その日の夜、実家に着いた。
「遼太! 良く帰って来たね」
離れに向かおうとしていた祖母の鶴代が、いち早く遼太の姿を見つけた。
その声に次々と家族が、玄関から出て来て遼太を迎えた。
遼太は、その場に立ち尽くしたまま不義理を詫びた。
「それはもういい。そんなところにいないで、入れ」
祖父の茂は、優しい目で手招きした。
「それじゃあ、今から遼太の帰還祝いをしよう。母さん、酒の準備をしてくれるか」
機嫌の良い和正の声に、遼太は安堵した。
「私も一緒に準備させてね」
鶴代は、にこにこしながら由意と料理に取り掛かった。
林田家の宴席は、奥座敷で行うことが習わしであった。
神棚と仏壇がある座敷には、生禅寺管長の描いた達磨大師の掛け軸が掛けられており、神仏に見守られているような落ち着きがある。
「我儘を通して、皆に迷惑をかけました。本当に、ごめんなさい」
温かい家族の笑顔を前にして、どうしても伝えたい言葉であった。
身勝手さを誰も咎めることはなかった。
「遼太、やりたいことを貫きなさい。家族は皆、全力で応援する」
茂の力強い言葉の後、それぞれから激励の声が続いた。
家族が両手を挙げて支えてくれていることを知り、遼太は胸がはち切れそうになった。
帰省から五日後、彩香から手紙が届いた。
残暑お見舞い申しあげます。
長野旅行は、大変お世話になりました。初めての坐禅でしたが、心が落ち着き、洗われるような感じで、とても充実して貴重な経験でした。できれば、(いや必ず)機会を見つけて、日数を多くとって御老師様のいらっしゃる時に是非出かけてみようと考えています。
みちのくへ帰ってからも毎夜、休む前に必ず坐禅をするように心がけています。話題の『般若心経入門』の本を買い、仏教の教えを学んでいます。
坐禅の機会を得られましたこと、深く感謝しています。この現在の気持ちを大切にしようと思います。ありがとうございました。勉強の方も計画を立てて取り掛かろうと思います。
最後になりましたが、腕の方は如何でしょうか。早く良くなりますよう祈っています。
お身体留意なさってください。
昭和四五年八月一九日

彩香は帰郷した翌日に、遼太の帰省を想定して、手紙を投函している。
遼太は、その手際良さに感心しながら、居心地良い郷里の生活などをしたためて、近くの郵便局から返事を出した。
郵便局から戻ると、中学時代の友人が訪ねて来ていた。
「明日?」
急なキャンプの誘いであった。
「遼ちゃんが帰省していることを、昨日知ったばかりだから……」
「分かった。皆にも会いたいから行くよ」
キャンプ地は、遼太が一度は行ってみたいと思っていた入野松原であった。
自宅から四〇キロメートルほど離れた場所だ。
当日、先陣となって買い出しを行い、目的地に乗り込んだ。
眼前には見渡す限りの太平洋が開け、数キロメートルに及ぶ白浜の海岸は絶景であった。

白浜に沿った防砂林の役割を果たす松林の中は、涼しい風が吹き抜ける。
そこに一〇組のテントを張り、料理やキャンプファイヤーの準備に取りかかった。

日が傾き始めた頃、懐かしい仲間たちが数台の車に分乗して合流すると、忽ち賑やかな声がキャンプ場に響き渡った。
焚き火を取り囲み、軽やかなリズムのフォークダンスが始まった。
火が高く舞いあがると、高揚感に包まれ、心は中学時代にタイムスリップした。
火の勢いが弱まると、焚き火の周りで宴に突入し、日頃、会う機会の少ない友人たちが近況報告を始めた。
遼太は、冷酒を豪快に飲み干す酒豪たちと、思い出話に花を咲かせた。
酒宴のパラダイスは、長時間浜辺に展開された。
花火の音も歌声もすっかり静まりかえった頃、遼太は、砂浜で独り寝転がっていた。
頭上に輝く満天の星がぐるぐる回る。
「大丈夫なの? 酔い潰れていたわよ。心配になって……」
いきなり野田佳織の顔が覗いた。
目を擦った。
「えっ! かおりんがここに連れて来たの」
「私、一時間ほど前に来たの。そうしたら、みんなそれぞれいい気分で、テントで寝転がっていたわ。遼太君は一人、波打ち際で寝ていたのよ。波にさらわれたら大変と思って、ここまで引きずってきたの。覚えてない?」
長い髪を撫でおろしながら、遼太に声をかけた。
佳織は、遼太が初めて淡い恋心を抱いた女性であった。
校区の違う小学校から中学校に入学して、同じクラスになり、遼太が委員長、佳織が副委員長を務め、それ以後懇意にしている。
中学卒業後、遼太は地元の高校へ進んだが、佳織は、高知市内の進学校から現役で京都の国立大学に進学した文武両道の秀才である。
佳織は帰省した日、遼太がキャンプに参加していることを知り、愛車のスカイラインを飛ばしてやって来たのだった。
「遼ちゃんは、弁護士になるのだってね。ぴったりだと思うわ。応援するわよ」
「ありがとう。かおりんは、どうするの?」
「私、卒業したら遼ちゃんのいる東京に行くわ」
佳織は、有名な商事会社に内定していることを告げた。
「それはおめでとう。でも、ご両親は寂しいだろうね」
「人生は一回きりじゃない。自分のやりたいことをして、悔いのない人生を過ごさなきゃ」
「それは、そうだが。親御さんは許してくれたの?」
「特に反対はしなかったわ」
「そうか。それは良かった」
「ねえ、遼ちゃん、恋人はいる?」
佳織は、神妙な顔で訊いた。
「いないよ」
遼太は、彩香と相思相愛の仲だと胸を張って言える自信がなかった。
「そう、良かったわ。ところで、遼ちゃん、異性の友人関係ってあると思う」
佳織は、熱っぽい眼差しを遼太に向けた。
「あると思うよ。現に、かおりんと僕だって友達同士だろ」
遼太は、佳織との関係がそうだと思った。
「それはそうだけど、より親密な異性の友人関係のことよ」
「僕はかおりんを信頼しているし、大いに親しみを感じている。だから、かおりんとは親友だと勝手に思い込んでいるけど、かおりんは、そうは思ってくれていないの」
「そうなのよね。遼ちゃんは、いつも勝手になのよね」
「勝手に、ではいけないのか」
「相手の気持ちも大事にしなきゃ」
「じゃあ、かおりんは僕を親友とは思ってないのか」
「そういうことではないの。もっとデリケートなことなのよ」
「デリケートっていう意味が分からないけど」
「好きか嫌いかということよ」
「もちろん好きに決まっているよ。好きだからこうして何でも話ができるじゃないか」
「じゃあ、改めて聴くわ。同性の友人関係と、異性の友人関係とは、同じと思う?」
「ちょっと違う気もするね。男同士だったら、一緒の部屋で寝泊まりできるけど、女性とはそうはいかないからね」
「なぜ、いかないの」
「それは……」
遼太は言葉が詰まった。
「私が言いたかったのは、そこなの。異性間では、より親密な友人関係は成立しないと思うの。好きな異性に対しては、友情を超えてお互いに身も心も許し合うのが自然じゃないかしら」
大胆な佳織の発言に、遼太は戸惑った。
「結婚するなら、いいかもしれないけど、僕は好きな女性には決して手は出さないよ。手を握ることだってしない」
遼太の正直な気持ちだった。
「あら、そうなの? 私、本当に好きな人とは、手もつなぎたいし、結ばれたいと思っているわ」
遼太は、佳織がすっかり進歩的な女性になったと思った。
うろたえる遼太の頬に、彩香は軽く唇をあてた。
横たわる遼太の体は自由がきかず、それを避けることができなかった。
鼓動が高鳴った。
「遼ちゃんって、本当にうぶなのね。そんなところ、大好きなの」
佳織は、遼太に激しい衝撃を残して消えた。
翌朝早く、遼太は二日酔いの重い頭を抱え、水を求めて炊事場に向かった。
「遼ちゃん、おはよう。しんどそうね。大丈夫?」
朝食の準備にとりかかっていた佳織は、昨夜は何事もなかったかのようであった。
「はい、お水よ。喉が渇いていたのでしょう」
遼太は、恥ずかしさで佳織の顔をまともに見ることができない。
佳織は、遼太の飲み終えたコップを受け取り、再び水を注いで差し出した。
「おかわりよ。飲んで頂戴!」
平然と話す佳織の気持ちが理解できず困惑した。
「もういいの?」
佳織は、空いたコップを受け取りながら、笑顔を返した。
「ああ、有り難う」
佳織に背を向け、右手を挙げてその場を立ち去った。

キャンプの翌々日、遼太の家の前に、真っ赤なスカイライン二〇〇〇GTが止まった。
「おはようございます。私、遼太君の同級生の野田佳織です」
庭で草むしりをする鶴代に、挨拶する声が二階の遼太の部屋に聞こえた。
「まあ、まあ。遼太のお友達ですか。いつも遼太がお世話になっています。待ってくださいね」
鶴代は母屋に入り、由意に訪問客のことを伝えた。
「おはよう。野田さんですね。遼太から話は良く聞きます。どうぞ、おあがりください」
由意は、草むしりを始めていた佳織に声をかけた。
「ここで待たせていただきます。これは京都のお土産です。皆さんで召し上がってください」
「おはよう!」
由意が、土産物の包みを手にしてお礼を述べているところに、遼太が現れた。
「二日酔いはもう大丈夫? 今日これから足摺にドライブしない?」
「二人で?」
「そうよ。私の運転じゃ心配かしら」
「そうじゃないけど・・・・・・」
「じゃ、行きましょう」
佳織は、強引に誘った。
車の中は、爽やかな香りが漂い、カーステレオから聞き慣れた音楽が流れると、遼太は、安らいだ気持ちになった。
佳織は、高南台地を下り足摺岬や竜串、見残しを回り、ジョン万次郎像を見て、三八番札所の金剛福寺に参拝するという片道一〇〇キロ余りの行程を遼太に伝えた。
遼太が、乗り心地の良い香織の運転に安心して、車窓の景色を楽しんでいる内に、車は足摺に着いた。
金剛福寺の境内で、バスツアーに参加した四国八十八か所巡りの遍路たちの間を、一人白装束に包まれた徒歩の遍路が通り抜けるのが見えた。
「私たちもお四国回りしましょうか」
「遍路になるの?」
「そうよ。私、叶えて欲しい願い事があるからやりたいと思っているの」
「願い事って?」
「それは、今は言えないけど、いずれ言える時がくると思うわ。遼ちゃんにはないの」
「それはあるよ」
「何なの?」
「弁護士になることだよ」
「私、遼ちゃんが弁護士になるためのお手伝いがしたいわ」
「それは、いいよ。人に助けてもらうものではないから。ひたすら努力あるのみだよ」
「そういうまっしぐらに向かうところは、遼ちゃんらしいわね。応援するわね。私……」
佳織は、伝えようとした言葉を飲み込んだ。
「遼ちゃんは、お四国回りを車でするのは嫌?」
「そんなこと考えたこともないよ」
「今通り過ぎたあの人のように、歩いてお四国回りする人は本当に偉いわ。でも大変だから、私は車を利用してやりたいわ。ご利益は同じでしょ」
「車でもご利益があるのか?」
「あるわよ。バスツアーがあるのだから」
「遼ちゃんは、何年かかっても一人で歩いて巡るタイプなのかしら。そう言えば、あの人、遼ちゃんにどこか感じが似てるわね」
「僕は、我慢強くもないし、寂しがり屋だから、とてもあのように一人旅は続けられないよ」
「じゃあ、私と一緒かしら。私も一人は嫌だから一緒に旅をしたいわ」
佳織のさりげない言葉を、遼太は聞き流した。
「大吉よ。ほらね。願い事適うとあるわ。嬉しい。遼ちゃんは、どうなの?」
賽銭箱の横のおみくじを引いて、佳織ははしゃいだ。
「僕も大吉だよ」
「恋愛運は、どうなの?」
「……」
「あら、いいじゃない。私もよ」
偶然、二人とも「恋叶う」と記されていた。
「海岸線に沿って車を走らせることできるかなあ」
「いいわよ」
夏の日差しを受けて、大海原は一層と輝く。
「太平洋は、広くて、穏やかで、気持ちがいいな」
車内にまぶしく射し込んできた夕陽を避けるように、佳織は人気のないところに車を止めた。
「この景色、絵になるわね。まさに絶景ね。私、美しいものに出会うと心が洗われる気持ちになるの。景色もそうだし、汚れのない美しい心に触れても胸がキュンとなるの」
佳織は、視線を手許に移した。
「きれいな優しい手ね。この手の中に包まれる人は幸せね。遼ちゃんの心には、陰りがないから」
上目遣いの佳織に、女性としての魅力が伝わってきた。
「私、就職を東京に決めたのは、好きな人と同じ街の空気を吸いたいと思ったからよ」
佳織の言葉に、息が詰まる思いがした。
「もう帰ろうか」
このまま時間が過ぎることに、不安を覚えた。
「まだいいじゃない。出かけるとき、おばさんがゆっくりしてらっしゃい、といわれたでしょ」
「あれは、儀礼的な言葉だよ」
「遼ちゃん、私が何か企んでいそうで恐いの?」
返す言葉がなかった。
「心配しないで、何もしないわよ。でも、遼ちゃんって、本当に可愛いから大好きなの。私、四月生まれだから、三月生まれの遼ちゃん君と一年違うでしょ。姉さんぶって、ごめんなさい」
遼太の浮かない様子に、佳織は神妙になった。
「かおりんのことは、大好きだよ。無二の親友だから」
落ち込む佳織に放った言葉は、正直な気持ちであった。
「私、中学校で遼ちゃんに出会ってから、ずっと好きなの。弟が生まれるまで、長く一人っ子で育ったでしょう。だから、何でも安心して話せる遼ちゃんが、私の傍にいてくれたらと、いつも思っていたの。今もその気持ちは変わらないわ」
佳織は、素直に思いを伝えた。
女性からの初めて告白に、嫌な気持ちはしなかった。
彩香と出会うまでは、少なからず好意を寄せていた女性であり、竹を割ったような佳織の性格には、随分助けられてきたのだ。
自分より優れていると認めて、これまで敬意を払ってきたのだが、今は彩香の比重が重い。
「遼ちゃん、お願いがあるの。聞いてもらえる?」
佳織の瞳は澄んでいた。
「内容によるよ」
「私をハグして欲しいの」
遼太は、彩香の姿が脳裏をよぎり当惑した。
「崇高な女性に対しては、決して本能による行動はしない。そう決めてるんだ」
「遼ちゃんは、私を崇高な女性と思ってくれているんだ」
「勿論そうだよ。かおりんはとても大切な女性だし、最高の異性の友だよ」
「その異性の友というのが少し引っかかるけど、好意を寄せてもらっていると思っていいのね?」
「かおりんには、特別な親しみを感じているよ」
「どんなに好きな女性が、求めても行動には移さないの?」
「勿論だよ。僕の女性に対する敬意の表現は、決して女性の体に触れないということなんだ」
「じゃあ、結婚もしないの?」
「女性の操を大切にしたいから、結婚するまでは清廉潔癖でいたいんだ。女性の身体に触れることで、その女性の清らかな気持ちまで踏みにじることになると思っている」
「遼ちゃんにとって、ハグってそんなに重いことなの? キスも同じなの?」
「それはそうだよ。冗談や遊びというわけにはいかないから」
「分かったわ。遼ちゃんの本音が聞けて。私、遊びではないから、遼ちゃんの気持ち大事にするわね」
引き下がる佳織の目は潤んでいた。
