五月の第二日曜日、朝早くドアを叩く音がした。
遼太は正十が、帰宅したと思い、寝床から動かなかった。
何度も叩く音に、眼をこすりながらドアを開けた。
「まだ寝ていたのか?」
部屋に入るなり大きな声をあげたのは、荒川慶介であった。
荒川は、遼太の高校時代の同級生で、一浪して城東大の政経学部に入学していた。
合格発表があった日、荒川は遼太の勤務する町役場に訪ね、政治家になるという夢を語って、まもなく上京した。
その二年後、遼太が上京すると、時々訪ねて来ては遼太を外に連れ出していた。
遼太にとって荒川は、本音を語れる頼もしい存在であった。
「今日は、正十君はいないのか?」
「仕事で泊まり込みだと言っていたから、てっきり弟が帰ってきたと思ったよ」
「そうなのか。ところで、今日は何の日か知っているだろ?」
「五月九日だろ。そうか、母の日か」
「それには違いないが、林田にとって大事な日だよ。それも知らないで、良くも司法試験を受験するなどと言えるな。今日は短答式試験の日だよ。良い勉強になると思うから、田町まで出て、試験会場の三田大学に行ってみようぜ」
「今からか?」
「試験は午後からだから、一〇時ごろに出よう」
「早くないか?」
「それくらいの気構えがないとだめだ。林田には言ってなかったが、俺も司法試験を受けようと思って勉強を始めているんだ」
「政治家になるのではなかったのか?」
「これからの政治家は、法のスペシャリストが要求される時代だよ。そのためにも司法試験に合格しなきゃいけないんだ」
「へぇー。政治家になるのも大変だね。じゃあ、荒川とはライバルという訳か。益々闘志が湧いてきたよ」
目映いばかりの目をして、意欲的に語る荒川を見て、遼太は張り合う相手ができたことが嬉しかった。
三田大学に着くと、掲示板に張り出された受験番号を記した教室の案内図を見て、会場の周りを一巡しベンチに腰をかけた。
気軽な気持ちで受験生気分を味わっていたが、徐々に増えてくる受験生たちを取り巻く空気は、次第に重々しくなっていくように感じ始めた。
(来るべき挑戦の日、この手の中に必ず勝利をおさめてやる!)
遼太は
密かに呟き、緊迫感に包まれた会場を離れた。
受験生たちの姿が視界から消えると心が軽くなった。
「試験も時の運だから、神に運を運んでもらうという手もあるぞ。明治神宮のパワースポットへ行ってみようか」
荒川は、遼太を明治神宮へ誘った。
「へぇー、さすが東京だな」
遼太は、目の前の大きな鳥居と広大な緑の茂った場所に感心して驚きの言葉を連発した。
「林田、恥ずかしい話だが、上京して二年過ぎたが、女性と公園を散歩したことがないんだ。どっちを向いてもカップルばかりだろう。大学生として、情けないと思わないか」
確かに、広い公園のいたるところに若い男女のペアが陣取っている。
「少し休憩しようか」
荒川は、そう言うと芝生に腰を下ろした。
その目の前で遼太は、ショッキングなものを目撃した。
長髪の若い男とミニスカートの女性が抱き合ってキスをしている。
遼太は思わず両手で目を覆った。
「もっと驚くのもあるぜ」
あたふたとする遼太の様子に、荒川は動じることはなかった。
「良くも平気だね。まだ陽は高いし、子供も遊んでいるじゃないか」
遼太は、憤慨したような口調で荒川に告げた。
「そんなこと、いちいち気にしていたら東京では住めないぞ。それより、自衛隊は違憲か合憲か、そんな問題が出たらどう回答する?」
荒川は、遼太と法律論議を始めた。
「違憲に決まっているだろ」
「答えはどちらでもいいんだ。要するに、判例や学説を取りあげて、自分の考える法理論を展開すれば、それが違憲だろうと合憲であろうと正解なんだ。法解釈、判例、学説をしっかり勉強して、自論を展開するということが大事なんだ」
純真無垢な荒川は、動揺していることがばれないように、あえて法律論議で、はぐらかしているに違いないと思った。
「どうも野郎二人で来るところではなさそうだ。引き揚げよう」
遼太が促しても、荒川はカップルに羨望の眼差しを向け、急ごうとはしなかった。
「じゃあ、もう少し進めば、パワースポットがあるから行こうか」
荒川は、行くだけで元気がもらえる場所があると言う。
「やめとこう。合格が、パワースポットのお蔭だというのは、自分の実力を信じられないということじゃないか。試験は実力で受けたいよ」
「林田の言う通りだ。実力で合格しなきゃ意味ないよな。それならいいか、カップルを見て
羨んでばかりではいられないから、我々も卒業するまでに、一度は女性とこの公園を散歩しようぜ。約束だ」
荒川はそう言って、遼太に拳を差し出した。
数日前のその他愛無い二人の約束を、遼太は思い出していた。
