遼太は、勉強に没頭できる時間を確保するため、本屋でのアルバイトを辞めた。
「林田君」
背後から、高木が声をかけてきた。
「裁判所からの帰りに、君を訪ねて来たところだ。ちょっと付き合わないか」
高木は、卒業後銀座の安藤法律事務所に勤めながら、司法試験に挑戦していた。
「ここだよ」
銀座四丁目の教文館ビル前で、高木は足を止めた。
「凄いね。銀座のど真ん中にあるなんて」
エレベータで五階に着くと、安藤信夫法律事務所の文字が目に飛び込んできた。
受験新報のグラビアを飾ったことのある有名な先生と、他に二人の弁護士の名前が分厚いガラス戸に記載されていた。
「大先生は、オーナーとの信頼関係が厚いので、この様な良い場所に事務所を構えることができているんだ。遠慮しないで、どうぞ」
高木は、戸惑う遼太に促した。
事務所に入ると、若い女性事務員が柔やかな笑顔で迎えてくれた。
「いつも話している林田君だよ」
「こちらは、事務の斎木さん」
「はじめまして、斎木由紀と申します。高木さんからお話は伺っています。今、先生たちは話し合いをしていますので、ここでしばらくお待ちくださいますか」
「林田です。よろしくお願いします」
笑顔が素敵な女性に、はにかみながら遼太は対応した。
パーテーションで区切られた所からは、訴訟に関する打ち合わせの声が聞こえた。
「大先生が主任弁護士だから、それぞれの事務所から先生達が来ているんだよ。ここでちょっと待っていてくれないか」
高木は、そう言って自分の机に向かった。
遼太は、待合室にある雑誌を手にしたが、弁護団たちが交わすリアルな刑事事件の内容が漏れ聞こえ、体が震える思いがした。
暫くすると、胸にひまわりの花をモチーフにしたバッジを付けた五人の弁護士が、遼太の目の前を横切った。
バッジの真ん中に描かれている天秤は、人権を大切にした「公正と平等」を表しており、「自由と正義」を求め、「公正と平等」を期すという理念のバッチに、遼太は心が惹かれた。
「林田さん、こちらへどうぞお入りください」
斎木は、手前のソファーに遼太を案内した。
「先生方にご紹介させていただきます。林田遼太君です」
高木は、三人の弁護士に遼太を紹介した。
「都南大二年の林田遼太です。よろしくお願いします」
直立不動であった。
「楽にして、おかけなさい」
奥の席から、にこやかな笑顔で声をかけたのは、安藤信夫であった。
「林田君、大先生だよ。そして、こちらの先生が藤山先生、君の斜め前におられる先生が徳田先生」
高木は、全員の紹介を終えた。
「君が生禅寺のご老師のお孫さんかね。まあ、おかけなさい。高木君から話を聞いていたので、是非会いたいと思っていたよ」
安藤は、遼太の前の長椅子に腰をおろすと柔和な目で話しかけた。
大きな福耳に特徴があり、顔全体に優しさがあふれていた。
(受験新報の写真どおりだ。自分は今、日本初の再審請求で冤罪を晴らした有名な先生の前にいる)
遼太は、かしこまった。
「祖父をご存知ですか?」
「良く知っているよ。私の家は煙草の製造販売をしていたが、日露戦争後煙草が政府の専売に移ったものだから、その補償金で事業を始めることになった。ところが、それが失敗して破産してしまったものだから、あれは大正三年九月だったか、高等小学校を卒業した翌年、韓国に向けて出発することになった。その船に君のおじいさんが乗っておられて、心細くなっていた私に声をかけてくれたんだよ。その時の力強い言葉を支えにして、木浦郵便局で一年近く働いて、翌年の八月に帰国することになったのだが、乗った船で再びお会いした。本当に不思議なご縁だと思う。ご老師は、中国で厳しい修業をされて法力を会得されておられたから後光が見えた。そのオーラの発する凄まじい力で観法していただいて、自分の将来に明るい光を照射してくださった。信じられない体験をいくつも目の当たりにして以来、先生と仰いでお慕いしている。そうしたご縁が、今日の君との出会いに繋がっているのだから,本当に嬉しいよ」
慈愛に満ちた安藤の目は、遼太に安堵感を与えた。
「大先生は、そんなご縁をおもちだったのですか?」
安藤の絶大な信頼を受け、事務所を切り盛りしている藤山が、安藤の隣の席に腰をおろし、興味津々に尋ねた。
敏腕弁護士として名を馳せる藤山は、現役で司法試験を三番で合格した秀才で、市ヶ谷大学を首席で卒業し、出身大学からの強い要請で民法の授業も担当している。
「そうだよ。だから、私はこれまでご老師の謝恩会は一度も欠かしたことはない」
安藤は、当然のことだと言わんばかりに応えた。
「高木君からは、ご老師の法力が凄いとは聴いてはいたのですが、大先生は体験されておられたのですね? 感心してしまいました」
気さくな性格の徳田は、目を丸くして言った。
「生禅寺の御神体を知っているかね? ご老師が若い頃、仏様が夢枕に立って指示された山中から掘り起こされたという白銀大明神だよ。ご実家に安置されていたそれが、いつの間にか消えたそうだ。探しても見つからないからすっかり諦めていた時、再度夢枕に現れて同じ場所から発掘されたという因縁深い仏様だよ。霊験あらたかな仏様だから参拝すると力が湧いてくるよ」
安藤は、事務所の職員たちを説得するかのように語った。
「ご老師様は、生まれながらそうしたお力をお持ちだったのでしょうね?」
藤山は、驚きを隠さなかった。
「ご老師は、幼い頃から近くの地蔵堂などに出かけて坐禅を組んだり、仏教の書物を読みあさるなど普通の子供とは違っておられた。インドや中国での厳しい修行で法力を身に付けられておられるので、私は直刀法を受けたことがある」
「直刀法とは、どのようなものなのですか」
藤山は、率直な質問をした。
「災いを避け、絶対安心の境地に入るため、腹に刀を突き刺して切り裂く法力のことだよ」
安藤は、ワイシャツをめくりあげて、腹部を指さした。
「傷はないですね。恐くなかったですか」
「直刀法は修業しているお弟子さんが、大伝法の時授けられるものだから、滅多にない機会と思ったので、特別にやってもらった。正直言って恐ろしかったな。ところが、終わった後の成就感というか、清涼感というかそれは言葉にはできないほどの喜びだったよ。その日の夜、風呂に入った時は、ミミズ腫れした傷痕に沁みて痛かったが、その傷もいつの間にか完全に消えていた。本当に不思議な体験だった」
「先生が御元気でいられるのは、そういうお力もあるのでしょうか」
「そのとおりだよ」
藤山の質問に、安藤は機嫌良く応えた。
安藤の話を聴いているうち、遼太が小学生の頃、数人の僧侶を伴い管長が林田家を訪ねて来た日のことを思い出した。
地域住民が見守る中、仏壇前で経を唱える管長の隣で、父親が覚悟を決め短刀を腹に突き刺して、真一文字に切り裂く姿を目の前で見たことがある。
鋭い短刀に白い布を巻きつけ、五、六センチほど出ている刃先を腹に刺した時の様子は、強烈な衝撃を伴って、今も脳裏に焼き付いている。
その前日、和正は管長から「延命のための行」を行うことを聴き、確かに青ざめていた。
そして、当日、真横に腹を切り裂く時、唇を噛みしめた姿も、忘れられない。
引き抜いた短刀には、べっとりとした脂肪が付着し、一二、三センチに亘る切傷からは少量の血が滲み出ていた。
その夜、風呂から出た和正が「傷口が沁みた」と言っていた言葉も耳に残っている。
傷は、数週間後には跡形なく消えていたが、そうした記憶が、鮮明に甦った。
「管長の法力は、不可思議な功徳によるものだよ」
安藤の説明を、共感しながら聴いた。
「その様な偉い人のお孫さんに会えて嬉しいよ」
豪放な薩摩隼人の徳田は、まじまじと遼太を見つめた。
「林田君も司法試験に向けて頑張っています」
「高木君のいいライバルという訳だ」
藤山のにこやかな表情に、遼太の顔の筋肉が和らいだ。
「そのとおりです。彼が頑張っているから、こっちも負けてはいけないという気持ちになります」
「年々、難しくなってきているから大変だが、頑張れば突破できないことはないよ。我々も力になるから、時々おいでなさい。そうだ、夏休みに実務の経験をしてみないか。大先生との御縁も深いようだし、徳田先生と高木君の後輩ということになれば、仲間みたいなものだよ。大先生よろしいでしょう」
「それは、いい。是非そうしなさい」
安藤は藤山の提案に賛同し、にこやかな顔で誘った。
遼太は、思いがけない誘いに感謝の気持ちを表した。
「高木君から聞いているが、去年の入室試験は残念だったね。今年は便宜を図るよ」
都南大出身の徳田が、一肌脱いでくれるという。
「有難うございます」
予期せぬ言葉に戸惑いながらも、遼太は礼を述べた。
夏休みに入ると、安藤法律事務所でアルバイトが始まった。
勤務時間の半分は、司法試験の勉強に費やすようにと、安藤からの指示があり、遼太の専用机が準備されていた。
明るく和やかな職場は、遼太にとってこの上もない環境であった。
仕事は、関係機関への書類提出や裁判記録の筆写が主なものであった。
仕事に慣れてくると、多様な実務経験に触れることが出来た。
事務所には政治家や芸能人、アスリートなど著名なクライアントの訪問があり、興味が惹かれたが、賄賂や裏切り、医療事故、遺産相続など人間社会の裏面を知ると、ショックは大きかった。
どのクライアントも心に大きな悩みを抱え、救いを求めてやって来る。
どんな資産家であっても、地位が高くても、大金が積まれても、不義、不正、不徳が内在し正義に反するとみれば、安藤は決して引き受けなかった。
毅然として断る安藤の姿を目の当たりにして、遼太は弁護士は高潔さとゆるぎない信念が大事だと学んだ。
安藤が公判に提出する書面の清書を頼まれたとき、遼太は驚きを隠せなかった。
そこには、清廉潔白な身を証明する証拠を提示し、気迫に満ちた力強い文章が記されているではないか。
「弁護士は、命がけで取り組まない限り冤罪は証明されない」と言う安藤の信念が、ひしひしと伝わってきた。
法の正義の実現に向けた執念こそが、裁判官の心証を良くするのだと、肝に銘じた。
藤山は、口頭弁論の準備書面を短時間にさらさらと書きあげ、事務員の斎木に廻す。
その完璧な論理構成の文面に触れ、遼太は世の中に天才が存在することを知った。
徳田の文章は説得力がある。
豪放な性格からは想像しがたい繊細な感性で、物事の真髄を見極め、納得させる文章で人の心を揺り動かす。
遼太は、三者三様の書面に接し、有能な弁護士は、幅広い教養や経験、法解釈や判例に精通し、説得力ある文章を書き上げるノウハウを磨いているのだと確信したが、何がそうさせるのかと自問してみた。
そこには、「法の正義を貫く姿勢」が存在する。
その答えに納得し、法曹界の仕事に遣り甲斐と面白さを感じるのであった。