「明日もまた、お話したいな」

「ええ、私も」

「じゃあ、明日の4時に国電御茶ノ水駅にしましょう」

「いいですけど……。大学会館前にしませんか?」

 遼太は、デートにこぎつけた喜びで舞いあがり、彩香の放った「大学会館前」という言葉を上の空で聞いていた。

「帰りは、新宿までご一緒してくれますか?」

 彩香の予期せぬ言葉に遼太の心は躍った。

 新宿で彩香が山手線に乗り換えるのを見届けた後、遼太は高揚した気持ちのまま西武新宿線に向かった。

 車内では、彩香を思い起こして独り言を呟く姿に、視線が集まっていることにも気付かなかった。

 中井駅で下車して、2分足らずでアパートに着いた。

 アパートは、1階が大家の居宅で、2階が5戸に分かれている。

 部屋の間取りはそれぞれ異なるが、遼太の住まいは6帖と4畳半の2間に小さな台所が付いて、2万5千円である。それは遼太の公務員時代の給与に相当する額であった。

 陽の光が差し込む南向きの部屋や手入れの行き届いた広い庭を見下すことができる環境が家賃に反映されている。

 この快適な住まいは、弟の正十が借りている物件で、遼太はそこに転がり込んだ居候の身分である。

 正十は、高校卒業後上京し、委託されたメーカーの食品を運搬して量販店に卸す業務に携わり、給与は遼太の公務員時代の4倍程あった。

 夜はデザイン専門学校に通い、アートの趣味を満喫している。そんな頼りがいのある弟が東京にいたことが、遼太の上京の決意に大きく係っていた。

 隣室の住人は、藤山みどりという30歳の独身女性だ。

 藤山は明朗闊達で、住民同士の交流を積極的に行うなど、リーダーシップがある。

 そうした藤山のお蔭で、親しい住民との触れ合いがあり、遼太の日常生活は満たされていた。

「お帰りなさい。お手紙来ていたみたいよ。大家さんが帰ったら取りに来るようにと言っていたわ」

 アパートの階段を昇ると、共同洗面所で洗濯していた藤山みどりが手を止めて、明るい笑顔で声をかけてきた。

 遼太は、1階の正面玄関に回り、インターホンを押した。

「林田です。手紙を受け取りに参りました」

「まあまあ、いらっしゃい。主人は、今出かけたばかりですが、お茶でも飲んでいきなさい」

 遼太は、夫人の案内でピアノや豪華な家財が並ぶ応接室に通された。

「コーヒーは、好きですか?」

「普段は余り飲まないのですが、いただきます」

「具合でも悪いの?」

「そうではありません。飲み慣れていないだけです」

「じゃあ、紅茶にしましょうか?」

「折角ですから、コーヒーをいただきます」

 遼太は、初めから素直に「有り難くいただきます」と答えれば良かったと思った。

「お口に合うかしら?」

 運ばれてきた芳しいコーヒーの香りが部屋に漂った。

「美味しいです」

「そうですか。それは良かったです。ところで、お母様ではないかしら、お手紙ですよ」

 夫人は、手紙を差し出して、言葉を続けた。

「林田さんは、将来弁護士になられるのでしょう。名門校に入学されて、お母様もさぞかしお喜びでしょう。不自由なことがあれば、何でも言ってくださいね。お力になれることはしますので」

 優しい気遣いにお礼を述べて、手紙を受け取った。

 部屋に戻ると、母親の名前が記された現金封筒を拝むようにして開封した。

 封筒には、手紙と10万円の現金が同封されていた。

 母の思いが文面にあふれており、ペンで書いた文字が数カ所滲んでいた。

「自分で決心したことは、やり抜きなさい。みんな応援しています。体にだけは十分に気を付けるのですよ」

 文末の言葉から、父親も許してくれたと理解できた。

 何度も文面を読み返し、感謝で涙が止めどもなくこぼれ落ちた。

 夕食後、専門書を開いたが、学習モードに切り替えることが出来ず、劇的な一日の出来事をノートに書き綴ることにした。