書置きという手段での上京は、遼太の心を暗くしていた。

 生禅寺の祖父に精神的支えや助言を得ようと、遼太は上京途上、大阪から夜行列車に乗り換えて長野へ向かった。

 早朝、長野駅に着くと歩いて生禅寺を訪ねた。

 玄関は開いていたが、誰の誰の姿も見当たらない。

 そのまま四階の部屋に上がり布団を敷いた。

 夜行列車で神経が高ぶり、一睡もできず疲れはピークに達していた。

 着替えをすませ横になった時、襖戸がすうーっと開いた。

「遼太君、ここに居たのかね。事務局で受付も通さず消えたと修行生が言うものだから、捜していたところだよ。早速受付してきなさい。それから水行をしてみんなと一緒にお勤めしなさい」

 第一和尚の無海であった。

 遼太は言われるまま、受付を済ませ、広い大僧堂の片隅に荷物を置き、水行場へ向かった。

 四年前、鉄岩和尚に叩き込まれた水行場は整地され、新しい建物が建築中であった。

 遼太は、当時のことを思い起こしながら、本堂と廊下を隔てた向かいの男子水行場に入った。

 裸で薄暗い水行場に立つと心を不安にした。

 その不安を取り除くように、大きな声で九字を切り、経を唱えて水中に足を入れた。

 春の水は冷たく眠気が冷めた。

 白衣に着替え、袈裟と数珠を着けて本堂に入ると、仏檀から蝋燭のわずかばかりの明かりが灯る中で、坐禅をする修行僧が薄っすらと見えた。

 物音一つない場の雰囲気に身が引き締まった。

 背筋を伸ばし、肩の力を抜き、目を半眼にして、半間ばかり前に置き、呼吸を整えて坐禅の姿勢に入った。

 水行場からあがったばかりで、体がぽかぽかと気持ち良く、夢の世界に入り込むのに時間はかからなかった。

 数分後、遼太の肩にピシッという警策の音が炸裂し、静寂な本堂に鳴り響いた。 

 その日一日の行を終えた後、御方丈から遼太に声がかかった。

 恐る恐る入口の呼び鈴を押した。

「入れ!」 

 おずおずと中に入ると、坐禅を組んだ老僧の姿が見えた。

 遼太が畏敬の念を抱く祖父の管長である。

 とても八〇歳を超えているとは思えないほどの肌艶で威厳に満ちていた。

「お前は、これからが大事だぞ。不屈の精神で人一倍の努力をしなければ、決して目的は成就しない。その覚悟はあろうな」

「はい」

 吊り上った濃い眉毛の下から鋭い眼光を感じたが、目を()らすことなく、その言葉を受け止めた。

「良く訪ねてきた。ところで、いつ上京するのか」

 実家の誰にも長野に立ち寄ることは伝えていない。

 上京についての事情も、家族の者が知らせたとも思えなかった。

 透視力を実感した。

「明日、午後に出発します」

「そうか。それなら今からお前に喝を入れよう。覚悟はいいな」

 含みのある言葉に、これから何が起こるのか、遼太はいやな予感がして背筋が凍る思いがした。

「今から、直ちに水行せよ。その後、五階の宝生蜜殿に入り、朝まで修行しなさい」

 管長の厳しい言葉にたじろぎながらも、受け入れざるを得ないと覚悟を決めた。

 宝生蜜殿に、不安な気持ちで足を踏み入れたのは一時間後であった。

 厚さ一〇センチの強固な鉄の扉を開けた。

 遼太が、足を踏み入れると外から頑丈な錠前がおろされる音が(かす)かに聞こえた。

 尻込みしながら、遼太は一歩進んだ。

 最初の三畳余りの部屋から奥の部屋に入った時であった。

 遼太は棒立ちになった。

 臆病な遼太を襲ったのは、深い憂いを秘めた女の幽霊であった。

 その幽霊が、じっと遼太を見つめていたのだ。

 目は赤く充血し、顔半分が溶けて(ただ)れた形相で、哀しい憂いを秘めていた。

 赤と青の炎が、体からゆらゆらと燃え上がり、それが火の玉となって飛び交っていた。

 遼太は後ずさりをした。

 奥の部屋に踏み込む勇気が湧かない。

 恐怖心に打ちひしがれ体が硬直した。

 数時間前、遼太は一人の修行生から聞いた話を思い起こした。

「一週間ばかり前のことですけどね、大変なことがありました。五階の宝生蜜殿、御存知ですよね、あそこで大居士の、ほら徹世さん、あの方が修行されたのです」

 遼太は真剣になって聴いた。

「あの方、意外と気が小さいのですね。その日、宝生蜜殿で修行せよと聖師様から言われて、体が震えていました。誰の目にも分かるほどでした。夜の一〇時に入殿して、一時間が経ったころ、宝生蜜殿からわめき声が聞こえてきたので、和尚が駆けつけると、徹世さん、白衣を踏みつけて倒れていたのです。額にこぶを作り、見るもひどい恰好でした。気が付いてから、様子を聴くと、ひどく(おび)えた声で『幽霊が出た』というのです。それは大騒ぎでした」

 遼太は、数珠を手に強く握りしめて合掌した。

 入口に立ったまま、大声で何度も何度も繰り返し般若心経を唱えた。

 そうすることで、心の動揺を抑えようとしたが、恐怖心を払拭することは容易ではなかった。

 観念して奥の間に入室し、十三仏様に向かい正坐して、「上香偈(じょうこうげ)」を唱えながら線香を刺した。

成仏できない魂の供養には、線香が一番だと思ったからだが、芳しい線香の香りさえも不気味に感じた。 

 鐘と木魚を交互に叩き、必死で般若心経を唱えた。

 それが終わると、大悲(だいひ)(しん)陀羅尼(だらに)延命(えんめい)十句(じゅっく)観音経(かんのんきょう)消災(しょうさい)(みょう)吉祥(きちじょう)陀羅尼(だらに)舎利(しゃり)礼文(らいもん)諸仏(しょぶつ)光明(こうみょう)真言(しんごん)()()誓願(せいがん)十三仏(じゅうさんぶつ)御真言(ごしんごん)(せい)師様御真言(しさまごしんごん)等々、額に汗しながら繰り返し唱えた。

 声がかすれるまで唱え、疲れを覚えたが、止めるわけにはいかない。

 止めれば背後から幽霊に襲われると思った。

 無念無想の境地に入れば、幽霊も襲わないだろうと考え、坐禅に入ることにした。

 膝を崩して立ち上がろうとすると、しびれて立ち上がることができない。

 やっとのこと、坐禅の体勢を整え、十三仏様を前に対坐すると、遼太の左膝の真ん前に真新しい白木の箱があることに気付いた。

「遼太君、この新聞を見てごらん。まだ一八歳だよ。世の中が厭になったと言って、入水自殺をしている。悲しいことだ。その遺骨を当山に安置している。成仏できればいいがね」

 遼太は、朝、受付で、事務局長から聞いた話はこれかと察知した。

 この女性の幽霊なのか、遼太の気持ちは激しく動揺した。

(もういやだ。逃げ出したい)

 遼太は、異常なまでの恐怖心にとりつかれた。

 燭台に灯した蝋燭(ろうそく)の明かりが、風もないのに揺れ動き、強くなったり、弱々しくなったりして灯っている。

 遼太を取り巻く空気は、不気味さとおぞましさに満ちた異様な状況が渦巻いていた。

 遼太は、恐怖心にさいなまれながら坐禅に没頭した。

 前夜からの疲れで睡魔が襲ってきたが、遼太は、幽霊の冷たい手を想像して睡魔を振り切った。

 一方、雑念が遼太を襲った。

(自分は何のために、ここに来たのか。祖父に気持ちを伝えて、同情を得ようとしていたのか。そうではない。これから東京に出て、法律を学び、弁護士になる。そのためには、多くの困難に挫折しないよう喝を入れてもらい、根性を養おうと訪ねたはずだ。祖父はそうした気持ちを観法(かんぽう)し、この試練を与えてくれたのではないのか。この場で坐れと言ったのは、自分で答えを見つけよということなのか)

 遼太は、坐禅の姿勢を崩さず、真剣に答えを追求した。

(「自己を知る」そうだ、恐いと思うのも自分、恐くないと思うのも自分。やろうとしてやるのも自分、やろうともせず、やらないのも自分だ。そうだったのか)

 遼太は、坐禅の姿勢に入って三時間後、自分の答えを見つけた。

 そうなると自然に心が落ち着いていくのを覚えた。

 胸のお守りがかっかと熱く燃えた。

 そこからひしひしと伝わるものを感じて勇気が湧いた。

(何事にも必死で取り組む。人に頼るのではなく、自力で切り抜けることが大事だ)

 遼太は気持ちが落ち着くと、今まで取り巻いていたおぞましい空気は跡形もなく消えた。

 幽霊は、絵画の中に身を閉じ込めた。

 目の前の骨壺が入った木箱にも何の恐怖も感じることはなくなった。

 不思議なことであった。

 午前四時、御方丈から、放送で解坐の指示があった。

 その間、管長は休むことなく御方丈で遼太のために念じていた。

「満願だ」

 管長から力強い言葉で激励され、満願(まんがん)成就(じょうじゅ)した時の喜びが、三人を乗せた列車が長野駅に近づくにつれ甦ってきた。