遼太と別れたその足で、彩香は流水を誘い、水道橋にある星法会の司法研究室を訪ねた。

 モルタル造りの二階建ての研究室は、年期が入っており、長く続く廊下の壁は薄暗く異様な雰囲気があった。

「この建物の中で、死闘が繰り広げられているのね。法曹界を目指す者の執念と気迫が感じられるわ」

 彩香は、身震いしながら流水を見た。

「私も体が凍る思いがするわよ」

 流水は、厳しさの一端を目の当たりにし、彩香と共に奥へと進んだ。

「何かご用ではないですか」

 小脇に本を抱えて、階段を降りてくる学生が不審げに問うた。

「山城さん、おいでますか?」

 彩香は、恐縮気に訊いた。

「どうしたの。二人そろって」

 学生から伝え聞いた山城が、右手を挙げて近寄ってきた。

 血色の良い山城は、たくましく見えた。

「昨日の結果が、分かっていたら教えていただけないかと思って・・・・・・」

 彩香は、遼太の入室試験の結果を尋ねた。

「林田君は、昨日受験していないよ。どうして受けなかったのか君も知らないの?」

 驚くような山城の問に、彩香は、不安がよぎった。

「彼の論文は、三番だったよ。凄いよ。研究室出身の弁護士や検事、判事、修習生たちが試験官をしてくれているけど、彼の答案を見てみんな誉めていたよ。だから昨日、林田君が来なかったことは残念だよ。一体どうしたのだろうね」

 山城は、心配そうな表情を浮かべた。

「私も知らないの。でも、それだけいい論文を書いているなら、正室員として認められないかしら」

 彩香は、懇願した。

「棄権した以上、だめだよ。だけど、準室員として毎週日曜日の答案練習会に通うことはできるから、林田君には、はがきで答案練習の日程を知らせるよ」

「受けなかったのは、恐らく体調が悪かったからよ。顔色が悪かったもの。遼太さんが、だめだった、としか言わなかったのは、心配させたくないと思ったからよ。でもね、私、遼太さんが正室員にならなくて良かったと思っているの」

 研究室を後にして、彩香は安心したかのように流水に率直な気持ちを伝えた。

「私も同じことを思っていたの。あの研究室の重苦しい雰囲気だと、遼太さん益々、のめり込んで、体を壊してしまいそうな気がするのよ」

「そうなの。だから結果的には、良かったのよ。今日のことは、遼太さんには秘密にしましょうね」

 彩香は、悲壮な決意で取り組む遼太の姿を思い浮かべていた。

「もちろんだわ」

「今日は、遼太さんに栄養をつけて元気になってもらいたいと思うの。すき焼きはどうかしら?」

「大賛成よ」

 遼太は、階段を上ってくる聞き覚えのある声に気付いた。

 咄嗟に、万年床の布団を二つ折りに丸めて押し入れに入れた。

「こんにちは」

 二人を迎え入れると、丸めた布団が開き戸から勢いよく落ち、綿(わた)(ぼこり)がたった。

 布団を収納し直して、座布団を取り出した。

「遼太さん、そんなに気を遣わなくてもいいわよ。私がやるわ」

「お客さんにさせるわけにはいかないよ」

「折角こうして私たちが訪ねてきているのよ。そんなこと言っちゃだめよ。彩香さんにさせてあげなさいよ」

「時々は空気の入れ替えもいいのよ。さわやかな気分になるわよ」

 彩香は、窓を開け放ち、空気を入れ替え、流水と共に、部屋の掃除を始めた。

 遼太は、お湯を沸かし急須に注いだ。

「遼太さんの入れるお茶、美味しいわ。今日はね、この前御馳走になったでしょう。 だから流水さんを誘ってお返しに来たの。腕によりをかけて御馳走するわね」

 座卓の上のすき焼き鍋からいい匂いが漂ってきた。

「乾杯しない」

 流水は、ワインを取り出してグラスに注いだ。

「遼太さん、飲んでもいいの?」

 心配そうに彩香は訊ねた。

「大丈夫だよ。ワインは身体にいいから、嬉しいよ」

「遼太さんの健康を祈って、乾杯!」

 彩香の発声で、遼太はすべてが見通されていると覚った。

 

 

「そして、私たちのいつまでも続く友情のために、乾杯!」

 すかさず流水は続けた。

 すきっ腹に入るアルコールは、酔いの回りが早く顔が紅潮した。

「このすき焼き、最高に美味しいよ」

「どんどん食べてね。お肉は十分にあるわよ」

 満足そうに頬張る遼太に、彩香は促した。

 

 

 和やかな時間は、過ぎるのが早い。

「遼太さん、これ近くの漢方薬局にあったハブ茶だけど、体にいいのよ。酔い冷ましにみんなで飲みましょう。残りは毎日、煎じて飲んでくださいね」

 彩香は、大量に入ったハブ茶の袋を渡した。

「布団もたまには干してね」

「干しても、この部屋には陽が差し込まないから無意味だよ」

「風が少し当たるだけでも違うのよ」

 南向きの窓を開けると、手を伸ばせば届きそうな真新しい五階建てのビルが建ち、陽は完全に遮断されている。

 西の窓を開けると、老朽化した二階建て木造長屋のプライベートの世界が丸見えで、遮光カーテンでの遮断を余儀なくされている。

 南と西の窓に、布団を干すことはできないのだ。

 彩香を安心させるため、遼太は首を縦に振った。

「これ、洗ってきます」

 帰り支度を始めた彩香は、布団カバー、シーツ、枕カバーをビニール袋に入れた。

「自分で洗うよ」

「だめよ。預かります」

 遼太は、彩香の思いやりが嬉しかった。