな。ところが、終わった後の成就感というか、清涼感というかそれは言葉にはできないほどの喜びだったよ。その日の夜、風呂に入った時は、ミミズ腫れした傷痕に沁みて痛かったが、その傷もいつの間にか完全に消えていた。本当に不思議な体験だった」

「先生が御元気でいられるのは、そういうお力もあるのでしょうか」

「そのとおりだよ」

 藤山の質問に、安藤は機嫌良く応えた。

 安藤の話を聴いているうち、遼太が小学生の頃、数人の僧侶を伴い管長が林田家を訪ねて来た日のことを思い出した。

 地域住民が見守る中、仏壇前で経を唱える管長の隣で、父親が覚悟を決め短刀を腹に突き刺して、真一文字に切り裂く姿を目の前で見たことがある。

 鋭い短刀に白い布を巻きつけ、五、六センチほど出ている刃先を腹に刺した時の様子は、強烈な衝撃を伴って、今も脳裏に焼き付いている。

 その前日、和正は管長から「延命のための行」を行うことを聴き、確かに青ざめていた。

 そして、当日、真横に腹を切り裂く時、唇を噛みしめた姿も、忘れられない。

 引き抜いた短刀には、べっとりとした脂肪が付着し、一二、三センチにる切傷からは少量の血が滲み出ていた。

 その夜、風呂から出た和正が「傷口が沁みた」と言っていた言葉も耳に残っている。

 傷は、数週間後には跡形なく消えていたが、そうした記憶が、鮮明に甦った。

「管長の法力は、不可思議な功徳によるものだよ」

 安藤の説明を、共感しながら聴いた。

「その様な偉い人のお孫さんに会えて嬉しいよ」

 豪放な薩摩隼人の徳田は、まじまじと遼太を見つめた。

「林田君も司法試験に向けて頑張っています」

「高木君のいいライバルという訳だ」

 藤山のにこやかな表情に、遼太の顔の筋肉が和らいだ。

「そのとおりです。彼が頑張っているから、こっちも負けてはいけないという気持ちになります」

「年々、難しくなってきているから大変だが、頑張れば突破できないことはないよ。我々も力になるから、時々おいでなさい。そうだ、夏休みに実務の経験をしてみないか。大先生との御縁も深いようだし、徳田先生と高木君の後輩ということになれば、仲間みたいなものだよ。大先生よろしいでしょう」

「それは、いい。是非そうしなさい」

 安藤は藤山の提案に賛同し、にこやかな顔で誘った。

 遼太は、思いがけない誘いに感謝の気持ちを表した。

「高木君から聞いているが、去年の入室試験は残念だったね。今年は便宜を図るよ」

 都南大出身の徳田が、一肌脱いでくれるという。

「有難うございます」

 予期せぬ言葉に戸惑いながらも、遼太は礼を述べた。

  

 夏休みに入ると、安藤法律事務所でアルバイトが始まった。

 勤務時間の半分は、司法試験の勉強に費やすようにと、安藤からの指示があり、遼太の専用机が準備されていた。

 明るく和やかな職場は、遼太にとってこの上もない環境であった。

 仕事は、関係機関への書類提出や裁判記録の筆写が主なものであった。

 仕事に慣れてくると、多様な実務経験に触れることが出来た。

 事務所には政治家や芸能人、アスリートなど著名なクライアントの訪問があり、興味が惹かれたが、賄賂や裏切り、医療事故、遺産相続など人間社会の裏面を知ると、ショックは大きかった。

 どのクライアントも心に大きな悩みを抱え、救いを求めてやって来る。

 どんな資産家であっても、地位が高くても、大金が積まれても、不義、不正、不徳が内在し正義に反するとみれば、安藤は決して引き受けなかった。

 毅然として断る安藤の姿を目の当たりにして、遼太は弁護士は高潔さとゆるぎない信念が大事だと学んだ。

 安藤が公判に提出する書面の清書を頼まれたとき、遼太は驚きを隠せなかった。

 そこには、清廉潔白な身を証明する証拠を提示し、気迫に満ちた力強い文章が記されているではないか。

「弁護士は、命がけで取り組まない限り冤罪は証明されない」と言う安藤の信念が、ひしひしと伝わってきた。

 法の正義の実現に向けた執念こそが、裁判官の心証を良くするのだと、肝に銘じた。

 藤山は、口頭弁論の準備書面を短時間にさらさらと書きあげ、事務員の斎木に廻す。

 その完璧な論理構成の文面に触れ、遼太は世の中に天才が存在することを知った。 

 徳田の文章は説得力がある。

 豪放な性格からは想像しがたい繊細な感性で、物事の真髄を見極め、納得させる文章で人の心を揺り動かす。

 遼太は、三者三様の書面に接し、有能な弁護士は、幅広い教養や経験、法解釈や判例に精通し、説得力ある文章を書き上げるノウハウを磨いているのだと確信したが、何がそうさせるのかと自問してみた。

 そこには、「法の正義を貫く姿勢」が存在する。

 その答えに納得し、法曹界の仕事に遣り甲斐と面白さを感じるのであった。

 新年度を迎え、遼太は、司法研究室への入室、短答式試験突破、月二〇〇時間以上の学習時間の確保という三つの目標を立てた。

 翌日、遼太は彩香を馬酔木に誘った。

「林田さんの試験に臨む気持ちは、良く分かったわ。私も協力します」

「これからは、ここでのデートも週一度になるけど、いいかな」

「今までのように、気軽には会えないのね」

「でも、毎週、ここで心がリフレッシュできるかと思うと、勉強に弾みがつくよ」

 自分の思いを語る遼太に、彩香は笑顔で応えた。

 馬酔木でのデートは、いつも司法試験の話題が中心であった。

 彩香は、試験に有用な情報提供を熱心に行うのだが、寂しそうな素振りを時々見せた。

「何か、気になることでもあるの」

「私、……。こうしている時はいいのだけれど、一人になると、満たされない気持ちに襲われることがあるの。気分が滅入ってくると、無性に登山がしたくなるわ。今度の連休は、流水さんを誘って安達太良へ登山でもしようかしら」

「登山って達成感があるだろうね。しんどさを超えた先の喜びは、一入(ひとしお)だと思う」

 遼太は、彩香の満たされない気持ちの先にあるものを理解できなかった。

 

 拝啓

 登山は、お蔭様で快晴に恵まれ、素晴らしいものでした。山小屋では朝四時に鳥の声と川のせせらぎと共に目をさまし、真っ赤に燃える太陽が、山と山の間からゆっくり息づいているかのように出てくる。その神秘的な姿を見ることができ、どう表現したらよいか分らないほど、美しく驚嘆し、大きな喜びでいっぱいでした。

 また、頂上で外界を見下ろしたときの大らかな、小さいことにこだわらない心。ちっぽけな一人の人間が風に飛ばされまいと足を地に一生懸命つけて頑張り、その風の冷たさ、心地よさが全身を打ち、今までのいやな自分を清めてくれるような錯覚に陥ったこと……。何と自然とは偉大なのでしょうか。素晴らしいものなのでしょうか。

 また、キャンパスでお会いしましょう。          敬具

   四月三〇日

                               松沢彩香

 林田遼太 様

 

 

 登山は、ひと回りもふた回りも成長させる原動力なのか。

 自分のメンタル面を鍛えるとすれば、修行しかない。

 遼太は、残りの連休を利用して生禅寺で励んだ。

「帰山されていたのですか。私も連れて行って欲しかった……」

 馬酔木でコーヒーを一口飲み終えると、彩香は残念そうに唇をかみしめた。

「私、来月会津駒ヶ岳に登ろうと思っています。安達太良登山から一週間は気が引き締まっていたけど、ここのところ何も手につかず、スランプ気味で……。本当は生禅寺に伺いたいのです。今度の機会にはぜひご一緒させてくださいね」

 彩香は、スランプの内容には触れなかった。

 

 登山の前日、彩香は遼太のアパートを訪ねた。

「明日、会津駒ヶ岳に登ります。登山の買い物のついでにお伺いしてみたの」

 突然の訪問客であった。

「最近、気になっていたのですが、少し痩せられたのではないですか。元気をつけてもらおうと思って、お肉を買ってきました」

 両手に食料が入った袋を抱えて、息を弾ませていた。

「こんなに沢山……。重かったろう。当分買い物に行かなくてすむよ」

「料理をさせていただきたいけど、これから郷里(くに)に帰るので、電車の時間があるから失礼するわね」

 遼太の見送りを断り、ドアを閉めた。

 

 前略

 遼太さんを訪ねた翌日の四日、五日と一泊で標高二、一三二メートルの会津駒ヶ岳に行ってきました。一か月ぶりの登山でしたが、厳しいキツイ山岳でした。

 さらに雪がまだかなり残っていて驚きと、足を踏み外さないように神経を使い、恐ろしい気持ちも多分にありました。大自然の中で、雪を食べながら、その素晴らしさ、偉大さを痛感し、また頂上をめざして登って行く苦しさ、自分自身との闘い、限界を強く感じた山岳でした。

 前に安達太良や磐梯を登っていたため、過信していました。今まで一番苦しかった気がします。あの苦しみを思い出したら、何でもできるような気がしてきました。

 下山する際も一緒に行った人たちは、スイスイ雪上をすべるように楽しく降りていくのに、私は取り残された孤独感とこわいという気持ちで一杯でした。力一杯大きな声を出して助けを求め、雪上テクニックを教えてもらい、勇気をもって前へ前へと進むことのみに専念しました。それからは慣れて、駆け足でとにかく遅れないようにと一生懸命でした。かえって、下るのには雪の方が早いみたいです。

 今度の登山では、いろいろな事を、身体を通して学びました。

 日常生活の中、ちっちゃなことで悩んでいる時、心が狭くなった時、くよくよしている時など、また、山に行きたくなるかもしれない。

 お会いした時、お話しようかと思いましたが、新鮮な気持ちが残っているうちに手紙にしたためました。

    六月六日

                               松沢彩香

 林田遼太 様

 

 

 自己との対決の中で、負けまいとする努力と生き抜く力強さを伝える彩香が、新鮮で魅力的に映った。

 清楚で優しく、品格が備わった彩香の姿を思い起こす度、愛おしさが込み上げてくる。

 決して泣き言を言わない。自分で解決の道を探す。いくら辛いことがあっても人のことを優先して考える。好き嫌いの感情をあらわにしない。物事を洞察し、相手の立場に身を置いて考える。寛容性に富み、自己主張せず、責任感がある。

 遼太の目に映る彩香は、そんな人物であった。

 遼太は、彩香が自分をはるかに超えた人間になっていっていると思った。

 才色兼備の彩香は、みちのくのどんなところで生まれ、育ったのか知りたくなった。

 そこで、丸山博に一週間程度の東北旅行の話を持ちかけた。

 丸山は気候が良い春に、周遊券や夜行列車を上手く使い、宿代を浮かせた旅行をしようと話に乗ってきた。

 三月に入ると、丸山の融通の利く旅程案に沿い、夕刻周遊券で上野から東北本線の列車に乗車した。

 乗客の大半は、出稼ぎの人たちだった。

「どちらまでですか?」

 遼太は、前の席の中年男性に声をかけた。

「福島だ」

 がっしりした体格の男が応えた。

「あんだたちぁは、どこさ行くべぇ」

 髭が濃い隣の男が訊ねた。

 遼太が答えようとすると、丸山が自己紹介を始め、自分たちの旅について語った。

 目の前の男性は、がっしりした方が田中、髭の濃い方が高橋と名乗り、みちのくの旅に興味を示した。

「みちのくは冬は寒いが、いいとこだ」

 高橋は、冬のみちのくについて話し始めた。

「兄ちゃんたち、これくわっせ」

 田中が、弁当を差し出した。

「いいんですか」

「いいとも。さげも飲め。んめえぞ」

 田中は、一升瓶の蓋を取ると紙コップに日本酒を注ぎ、遼太と丸山に手渡した。

 その何ともにこやかな顔に促され、二人はコップに口を付けた。

 車内は、出稼ぎの人たちの貸切状態で、郷土色が満載であった。

「豪快な飲みっぷりだな」

 田中と高橋は、感心しながら酒を注いだ。

 二人は、勧められるままに飲み干した。

「空けつだが、今夜はわげの家で泊まっていっか。もうすぐ降りるから準備しな」

 列車が、須賀川駅を通過したころ、突然田中が誘った。

「いいんですか?」

「かまわねぇ」

 二人は、予期せぬパプニングに驚いたが、申し入れを喜んで受け入れ、安積永盛駅での下車することとなった。

「歩くんべ」

 田中は、重い荷物を苦にもせず、懐かしい家路に向かって陽気に歌いながら進んだ。

遼太も丸山も一緒に歌った。

 田中は歩きながら、家には、七八歳になる母親の亀子と妻の美代、高二の佳子、中二の純一、小五の真二が、父親の帰郷を待っていると話した。

 駅から三〇分ほど歩いて、田中の家に着いた。

 家人は、夜遅く見知らぬ若い二人の男が訪ねたことに、戸惑いの表情を見せた。

「まあ、東京から、それはようこそ」

 田中の説明に、美代が笑顔で迎えた。

「どうぞ、あがらっしゃい」

 亀子が、囲炉裏から元気な声で招くと、子どもたちは、興味津々で二人を眺めた。 

「すぐにお酒も準備するで、それまでこのいかにんじんでも食べなんせ」

 ニンジンとスルメを使ったサラダ感覚の漬物は、味わい深さがあった。

 美代の運んで来る郷土の手料理には、夫への愛情が籠もり、もてなす客の心まで温かくした。

 子ども達は、帰りを待ちわびていた父親を取り囲み、嬉しそうな笑顔がはじけた。

 遼太は、目の前の様子から、彩香もみちのくの優しさ溢れる家庭に育ったことを想像して、胸が熱くなった。

「子どもたちは東京に関心があるで、話を聴かせてやんなせ」

 亀子の言葉に、遼太と丸山は初めて上京した時の驚きや、大学生活について話し始めた。

「私も東京の大学に行きたいわ。都南大は相当勉強しないと難しいでしょう。どんな勉強をすればいいのかしら?」

 話を食い入るように聴いていた佳子が、興味深そうに訊ねた。

「何でも基礎基本が大事だから、教科書が一番だけど、問題集は効果があるよ」

 丸山は、にこやかな表情を浮かべて返答した。

「僕も都南大の法学部に行きたいです」

「志望理由を聴きたいな?」

 人懐っこく話す純一に、遼太は訊ねた。

「二人とも恰好いいから、自分もそんなになりたいから」

「格好いいなんて、ありがたい言葉だね。そう言ってもらって、嬉しいよ」

 丸山は、上機嫌で遼太に目配せした。

「法律は勉強して、損はないよ。人に騙されなくてすむし、人を助けることだってできる。(つぶ)しも効くから就職にも有利だし」

 自分の体験を踏まえて話す遼太の言葉に、純一は大きく頷いた。

「東京って、大きな遊園地など遊ぶところがいっぱいあっていいよね」

 小五の真二の質問にも、二人は丁寧に答え、会話が弾んだ。

 こうして囲炉裏を囲み、楽しい団欒を行う中で、父親の不在中、寂しい思いを抱えていたのは、子ども達だけでなかったことを思うと、ふと厳しい現実に遼太は引き戻された。

「さあさ、もう遅いから、お前たちはもう寝らんしょ。うらも休むでな。ありがと」

 亀子は、子どもたちに就寝を促した後、満足そうに笑みを浮かべ、寝室に向かった。

「お父さんもそろそろ解放してあげなんしょ。学生さんたち、お疲れだべ。休んでくなんしょ」

 美代は寝床の準備をして、二人に声をかけた。

 翌朝、子供たちは学校に出かけていなかった。

「子供たちは、東京に行ったら案内して欲しいとが言っていたが」

 美代は、にこにこしながら味噌汁を運んできた。

「それは、任しておいてください」

 遼太は、丸山と目を合わせて大歓迎のポーズをとった。

「すまねえなし」

「若いもんが、東京さ、憧れていくのもいいが、地元が廃れるのが寂しいよ」

 田中がぽつりと言った。

 その言葉に、憧れを助長させるような話をしたことを、遼太は反省した。

「今日は、どこさ行くの?」

 田中は、遼太に向かって訊いた。

「お勧めのスポットはないですか?」

「猪苗代湖や五色沼もいいし、野口英世記念館もいいぞ」

「鶴ケ城も行ってみんせ」

 田中の言葉に、美代が付け加えた。

「そうだ。行ってみんせ」

 亀子が相槌を打った。

 温かい田中家の人々に見送られ、二人は猪苗代湖沿いに建つ野口英世記念館を訪れた。

 英世の生家で、遼太は衝撃を受けた。

「志を得ざれば、再び此地を踏まず」 

 柱にナイフで刻み付けた英世の文字に、並々ならぬ闘志を感じた。

(高い目標を目指し、苦難を克服するというハングリー精神がなければ、ことは成就しない。成功するまでは、何があろうとも故郷に帰るまい、と英世は覚悟して刻んだに違いない)

 刻まれた文字を凝視して、自分も合格するまで帰らないと決心を固めた。

 

 

「昼は何を食おうか?」

「この後、鶴ヶ城や五色沼を巡る中で、地物の名産品も探して考えよう」

 食い気旺盛な丸山が、遼太の真剣な思考を中断させたが、なぜか憎めない男だ。

「そうするか。福島から仙台、平泉、盛岡、青森、秋田を廻るとなると、美味しい食べ物は随分あるぞ。それが何よりの楽しみだよ」

 丸山は、行く先々で土地の人や旅行者に気さくに声をかけ、美味しい料理を提供する店の情報を仕入れることに熱心だった。

 そんな丸山に癒されながら、一週間にわたる充実した旅行を終えた。

 みちのくの人々は、穏やかで心が大きく、控えめで忍耐強い。

 その気性は、気候や地形などの風土と歴史、文化や食生活によるものだろう。

 彩香の優しさや芯の強さは、そうした環境の中で育まれたからに違いないと、遼太は旅行を振り返り総括した。

 

 

  東京に戻った遼太は、司法試験の実績を誇る星法会の入室試験を目指して、連日机に向かった。

 九月第二日曜日、五〇〇名を超す学生が詰めかけ、試験会場は張り詰めた雰囲気であった。 

 試験は、遼太の得意とする憲法と法学の二科目であった。

 週末、大学の掲示板には、遼太を含め一次合格者六二名の名前があった。

 その夜、遼太は翌日の口述試験に向けて励んでいる最中、突然激しい下痢に襲われた。

 夕食に糸を引いた豆腐や残菜を食したことを後悔したが、これまでもなかったことではない。

 (たか)(くく)って机に向かうものの、何度もトイレに駆け込むことになった。

 腹痛は翌朝まで続き、体力が奪われ口述試験に臨む気力は湧かなかった。

 救急病院で、腸炎ビブリオによる食中毒と診断され、そのまま入院となった。

 次の日、一四名の合格者が発表されたが、遼太の名前はなかった。

 

 一一月に入って、正十が思い詰めたように遼太に心の内を打ち明けた。

「兄貴、来年の卒業の目処がついたよ。一月末でアパートを引き払って、実家に帰ろうと思うけど、いいかなあ」

 正十は、専門学校の卒業を機に故郷に帰り、町役場の採用試験に挑戦すると言う。

「実は、家の跡を継ぎたい。小さいときから、家を継ぐのは長男だと言われて育ったので、兄貴に遠慮していたけど、本当のことを言うと、ずっと家の跡を継ぎたいと思っていたんだ」

「そうだったのか。気持ちは分かった。有り難いとは思うが、長男としての責任は果たしたい。資格を取れば、高知に帰るから親の面倒や家業に係わるつもりだ。任せっきりにはしたくないよ」

 神妙な顔で、承諾を求める正十に対する遼太の正直な気持ちであった。

 正十からの知らせに、実家の両親から安堵と喜びの声が返ってきた。

 それから一週間もたたないうちに、由意から敏宏が潰瘍性大腸炎に罹り、入院したという連絡があった。

 高価な治療費を要する難病であることを知った遼太は、書店でのアルバイトを見付けて仕送りは不要だと連絡した。

 年の瀬が押し迫った頃、遼太は浅草に流し付きで四畳半一間一万円という格安物件があるという友達からの情報を得て、早速引っ越しを行った。

 そこは角部屋ではあったが、南には五階建のビルが建ち、一日中陽が差し込むことはなく、窓から手を伸ばせば届くほどの圧迫感があった。

 西は、古い木造二階建アパートが接近しており、磨りガラス戸を開けると夜の世界に勤める若い男女の部屋が丸見えだった。

 そこで、厚手の二重カーテンで視界を(さえぎ)ることにしたため、終日部屋は薄暗い状態であった

 アパート住民は、部屋の外に人の気配を感じると誰もがドアを締め切り、顔を合わそうとはしなかった。

 遼太は、「艱難辛苦を乗り越えて人は成功する」と言う茂の言葉を繰り返し唱え、モチベーションの維持に努めた。

 活気のないアパートで迎えた正月は、目出度さはなかった。

 彩香からの便りは、心の拠り所であった。 

 

 

 

拝啓

 新年を迎えたと思ったら、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

 私は急に思い立って、お正月、生禅寺にて新年を迎えました。太田美和さんと御一緒でした。

 今までになく静かで、雪の長野で心の落ち着きを得て、昨年瑣事を払拭して、未来の夢、これからの一年を冷静に見つめることができ、最高に有意義な年の明けであったと喜んでいます。

 でも、御老師様にお会いできず、それだけが残念でした。

 三一日から二日までの旅でしたが、二日は太田さんの外大のお友達のご案内で、松本市内を見学し、予期せぬ喜びを受けました。諸縁感謝の日々でした。

 物で栄えて、心で滅ぶ世の中である現在、温かい真心を受け、また触れることができ、大変嬉しく感激しました。

 最近、日本人なら誰しも心のふるさと、仏の心を持っているのではないかと考えるようになっています。

 このような諸縁、目覚めを得られたのも林田さんのお蔭だと感謝しています。

 ありがとうございます。合掌 

    昭和四六年一月三日 

                                 松沢彩香  

 林田遼太 様

 

 その日の夜、実家に着いた。

「遼太! 良く帰って来たね」

 離れに向かおうとしていた祖母の鶴代が、いち早く遼太の姿を見つけた。

 その声に次々と家族が、玄関から出て来て遼太を迎えた。

 遼太は、その場に立ち尽くしたまま不義理を詫びた。

「それはもういい。そんなところにいないで、入れ」

 祖父の茂は、優しい目で手招きした。

「それじゃあ、今から遼太の帰還祝いをしよう。母さん、酒の準備をしてくれるか」

 機嫌の良い和正の声に、遼太は安堵した。 

「私も一緒に準備させてね」

 鶴代は、にこにこしながら由意と料理に取り掛かった。

 林田家の宴席は、奥座敷で行うことが習わしであった。

 神棚と仏壇がある座敷には、生禅寺管長の描いた達磨大師の掛け軸が掛けられており、神仏に見守られているような落ち着きがある。

「我儘を通して、皆に迷惑をかけました。本当に、ごめんなさい」

 温かい家族の笑顔を前にして、どうしても伝えたい言葉であった。 

 身勝手さを誰も(とが)めることはなかった。

「遼太、やりたいことを貫きなさい。家族は皆、全力で応援する」

 茂の力強い言葉の後、それぞれから激励の声が続いた。

 家族が両手を挙げて支えてくれていることを知り、遼太は胸がはち切れそうになった。 

 帰省から五日後、彩香から手紙が届いた。

 

 残暑お見舞い申しあげます。

 長野旅行は、大変お世話になりました。初めての坐禅でしたが、心が落ち着き、洗われるような感じで、とても充実して貴重な経験でした。できれば、(いや必ず)機会を見つけて、日数を多くとって御老師様のいらっしゃる時に是非出かけてみようと考えています。

 みちのくへ帰ってからも毎夜、休む前に必ず坐禅をするように心がけています。話題の『般若心経入門』の本を買い、仏教の教えを学んでいます。

坐禅の機会を得られましたこと、深く感謝しています。この現在の気持ちを大切にしようと思います。ありがとうございました。勉強の方も計画を立てて取り掛かろうと思います。

 最後になりましたが、腕の方は如何でしょうか。早く良くなりますよう祈っています。

 お身体留意なさってください。

    昭和四五年八月一九日

 

                             

 彩香は帰郷した翌日に、遼太の帰省を想定して、手紙を投函している。

 遼太は、その手際良さに感心しながら、居心地良い郷里の生活などをしたためて、近くの郵便局から返事を出した。

 郵便局から戻ると、中学時代の友人が訪ねて来ていた。

「明日?」

 急なキャンプの誘いであった。

「遼ちゃんが帰省していることを、昨日知ったばかりだから……」

「分かった。皆にも会いたいから行くよ」

 キャンプ地は、遼太が一度は行ってみたいと思っていた入野松原であった。

 自宅から四〇キロメートルほど離れた場所だ。

 当日、先陣となって買い出しを行い、目的地に乗り込んだ。

 眼前には見渡す限りの太平洋が開け、数キロメートルに及ぶ白浜の海岸は絶景であった。

 

 

 白浜に沿った防砂林の役割を果たす松林の中は、涼しい風が吹き抜ける。

 そこに一〇組のテントを張り、料理やキャンプファイヤーの準備に取りかかった。

 

 

 日が傾き始た頃、懐かしい仲間たちが数台の車に分乗して合流すると、(たちま)ち賑やかな声がキャンプ場に響き渡った。

 焚き火を取り囲み、軽やかなリズムのフォークダンスが始まった。

 火が高く舞いあがると、高揚感に包まれ、心は中学時代にタイムスリップした。

 火の勢いが弱まると、焚き火の周りで宴に突入し、日頃、会う機会の少ない友人たちが近況報告を始めた。

 遼太は、冷酒を豪快に飲み干す酒豪たちと、思い出話に花を咲かせた。

 酒宴のパラダイスは、長時間浜辺に展開された。

 花火の音も歌声もすっかり静まりかえった頃、遼太は、砂浜で独り寝転がっていた。

 頭上に輝く満天の星がぐるぐる回る。

「大丈夫なの? 酔い潰れていたわよ。心配になって……」

 いきなり野田佳織の顔が覗いた。

 目を(こす)った。

「えっ! かおりんがここに連れて来たの」

「私、一時間ほど前に来たの。そうしたら、みんなそれぞれいい気分で、テントで寝転がっていたわ。遼太君は一人、波打ち際で寝ていたのよ。波にさらわれたら大変と思って、ここまで引きずってきたの。覚えてない?」

 長い髪を撫でおろしながら、遼太に声をかけた。

 佳織は、遼太が初めて淡い恋心を抱いた女性であった。

 校区の違う小学校から中学校に入学して、同じクラスになり、遼太が委員長、佳織が副委員長を務め、それ以後懇意にしている。

 中学卒業後、遼太は地元の高校へ進んだが、佳織は、高知市内の進学校から現役で京都の国立大学に進学した文武両道の秀才である。

 佳織は帰省した日、遼太がキャンプに参加していることを知り、愛車のスカイラインを飛ばしてやって来たのだった。

「遼ちゃんは、弁護士になるのだってね。ぴったりだと思うわ。応援するわよ」

「ありがとう。かおりんは、どうするの?」

「私、卒業したら遼ちゃんのいる東京に行くわ」

 佳織は、有名な商事会社に内定していることを告げた。

「それはおめでとう。でも、ご両親は寂しいだろうね」

「人生は一回きりじゃない。自分のやりたいことをして、悔いのない人生を過ごさなきゃ」

「それは、そうだが。親御さんは許してくれたの?」

「特に反対はしなかったわ」

「そうか。それは良かった」

「ねえ、遼ちゃん、恋人はいる?」

 佳織は、神妙な顔で訊いた。

「いないよ」

 遼太は、彩香と相思相愛の仲だと胸を張って言える自信がなかった。

「そう、良かったわ。ところで、遼ちゃん、異性の友人関係ってあると思う」

 佳織は、熱っぽい眼差しを遼太に向けた。

「あると思うよ。現に、かおりんと僕だって友達同士だろ」

 遼太は、佳織との関係がそうだと思った。

「それはそうだけど、より親密な異性の友人関係のことよ」

「僕はかおりんを信頼しているし、大いに親しみを感じている。だから、かおりんとは親友だと勝手に思い込んでいるけど、かおりんは、そうは思ってくれていないの」

「そうなのよね。遼ちゃんは、いつも勝手になのよね」

「勝手に、ではいけないのか」

「相手の気持ちも大事にしなきゃ」

「じゃあ、かおりんは僕を親友とは思ってないのか」

「そういうことではないの。もっとデリケートなことなのよ」

「デリケートっていう意味が分からないけど」

「好きか嫌いかということよ」

「もちろん好きに決まっているよ。好きだからこうして何でも話ができるじゃないか」

「じゃあ、改めて聴くわ。同性の友人関係と、異性の友人関係とは、同じと思う?」

「ちょっと違う気もするね。男同士だったら、一緒の部屋で寝泊まりできるけど、女性とはそうはいかないからね」

「なぜ、いかないの」

「それは……」

 遼太は言葉が詰まった。

「私が言いたかったのは、そこなの。異性間では、より親密な友人関係は成立しないと思うの。好きな異性に対しては、友情を超えてお互いに身も心も許し合うのが自然じゃないかしら」

 大胆な佳織の発言に、遼太は戸惑った。

「結婚するなら、いいかもしれないけど、僕は好きな女性には決して手は出さないよ。手を握ることだってしない」

 遼太の正直な気持ちだった。

「あら、そうなの? 私、本当に好きな人とは、手もつなぎたいし、結ばれたいと思っているわ」

 遼太は、佳織がすっかり進歩的な女性になったと思った。

 うろたえる遼太の頬に、彩香は軽く唇をあてた。

 横たわる遼太の体は自由がきかず、それを避けることができなかった。

鼓動が高鳴った。

「遼ちゃんって、本当にうぶなのね。そんなところ、大好きなの」

 佳織は、遼太に激しい衝撃を残して消えた。

 

 翌朝早く、遼太は二日酔いの重い頭を抱え、水を求めて炊事場に向かった。

「遼ちゃん、おはよう。しんどそうね。大丈夫?」

 朝食の準備にとりかかっていた佳織は、昨夜は何事もなかったかのようであった。

「はい、お水よ。喉が渇いていたのでしょう」

 遼太は、恥ずかしさで佳織の顔をまともに見ることができない。

 佳織は、遼太の飲み終えたコップを受け取り、再び水を注いで差し出した。

「おかわりよ。飲んで頂戴!」

 平然と話す佳織の気持ちが理解できず困惑した。

「もういいの?」

 佳織は、空いたコップを受け取りながら、笑顔を返した。

「ああ、有り難う」

 佳織に背を向け、右手を挙げてその場を立ち去った。 

 

 

 キャンプの翌々日、遼太の家の前に、真っ赤なスカイライン二〇〇〇GTが止まった。

「おはようございます。私、遼太君の同級生の野田佳織です」

庭で草むしりをする鶴代に、挨拶する声が二階の遼太の部屋に聞こえた。

「まあ、まあ。遼太のお友達ですか。いつも遼太がお世話になっています。待ってくださいね」

 鶴代は母屋に入り、由意に訪問客のことを伝えた。

「おはよう。野田さんですね。遼太から話は良く聞きます。どうぞ、おあがりください」

 由意は、草むしりを始めていた佳織に声をかけた。

「ここで待たせていただきます。これは京都のお土産です。皆さんで召し上がってください」

「おはよう!」

 由意が、土産物の包みを手にしてお礼を述べているところに、遼太が現れた。

「二日酔いはもう大丈夫? 今日これから足摺にドライブしない?」

「二人で?」

「そうよ。私の運転じゃ心配かしら」

「そうじゃないけど・・・・・・」

「じゃ、行きましょう」

 佳織は、強引に誘った。

 車の中は、爽やかな香りが漂い、カーステレオから聞き慣れた音楽が流れると、遼太は、安らいだ気持ちになった。

 佳織は、高南台地を下り足摺岬や竜串、見残しを回り、ジョン万次郎像を見て、三八番札所の金剛福寺に参拝するという片道一〇〇キロ余りの行程を遼太に伝えた。

 遼太が、乗り心地の良い香織の運転に安心して、車窓の景色を楽しんでいる内に、車は足摺に着いた。

 金剛福寺の境内で、バスツアーに参加した四国八十八か所巡りの遍路たちの間を、一人白装束に包まれた徒歩の遍路が通り抜けるのが見えた。

「私たちもお四国回りしましょうか」

「遍路になるの?」

「そうよ。私、叶えて欲しい願い事があるからやりたいと思っているの」

「願い事って?」

「それは、今は言えないけど、いずれ言える時がくると思うわ。遼ちゃんにはないの」

「それはあるよ」

「何なの?」

「弁護士になることだよ」

「私、遼ちゃんが弁護士になるためのお手伝いがしたいわ」

「それは、いいよ。人に助けてもらうものではないから。ひたすら努力あるのみだよ」

「そういうまっしぐらに向かうところは、遼ちゃんらしいわね。応援するわね。私……」

 佳織は、伝えようとした言葉を飲み込んだ。

「遼ちゃんは、お四国回りを車でするのは嫌?」

「そんなこと考えたこともないよ」

「今通り過ぎたあの人のように、歩いてお四国回りする人は本当に偉いわ。でも大変だから、私は車を利用してやりたいわ。ご利益は同じでしょ」 

「車でもご利益があるのか?」

「あるわよ。バスツアーがあるのだから」

「遼ちゃんは、何年かかっても一人で歩いて(めぐ)るタイプなのかしら。そう言えば、あの人、遼ちゃんにどこか感じが似てるわね」 

「僕は、我慢強くもないし、寂しがり屋だから、とてもあのように一人旅は続けられないよ」

「じゃあ、私と一緒かしら。私も一人は嫌だから一緒に旅をしたいわ」

 佳織のさりげない言葉を、遼太は聞き流した。

「大吉よ。ほらね。願い事適うとあるわ。嬉しい。遼ちゃんは、どうなの?」

 賽銭箱の横のおみくじを引いて、佳織ははしゃいだ。

「僕も大吉だよ」

「恋愛運は、どうなの?」

「……」

「あら、いいじゃない。私もよ」

 偶然、二人とも「恋叶う」と記されていた。

「海岸線に沿って車を走らせることできるかなあ」

「いいわよ」

 夏の日差しを受けて、大海原は一層と輝く。

「太平洋は、広くて、穏やかで、気持ちがいいな」

 車内にまぶしく射し込んできた夕陽を避けるように、佳織は人気のないところに車を止めた。

「この景色、絵になるわね。まさに絶景ね。私、美しいものに出会うと心が洗われる気持ちになるの。景色もそうだし、汚れのない美しい心に触れても胸がキュンとなるの」

 佳織は、視線を手許に移した。 

「きれいな優しい手ね。この手の中に包まれる人は幸せね。遼ちゃんの心には、陰りがないから」

 上目遣いの佳織に、女性としての魅力が伝わってきた。

「私、就職を東京に決めたのは、好きな人と同じ街の空気を吸いたいと思ったからよ」

 佳織の言葉に、息が詰まる思いがした。

「もう帰ろうか」

 このまま時間が過ぎることに、不安を覚えた。

「まだいいじゃない。出かけるとき、おばさんがゆっくりしてらっしゃい、といわれたでしょ」

「あれは、儀礼的な言葉だよ」

「遼ちゃん、私が何か企んでいそうで恐いの?」

 返す言葉がなかった。

「心配しないで、何もしないわよ。でも、遼ちゃんって、本当に可愛いから大好きなの。私、四月生まれだから、三月生まれの遼ちゃん君と一年違うでしょ。姉さんぶって、ごめんなさい」

 遼太の浮かない様子に、佳織は神妙になった。 

「かおりんのことは、大好きだよ。無二の親友だから」

 落ち込む佳織に放った言葉は、正直な気持ちであった。

「私、中学校で遼ちゃんに出会ってから、ずっと好きなの。弟が生まれるまで、長く一人っ子で育ったでしょう。だから、何でも安心して話せる遼ちゃんが、私の傍にいてくれたらと、いつも思っていたの。今もその気持ちは変わらないわ」

 佳織は、素直に思いを伝えた。

 女性からの初めて告白に、嫌な気持ちはしなかった。

 彩香と出会うまでは、少なからず好意を寄せていた女性であり、竹を割ったような佳織の性格には、随分助けられてきたのだ。

 自分より優れていると認めて、これまで敬意を払ってきたのだが、今は彩香の比重が重い。

「遼ちゃん、お願いがあるの。聞いてもらえる?」

 佳織の瞳は澄んでいた。

「内容によるよ」

「私をハグして欲しいの」

 遼太は、彩香の姿が脳裏をよぎり当惑した。

「崇高な女性に対しては、決して本能による行動はしない。そう決めてるんだ」

「遼ちゃんは、私を崇高な女性と思ってくれているんだ」

「勿論そうだよ。かおりんはとても大切な女性だし、最高の異性の友だよ」

「その異性の友というのが少し引っかかるけど、好意を寄せてもらっていると思っていいのね?」

「かおりんには、特別な親しみを感じているよ」

「どんなに好きな女性が、求めても行動には移さないの?」

「勿論だよ。僕の女性に対する敬意の表現は、決して女性の体に触れないということなんだ」

「じゃあ、結婚もしないの?」

「女性の操を大切にしたいから、結婚するまでは清廉潔癖でいたいんだ。女性の身体に触れることで、その女性の清らかな気持ちまで踏みにじることになると思っている」

「遼ちゃんにとって、ハグってそんなに重いことなの? キスも同じなの?」 

「それはそうだよ。冗談や遊びというわけにはいかないから」

「分かったわ。遼ちゃんの本音が聞けて。私、遊びではないから、遼ちゃんの気持ち大事にするわね」

 引き下がる佳織の目は潤んでいた。

 

 爽やかな朝の日差しを受け塵取りを手に近付いてきた。

「おはようございます」

「やあ、おはよう」

 遼太は、掃き掃除の手を止め、照れくさそうに応じた。

「明日は、もう帰る日ね」

「そうだね」

「私、ここに来させていただいて、本当に良かったわ」

 彩香の清々しい笑顔が、遼太の(わだかま)りを吹き飛ばした。

「すまなかったね」

「いえ、こちらこそ。私から謝らなければいけないの。すみませんでした」

 遼太はやっとのこと、晴れ晴れとした気持ちで、彩香に接することが出来た。

 午後、裏山での作務の時間がやって来た。

 遼太は大きな竹かごを背負い、傾斜のある道を鼻歌交じりで、リンゴ園の消毒に向かった。

「あ!」

 昨夜来の雨によるぬかるみに、遼太の足はとられた。

「お怪我はない? 流水さん手伝って」

 窪みにはまり込んだ遼太に、彩香は手を差し延べた。

「大丈夫。一人で起き上がれるよ」

 遼太は、頭をかきながら立ち上がった。

「ほら、何ともないさ」

 両手を広げておどけながら言葉を続けた。

「おっちょこ……」

「ちょいでしょ」

 彩香は、柔和(にゅうわ)な眼差しを遼太に向けた。 

 二人は、顏を見合わせて笑った。

 遼太は、彩香の屈託のない笑顔に触れ、不思議と自然体でいられた。

 作務を終えた後、大僧堂で着替えをしていた遼太のもとに、彩香が慌ててやって来た。

「林田さん、お願い」

「どうしたの?」

「蜂がいます。窓に大きな蜂の巣があるの。取ってくださらない」

 遼太は、女子僧堂の軒下に、これまで見たことのない大きな蜂の巣を見つけた。

「よし、任せといて」

 手にした長い竹の棒を大きく振り回した。

 その時だった。

 一匹の蜂が、遼太めがけて突進してきた。

 頭を押さえて逃げる遼太の右腕を刺した。

 反射的に左手が、蜂を叩き落としていた。

「大丈夫かしら、病院へ行かなくていいの?」

 彩香が駆け寄り、おどおどした声で遼太を心配そうに見つめた。

「大丈夫だよ。アンモニアを塗れば問題ないよ」

 遼太は、痛みを顔に出さないように取り繕った。

「この蜂、大スズメバチと違うかしら。大きいわ。毒がすごく強いのよ。とにかく手当を受けましょう」

 体を震えさせながら必死にもがく蜂を見て、彩香は事務局に連絡し、救急手当てを求めた。

「ごめんなさいね。私たちのために・・・・・・。お蔭で巣は落ちたわ。でもこんなことになって、申し訳なくて・・・・・・。病院には行かなきゃだめよ」

「蜂に刺されたぐらいで、病院に行くのは大げさだよ」

「だめよ。行かなきゃ。私お弟子さんに車を出してもらうわ」

「それはちょっと待って。必要なら自分からお願いするから」

 盛んに説得をする彩香に、遼太は空元気を出した。

「分かったわ。でも、私心配なの。お願いだから病院へ行ってね」

 彩香の心配をよそに、遼太は平静さを装った。

 四階の大僧堂で横になると、右腕の痛みが強くなってきた。 

 水行場に急ぎ、何度も水を被ると痛みは和らいだ。

 部屋に戻り白衣をめくった。

 患部は、見る見るうちに熱を帯び、左腕の倍ほどに赤く大きく腫れ上がり、鼓動が激しくなった。

 遂に、痛みに耐えることができなくなった。

「林田さん、病院に出発できるように車の準備が出来ているわ」

 階下から大僧堂の遼太に声が届いた。

彩香は事務長に頼み、かかりつけの病院の予約を取って、車の手配まで済ませていた。

 その手際良さによって、病院で待つことなく受診できた。

「ハチ毒アレルギーによるアナフィラキシーが発症すれば、命に係わります。早く処置できて良かったですよ」

 医師は、諭すように伝えた。

 その晩、遼太は患部が(うず)き、長い時間寝むれなかった。

 その腕を(いた)わりながら、彩香との一〇日間を振り返った。

(明日、本山を発つが、今回の修行で自分は何を得たのだろう。彩香は、目的が達成できただろうか。失態ばかりで幻滅させてしまった。気まずい思いもさせた。管長に会わせることもできなかった。それにも拘らず、彩香は約束どおり良く頑張った。感服だ)

 遼太は、彩香という人間の優れた面や深さを知ったことが、最大の収穫であった。

 遼太の眠りは、朝方になってから深まり、起床の館内放送にも気付かなかった。

 目覚めた時、右腕の腫れはすっかり引いていた。

「林田さん、大丈夫?」

 朝のお勤めを終えた時、心配そうに彩香が訊ねた。

「彩香さんは、昨夜就寝時間まで一人本堂で、大事に至らないようにと経を唱えていたのよ」

 流水が言葉を添えた。

「心配かけて、本当に申し訳ない。お陰で、この通り跡形もなく腫れも引いた。安易に考えていた自分の馬鹿さ加減に呆れるよ・・・・・・。有り難う」

 遼太は、心から彩香に感謝の気持ちを述べた。

 帰り支度を終えた遼太は、月光殿に立ち寄り、高木に山を下りることを伝えた。

「松沢さんを大事にしろ。ちゃんと守ってやれよ。僕は、御老師様のお帰りまでここに残る。頑張れよ」

 高木は、遼太にエールを送った。

 澄み渡った青空に、心地よい風が吹き抜ける中、遼太と彩香、流水の三人は、生禅寺の坂道をゆっくり下り、歩いて長野駅に向かった。

 禅道場の修行で身に付けた規則正しい生活を貫いたことで、遼太は下界に降りていく自分たちが、凄く偉大な人間のように感じた。

 限りない希望に胸が膨らみ、司法試験に挑戦する意欲が湧いた。

 長野駅では、指定席の確保ができず、三人は大きな荷物を抱えたままホームに移動した。

 特急「あさま」の自由席車両が止まる最前列に並んだが、下車する客は数名で、車内は入口から混雑していた。

 三人は、車内に何とか乗り込めたが、彩香と流水は身動きできず、体勢を整えるのに苦労していた。

 遼太は、座席の背もたれに片手を置き、両膝で荷物を挟み立ちっぱなしを覚悟した。

 途中、上田駅で白髪の老婦人が乗車し、彩香の横に立った。

「すみませんが、おばあさんにお席を譲っていただけないでしょうか」

 曲がった腰を窮屈そうに伸ばそうとする姿を見た彩香は、中年の紳士に声をかけた。

「ああ、いいですよ。気が付きませんで。私は、次の駅で降りますので、どうぞごゆっくりお座りください」

 紳士は席を立ち、老婦人を招き、網かごから荷物を降ろしてその場を離れた。

 立ちっぱなしの乗客たちのうつろな表情の脇で、遼太は温かい人の心に触れて、爽やかな気持ちになった。

 電車が大宮駅に到着した。

「後期が始まったら、またお会いしましょうね」

 彩香は、流水と共に東北本線のホームに向かった。

 遼太がアパートに着いたのは、午後五時を回っていた。

 荷物を部屋に投げ込むと、畳に大の字になり天井を見つめた。

(彩香はまだ列車の中なのか)

 白い歯を見せ、微笑んで別れた彩香の姿に愛しさが込み上げてきた。

 遼太が、自分一人横になるわけにはいかないと起き上がった時、ドアを叩く音が聞こえた。

「林田さん、お帰りになられたのね。お手紙が来ていたわよ」

 大家から受け取った手紙は、文字を見て直ぐに母親であると分かった。

 丁寧な文字で、夏休みに帰って来い、と言う内容が書かれていた。

 また、生禅寺管長から母に電話があり、遼太が上京途上、寺に立ち寄ったこと、遼太への支援要請があったことなどが記されていた。

 遼太は、書置きという手段で上京した身勝手さを、詫びる良い機会がやってきたと思った。

(帰省して謝りたい。そして、早く家族に会いたい)

「善は急げ」と、翌朝一番の新幹線に飛び乗った。

 

  その晩、思いがけない人物が生禅寺に訪れた。

 五年前の夏安居で出会い、友人関係にある高木修二であった。

 高木は、遼太より一歳年上で、一浪して都南大四年に在学していた。

「やあ。元気か!」

「いつ、来られたのですか?」

「さっきだよ。君と一緒というのは心強いよ」

 高木が大僧堂にふらりとやって来たのは午後九時を回っていた。

「松沢さんと小林さんも一緒なんだろ」

「良く知っていますね」

「山城君と同じ研究室だから、聞いて知っているよ。彼は、松沢さんに関心があるようだ」

 意外な高木の言葉に、遼太は戸惑った。

「え! そうなんですか?」

 遼太は食い入るように聴いた。

「君も好意を抱いているの?」

 高木は忌憚(きたん)なく問うた。

「そういうのじゃないです」

 遼太は、山城と彩香の関係について、もっと詳しい情報を聞き出したいと思った。

「少し、屋上に行って夜景でも見ようか」

 高木は、遼太を誘った。

 満天の星と屋上から眺める美しい夜景は、遼太の心を奪った。

「花より団子だ。君も団子の方に関心があるだろ」

 空を見上げる遼太に、高木は買ってきた団子餅を手渡し、遼太の関心事を語り始めた。

 

「先輩は、この夏郷里には帰られますか?」

 山城は、キャンパスで高木を呼び止めて尋ねた。

「いや、長野のお寺で、御老師様に喝を入れてもらって、勉強に没頭しようと思っている」

「林田遼太君のおじいさんのお寺ですか?」

「良く知っているね。君は林田君を知っているの?」

「話したことはありませんが、名前は良く聞きます」

「誰から?」

「同郷の友人です」

「時々君と話している女性か」

「そうです。松沢彩香と言います。最近少し距離が遠のいてきたように感じます。長野に行かれるなら、……」

「何だね」

「いや、やっぱり構いません」

「そこまで言って止める手はないだろう」

「彼女の様子を見て来て貰えれば嬉しいです」

「林田君との関係が、心配なのか?」

「先輩はどう思います。大学には彼女のファンがいて、直接手紙を渡した者も知っています。彼女は、相手にはしていませんが、どうも林田君に魅かれているような気がします」

「君は、松沢さんに告白でもしたのか」

「していません」

「薄情に聞こえるかもしれないが、君とは友人だと割り切っているのではないのか。交際したいと思うならしっかり伝えなきゃだめだよ」

「自分は、余り器用ではないので、そうすれば勉強に身が入らなくなることが分かっています」

「一体どっちが大事なんだ」

「両方大事ですが、どちらかと言われると、今は勉強の方です」

「それなら、今までどおり友達のままで良いじゃないか」

「そうですね。私も先輩のように勉強に没頭することにします」

「ここに来る前に、彼とはそんな話をしたことだよ」

 高木は、山城との経緯に触れた。

「自分はどうすればいいんでしょうね?」

「どうするって……。君は彼女のこと、どう思っているの」

「嫌いではないです」

「嫌いではない?」

 高木は(いぶか)って問い直した。

「いえ、好きです。彼女の優しくて奥ゆかしい人柄に好意を抱いています」

 遼太は、彩香への思いを口にした。

「そうか、それは良い。彼女も君に好意を持っているのだろう」

「それは分かりません。もし、そうだとすれば、腑に落ちないことがあります」

「何が?」

「何が、と言われても上手く説明できないのですが、……」

「どうも分からんな。君の言うことが」

「ここに来るまでは、時間が経つのも忘れてしまうくらい楽しかったのですが、来てからは、妙にしっくりいきません。自分が失敗を繰り返すものだから、ふがいない様子に失望して、和尚や修行生を頼っているのではないかと思うのです。実のところ、彼女の方が何年も修行したような落ち着きがありますので、つい対抗意識が出てしまって、恰好良いところを見せて挽回しなければと思っています」

「君は、彼女に恰好良さを見せたいと思っているの?」

「それはそうですよ」

「彼女は、君に恰好良さを求めているのだろうか? よそよそしい仕草をしたり、変に取り繕ったりはしてはいないとは思うが、それは、良くないからね」

 的を射た高木の助言であった。

 

「どう、脚の具合?」

 彩香は、流水に声をかけた。

「ええ、もうすっかりいいわ。でももう坐禅こりごり……。私もう帰りたいわ、なんて言ったら怒るわね、彩香さん」

「えっ、帰りたいの?」

「冗談よ。心配しないで、明日からはみんなと同じようにやるわ」

「良かった。安心したわよ」

「ところで、大丈夫かしらね、林田さん」

「何が?」

「脚よ。彩香さんも知っているでしょう。林田さん、今日何回も、脚を組み替えていたのよ」

「知らないわ」

「そんなことないでしょう。私、林田さんが何回も組み替えているのを見たわ。私も痛くなったからお行儀が悪かったけど、投げ出してマッサージしていたの」

「そう。でも私気付かなかったわ。雑念を払拭しようと必死だったからかしら」

「林田さんって、本当に御老師様のお孫さんかしらね」

 流水は疑問を投げかけた。

「どうして?」

「だって、坐禅、落ち着いて出来ないのよ。可笑しくて笑いたくなったけど、神聖な場でしょ。だから笑うこともできず、こらえていたの。本当に何度も修行されたのかしら」

「そうよ。だからあんなに落ち着いていられるのだわ。夕刻の坐禅の時だって、一度も脚の組み替えをされなかったのよ。私、何度か解坐して、マッサージしようかと思ったけど、林田さんが左斜め前で、真剣に坐っておられたので頑張ったの」

「えらいわね。彩香さん」

「そんなことないわ。私、林田さんと約束したの。今回の旅行の目的は、修行だって。だから私、林田さんに恥をかかすことはしまいと思って、やっているの」

「だから、えらいと言っているのよ」

「どうして?」

「だって、……。あなた林田さんのこと、どう思っているの?」

「いい方だと思っているわ。親切だし、優しいし、それに何より努力家だわ」

「そうね」

「それに強い面も持っているし。私努力する人って魅力を感じるわ」

「良く分かったわ。彩香さん、私、彩香さんのためにも明日から頑張るわ」

「ありがとう。流水さん」

 

 朝の清掃の時間、遼太はいつもより早く、寺の玄関から続く坂道を下った場所で掃除に励んでいた。

 彩香は、大広間のガラスを拭くため、流水と新しく加わった関東外語大学に在学する太田美智や若松由紀子と一緒に、女子僧堂から坂道を登って本堂に向かっていた。

「おはようございます」

 彩香は、坂道の下の広場を掃除する遼太に向かって、元気な挨拶をした。

 遼太は、彩香の目を避け、流水や太田、若松に右手を挙げて会釈をすると、下を向いて掃除にとりかかった。

 清掃後、遼太は水行を終えた女性四人と本堂の前で顔を合わせた。

 彩香は軽く会釈をして、他の三人と静かに本堂に入った。

 女性同士で行動する機会が増えた彩香と、直接言葉を交わすことがなくなった遼太は、寂しさが募り、意地を張り通した。

 遼太は、そんな自分に嫌気がさし、四階の月光殿で勉学に励む高木を訪ねた。

「林田君、早いものだね。もう一週間が過ぎようとしているよ」

「そうですね。でも僕は早いというより、長かったという気がします」

「僕は毎日が勝負だと思って取り組んでいるから、時間が短く感じるんだ。林田君、時間を有効に使おうな。この瞬間が勝負だから」

「この瞬間が勝負ですか?」

「そうさ。君を見ていると、焦ってはいるが勝負はしない。あえて、彩香さんから遠ざかっているだろ。君は彩香さんと話したい。だが、変な意地があって話せない。君のその態度に彩香さんは、戸惑っているのではないかな」

「彼女の周りには、いつも誰かがいるから、話す機会がつかめないんです」

「それは、君が意識しすぎているからだよ。自然体が一番。彼女も自然体で接して欲しいと思っているよ」

「彩香さんと話をされたのですか?」

「昨日、話をしたよ」

 高木は、その時の様子を遼太に語って聞かせた。 

 

 高木が軽い運動をするため屋上に出ると、彩香が一人遠くを眺めていた。

「お一人ですか?」

「あら、高木さん」

 振り返る彩香の姿は、どこか不安げだった。

「千曲川を見ながらの考え事ですか?」

「ええ、少し」

「林田君のことかな?」

「えっ! 林田さん、何かおっしゃられていました?」

 彩香は、驚きを隠せない様子で訊ねた。

「いや、特には・・・・・・」

「そうですか」

 彩香は、肩を落とした。

「大分悩まれているように見えますが、……」

「私……、自分がダメな人間のように思います。林田さんにご迷惑かけてはいけないと、お行に専念しているのですが、そのことが林田さんのお気を損ねているのではないかなと思って……。少し分からなくなっています」

 彩香の目に光るものが見えた。

「どうして?」

「林田さんは、これまで厳しい修行をされています。その紹介で連れて来ていただいたのですから、足手まといにならないようにと思ってやっています。林田さんを目標にして、和尚様たちに教えていただいていますが、そのことがいけないのかな、と思ったりしています」

 彩香は、景色を見るでもなく、高木からも顔を背けた。

「それがどうして、いけないと思うの」

 高木は優しく訊いた。

「分からないことは林田さんに聞いて、もっと頼った方が良かったかもしれません」

「いちいち相談すると林田君に負担をかけると思ったからだろ」

「そうなのですが、……。私、林田さんに追いつきたいという気持ちと、お約束したとおり旅行気分を払拭して、頑張っていることを認めていただきたくて意地になっていたように思います。私、責任を感じています」

「あなたが完璧だから、林田君がライバル意識を燃やして対抗しているのかもしれないね」

「ライバルだなんて、とんでもないことです。私なんか足元にも及ばない人です。万一、少しでもそういうお気持ちにさせたとすれば、私のせいです。謝らなければいけません」

「何も謝ることはないよ。林田君が意地になっているだけだから」

「意地にさせたとすれば、その原因は私にあります」

「あなたは、林田君のいうとおり本当に素敵な女性だ。彼が、あなたのこと何と言っていたと思う。松沢さんの優しく奥ゆかしい人柄が好きだと言っていたよ。それが彼の本心だと思うよ」

「本当ですか」

 彩香は、先程までの憂鬱な気持ちが消えた。

「でも、どうしてかしら、私をいつも避けているように見えるけど……」

「そこには、彼のプライドがあったのだろうね。彼の可愛いところだよ」

「私、林田さんを尊敬しています」

「あなたの気持ちは、彼に伝わっているはずだよ」

 彩香は、目の前の霧が一瞬にして晴れていくのを感じた。

 

  

 夜行列車は、午前五時過ぎに長野駅に着いた。

 早朝の乗降客はまばらだった。

「肌寒いわね」

 ホームに降り立つと流水は、寒さに身をすくめた。

「そうね。まだお腹はすかないけど、食堂で少し温まりましょう」

 彩香も腕をさすりながら、手提げバッグを抱えた。

「あそこにしよう」

 遼太は、駅舎を出ると目に入った駅前食堂を指さした。

 食堂の暖簾(のれん)をくぐると三和土(たたき)にテーブル席が一〇席ほど並んでおり、中はがらんとした様子であった。

「何にする?」

 遼太は、メニューを見ながら二人に尋ねた。

「信州そばは、有名よね。私それにします」

 彩香の言葉に、流水も首を軽く縦に振った。

「じゃ、そばを三つ」

 右手を挙げて、遼太は得意のポーズで店員に注文をした。

「おまちどうさまでした」

 彩香と流水は、温かい容器に両手を添えった。

 遼太は、汁を一口飲んだ後、おもむろにそばを口に運んだ。

「このそばは、ボソボソ感があるよ」

「つなぎに小麦のグルテンを利用してないのではないかしら? 百パーセントのそば粉で打っていると思うの」

 彩香は、優しく応えた。

「そうなのか。あれ、流水さんは食べないの?」

「こうして温まると気持ちがいいの」

 流水は、まだ丼の周りに手を置いている。

「美味しいわよ。流水さんも少し食べてみない」

 彩香の勧めで流水は、一口汁をすすり、半分ほど食べると丼を置いた。

 遼太は、流水のテンションの低さが気になった。

 三人は、朝霧に包まれた中、生禅寺を目指して歩いた。

 早朝の町並みは、静かだった。

 サラリーマン風の勤め人が、バス停に向かう姿、重そうな鞄を手にし、駅に向かう女子高生、店のシャッターを開け始めた店主たち、その動きから、街が徐々に活気に満ちていくことを感じさせた。

 善光寺の境内まで辿り着くと、ハトが数羽地面の餌をつついていたのが目に入った。

 参拝者は自分たちだけであった。

「林田さん、何を熱心に拝まれていたの」

「これからの修行が、無事にうまく行くようにということだよ。それと……」

 遼太は、彩香との進展を祈っていた言葉を飲み込んだ。

「あら、私も同じことを拝んでいたの」

「そう、私もよ」

 それぞれお互い顔を見合わせて笑った。

 静かな境内に陽が差し込み、朝霧が消えるまで童心に返り、束の間の幸せの時間を味わった。

「そろそろ記念写真でも撮って、出発しようか」 

 鐘突堂の前で遼太は三脚を構え、自動スイッチをセットして被写体に加わろうと走った。

「あっ、大変!」

「大丈夫!」

 二人は、遼太の顔が花壇の土の上にのめり込むのを目撃して叫んだ。

 花壇を囲む鉄の柵に足を取られたのだ。

 彩香は真っ青になって駆けつけ、真新しいハンカチで遼太の顔の泥を取り除いた。

「柔らかい土のお蔭だよ。おっちょこちょいなんだ」

 遼太は歯を()き出して照れた。

「弘法にも筆の誤りって言うわよ」

 彩香は、大事には至らなかったことに安堵(あんど)の表情を浮かべた。

「猿も木から落ちるのよ」

 流水は、彩香と顔を見合わせて笑った。

 遼太は、しきりに頭をかいた。

 三人が、生禅寺に着いたのは、午前八時を回っていた。

 寺では、和尚や修行生たちが、八月一日から七日まで行われた夏安居の後片付けに取り掛っていた。

 事務局で受付を終えると、無海第一和尚が、彩香と流水を女子僧堂に案内した。

 遼太は一人、男子僧堂に向かった。

「遼太君たち一行は、直ちに本堂に入りなさい」

 荷物を置いて、畳の上で大の字になった途端、館内放送があった。

 四、五百名余りが収容できる広い本堂には、緑の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められ、天井から下がっている壮麗な装飾品の瓔珞(ようらく)や、金色に輝く仏像が安置され、霊気が漂っていた。

 三人が待機していると、無海和尚が現れた。

 彩香と流水は、緊張して体を硬直させた。

「お二人は初めてですから、一通り説明をしておきますね」

 和尚は初心者の二人に、読経や坐禅等について説明を始めた。

 その間中、二人は身動き一つせず熱心に聞いた。

「この後のことは、遼太君に任せるので、分からないことなど何でも彼に聞いてください。そうしたら、遼太君、頼むよ」

 和尚が、その場を去ると、張り詰めた空気は緩んだ。

 門下生が対応してくれると期待していた、もくろみがはずれ焦った。

「私、凄く緊張したわ」

 彩香は、ほっとした様子を見せた。

「私もよ。だって、無海和尚さん、威厳があるもの。体がすっかり固まってしまって」

 流水は、硬直していた身体を伸ばした。

「じゃあ、気持ちを落ち着けて、やりましょうか」

 遼太は、平然さを装った。

「はい。分かりました」

 彩香と流水は、経典を手にして素直に応えた。

 遼太はプレッシャーに耐えながら、勘を頼りにリズムをとり、必死で木魚を叩いた。

 遼太の初体験の木魚に気付く様子も無く、二人は読経に専念した。

「読経はひとまずこれで終わりにします。今から坐禅を組みます」

「はい」

 彩香と流水は、無海和尚から説明を受けたとおり、円坐を持ち上げて礼をし、円座の上で足踏みをして、円座に腰をおろし坐禅の姿勢に入った。

 三〇分もすると、遼太は足の(しび)れに我慢ができなくなった。

 解坐(かいざ)して足をマッサージし、しびれが収まるのを待って、円座の上に立ち、合掌して「南無(なむ)三宝(さんぼう)供養(くよう)一切(いっさい)成就(じょうじゅ)」と唱えた。

 再び坐禅に入るが、二人は、一時間余り微動もせず坐禅の姿勢を保っている。

 一時間半を過ぎた頃、流水が観念して解坐し、足を投げ出してマッサージを始めた。

「解坐してください」

 昼食のドラの合図に合わせて、遼太が伝えるまで、彩香は姿勢を崩すことはなかった。

「初めての体験は、どうだった?」

 遼太は彩香に訊いた。

「ダメだわ。一生懸命雑念を打ち消そうとしたけど、そう思えば思うほど雑念が生じてしまって、とても無念無想という訳にはいかないものね」

「私、もうダメ。足が痛くて途中からマッサージ続けたの。彩香さんは大丈夫なの?」

「心が一杯で、痛さよりも雑念を打ち消そうと必死だったから、余り気にならなかったわ」

 彩香の芯の強さと気構えに遼太は感心した。

 食堂では、二五、二六人の修行生たちの姿があった。

「御老師様は?」

 遼太は、隣の修行生に管長の所在を訊いた。

「今朝早く、和歌山別院に出かけられました」

「いつ帰山されますか?」

「和尚様から、一か月ほど滞在されると聞いています」

 その会話は、彩香の耳にも届いた。

「合掌!」

 食堂に全員が揃うと、無海和尚の重みのある声が響いた。

 その声に合わせて、食前偈が始まり遼太も唱えた。

 彩香は、黙って合掌した。

 流水は周囲を見まわした後、慌てたように手を合わせた。

 昼食を終えた後、遼太は大僧堂の窓を開け放ち、風を入れ替えて畳の上に横になった。

 旅の疲れから、目が覚めると午後の六時を回っていた。

 慌てて水行をすませ、本堂に入ると読経(どきょう)が始まっていた。

 最後尾で一人、倒置(とうち)三拝(さんぱい)を行い読経に加わった。

 前々列に、白衣に着替えた彩香の姿が見えた。

 読経後、坐禅に移ると遼太の斜め前に彩香が坐った。

 遼太は範を示す機会だと平然と構えたが、彩香を意識するあまり、肩に力が入って体が大きく揺れた。

 その背中に、警策が響いた。

 ふがいない姿を見られたことに気まずさを感じ、足のしびれを(こら)えて坐禅を続けた。

 坐禅終了の合図があった。

 痛む足首をゆっくり解き放ち、遼太が立ち上がろうとした時であった。

 足がふらつき、体があらぬ方向にそれて倒れた。

「林田さん、大丈夫ですか?」 

 廊下に足を踏み出していた彩香は、大きな音に気付いて引き返した。

「大丈夫だよ」

 不様(ぶざま)な恰好を見られたのが悔しく、()慳貪(けんどん)な言い方になった

「小林さんの姿が見えないみたいだけど……」

「彼女、たいそう疲れたようで、お部屋で休んでいます」

「脚は大丈夫だろうか?」

「ええ、でも今日はもう坐禅はお休みしたいと言っていました」

「そうだろうね。初心者には辛いと思うよ」

 流水への同情を示した。

「松沢さんは、昼食後どうしていたの?」

「和尚さんに、食前偈とか、いろいろな作法などお教えいただいていました。作務のお手伝いの後、水行して白衣に着替えて本堂に来ていました」

「そうですか」

 遼太は、初心者の彩香には負けたくないという感情が湧いた。

 その感情を隠すかのように、平然と(あご)をなでながら食堂に向かった。

 暫くして彩香が、流水を伴って食堂に入ってきた。

 彩香の旺盛な食欲に比して、流水は顔色も冴えなかった。

 丼に盛られたご飯の三分の二をボールに移し替え、残りをやっとのこと食べていた。

 遼太は、そんな流水を心配しつつも、彩香には対抗心が募った。