書置きという手段での上京は、遼太の心を暗くしていた。

 生禅寺の祖父に精神的支えや助言を得ようと、遼太は上京途上、大阪から夜行列車に乗り換えて長野へ向かった。

 早朝、長野駅に着くと歩いて生禅寺を訪ねた。

 玄関は開いていたが、誰の誰の姿も見当たらない。

 そのまま四階の部屋に上がり布団を敷いた。

 夜行列車で神経が高ぶり、一睡もできず疲れはピークに達していた。

 着替えをすませ横になった時、襖戸がすうーっと開いた。

「遼太君、ここに居たのかね。事務局で受付も通さず消えたと修行生が言うものだから、捜していたところだよ。早速受付してきなさい。それから水行をしてみんなと一緒にお勤めしなさい」

 第一和尚の無海であった。

 遼太は言われるまま、受付を済ませ、広い大僧堂の片隅に荷物を置き、水行場へ向かった。

 四年前、鉄岩和尚に叩き込まれた水行場は整地され、新しい建物が建築中であった。

 遼太は、当時のことを思い起こしながら、本堂と廊下を隔てた向かいの男子水行場に入った。

 裸で薄暗い水行場に立つと心を不安にした。

 その不安を取り除くように、大きな声で九字を切り、経を唱えて水中に足を入れた。

 春の水は冷たく眠気が冷めた。

 白衣に着替え、袈裟と数珠を着けて本堂に入ると、仏檀から蝋燭のわずかばかりの明かりが灯る中で、坐禅をする修行僧が薄っすらと見えた。

 物音一つない場の雰囲気に身が引き締まった。

 背筋を伸ばし、肩の力を抜き、目を半眼にして、半間ばかり前に置き、呼吸を整えて坐禅の姿勢に入った。

 水行場からあがったばかりで、体がぽかぽかと気持ち良く、夢の世界に入り込むのに時間はかからなかった。

 数分後、遼太の肩にピシッという警策の音が炸裂し、静寂な本堂に鳴り響いた。 

 その日一日の行を終えた後、御方丈から遼太に声がかかった。

 恐る恐る入口の呼び鈴を押した。

「入れ!」 

 おずおずと中に入ると、坐禅を組んだ老僧の姿が見えた。

 遼太が畏敬の念を抱く祖父の管長である。

 とても八〇歳を超えているとは思えないほどの肌艶で威厳に満ちていた。

「お前は、これからが大事だぞ。不屈の精神で人一倍の努力をしなければ、決して目的は成就しない。その覚悟はあろうな」

「はい」

 吊り上った濃い眉毛の下から鋭い眼光を感じたが、目を()らすことなく、その言葉を受け止めた。

「良く訪ねてきた。ところで、いつ上京するのか」

 実家の誰にも長野に立ち寄ることは伝えていない。

 上京についての事情も、家族の者が知らせたとも思えなかった。

 透視力を実感した。

「明日、午後に出発します」

「そうか。それなら今からお前に喝を入れよう。覚悟はいいな」

 含みのある言葉に、これから何が起こるのか、遼太はいやな予感がして背筋が凍る思いがした。

「今から、直ちに水行せよ。その後、五階の宝生蜜殿に入り、朝まで修行しなさい」

 管長の厳しい言葉にたじろぎながらも、受け入れざるを得ないと覚悟を決めた。

 宝生蜜殿に、不安な気持ちで足を踏み入れたのは一時間後であった。

 厚さ一〇センチの強固な鉄の扉を開けた。

 遼太が、足を踏み入れると外から頑丈な錠前がおろされる音が(かす)かに聞こえた。

 尻込みしながら、遼太は一歩進んだ。

 最初の三畳余りの部屋から奥の部屋に入った時であった。

 遼太は棒立ちになった。

 臆病な遼太を襲ったのは、深い憂いを秘めた女の幽霊であった。

 その幽霊が、じっと遼太を見つめていたのだ。

 目は赤く充血し、顔半分が溶けて(ただ)れた形相で、哀しい憂いを秘めていた。

 赤と青の炎が、体からゆらゆらと燃え上がり、それが火の玉となって飛び交っていた。

 遼太は後ずさりをした。

 奥の部屋に踏み込む勇気が湧かない。

 恐怖心に打ちひしがれ体が硬直した。

 数時間前、遼太は一人の修行生から聞いた話を思い起こした。

「一週間ばかり前のことですけどね、大変なことがありました。五階の宝生蜜殿、御存知ですよね、あそこで大居士の、ほら徹世さん、あの方が修行されたのです」

 遼太は真剣になって聴いた。

「あの方、意外と気が小さいのですね。その日、宝生蜜殿で修行せよと聖師様から言われて、体が震えていました。誰の目にも分かるほどでした。夜の一〇時に入殿して、一時間が経ったころ、宝生蜜殿からわめき声が聞こえてきたので、和尚が駆けつけると、徹世さん、白衣を踏みつけて倒れていたのです。額にこぶを作り、見るもひどい恰好でした。気が付いてから、様子を聴くと、ひどく(おび)えた声で『幽霊が出た』というのです。それは大騒ぎでした」

 遼太は、数珠を手に強く握りしめて合掌した。

 入口に立ったまま、大声で何度も何度も繰り返し般若心経を唱えた。

 そうすることで、心の動揺を抑えようとしたが、恐怖心を払拭することは容易ではなかった。

 観念して奥の間に入室し、十三仏様に向かい正坐して、「上香偈(じょうこうげ)」を唱えながら線香を刺した。

成仏できない魂の供養には、線香が一番だと思ったからだが、芳しい線香の香りさえも不気味に感じた。 

 鐘と木魚を交互に叩き、必死で般若心経を唱えた。

 それが終わると、大悲(だいひ)(しん)陀羅尼(だらに)延命(えんめい)十句(じゅっく)観音経(かんのんきょう)消災(しょうさい)(みょう)吉祥(きちじょう)陀羅尼(だらに)舎利(しゃり)礼文(らいもん)諸仏(しょぶつ)光明(こうみょう)真言(しんごん)()()誓願(せいがん)十三仏(じゅうさんぶつ)御真言(ごしんごん)(せい)師様御真言(しさまごしんごん)等々、額に汗しながら繰り返し唱えた。

 声がかすれるまで唱え、疲れを覚えたが、止めるわけにはいかない。

 止めれば背後から幽霊に襲われると思った。

 無念無想の境地に入れば、幽霊も襲わないだろうと考え、坐禅に入ることにした。

 膝を崩して立ち上がろうとすると、しびれて立ち上がることができない。

 やっとのこと、坐禅の体勢を整え、十三仏様を前に対坐すると、遼太の左膝の真ん前に真新しい白木の箱があることに気付いた。

「遼太君、この新聞を見てごらん。まだ一八歳だよ。世の中が厭になったと言って、入水自殺をしている。悲しいことだ。その遺骨を当山に安置している。成仏できればいいがね」

 遼太は、朝、受付で、事務局長から聞いた話はこれかと察知した。

 この女性の幽霊なのか、遼太の気持ちは激しく動揺した。

(もういやだ。逃げ出したい)

 遼太は、異常なまでの恐怖心にとりつかれた。

 燭台に灯した蝋燭(ろうそく)の明かりが、風もないのに揺れ動き、強くなったり、弱々しくなったりして灯っている。

 遼太を取り巻く空気は、不気味さとおぞましさに満ちた異様な状況が渦巻いていた。

 遼太は、恐怖心にさいなまれながら坐禅に没頭した。

 前夜からの疲れで睡魔が襲ってきたが、遼太は、幽霊の冷たい手を想像して睡魔を振り切った。

 一方、雑念が遼太を襲った。

(自分は何のために、ここに来たのか。祖父に気持ちを伝えて、同情を得ようとしていたのか。そうではない。これから東京に出て、法律を学び、弁護士になる。そのためには、多くの困難に挫折しないよう喝を入れてもらい、根性を養おうと訪ねたはずだ。祖父はそうした気持ちを観法(かんぽう)し、この試練を与えてくれたのではないのか。この場で坐れと言ったのは、自分で答えを見つけよということなのか)

 遼太は、坐禅の姿勢を崩さず、真剣に答えを追求した。

(「自己を知る」そうだ、恐いと思うのも自分、恐くないと思うのも自分。やろうとしてやるのも自分、やろうともせず、やらないのも自分だ。そうだったのか)

 遼太は、坐禅の姿勢に入って三時間後、自分の答えを見つけた。

 そうなると自然に心が落ち着いていくのを覚えた。

 胸のお守りがかっかと熱く燃えた。

 そこからひしひしと伝わるものを感じて勇気が湧いた。

(何事にも必死で取り組む。人に頼るのではなく、自力で切り抜けることが大事だ)

 遼太は気持ちが落ち着くと、今まで取り巻いていたおぞましい空気は跡形もなく消えた。

 幽霊は、絵画の中に身を閉じ込めた。

 目の前の骨壺が入った木箱にも何の恐怖も感じることはなくなった。

 不思議なことであった。

 午前四時、御方丈から、放送で解坐の指示があった。

 その間、管長は休むことなく御方丈で遼太のために念じていた。

「満願だ」

 管長から力強い言葉で激励され、満願(まんがん)成就(じょうじゅ)した時の喜びが、三人を乗せた列車が長野駅に近づくにつれ甦ってきた。

 

 遼太の母の実父は、長野の生禅寺という禅道場の管長を務めている。

 遼太は、一歳上の姉の林田美穂といとこで中三の中条莉子と一緒に、高二の夏休みを利用して、母親の勧める夏安居の行に参加したことがあった。

 修学旅行以外、県外に旅することなどなかった遼太にとって旅は不安であったが、国鉄に勤務する叔父が、切符や詳細な乗り継ぎ時刻、地図等周到に準備してくれたお蔭で、連絡船や快速列車を乗り継ぎ、夜行列車で大阪から長野へ無事着くことができたことを思い起こしていた。

「信州は、寒いと聞いていたけど本当ね。昨日までの暑さが嘘みたい」

 美穂は、大阪駅で汗みどろになって、乗り換え電車を待っていた時と異なる気温に、戸惑いを見せた。

「本当に肌寒いわ。でもさすが、長野だと思うわよ。駅からして信仰の町という感じがするもの」

 中条莉子が深い感心を示して放った言葉から、遼太は、なぜ駅舎が寺の形なのかの答えが分かった。

「そういえば、善光寺さんに似ているわね。どうしてこんな形をしているかと思ったわ。そういうことなのね」

 美穂も納得した。

「叔父さんは、長野駅と善光寺の延長線上に、白亜の建物が見えると言っていたよね。鮮やかな朱色の手摺も目印になると言っていたから、歩いて道を覚えよう」

 遼太は、二人に同意を求めた。

「だめよ。遼ちゃん、疲れているからバスで行きましょう。三キロ近くあるのよ。歩けば三〇分はかかるわ。バスだと箱清水のバス停までは、五、六分よ」

 莉子の意見を尊重して、三人はバスに乗り込んだ。

 車窓から山の中腹にある鉄筋コンクリート造りの近代的な生禅寺の建物が見えた。

 本館は、坂を上った場所に建ち、三階が玄関であった。

 玄関を入ると事務局があり廊下を挟んで、広い本堂が開けていた。

 四階は大僧堂、月光殿、日光殿、五階に宝生蜜殿があり、屋上から長野市内が一望できた。本館の周りに、食堂、男子僧堂、女子僧堂、蜜殿、御方丈などが併設されていた。

 遼太は、長野駅が善光寺に因んで寺の様相をしているのに対して、生禅寺は寺であって、寺の形にとらわれていないことに痛快さを感じた。

 

 夏安居の行は、午前三時の起床から始まった。

 遼太は、眠い目をこすりながら水行し、山谷禅に臨んだ。

 山谷禅は、生禅寺から一キロほど山道を登りつめた岩場で、二時間程坐禅を組み無念無想の境地に入るというものだ。

 遼太は、足の痛みをこらえるのが精一杯であった。

 山谷禅と滝の行は隔日で行われ、遼太は早朝の起床が何よりも辛かった。

 滝の行は、寺から山道を三キロ程進んだところにある薄暗い神秘的な場所で行われた。

 滝のそばに近づくにつれ、体の芯まで凍りつくような寒さと恐怖心が襲う。

 一〇メートル近くある高さから、滝壺に落下する水しぶきと共に聞こえる轟音は不気味であった。

 五、六人が、一塊となって入水し、流されないように鉄の鎖につかまる。

頭上から、容赦なく大粒の水の塊が叩きつける中で、合掌して経を唱える。

 その痛みと冷たさで涙は出るが、瞬時に流される。

 滝からあがり正装に整えると、体が温まり何とも言えない気持ち良さに包まれるのだが、遼太はこの滝の行が最も苦痛であった。

 滝の行を終えると、寺の周辺の清掃、水行、読経、坐禅を行い、八時三〇分から朝食、九時三〇分になると教学、読経、坐禅と続き、午後一時に昼食となった。

 その後、三時までの休息時間は、誰もが大僧堂で爆睡状態に陥る。

  三時から五時まで作務供養となるのだが、汗がり落ちる。それを水行で流して六時に夕食。

 さらに、七時から九時までは読経と坐禅、その片付けを終えた後一〇時に消灯、というのが遼太たち修行生の日課であった。

 そうした非日常的な行は、過酷を極めるものであった。

 その様な行に入る数日前のことだ。

 寺に着いて三日目の朝、遼太は帰山を決意して、大僧堂で一人荷物をまとめていた。

「何をしているか!」

 突然、険しい形相で入室してきた鉄岩和尚の怒号が響いた。

 遼太はうつ伏したまま、黙りこくった。

 膝に置いた両手の甲に、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「めそめそする奴があるか。いいからついて来い」

 蜜殿の傍の水行場へ向かう和尚の後を、遼太はしぶしぶついていった。

 水行場で和尚は裸になって、遼太を水行場の正面に立たせると、背後から経を唱えて九字を切った。

「えい!」

 喝と共に、赤い手形がつくほどの張り手が、遼太の背中に加えられた。

 その勢いで、遼太は水行場に飲み込まれた。

「思いっきり水をかぶれ。涙を洗い流すのだ。今日から遼太は生まれ変わるのだ。めそめそしていた自分を捨てて、強い男になるんだ。思いっきり水をかぶれ」

 遼太は、我を忘れて、何杯も何杯も水をかぶった。

「そうだ! その調子だ」

 涙が水の中に消え、しぶきがまた涙に変わるのを何度も繰り返しながら水をかぶり続けた。

 いつしか、心の中のもやもやが洗い流され、不思議な感覚を覚えた。

 そうしたことがあって以降、一か月にも及ぶ修行で遼太は泣き言をはくことはなかった。

 

「厳しいお行なのですね」

 彩香は、遼太の話にすっかり飲み込まれた。

「初縁伝法が夏安居に重なっていたので、余計に厳しかったのかもしれない。普段の日は、それほど過酷ではないので、時期を考えて行けば良かったよ」

「私も坐禅してみたくなったわ。説教も心を決めて聴きたいわ。自分を見つめなおしてみたいの。よろしかったら、生禅寺を紹介してくださらない。流水さんにも話して一緒に行こうと思うの」

 遼太の体験談に、彩香は深い関心を示した。

 翌日、彩香は「馬酔木」で読書しながら遼太を待っていた。

「あれからアパートに帰って、流水さんに話したところ、生禅寺で一緒に修行しようということに意見が一致しました。修行という目的で信州に旅するの、今からとても楽しみです」

 満面の笑顔で話す彩香からは、一時も早く報告したいという思いが溢れていた。

「初心者には、修行は厳しいかもしれないけど、やるだけの価値はあると思う。浮かれ気分は決して味わえないので、本当にいいだろうか」

 遼太には、彩香の「旅する」と言う表現が浮き足立ったように聞こえ、行の厳しさを念押しした。

「分かりました。是非、修行という形をとりたいと思います。流水さんにも、行の厳しさはお話していますので大丈夫です」

 遼太が引き締まった形相で、放った言葉を彩香は敏感に受け止めた。

「僕も寺にはご無沙汰しているから、案内役を兼ねてお伴するよ」

「えっ! 本当ですか。林田さんがご一緒に行っていただけるのでしたら、とても心強いし、大変嬉しいです。よろしくお願いします」

 彩香の目が輝いた。

「私、今度の旅が、自分を磨くステップになるように、また、有意義なものにするために、今日早速、生禅寺にお便りして、昨日遼太さんが話された『初めて坐禅をする人のために参禅の身構え心構え』を取り寄せたいと思います」

 彩香が、ハラハラドキドキを体験し成長を目指す「旅」にしたいという思いは、「旅は楽しいもの」という固定概念を持つ遼太からすれば、厳しさの認識が甘いように感じ、違和感が拭えなかった。

 八月八日、遼太と彩香、流水の三人は夜行で上野駅を発った。

 遼太は、目の前で座席に背中をくっつけ、うたた寝を始めた彩香と流水の寝顔を前に、二度目の帰山で体験した行に、身がすくんだことを思い起こし、厳しさを知らない二人に不安を覚えた。

 

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 授業終了後は、二人で喫茶「馬酔木」で会話を楽しむことが増えた。

 遼太が話始めると、聴き上手の彩香は、相槌を打つタイミングと回数が絶妙だ。

 それが遼太を有頂天にさせる。

 洒落や冗談、変な理屈であっても、彩香は食い入るように聴く。

 自説を展開する時の遼太は、至高のひと時であった。

「高知の方は、お酒お強いのでしょう。どれくらい飲まれるの?」

「ほんのしょうしょうだよ」

「しょうしょうって、どれくらいかしら?」

「しょうしょうというのは、升が二つになるから、つまり、二升のことだよ」

「本当に?」

 彩香は、怪訝そうに尋ねた。

「一升口というのはざらなんだ。どれくらい飲めるかと聞かれると、みんなしょうしょうと答えるよ」

「えっ!高知の方ってお強いとは聞いていたけど、女の人も、ですか?」

「高知では、男勝りの豪快な女性をはちきんと言うんだ。どろめ祭りというのがあって、五合の大杯を一〇秒ぐらいで一気飲みする女傑もいるよ」

「凄いわ!女性でそんな人もいるのですね。林田さん好みですか?」

 目をちらりと遼太に向けた。

「僕は、亭主関白が理想だよ。奥ゆかしい人がいいな」

 遼太は、彩香をまじまじと見た。

 彩香は、その言葉を黙って聴いた。

「土佐の皿鉢料理って、有名ですよね。写真で見たことがありますが、豪華ですね」

「大きな皿に鰹のタタキや刺身とか、巻き寿司などいろんな料理が盛られてテーブルに並ぶのだけど、なぜさわちっていうか知ってる?」

「いえ、知らないわ」

「宴席には、必ず大きな皿に入った料理が八つ出されるんだ。それを肴に飲むというわけだよ。つまり、皿が八つで皿八というんだ」

「え! 私、皿の鉢と書いて皿鉢と思っていたわ。そうだったの。また一つ勉強になりました」

 遼太は、本当かのような冗談を言って、彩香の関心を引き付けることが楽しかった。

「ところで、夏休みはどうする?」

「信州に旅行したいわ。二年くらい前になるのかな。乗鞍岳、上高地、美ケ原、車山、白樺湖へリュックをしょって旅したことがあったの。とても素敵な忘れられない思い出があります。ですからもう一度行ってみたいと思っています」

「僕も二回ほど、長野に行ったことがあるよ」

「ご旅行ですか?」

「修行なんだ。坐禅だよ」

「坐禅ですか?」

 彩香は身を乗り出すようにして尋ねた。

 

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「どこに行こうか?」

「西郷さんを近くで見たいわ」

 混雑した上野駅公園口の改札を出てからも、遼太は高揚感に包まれたままであった。

 荒川と明治神宮で誓ってから一週間もたたないうちに、こうしてカップルで公園を散歩しようとしているのだ。

(夢なら醒めないでくれ)

 信じられない思いで、軽く左手の甲をつまんだが、感覚がない。

 つまんだ右手を持ち上げて頬をたたいた。

「どうされました?」

 周囲の視線と共に彩香の目が注がれた。

「いや。蚊に刺された、かな」

「蚊がいるのですか?」

「いや」

 頭をかいて照れた。

 頬は手形の跡がつくほどに赤く染まったが、遼太はその痛みの感覚が嬉しかった。 

(荒川は、手を繋ぐぐらいは常識だ、と言っていたな。腕を差し出せば、この中に手を突っ込んでくれるだろうか)

 あれやこれやと取り留めのない考えが、頭の中を駆け巡った。 

「危ないわ!」

 信号は、赤であった。

 遼太がたじろいだ時であった。

 彩香の両手が遼太の左腕をしっかりつかんだ。

 信号が青に変わるまで、ほのかな黒髪の甘い香りに至福の喜びを得た。

 夕方の五時を過ぎてもまだ明るい。

 広い青空に一本、まっすぐに伸びる飛行機雲が見えた。

 

 

 もし、ジェット機に代わって空に何か自由に描けるとすれば、腕の中に絡まった彩香の手をもう一方の手で握りしめた姿を描きたい

 青空は、いつしか真っ赤な夕陽に染まった。

「西郷さんって、威厳があるわね」

 彩香は、沈みゆく夕陽の中で銅像をしげしげと見つめて言った。

「確かに威風堂々としているね。でもなぜ、勇ましい軍服姿の騎馬像ではなかったのだろうね」

 遼太は、単純な投げかけをした。

「初めは軍服着用の騎馬銅像の計画だったそうです。騎馬像にする資金が足りないというのが表向きの理由のようですが、本当は西郷さんの高い人気が、反政府的な機運を生みだすことを恐れて、結局犬を連れて歩く人畜無害な人物像になったと高校の授業で習いました」

 遼太は、彩香の薀蓄に感心した。

「この当時、活躍した人たちが、後世に大きな影響を与えたんだね」 

「薩長の人たちの名前が教科書に多く出てきましたけど、私は、土佐が生んだ幕末の志士に親しみを感じています」

 さりげなく、遼太への親しみを伝えてくれた彩香を愛おしく思った。

 

 

 五月の第二日曜日、朝早くドアを叩く音がした。

 遼太は正十が、帰宅したと思い、寝床から動かなかった。

 何度も叩く音に、眼をこすりながらドアを開けた。

「まだ寝ていたのか?」

 部屋に入るなり大きな声をあげたのは、荒川慶介であった

 荒川は、遼太の高校時代の同級生で、一して城東大の政経学部に入学していた。

 合格発表があった日、荒川は遼太の勤務する町役場に訪ね、政治家になるという夢を語って、まもなく上京した。

 その二年後、遼太が上京すると、時々訪ねて来ては遼太を外に連れ出していた。

 遼太にとって荒川は、本音を語れる頼もしい存在であった。

「今日は、正十君はいないのか?」

「仕事で泊まり込みだと言っていたから、てっきり弟が帰ってきたと思ったよ」

「そうなのか。ところで、今日は何の日か知っているだろ?」

「五月九日だろ。そうか、母の日か」

「それには違いないが、林田にとって大事な日だよ。それも知らないで、良くも司法試験を受験するなどと言えるな。今日は短答式試験の日だよ。良い勉強になると思うから、田町まで出て、試験会場の三田大学に行ってみようぜ」

「今からか?」

「試験は午後からだから、一〇時ごろに出よう」

「早くないか?」

「それくらいの気構えがないとだめだ。林田には言ってなかったが、俺も司法試験を受けようと思って勉強を始めているんだ」

「政治家になるのではなかったのか?」

「これからの政治家は、法のスペシャリストが要求される時代だよ。そのためにも司法試験に合格しなきゃいけないんだ」

「へぇー。政治家になるのも大変だね。じゃあ、荒川とはライバルという訳か。益々闘志が湧いてきたよ」

 目映いばかりの目をして、意欲的に語る荒川を見て、遼太は張り合う相手ができたことが嬉しかった。

 三田大学に着くと、掲示板に張り出された受験番号を記した教室の案内図を見て、会場の周りを一巡しベンチに腰をかけた。

 気軽な気持ちで受験生気分を味わっていたが、徐々に増えてくる受験生たちを取り巻く空気は、次第に重々しくなっていくように感じ始めた。

(来るべき挑戦の日、この手の中に必ず勝利をおさめてやる!) 

 遼太は

()かにき、緊迫感に包まれた会場を離れた。

 受験生たちの姿が視界から消えると心が軽くなった。

「試験も時の運だから、神に運を運んでもらうという手もあるぞ。明治神宮のパワースポットへ行ってみようか」

 荒川は、遼太を明治神宮へ誘った。

「へぇー、さすが東京だな」

 遼太は、目の前の大きな鳥居と広大な緑の茂った場所に感心して驚きの言葉を連発した。

「林田、恥ずかしい話だが、上京して二年過ぎたが、女性と公園を散歩したことがないんだ。どっちを向いてもカップルばかりだろう。大学生として、情けないと思わないか」

 確かに、広い公園のいたるところに若い男女のペアが陣取っている。

「少し休憩しようか」

 荒川は、そう言うと芝生に腰を下ろした。

 その目の前で遼太は、ショッキングなものを目撃した。

 長髪の若い男とミニスカートの女性が抱き合ってキスをしている。

 遼太は思わず両手で目を覆った。

「もっと驚くのもあるぜ」

 あたふたとする遼太の様子に、荒川は動じることはなかった。

「良くも平気だね。まだ陽は高いし、子供も遊んでいるじゃないか」

 遼太は、憤慨したような口調で荒川に告げた。

「そんなこと、いちいち気にしていたら東京では住めないぞ。それより、自衛隊は違憲か合憲か、そんな問題が出たらどう回答する?」

 荒川は、遼太と法律論議を始めた。

「違憲に決まっているだろ」

「答えはどちらでもいいんだ。要するに、判例や学説を取りあげて、自分の考える法理論を展開すれば、それが違憲だろうと合憲であろうと正解なんだ。法解釈、判例、学説をしっかり勉強して、自論を展開するということが大事なんだ」

 純真無垢な荒川は、動揺していることがばれないように、あえて法律論議で、はぐらかしているに違いないと思った。

「どうも野郎二人で来るところではなさそうだ。引き揚げよう」

 遼太が促しても、荒川はカップルに羨望の眼差しを向け、急ごうとはしなかった。

「じゃあ、もう少し進めば、パワースポットがあるから行こうか」

 荒川は、行くだけで元気がもらえる場所があると言う。

「やめとこう。合格が、パワースポットのお蔭だというのは、自分の実力を信じられないということじゃないか。試験は実力で受けたいよ」

「林田の言う通りだ。実力で合格しなきゃ意味ないよな。それならいいか、カップルを見て

(んでばかりではいられないから、我々も卒業するまでに、一度は女性とこの公園を散歩しようぜ。約束だ」

 荒川はそう言って、遼太に拳を差し出した。

 数日前のその他愛無い二人の約束を、遼太は思い出していた。

 

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 朝早く、遼太は机に伏した状態で目覚めた。

 腰のあたりに違和感が残り、爽快さはなかった。

 前日から県外出張の正十不在の中、一人パンと牛乳で朝食を済ませ、前夜、書き綴った文章を読み返し余韻に浸った。

 一限の授業を受けた後、生協の書籍コーナーを訪ねると、多くの学生で混み合っていた。

 専門書以外にも豊富なジャンルの書籍が、全て一割引とあっての利用が多いのだ。

 受験新報五月号を手にすると、司法試験委員紹介、口述試験体験記、司法試験短答式模擬試験問題と解説、判例教室、法律答案診断室、司法試験合格の記録等、興味や関心を惹く内容が満載であった。

 早めに昼食を済ませ、購入した雑誌を図書館で読み耽った。

 読了し終えた時、時計の針を見て慌てた。

 午後の英語の授業を棒に振ったことにも気付いたが、それより約束の五分前であったことが重大であった。

 本を鞄に入れると「静粛に!」という張り紙に目もくれず、階段を昇ってくる学生に鞄が当たりながらも、一気に駆け降りた。

 図書館の入口で学生証をチェックしている係官の注意の声は届かず、国電御茶ノ水駅に続く歩道を力走した。

(彩香との約束の時間に遅れるわけにはいかない。ルーズな男と思われたくない)

やっとのことで、四時にいつも乗り降りする改札口に着いた。

(間に合った!)

 胸をなでおろしたが、彩香の姿がどこにも見えない。

 その時になって、はじめて改札口が二つあることに気付いた。

 慌てふためき、もう一方の改札口まで人混みの中をかき分けて探した。

 その間、二〇分が経過していた。

 約束時間を守らなかったため、彩香が帰ったと思い込み、帰ろうとした時だった。

 背後から、小林流水が呼び止めた。

「林田さん。ここにいらしたのですか。松沢さんとお約束していたのではないですか」

「そうですが……」

「彼女、大学会館前で待っているわよ」

「えっ!」

「違ったの。大学会館前なのでしょう」

 流水の

()怪訝そうな顔つきに、遼太は血が引く思いであった。

 息せき切って、会館前に着いた時、時間は四時半になっていた。

「すみません。遅れてしまって」

 肩で激しい息を切りながら、その言葉を言うのが精一杯だった。

「いえ、いいのですよ。私も今来たばかりですから」

 

 三限終了後、彩香は、駿河台下交差点から西に抜ける靖国通り沿いに立ち並ぶ、古本屋街に流水と共にいた。

「何か予定があるのではないの?」

 彩香が、腕時計に目をやるのを見て、流水は気になって訊いた。

「四時にお約束があるの」

「誰とお約束?」

「林田さんと大学会館前でお会いすることになっているの」

「それだったら、無理に付き合わなくても構わなかったのよ」

「もう少しいいわ」

「私、探したい本があるからあと少しだけ、見ていくわ。行ってらっしゃいよ」

「じゃあ、お先に失礼するわね」

「急がなきゃだめよ」

 彩香が、大学会館前に着いたのは四時に五分前のことだった。 

「そんなに慌てて来られなくても、待っていましたよ」

 彩香は、優しい眼差しで、息苦しそうな遼太を気遣った。

 遼太は、遅れた経緯を弁明した。

「林田さんが言われる通りにしておけば良かったですね。駅の改札口は混雑するから、ここが近いのでいいのかなと、勝手な判断をしたことで遠回りさせてしまってごめんなさい」

「とんでもない。僕は小さいころから、親によくおっちょこちょいといわれて、注意されていました」

遼太は白い歯を剥き出し、頭をかいて照れた。

「おっちょこちょい?」

 彩香は意外な顔をした。

「あわてんぼうなんです。気が利いて間が抜けているというか。人の話も適当に聴くようなところがあるとよく言われました」

「まあ、そのようには見えませんけど」

 彩香は、遼太の剽軽な顔を見て微笑んだ。

 

 

 

「明日もまた、お話したいな」

「ええ、私も」

「じゃあ、明日の4時に国電御茶ノ水駅にしましょう」

「いいですけど……。大学会館前にしませんか?」

 遼太は、デートにこぎつけた喜びで舞いあがり、彩香の放った「大学会館前」という言葉を上の空で聞いていた。

「帰りは、新宿までご一緒してくれますか?」

 彩香の予期せぬ言葉に遼太の心は躍った。

 新宿で彩香が山手線に乗り換えるのを見届けた後、遼太は高揚した気持ちのまま西武新宿線に向かった。

 車内では、彩香を思い起こして独り言を呟く姿に、視線が集まっていることにも気付かなかった。

 中井駅で下車して、2分足らずでアパートに着いた。

 アパートは、1階が大家の居宅で、2階が5戸に分かれている。

 部屋の間取りはそれぞれ異なるが、遼太の住まいは6帖と4畳半の2間に小さな台所が付いて、2万5千円である。それは遼太の公務員時代の給与に相当する額であった。

 陽の光が差し込む南向きの部屋や手入れの行き届いた広い庭を見下すことができる環境が家賃に反映されている。

 この快適な住まいは、弟の正十が借りている物件で、遼太はそこに転がり込んだ居候の身分である。

 正十は、高校卒業後上京し、委託されたメーカーの食品を運搬して量販店に卸す業務に携わり、給与は遼太の公務員時代の4倍程あった。

 夜はデザイン専門学校に通い、アートの趣味を満喫している。そんな頼りがいのある弟が東京にいたことが、遼太の上京の決意に大きく係っていた。

 隣室の住人は、藤山みどりという30歳の独身女性だ。

 藤山は明朗闊達で、住民同士の交流を積極的に行うなど、リーダーシップがある。

 そうした藤山のお蔭で、親しい住民との触れ合いがあり、遼太の日常生活は満たされていた。

「お帰りなさい。お手紙来ていたみたいよ。大家さんが帰ったら取りに来るようにと言っていたわ」

 アパートの階段を昇ると、共同洗面所で洗濯していた藤山みどりが手を止めて、明るい笑顔で声をかけてきた。

 遼太は、1階の正面玄関に回り、インターホンを押した。

「林田です。手紙を受け取りに参りました」

「まあまあ、いらっしゃい。主人は、今出かけたばかりですが、お茶でも飲んでいきなさい」

 遼太は、夫人の案内でピアノや豪華な家財が並ぶ応接室に通された。

「コーヒーは、好きですか?」

「普段は余り飲まないのですが、いただきます」

「具合でも悪いの?」

「そうではありません。飲み慣れていないだけです」

「じゃあ、紅茶にしましょうか?」

「折角ですから、コーヒーをいただきます」

 遼太は、初めから素直に「有り難くいただきます」と答えれば良かったと思った。

「お口に合うかしら?」

 運ばれてきた芳しいコーヒーの香りが部屋に漂った。

「美味しいです」

「そうですか。それは良かったです。ところで、お母様ではないかしら、お手紙ですよ」

 夫人は、手紙を差し出して、言葉を続けた。

「林田さんは、将来弁護士になられるのでしょう。名門校に入学されて、お母様もさぞかしお喜びでしょう。不自由なことがあれば、何でも言ってくださいね。お力になれることはしますので」

 優しい気遣いにお礼を述べて、手紙を受け取った。

 部屋に戻ると、母親の名前が記された現金封筒を拝むようにして開封した。

 封筒には、手紙と10万円の現金が同封されていた。

 母の思いが文面にあふれており、ペンで書いた文字が数カ所滲んでいた。

「自分で決心したことは、やり抜きなさい。みんな応援しています。体にだけは十分に気を付けるのですよ」

 文末の言葉から、父親も許してくれたと理解できた。

 何度も文面を読み返し、感謝で涙が止めどもなくこぼれ落ちた。

 夕食後、専門書を開いたが、学習モードに切り替えることが出来ず、劇的な一日の出来事をノートに書き綴ることにした。

 

 

 

「実は、先月購入した衛生車の代金支払いに、今月30万円の手形を切って落とさなければ、車がとりあげられる。そうなればたちまち明日から家族が路頭に迷う。わしはいいが、小さな子供がかわいそうでなあ。子供を助けると思って、力になってくれないか」

 大山虎二朗は、駅前の喫茶店に遼太を呼び出し、涙ながらに借金の連帯保証人になることを頼んだ。

「決して保証人にはなってはいかん」

 常日頃、父親の和正からその言葉を言い聞かされて育ってきた遼太は、大山の申し出を断わった。

「お願いだ。ほかに頼む者がいないんだ。来月末には農協と役場から補助金が合わせて50万円出るので、それが入り次第必ず返済する。決して林田君には迷惑かけないから見殺しにしないでくれ」

 大山は、手練手管を弄して執拗に迫った。40歳の大人が、恥も外聞もかなぐり捨て、憐みの声で懇願する哀れな姿に遼太は同情心を抱いた。

 大山は、そんな心の隙を見逃すはずはなかった。

「補助金のことは本当だな。よろしく頼む」

 大山は信用させるため、喫茶店主と結託して農協や町役場などに電話をかけた。

 大山が電話をかけているところに、顔見知りの吉川保が若い男を伴って店に現れた。 

「こんにちは。元気ですか。今日は、大山さんの力になってあげてもらえないかと思って林田君に相談にやって来ました。彼は、仕事関係で良く知っていますが、人がいいものだから掛け売りの仕事が多くて、支払期限までに集金が間に合わないのです。いっときの間、助けてあげてくれませんか」

 白髪交じりの吉川は、遼太の弟正十の同級生の父親である。

「自分は、宮地紗枝の兄の健一です。妹は林田君と高校で同級生だった言っていました。お世話になっている大山さんが困っていると聴きましたので、連帯保証人になることにしました。連帯保証人が、二人必要ということのようですので、責任は自分が負いますからどうかお願いします」

 一見すると穏やかで真面目そうな宮地は、丁寧な言葉遣いで責任を負うと言い切った。

 大山は、信用を担保するため、二人に手を回していたのだ。そのことに遼太は気付く由もなかった。

「大山さんは補助金が入れば返済するということは間違いないですね。宮地さんは、万一、大山さんが支払えない場合、肩代わりするということですね。要するに、私は単にハンコをお貸しするだけでいいのですね」

「その通りです」

 大山と宮地は大きく頷いた。

 その様子を周囲の関係者が満足げに見つめていた。

「分かりました」

 遼太は、宮地の言葉を鵜呑みにし、連帯保証人になることを承諾したが、そこには一時も早く息のつまる異様な場所から逃れたいと思う気持ちが存在していた。

「この宮地君の隣に、署名と捺印をしてください」

 大山は、宮地健一が連帯保証人の欄にサインと捺印を済ませた借用書を遼太に手渡した。

 そこには、町の高利貸しに対し、借用金額3拾萬円、返済期日昭和44年1月31日、利息年30%、遅延損害金50%などの記載があり、借用日の昭和43年11月1日の日付と借り受け人大山虎二朗の署名捺印があった。

「判は持ってないですよ」

「これを使ってください」

 大山は、事前に準備していた印鑑を林田に渡した。

 この時、遼太は連帯保証人と保証人の違いを全く認識していなかった。

「ありがとう。恩にきるよ。林田君には絶対迷惑はかけないから安心してもらっていい」

 大山は、遼太から書類を受け取ると、別の用紙に「補助金を受領次第、借用金を返済する」という書面を作成し、それに署名、捺印して遼太に差し出した。

「万一の場合、宮地さんがお支払されるのでしょう。それなら、これは宮地さんにお渡しください」

「自分は大山の友人だからいらないのですよ。林田君が持っていてください」

 宮地の言葉に吉川も頷いた。書面のあて名が林田遼太となっていることを疑問に思いながら、遼太はそれを受け取った。

 返済日が過ぎた2月5日、高利貸しから支払催告通知書が遼太に届いた。

 驚いて大山の住む町営住宅に訪ねたが、もぬけの殻であった。

 吉川も宮地も町から消えて連絡が取れなかった。

 遼太の基本給は2万8千円。毎月の給料の凡そ1年分にあたる金額を支払うため、やっとのこと買ったスバル360を手放し、催促されるままに大金を支払った。

 遼太は、3月20日で20才になるのだが、未成年の法律行為が、取り消しできるという民法の規定も大山らの行為が詐欺罪に当たることも知らなかった。

 

 この出来事の少し前、遼太は検察庁から呼び出しを受けていた。

 衛生係を担当する遼太は、獣医や保健所の職員と一緒に、狂犬病予防注射の業務に携わり、町内の数十か所を廻ることがあった。

 生憎公用車がふさがっていたため、慣例により、上司の許可を得て、自家用車を公用車代わりに使用することとなった。

 

( 帰庁後、出納係から原価償却、燃料費に見合う費用として、ガソリンチケットが手渡された。役場ではそうした現物給付は、当然のこととして行われていた。

 この行為は道路運送法102条に抵触し、白タク行為に当たるという報道が、NHKの地方ニュースで取りあげられ、関係者は全員検察庁に召喚され、調書が取られた。

 町行政に不満を持つ者の内部告発によるものだった。

 未成年であった遼太は、幸いにも起訴猶予となり何の処分も受けることはなかったが、幼い時から正義感の強い遼太は、知らぬ間に罪を犯していたことに大きな衝撃を受けた。 

 この2つの事件が遼太の人生における大きな転機となり、法律の勉強の必要性を強く意識し始め、長い人生を生きていくためには、法律をしっかり勉強しなければ大変なことになる。

 弁護士になって、法律に無知で苦しんでいる人のために働きたい。そうした強い決心で、受験勉強に励み、司法試験合格者が最も多い大学を受験し、翌年合格の栄冠をつかんだのだった。

 

「弁護士になることが、自分の使命だと思っています」

 熱っぽく語る遼太の話に彩香は引き込まれた。

「林田さんって、すごいわ。お話を聴いていて感心しました。その決意なら文句なしに司法試験に合格します。私のお知り合いの弁護士さんのお話もお聴きしましたけど、林田さんほどの決意ではなかったようですよ。苦労はされたようですけど。林田さんは、誰からも信頼されるりっぱな弁護士さんになられると思います。頑張ってくださいね。私も応援します」

 遼太は、彩香の優しい励ましの言葉が嬉しかった。

 こうしているだけで、心が安らぐ。知り合ってまだ数時間しかたっていない彩香だが愛おしく思えた。

 毎日会って話をしたい、恋人にしたい、と願う気持ちが、遼太の胸を熱くした。

 そんな心の中を賢明な彩香は見透かしているのではないか、遼太はそう思うと頬が紅潮し、恥ずかしさで視線をそらした。

 その様子を見て彩香は、遼太の関心ある話題に触れた。 

「今日の憲法どうでした?」

 遼太は、得意とする憲法の話題を取りあげてくれたことで、意気揚々として習ったばかりの内容に解説を加えながら語った。

 彩香は、感心して相槌を打った。

 その姿に気を良くした遼太は、小六法の憲法14条を指し示し、自説を展開した。

「国民は、みな法上差別されないというこの規定は、判例も通説も相対的平等を指すといっていますが、判例や学説では、これを『合理的差別』と呼んで『合理的差別は許されるが、不合理な差別は許されない』と言っています。これについて、差別を合理的差別とか不合理な差別とかに分けて、合理的差別なら許されるという表現は妥当でしょうか。事実上等しい条件にある者が、他と区別されることが差別ですよね。その差別は憲法で禁じられているのですから、合理的であろうが差別はしてはいけないし、表現上用いることも適切ではないと思うのです。実質的平等を目的として、事実上等しくない条件にある人に、その条件に応じた等しくない取り扱いをするのは、事実上の差に基づく異なった取扱いということになりますよね。そうであれば、それは平等原則に適いますから『合理的差別』という表現ではなくて『合理的異質の取り扱い』と呼び替えると、憲法上の規定からしてすっきりすると思うのですが、松沢さんはどう思いますか」

「すごいわ。随分勉強なさっているのね。私も林田さんの考えに賛成です」

 熱心に耳を傾けていた彩香は、感心しながら遼太の話を肯定した。

「この異質の取り扱いが許されるのは、天皇のように憲法上明文規定がある場合か、若しくは事実上異なった条件にあるものを保護して、実質的な平等を図るという合理的根拠が必要で、その一つが、身体に障害を持つ者や子供など身体的差異による場合、二つが無能力者や未成年の保護など精神的差異による場合、そして三つが婦人の保護など生理的差異による場合です。この三つの条件のうちどれかが満たされて、必要かつ、正当な目的のもとに、妥当な範囲内において許されるというのが、私が考える『合理的異質の取り扱い』です」

「驚いたわ。私なんか勉強不足で、とても恥ずかしいです。でも、林田さんは、ご自分の考えを持たれていて本当に素晴らしいと思います。尊敬します」

 彩香は、遼太のその熱っぽく語る理路整然とした法解釈に飲み込まれ、感嘆の声をあげた。

「そんなに言われると照れてしまうよ」

 遼太は、顔をくしゃくしゃにして頭をかいた。

「もう、ご自分で基本書は終えられているのでしょう」

 彩香の語尾を上げるようにして話す表現が、遼太には可愛く聞こえた。

「憲法は、基本書を一通り読みましたが、まだまだです」

 遼太は基本書を熟読していたが、そう応えた。

「良かったら、またこうして教えてくださらない」

「教えるなんてできないけど、こうして話す機会があればすごく嬉しいです」

 遼太は、彩香の見つめるような眼差しに声が弾んだ。

「この大学では先輩になりますが、中学の同級生の山城一樹さんも司法試験を受けるようで頑張っています。あの人も努力家です」

「その山城さんという人は、お昼に図書館前でお話しされていた方ですか」

「良くご存知ですね。山城さんには、大学のことや勉強のことなどアドバイスしていただいています。実は、今日も山城さんたちとお昼を一緒にしようということになっていたの。でもあの人たちとはいつでもお話できるけど、林田さんや丸山さんとお友達になりたくて、あの時、断りに行っていたのです」

 彩香の屈託なく話す姿は、清々しかった。

 

 

 

 

 

 食後、遼太は一瞬の隙を見て、法学教室へと足を進める彩香に、授業終了後図書館前で会う約束を交わすことができた。

 遼太の受講科目は、司法試験の必須科目である橋田教授の憲法であった。

 4号館の大教室は、都南大の生んだ大学者とあって、溢れんばかりの学生たちで混み合った。

 遼太は、教授の卓越した知識と判例解説や法解釈の巧みな話術に感動して、目標に向けて勇気が湧いた。

 教室を出ると、道路を挟んだ先に4、5人のグループの彩香の姿が見えた。

 その中の一人と彩香は、親しげに会話をしているではないか。

 昼間、言葉を交わしていた学生だ。

 学生たちが図書館に消えるや、彩香は遼太に気付き、にこやかに手を振った。

 遼太は、口元に握り拳を当て、考え込む素振りで近付いた。

「どうかしたのですか?」

「今の講義が余りにも良かったので、忘れないように頭に叩き込んでいたところです」

 照れ隠しに口元に当てた左手を降ろしながら応えた。

「橋田先生の憲法でしょう。余所の大学生が聴講しているというわ。人気があるのね。司法試験委員も何度かなされているのでしょう。私は残念ながら憲法は別の先生。だから今度聴講させていただこうと思っているの」

 優しく見つめる彩香の目は、眩しかった。         

 二人は、大学前の喫茶「馬酔木」に入った。

 

 

 明るい雰囲気の店内には、15、16のテーブル席がある。

 窓側の席は、街路樹のプラタナスの木漏れ日が差し込み、外の景色を楽しむことが出来るが、満席のため奥のテーブル席に腰を下ろした。

 そこは三方を白壁に囲まれ、残りの一方はローパーテーションで区切られた小さなプライベートルームであった。

 白壁にさりげなく掛けられた風景画と彩香の笑顔が安らぎを与えた。

「何を頼みますか?」

「コーヒーにしようかしら」

「コーヒーワン、ミルクワン」

 注文を聞きにやって来た店員に、遼太は右手の人差し指をあげて注文した。

 得意げにするポーズや、猫が顔を洗うような仕草で、おしぼりを顔に当てて拭く姿に触れて、彩香の頬の筋肉は弛んだ。

「すっきりしました?」

 笑いをこらえているような彩香の仕草に、照れ笑いする遼太であった。

 注文の品を運んで店員は、当たり前のように遼太の前にコーヒー、彩香の前にミルクを置いて去った。

 彩香はクスクス笑いながら、コーヒーとミルクを交換した。

 

 

「林田さんは、コーヒーはお嫌い?」

「嫌いではないけど、消化器系が強くないので、できるだけ刺激物を避けています」

「健康が一番ですものね。良い心掛けですね」

 彩香は、気遣いを見せた。

「松沢さんとは、本当に今日が初めてなのですよね。何だかずっと以前から知っていたような気がするのだけど」

「あら、不思議ね。私も同じこと思っていたの。前世ってあるのかしらね」

「転生輪廻はあると思うんだ」

 彩香に魅かれるのは、前世の縁によるものではないかと遼太は思った。

「私もそう思うの」

 目が合った瞬間、彩香との出会いに強いインスピレーションを感じた。

「松沢さんはどうしてこの大学に入ったのですか」

「女だてらに法学部なんておかしいと思うでしょう。私、大学には行こうと思っていたから伝統のある女子校に進学したのだけど、志望校を決める時期に、将来のやりたいことを見つけられなくて、ひとまず親の知り合いの法律事務所に勤めることにしました。勤めているうちに、法律に関心が湧いてきたので、猛勉強してやっと入れたの」

「そうですか。法律って知らないと困ることがありますよね。法律を学ぶというのは、男女に関係なく、大事だと思います」

「そういっていただくと嬉しいわ。変な目で見られなくて」

 彩香は、法律に興味を抱く女性への偏見を打ち消した遼太の力強い言葉が嬉しかった。

「今、流水さんとご一緒にお住まいなのですか」

「流水さんとは、一緒には住んでいませんが、大学の下宿斡旋の時知り合って、同じ福島県出身だったもので意気投合して、世田谷の深沢公園の近くのアパートに決めました。緑が多くて環境が良いから気に入っています」

「流水さんって、しっかりしている感じがしますが、おいくつですか」

「私より一つ上です。現役で難関国立大に合格されたのですが、病気になって1年余り闘病生活が続いて退学されたの。でもどうしても勉強がしたくて病気の回復を待って、新しい世界に挑戦したのがこの大学だというの。頑張り屋さんです。本当に頭が下がります」

「元気そうに見えますが、そうだったのですか。根性がある方ですね」

「林田さんのこともお聴きしたいわ」

 彩香は、遼太のことに関心を示した。

「高校を卒業後、役場の町民課で衛生担当をしていた時、仕事関係で知り合ったし尿業者の巧妙な詐欺の手口にひっかかってしまって、……」

 遼太は、なぜ入学したかについて、二つの出来事が大きく影響していることを語り始めた。

  大学は国電御茶ノ水駅で下車し、歩いて10分足らずのところにあった。周りにもいくつかの大学が立ち並び、神田は学生の街として賑わいをみせていた。

 時々利用する神保町の古本屋街も学生でごった返していた。

 学生がそれぞれ意のままの恰好で道を急ぐ姿を、今日の遼太には傍観できる余裕があった。

 1時間目は、生物学だ。

 遼太は、時間割を確かめると東西に伸びた道路を渡り、4号館1階の大教室へと向かった。

 その時であった。

 反対の方向から、4号館の入り口に向かって歩いて来る女性が目に入った。

 白のブラウスに、淡いブルーのスーツが良く似合う女性である。

 本を小脇に抱え、いそいそと遼太の目の前を横切った。

 癒しを誘う柑橘系の爽やかな香りと共に、女性は大教室に消えていった。

 その姿に目を奪われた遼太は、呆然として立ち止まった。

 心臓からは激しい鼓動が伝わってきた。それが徐々に大きく高鳴っていく。

(こんな可愛い女性がいたのか。入学後、なぜ今まで気付かなかったのだろう)

 遼太は我に返ると思い切って、その女性の後を追った。

 教室には、1限目とあって、まばらにしか学生はいなかった。

 ブルーの洋服を着た女性は、1列目の中央に席をとり、筆記具を取り出そうとしていた。

 いつもなら5、6列目の窓側に陣取るのだが、その日は2列目の彼女の右斜め後ろに席を決めた。

 遼太の胸の鼓動は激しさを増した。

(何とか友達になりたい)

 遼太は、始業のベルが鳴るまでにと焦った。

「あのー」

 恥も外聞もかなぐり捨てて、声をかけた。

 女性は振り返り、遼太を直視した。

 優しい眼であった。

 遼太は心臓が止まる思いがした。

 何かを必死で言おうとするが、言葉が出てこない。

「あのー、1限目は確か生物学でしたね?」

 やっとのこと発した言葉は、間の抜けた質問になって焦った。

「いや、この教室は確か生物学でしたね?」

 続く間抜けな質問に、遼太は強張った。

「ええ、そうですけど」

 柔和な顔つきで女性は応えた。

「あのー、ダーウィンは進化論でしたね。確か……」

 前を向こうとする女性に、間髪を入れず質問した。

「そうですね。チャールズ・ダーウィンは進化論の中で、最も重要な人だと思います」

 女性は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが,真剣な遼太の面持ちに言葉を続けた。

「種の起源の中で、生存競争による自然淘汰を主張されていますわね……」

 遼太には、女性が質問に誠実に応えようとする気持ちが伝わるのだが、「ええ」とか「ああ」とか口ごもりながら、対応するのが精一杯であった。

 それでも、親しくなりたい気持ちを抑えられず、額に汗して愚問を続けた。

「ラマルクの進化論について、どう思いますか?」

「ラマルクは、自然発生説をはじめとして、その他実験的根拠のないいろんな事柄を信じていたでしょう。だから今日、非科学者のようにいう人もいますけど、私は進化学発展のために成した功績は大きいと思っています」

 自分の馬鹿さ加減に照れ笑いする遼太に、優しい笑みが返ってきた。

 端麗な容姿に加えて、賢明で温かみのある誠実な女性に、すっかり魅了された。

「僕は法学部に今年入学した林田といいます。良かったらお名前を教えてくれないでしょうか」

 鼓動が高鳴り、声が震えた。

「松沢彩香です。よろしくお願いします」

 彩香は、白い歯を見せてにこやかに微笑んだ。

 遼太は、顔を赤らめ頭をかきながら照れ隠しに笑った。

 この出会いが、遼太の人生にとって大きな影響を与えることになる。

 始業のベルが鳴る直前、彩香は大教室の入口に見えた女性に向かって手をあげた。

 白いワンピース姿の快活そうな女性だ。

 彩香の隣の席に腰を掛けた女性に、彩香は遼太を紹介した。

「小林流水です。よろしくお願いします」

 張りのある声であった。

 講義が始まると背後で片肘をつき、彩香の後姿を眺めながら体が熱く燃えた。

(素晴らしい女性だ。こういう女性を理知的美人というのだろうな。鼻筋が通り、口元は引き締まっていて愛らしい。目には優しさが秘められている。幻想の世界から抜け出したような女性が、万一自分の恋人になってくれれば、世界一の幸せ者だな)

 額の汗を手で拭いながら、妄想に耽った。

 いつもは硬い椅子を我慢して、時の過ぎるのを待つのだが、この時ばかりは無情な終チャイムの音が耳に響いた。

「次の授業は何ですか」

 椅子から立ち上がろうとする彩香に、思い切って尋ねた。

「政治学です」

「5号館5階の教室ですか」

「そうです」

「僕もそうです。よろしかったら座席の確保をお願いできないでしょうか。今から学生課で、学割発行の手続きと奨学金の申請をしようと思っていますので……」

「いいですよ」

 彩香が快く引き受けてくれたことで、遼太の気持ちは一気に膨らんだ。

 手続きを終えて教室に入ると、前から2列目の中央の席が遼太のために確保されていた。

 

 

 彩香の右隣が流水、左隣が遼太の席であった。

 講義が始まるまで、出身地のことについて会話が弾んだ。

「今、雪の話をしていたようですが、僕の郷里なんかも雪すごいですよ」

 遼太の前の学生が、矢庭に振り返って会話に加わった。

「郷里はどちらですか?」

「新潟の長岡です」

 メガネをかけた丸顔の人のよさそうな男が、にこにこしながら丸山博と名乗った。

 周囲の学生たちも参加して、話は盛り上がった。

 南国育ちの遼太は、その時初めて深刻な雪の被害を知り、積雪の多さをうらやましがった無知な自分が恥ずかしかった。

 程なく講義が始まると、真剣な姿勢で授業に臨む彩香の隣席で、心が浮き立つ遼太は、爽やかなそよ風に流される雲の様に、話は右の耳から、左の耳へ抜けていた。

 松沢彩香との邂逅は、弁護士になることを夢見て、21歳で上京した遼太にとって、未来が大きく開けた感覚であった。

「政治学って、難しいですね」

「僕もちんぷんかんぷんだったよ」

 彩香の感想に、遼太も講義を真面目に聞いたかのように応えた。

「そうね、確かに難しいわね」

 流水も相槌を打った。

 丸山も話に加わり、感想や意見が飛び交った。

 遼太は、聞き役に徹した。

「もうお昼ね」

 彩香は、時計に目をやった。

「みんなで食事をしませんか」

 丸山の誘いに、遼太はほくそ笑んだ。

 彩香と流水も顔を見合わせて頷いた。

 4人は、5号館から道路を隔てた2号館の地下食堂に向かって歩いた。

 2号館の正面付近で彩香が立ち止まった。

「すみません。先に行ってくださる。すぐに行きますから」

「いいですよ」

 丸山は返事をして、流水と並んで歩き始めた。

 彩香は、2号館に隣接する図書館の芝生の上に集う数人の学生に向かって駆け寄った。

 その中の背の高い一人の男子学生が、親しげに彩香に声をかけた。

 遼太はその姿に気を取られながらも、地下食堂に降り始めようとしている2人を追いかけた。

 学生食堂には、ガラス越しに、カレーライス60円、カツ丼100円、中華飯100円、Aランチ230円、Bランチ180円等々が記された食品サンプルが並んでいた。

 遼太は、奨学金をあてにしてAランチを注文した。

 他の2人も同じ食券を買って、空席を探した。

 間もなく彩香が、そばを手にしてやって来た。

「早かったじゃない」

 流水は、驚いた様子であった。

「ええ、おそばの注文は少ないでしょう。だから待つこともなかったわ」

 人を待たせない彩香の気転に、遼太は感心した。

 タイミングよく空席ができ、4人はそこに腰を下ろした。

 食事中の会話は、今しがた知り合ったとは思えないほど弾み、洒落や冗談を口にできるほど息が合った。

(些細なきっかけでも良き出会いはある。フィーリングが合えば、心を通わせるのに長い時間はいらない)

 遼太は、至福のひとときを味わった。