九月に入り、前年度断念した司法研究室の試験に遼太は万全の態勢で臨んだ。
試験は、必須の憲法と刑法又は民法の選択となっていて、遼太は得意の刑法を選択した。
憲法の第一課題は、幸福追求の権利、第二課題は財政に関する憲法上の原則であった。
二つの基礎基本問題を難なくこなすと、緊張感がほぐれ、心に余裕ができた。
続く刑法の「可罰的違法性」の問題と「共同共謀正犯」の二つの課題についても、専門書や大学の講義で興味を持って学習を深めていたため、実力が発揮できた。
一週間後、大学の掲示板に合格発表があった。
「さすがね。合格パーティを開きましょう。流水さんと丸山さんにも連絡するわね」
三八名の合格者の中に、遼太の名前を目ざとく見つけた彩香は、満面の笑みを湛えた。
「ちょっと待って。次の週に口述試験があるから、それに合格してからにしてもらえないかな」
「いいわよ。楽しみね」
彩香は、あっさり引き下がった。
翌日、遼太のアパートに手土産をさげて彩香が、顔を覗かせた。
「私に何かお手伝いできないかと思って、やって来たわ」
思いがけない訪問であった。
「それじゃあ、この演習問題から質問を頼むよ」
本棚から口述試験のための演習問題集を取り出した。
「いくわよ。甲は乙から絵画を買い受け、乙がこれを丙に甲の住所に運ばせる途中、丙はこれを毀損してしまった。甲はどのような請求ができますか」
裁判官の法衣にも似た黒っぽい服装の彩香は、真剣な眼差しで質問する。
「だめよ。私を試験官と思ってくださいね」
「はい。甲は乙に対して損害賠償の請求ができます」
「乙ですか。乙は何もしていないのですよ」
本を膝に置いたまま、彩香は不審そうな素振りを見せた。
「乙は、安全に絵画を運ぶべき債務を果たさなかったことにより、債務不履行責任が生じます」
「丙に対しては、どうですか」
試験官になりきって、彩香は突っ込んだ質問を続ける。
民法を終えると刑法、そして憲法と休みなく続け、気付くと三時間が経過していた。
「八〇点は固いわね」
彩香は、安心したかのように話した。
「遅くなったから帰るわね」
「あり合わせだけど、夕食を一緒にしよう」
遼太は、帰ろうとする彩香を引き留めて、折りたたみの卓袱台を用意し、残り物の御飯と何度も沸かした味噌汁、味がしみ込んだ煮物を皿に盛った。
「おいしいわ」
彩香は、食事を満足そうに口に運び、遼太がお代わりを勧めるとそれに応じた。
「不思議な縁ね。私たち」
彩香は、出涸らしの茶を口にしながら、二人の出会いに触れた。
遼太も当時をしみじみと振り返り、感慨に耽った。
「食事美味しかったわ。今度は私が御馳走する番ね」
彩香は、腕時計に目をやった。
「もうおいとましなきゃ」
「そうか。今日はありがとう」
遼太は、このまま二人の時間が、続いて欲しいと願う気持ちを押し殺した。
「苦言を呈するようだけど、お部屋の掃除もたまにはしなくちゃね。今度、掃除に伺うわね」
爽やかな笑顔を残して、彩香はアパートをあとにした。
次の日から、遼太は、自宅学習をさらに一時間増やして励んだ。
口述試験の前夜、遼太は急に倦怠感に襲われた。
翌朝七時に目覚めたが、頭の芯が疼き、心臓の激しい鼓動と気だるさで、起き上ることができない。
(二年前と同じ悲哀を、また味わうのか)
朦朧とした意識の中で、遼太は再び眠りについた。
再度目覚めた時には、正午を回っていた。
口述試験までは、二時間ある。
準備を整え、表通りに出たが、体がふらつき、胃液までもが込み上げてくる。
断腸の思いで、試験会場に向かう足を病院に向け、辿り着いた病院の窓口で受診を求めた。
「急患以外日曜日は受け付けていません」
事務担当の冷たい返事に、為す術もなく待合室の長椅子に伏せた。
青ざめた表情で横になる遼太に気付いた看護師の配慮で、受診が認められ診察が行われた。
「免疫機能が落ちていますので、炎症が起こりやすい体になっています。風邪のウィルスも悪さをしていますから、点滴をしておきましょう」
当直医の適切な処置によって、翌朝には体調が元に戻っていた。
(肝心な時、いつも不幸に見舞われるのは、神に試されているのか。今は甘受して受け入れるが、必ず乗り越えてやる)
遼太は、もやもやした気持ちを切り替えようと散歩に出かけた。
日頃見慣れた景色も、改めて見ることで違った趣があることに気付き、自分の気持ちに余裕がなければ、見えるはずのものも見えないと覚った。
(彩香のことをもっと真剣に考える必要があるのかもしれないな)
四時限開始ぎりぎりに、三号館の講義室に入ると、中央の前から二列目の席に、髪を外巻きにカールし、淡いグレーの服を着た彩香の後ろ姿が見えた。
気付かれないようにと、最後尾の席で小六法をめくった。
顔を上げた瞬間、振り返った彩香と顔があった。
彩香は、授業が終わるのを待っていたかのように駆け寄ってきた。
「入室試験どうだった? 日曜日の晩、家に着いたころを見計らって、お電話したのよ。大家さんが留守だと言っていたので、心配だったわ。今朝から探していたのよ」
「ごめん、ダメだった」
「そうだったの。分かったわ」
彩香は問いただすことはしなかった。

