一二月二五日、東京発一九時七分の夜行列車「瀬戸」に乗車した。

 ウトウトしながら、一晩中寝台列車に揺られ、翌朝六時一二分に宇野駅に着いた。

 宇高連絡船出港までは、一八分の乗り換え時間があり、慌てず乗船できた。

 一時間の船旅には、名物うどんがお決まりのコースだ。

 ところが、朝が早いためか三〇分経過しても船内放送がない。

 販売所に足を運んでみると、販売所の窓口は閉じたままで営業する気配がない。

 楽しみにしていたことが消えたことは、衝撃だった。

 船が高松港に着岸する様子を見届けた後、築港から高松駅に接続する桟橋を小走りに進むと、駅のホームに待機する列車が見えた。

 窪川行の急行列車に一番に乗り込み、外の景色を楽しみながら、ゆったりとした気分に浸った。

 途中、久礼駅で鈍行に乗り換えた後、二四ものトンネルをくぐると、懐かしい故郷の景色が現れた。

 

 

 東京出発から、一八時間余りを要したが、疲れは全く感じない。

 車窓から、自宅前の畑で鍬を振る、鶴代の姿が目に飛び込んできた。

 駅舎を出て数歩進むと、鶴代が駆け寄ってきた。 

「遼太や、良く帰ってきたね。二年ぶりじゃね。元気じゃった? 良かった。良かった。荷物は、こっちへ」

 七〇歳を超えた鶴代の嬉しそうな顔が、光輝いて見えた。

「ただ今、おばあちゃん」

 鶴代は荷物を大事そうに抱え、優しくにこやかな笑顔を見せた。

 その姿を見て、懐かしさと安らぎで、胸が一杯になった。

「遼太が帰ってきたよ」

 玄関先で鶴代が、大きな声をあげた。

「良く帰ってきた。元気だったか。みんな心配していたぞ」

 いち早く飛び出してきた茂は、満面の笑みを浮かべて遼太を迎えた。

「お帰りなさい。少しやせたかね」

 痩せた体を見て、心配そうに由意が尋ねた。

「このとおり元気だから大丈夫だよ」

「勉強ははかどっているか。見通しはどうだ?」

 和正は、進捗状況が気になっているようだ。

「今度の試験に、勝負をかけます」

「じゃあ、来年は合格だね」

 役場に勤める正十の期待する言葉には、気が引き締まる。

「凄いね、兄ちゃん。僕も頑張るね」

「敏宏は頑張り屋だから、受験勉強が心配だ。無理はするな。健康が一番だよ」

 己を省みる思いだ。

「さあさ、早く中に入って、ゆっくり休め。今日は、帰省祝いだ」

 茂は、くつろいだ表情を見せ、家族の思いを告げた。

 和正は、早速行動を開始し、正十を伴って新鮮な魚の買い出しに出かけた。

 鶴代と由意が、田舎寿司作りに取り掛かると、茂は手慣れた様子で材料を構え、敏宏は奥座敷の掃除や食器等の準備を始めた。

 数時間後には、奥座敷のテーブルの上に鰹のたたきや刺身、田舎寿司を盛った皿鉢料理が所狭しと並べられ、全員が勢揃いした。

「遼太の帰省祝いと目標達成を期して乾杯!」

 茂の乾杯の音頭によって、賑やかな談笑が始まった。

「遼太、おかえり」

「元気な顔を見て安心した」

「まあ、飲め」

「この鮎の煮付けは、お前の好物だろ」

「お刺身もお寿司も食べてね」

 帰省を喜ぶ家族に囲まれ、田舎の味を満喫できる幸せを心から実感する。 

 安らぎの中に浸る自分を顧みて、東京の生活が、如何に空虚で、苦しい戦いの場なのか、改めて意識が鮮明になる。

(居心地良い環境と戦場、その両極端の生活が、現実なのだ。「艱難汝を玉にす」というなら、安らぎの経験こそ、優しさが身に付くはずだ。今、この至福の時間を最大限大切にしよう)

 翌朝、鶴代と由意が仏壇にご飯とお水を供えるありふれた姿に、祖先を敬い、家族の幸せを念じる気持ちを感じて心が動いた。

 上京前には、毎日目にしていた光景なのだが、新鮮に映る。 

「たまに帰ってきたのだから、もう少しのんびり過ごしたらどうか」

「勉強ばかりでなくて、外に出て思い切り遊んでおいで」

 茂や鶴代は、健康を考えて幾度も勧める。

「机に向かうのも大事だが、散歩でもいいから体を動かしなさい」

 和正も健康が一番だと言う。

 父親には、これまで反発ばかりで素直に聞き入れなかった自分を反省し、近くの地蔵堂に詣でた。

 家族の愛情が、今になってなぜこうも心に響くのだろう。

 

 正月二日、中学時代の同窓会が開かれたが、勉強に夢中になり、一時間遅刻してしまった。

「来てくれたの。良かったわ。遼ちゃんが来ないから家を訪ねようと思っていたところよ」

 会場に足を踏み入れると、ロビーで帰り支度をしていた野田佳織が声をかけてきた。

「遅れてごめん」

「いいわよ。会えたから。タクシー断ってくるわね。待ってて」

 佳織は、東京にある大手商事会社に勤めている。

「東京で何度か誘ったけど、上手に断られたわね。手紙を書いても、返事はないし……。試験勉強で忙しいとは思うけど、一度は付き合ってね。私、海外勤務になりそうなのよ」

「そうなのか。優秀な社員だから期待されているのだろうね。海外から帰ってきた時に、帰還祝いをするよ」

「本当なの? 嬉しいわ。でもずっと先になるわね。試験が優先でしょうから、仕方ないけど……。でも、約束よ」

「分った。約束するよ」

 和室から賑やかな声が聞こえてくる。

「じゃ、行こうか」

「そうね」

 佳織の話し足りなさそうな顔を見て、申し訳ない気持ちが生じた。

「皆さん新年おめでとう。今年もよろしく」

 拍手が鳴った。

「駆けつけ三杯!」

 幹事が、並々と注いだコップ酒を差し出した。

「一気! 一気!」

 掛け声に合わせて、三杯飲み干すと、司会がすかさず、近況報告を求めた。

 近況報告を終えると、歌のリクエストがあった。

 それが遅刻者に対する儀式だという。

「神田川」を熱唱し、喝采を浴び、献杯を受ける羽目となった。

「ちょっと飲みすぎたみたいだ」

 すきっ腹に、杯の応酬は、気持ち良さを通り越していた。

「大丈夫なの? これ飲んで頂戴」

 佳織が、厨房からもらってきた水が美味しい。

「暫く、ここで横になってて」

 佳織に促され、座布団を丸めた上に頭を置くとそのまま記憶が途絶えた。

「宴たけなわですが、ここで一旦、中締めにします」

 一本締めの後、思い思いに二次会に向かった。

「しっかり肩につかまってね」

 佳織に支えられ、崩れるようにハイヤーに乗り込んだ。

「着いたわよ。入って」

 手入れの行き届いた日本庭園に設置された池に、照明灯に照らされて、錦鯉がゆうゆうと泳いでいるのが見えた。

 

 

「ここはどこ?」

「私の家なの。両親は母屋だから気兼ねはいらないわ。暫く休んでもらおうと思って」

 佳織は、両親と弟の四人家族で、父親は県内で屈指の建設会社を経営している。

 広い敷地内には、別棟があり、リビングにはピアノや豪華なソファーが置かれている。 

 ソファーに掛けるとそのまま意識が消えていった。

 

 

 どれくらい経つだろう。

 夢うつつの中、頬に柔らかい何かが触れたように感じた。

 そして、自分の手が彩香の体に触れたようにも思えた。

 突然、部屋の電話が鳴った。

「分かったわ。三〇分後に行くからここには来ないでね」

 佳織が、突(つ)っ慳貪(けんどん)に返している声に目覚めた。

「二次会に行くのか」

「ここに来ると言うから、私から行くことにしたわ」

「自分はもう限界だから帰るよ」

「じゃあ、待っていて。ハイヤーを呼ぶわ」

 車に乗り込むと、自分の服から微(かす)かに漂う芳(かぐわ)しい香りに気付いた。

(彩香を抱きしめていた気がする。温かみのある感触だったが、夢だったのだろうか)