カタカムナの共鳴 -7ページ目

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

女の子は縦の線、羊飼いの少年は横の線を引ける というフリーゲームのレビューです。

 

 ↓ ↓ ↓

 

 おもしろかった。謎解きが、解けないと、もう、あちこち線を引いてやれ! ってことになる。ステージ10で一端、終わりを迎えるが、本の目次はもっと先もあることに氣がつく。それで、羊飼いを魔女に引き渡すという選択をするのだが、どうすればいいのか、これまた悩むことになった。インクの数を使い過ぎると魔女が居なくなってしまうので、ここで、インクの数の意味に氣付いた。なるべくインクを使わないようにクリアしなければならないことだったとは。
 ステージ16をクリアし、羊飼いの魂を差し出すエンドを迎えた。無事に女の子は外に出ることが出来た。本当は一緒に外の世界に出るつもりであったけど、結果的に羊飼いを騙して先に進むことになった。なぜそうなったのかの原因は、高い崖を登るためのインクが足りなかったからであった。羊飼いを外の世界に連れ出すには、インクをなるべくつかわず、すべてのステージでベストの線の引き方をしないといけなくなる。
 ステージ12が難関だった。何せひとつしかインクが使えない。あと3つ足りない。その足りない分のインクをどのように増やしたらいいのだろう と考え、前のステージで余らせる方法はないだろうか? と考えた。しかし、ベストと書いてあるのに、これ以上のことなんて出来るのだろうか? と思い直した。このステージで何とか完結するような氣がする。いろいろと試行錯誤して、突然、ハッ と氣がついた。根拠はないけど、やってみた。それで、先に進めた時は、すごくスッキリした! 謎が解けたという実感を齎してくれた。
 自分が絵本の中に入ったら、いつの間にか取り込まれていたというホラー物語の向きもある。羊飼いの純粋な思いは裏切られ、絵本の中に閉じ込められ、女の子は居なくなるという最悪の結末。絵本の中の女の子はあるじに懺悔する。そうして、一度は外に出たけど、もう一度、絵本の中に入り、今度はインクが最小限になるような線の引き方をして、外の世界の境界に出る。もちろんステージ12も、ベスト以上のインクの数を確保することに成功した。羊飼いを外の世界に連れ出せた? 何か訳のわからない ? の世界に突然、引き込まれ、魔女が再び登場。インクはもう使えず、線も引けないという。羊飼いの魂を差し出すように唆す魔女。
 魔女の唆しを回避するには、第三のチカラが必要だった。女の子と羊飼いの操作を交代する第三者がいるのである。そのボタンは第三者に話しかけるためのボタンであった。今まで、その者は、ひとことも喋らなかった。 ? という世界で、初めて、テレビ画面の前のプレイヤーに、ことばを発することになる。プレイヤー側では何が何だか分からない。女の子と羊飼いの意識を交換するためのボタンのはずだ。それが、しゃべっている? 一体、どういうことなんだろう。目の前の羊飼いが喋っているわけでもない。かといって、反対側にいる魔女が喋っているのかと思うと、これも違う。明らかに、どちらでもない、第三の意識体なのである。
 この第三の意識体、今までは何も喋らず、黙って、女の子と羊飼いの意識を交換してくれた。それが、魔女の前では、交換が効かなくなる。いくら押しても、羊飼いの意識に飛ばない。おそらく、今、喋っている者は、羊飼いの高次元の意識体、ハイヤーマインドに相当することだろう。魔女を前にし、そこに行きたくない、魂を売り渡したくないという無意識レベルで働く防衛本能が言葉として出て、プレイヤーに訴えかけてくる。
 この第三意識体、喋るだけではあきたらず、性格もある。普段はとても穏やかな羊飼い。しかし、機嫌を損ねると大変なことになる。逆に言えば、羊飼いと同じように控えめな態度を取り、機嫌を損ねることをしなければ、あの魔女の唆しを回避する方法をプレイヤーに教えてくれるのである。ハッキリとは教えてくれない。それとなく教えてくれる。そのヒントを頼りに、外の世界のあるものに干渉した時、魔女は、その存在もろとも、溶けていくことになる。外と内の世界の境界も消え失せる。魔女という存在は、本当に、溶けて、亡くなってしまうのである。この亡くなるという感覚は、物語中の会話の中の、ボウゥと薄い明かりの灯るような感じと共通するところがある。
 女の子も魔女と同じ體で出来ていることが、ここで判明する。元は外に出られない體だという。外の世界に出られないなら、羊飼いとしては、絵本の中に居て、女の子と一緒に暮らすことも選べる。しかし、女の子の罪悪感(一度は羊飼いを騙して外の世界へ出てしまった)は、羊飼いが一緒にいることを許さない。自分には人を愛する資格は無いと言う。そして、あんたの顔なんか見たくもない! と言い放ち、羊飼いを無理やり外の世界に放り出す。結果的には別れたが、自分を騙したことなど、羊飼いは、氣にもしていないだろう。好きという氣持ちは、そう簡単には覆らない。それに、改心した者を簡単に見捨てるほど心が冷めているわけでもないのだ。
 羊飼いと一緒に外に出ようともがいていた頃、途中から「ヤ」になって絵本の中に居たいというのなら、居てもいいわよ、みたいなことを女の子は口にする。ホントは居てほしかった。それを素直に言えないことが残念である。女の子は縦の線! は性格的にとても合っている。竹を割ったような、スパッと割り切る感じがよく出ている。一度は羊飼いを見捨てたが、そこはご愛敬なのだろう。
 ところで、第三意識体の機嫌を損ねた場合はおよそ子どもの絵本に似つかわしくないとんでもない結末を迎えることになる。魔女のように、自分があれを被ってしまうことになる。被る前に警告は出るはずなので、プレイヤーの方は注意されたし。
 なお、物語の進行は自動で記録してくれる。記録するかどうかをプレイヤー側は選ばなくていい。逆に言えば、どのゲームでも当たり前であった、いくつもの記録を残すことは出来ない。記録はひとつ、プレイヤーの進行のみというのがシンプルな造りであった。

 

おはようございます。
今日もブログに書き書きしましょう。

フェイスブックの投稿からです。

かなり直感的な内容になっています。
もしよかったら 感じてみてください!
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人に見られる(   )のは
美を保とうといふ意識があるから。

これを 美意識 という。

どんな姿でも
見られてもかまわない

となると
美ではなくなるのだろうか?

(  )内には 意識がある が入るけど
あえて省略しています。

いえ、(  )は本来は無いはずです。
あると思ってしまったことが
そもそもの間違いだと思う。

それは
(  )の中があるか、ないか、を
別々に感じてみると よくわかる。

ある場合は 何かついたてのある感じがする。
ない場合は そのまま本質を把握している感じがする。

ついたて は 何と何の間 にあるのだろうか?

人と人の間ですよね?

その間についたてをしたのが 意識 というもので
本来、意識とは 美を意識すること なのだ。
美が抜けている。

だから、美でない者がたくさん生まれてしまう。

気味の悪い一例:大阪万博の気味悪いマスコット

フェイスブックの投稿 のシェアです。

色々と氣になるものです。

 

 ↓ ↓ ↓

 

【元氣 安岡正篤さんの執筆より】

「氣」を養うことが根本の大事。
いわば生のエネルギーを養うということ。
いい換えれば「元氣」ということ。

元氣がないのは問題にならぬ。
しょぼしょぼして
よたよたして
一向に反応がない
なんていうのは論ずる価値がない。

とかく人間は 有形無形を論ぜず
元氣というものがなければならない。

元氣というものは生氣。
生のエネルギー
生々しておるということ。

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と書いてあった。
生氣は「しょうき」ですよね?

目に留まったのは
「問題にならぬ」というところ。

あれ、「問題がある」の間違いでは?

問題があるというのは、
けっこう好ましいことかも知れませんよ。

問題があるから
色々と論じる価値も生まれる。

いいではないですか
いいではないですか

フェイスブック と 同じ投稿 なんですけど

こちらにも あげておきますね!

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道ですれ違う時
もしその人が
何かを落としたなら
「落としましたよ」
と声をかけます。

それだけのことなんだけど
なかなかこの感覚を
分かってくれる人が
いないみたいです。

言うのをためらうとか
えっ?!
と思ってしまう。

なにゆえためらうのか。

自尊心を守る とか
自尊心が傷つけられる とか
そんなところを
氣にして
ためらうんだろうなぁ。

傷つけたくない
という氣持ちが強すぎると
ためらいが強くなるのだろう。

そして
自を尊ぶならば
もちろん
他も尊ぶことでもあるし

その他が
尊ぶだけのことをしているかというと
そうでない場合 もあるわけで
そうなったときに

道に落ちた落とし物のごとく
教えてあげればいいだけなのである。

他からの目撃
あらゆるところに隠れているが
自尊心が強すぎるゆえ
なかなか表に出てこれない
という現状があるようだ。

 

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前の投稿で

「教えることは存在しない」

ということを言ひましたが

 

 教える

 

とは

 

 他からの目撃

 

なのですね。

カタカムナウタヒ における 暮らしの歌を ひとつ 紹介します。

 

 アマツ カミ カム ナ  マニマニウタ サトシ

 ヤクサスベ ヒトココロワク ミト

 

 

〇 訳 〇

 

 アマ とは 「カミ」 と 「カム」 が 一緒にあり

 適度な間を保つ という 歌のさとし。
 八つの方法は ひとつの心から湧く そして 身と共にある。

 

 カミ・・・代わりに現れた身

 カム・・・代わりに生まれる何か(まだ生まれていない状態です)

 

 

〇 説明をするにあたっての衝動(位置勢力)を動画にしました 〇

 

 

〇 〇 〇

 

 

教壇に立って物事を教えるのはおかしい。


どこがおかしいかというと
一方通行だからだ。
上から下に流れる水のように。

だから教壇という段差をつける。

ユーチューブでも教壇システムが
疑問なく採用されている。

誰もおかしいと思はない。

教壇に立つ人をおだてたり
反発したりするさまを。

大事なのは教壇に立つ人ではなく
立っている人が話している内容だというのに。

全然、関係のないところで
違う話がもちあがる。

ということが起きにくい原因は
栄養不足にある。


栄養を満たせれば
双方向に流れるはずなのだ。

栄養を測る方法も
はるか昔に習ったけど
今は氣にもしなくなった。



どうやって栄養を測るかって?



そんなのは簡単だ。
見た目で知りたければ
リトマス試験紙に漬ければいい。

そうでなければ
體に聞けばいいのである。

そして
ちゃんと結球するなら
そこは
栄養が満たされたことになろう。

 当の本人が力の所在に氣付かず、力を持たない権力者たちの都合のいいように利用されるのは、もうコリゴリである。わたしたちはを見て羽ばたく性質があるが、それをいいように利用する人たちは夢ではなく現実のものとする。それが間違っている。現実にするのはいいとしても、現実にしすぎてしまうと、自分たちの生命も危うくしてしまうことに氣付いていない。
 人工知能(AI)が発達しすぎて、自分で考えることを別のものに預けてしまうという体たらく。知能を外に出し過ぎ。左脳を外に出し過ぎ。體の感覚と直結する右脳、及び全身の臓器、細胞たちがバランスを取り、左脳の暴走を止めなければいけない。
 止めた後で、自分たちの出来ることをそれぞれしていく。左脳は差をとり、比べ、数え、複雑な計算をし、答えを出す。それも判断であるが、計算に氣持ちは宿っていない。氣持ちに基づき、その氣持ちを実現するために算段を立てるのはよい。右脳と連携しているのだから、そういう形ならいい。しかし、人の氣持ちを無視し、計算の可能性をただただおっぴろげ、氣の弱い人たちがほんの些細な違和感だとか、嫌な氣持ちを言えぬまま、左脳の言いなりになることだけは避けたい。
 気付いている人が気付いているなりに右脳優先で、発信するだけでもよい。そうすれば、俺の考え方はちょっとおかしいかもしれない、と氣付くはず。日本語には左脳の暴走を氣付かせる力がある。自分の想うことを恐がらずに言えるようになる。氣は弱いが、しっかりした氣を持っている。他のものに氣をかけやすい性質である。精神現象と形の識別能力は氣持ちで測るもの。支配者の言いなりになるようなことだけは。。。。たとえ一時、言いなりになったとしても、せめて自分の独特の氣がちゃんと備わっていることに氣付かねば。。。。
 計算の部品、社会の部品とならず、何を計算するのかはわたしたちがキメる。その計算を用いて行くべくして行う方向を照らし、夢を見る。その 夢 に仲間が集まる。わたしは 計算機 ではない。左脳ではない。右脳である。人間である!

命のはたらきを仕分ける図(カタカムナ)

 

命の本質は潜在要素の連帯にある。

命の働く方向はヤタノカガミの図象で仕分けられた。

 

 

 

    ヤタノカガミの図象

 

 

仕分けたうちのひとつをココロ(小さな粒子)と呼んだ。

そのため 命の働く方向には8つの向きがある。

 

その8つの異なる働きが連帯し 命が運ばれてゆくと感じた。


「精神」とか「神経」という語がある通り

心は神から授かった神秘的なものと思う人が多いだろう。

心は謎であり どこからもこの謎を解く手がかりは齎されていない。

 

 

 

カタカムナでは 心をどのように捉えていたのだろうか?

 

 


現代で「まごころ」と言ったら

特別に深い愛情を込める意味なのだが

 

カタカムナでは「マ」の心のことであり

心とは すべて

 アマから始まり

 アマから仕分けられた

 小さなコロコロと転がるもの

ということで「マゴコロ」と名前が付けられた。

 

仮にカタカムナの使い手がいて

その人の思念を歌として表現するなら

 アマカガミ ヤホアメヨロヅ アマイノチ 
 マトマリ イノチ ココロワケ アワセ カサナル マノココロ

と述べるようである。

楢崎皐月さんが読み取った古代人の思念である。

 

この歌は次のように解釈される。
 

アマ を 鑑(お手本)とする万物の形はアマの命があり

それらがまとまり 命を長引かせる方に心が分けられる。

別けられたとしても それぞれの心に

アマ が合わせ重なっている。
 

ひとりひとりの心に

アマの心が

刻々と重ね合はされて

絶えまない精神現象を起こす

 

という物理が述べられている。



和語の使い方としては

 その物の名前を述べる と共に

 その物の成り立ち とか

 成りが立つまでの元となる発生源を指し示す意味

まで含まれてゐる。

 

 

 

なぜ そこまでの意味を含めることができるのか?

 

 

それは 名前を述べる音(オン)そのものに

アマの働きを 八つの方向に仕分ける思念が

込められているからである。
 

他に「コロ」には「トコロ」があり

話題を転換する ところで・・・という使い方に

「トコロ」の思念が色濃く現れている。
 

発生源から成り立ち

現在に至るまで含まれる

和語の音を使いこなすには

命が伸びる方向を

察知する勘が欠かせない。

 

和語を使うことができるということは

すなわち 生きながらえる方向を

無意識ながら察知することができている

ということになる。

 

 

 

生命の栄える勘を鍛えようと思うなら和語の習得を!

 

 

 

和語を自由に使うことができれば あなたも日本人です。

 

 

 

和語の習得には 音の高さ に氣を配る必要があります。

 

 

 

和語に慣れない異国の人は

 

 音の高さを間違える

 

ことがあるため すぐに分かります。

カタカナ がすごいのは
 栄養状態 について 記述しているからです。

カタカナ は カタカ「ム」ナ から
来ているものと伝わっています。



栄養状態の観点から言えば
先日の「カ」 は

栄養状態が欠けている のであり、

「チ」は

栄養に満たされた状態 と言えます。



栄養をどのようにして得るかというと

 「動く」

ということによって補給がなされています。



特に「動く」ということが激しい生き物は

「動物」 と言われています。



しかしながら カタカ「ム」ナ は

どちらかというと「植物」で

栄養の補給について 良く知っている生き物の書いた
ことばなのではないかと思われるのです。



植物 は 動物 ではないので 文字を書きません。
テレパシー で 植物の言っていることを
聴いてみる という試みはなされています。

なにしろ わたしが ワンネス という言葉を学んだのは
植物と対話する本から 得られた知識でした。

たしかに 植物にしてみれば
地面の下に 根を張り

栄養のやりとりをしているわけですから

もう それは ひとつの土で ワンネス なわけです。



土から離れて 狩りに出た生き物
 それが 「動物」 でした。

それでも たまには 土のたいせつさ を感じたくなるものです。

土に触れると 電氣的には アースされる ので
體の中の電氣的な雑音を クリア にできます。



わたしは 電氣的な雑音を
キネシオロジーの技術で クリア にしています。

その雑音の発生源をトリに行くような感覚です。

そして とれない雑音は 他の人にも手伝ってもらい
とってもらう というような感覚です。



しかし 雑音が なくなったからといって
暮らし向きが 変わるのかどうか よく分からないところです。

いちおう コロナ は落ち着いたようですが、、、


 (本当は すべて嘘でした ということと
  ワクチン は 有毒注射 であって
  免疫を鍛えるため という文言は
  詭弁であったことを 明らかにし あやまるべきなのだが。。。)




さて 復習です。

 栄養状態の不足を感じ → 動く

でしたね。



「カ」では 遠くて 栄養状態の不足 で

遠ざかるものに対して 手を伸ばして あぁ(落胆)
という構図が成り立ちますが

その栄養をですね
近くまで持ってきて トリに行く!

というような図象 響きがあるのですよ。



それが「イ」です。

 





  カタカムナ図象の「イ」



「イ」は 生き物の「イ」 でありますが
「植物」という分類についても
「生き物」という範疇に入っており
栄養をトル ことを

見た目上は 動かずして しています。


「イ」は母音のうちのひとつですし
ここは ぜひ 「イ」を響かせて
栄養をトリに行く感覚を
思い出してみるのも
いいのではないか と思います。

かわいい子には旅をさせろ とは誰が言ったのやら。

カタカムナ図象は 〇 と 十 から出来ていますが

今回は 十 を構成する 〇 の図を書く

「カ」と「チ」の思念について

検討していきたいと思います。



まずは それぞれの図を見てみましょう。



   カタカムナ図象の「カ」





   カタカムナ図象の「チ」




大きな 十 に対して 小さな 〇 が配置されています。

違いは 〇 の位置です。

右にあるのか 上にあるか で

 十 の違いを 識別してください と言っています。



 十 を構成する 横の線 は 地平線 です。

縦の線 は 人が立って 〇 を見ている形です。

このことは 相似象誌3号 にも記載がありました。


  地 の上で暮らす 人 人 人


家を建てたり 作物を育てたりしますが

ここでは 人 が 地の上に立ち 

見ている という 単純な構図を採用しています。



 十 というのは 人 がひとりで立っています。

それに対して ふたりの人が立つ図もあります。





   カタカムナ図象の「サ」



地平線はあるけれど 誰もいない図もあります。





   カタカムナ図象の「タ」



「タ」の思念は 分離 独立 と伝わっています。

何から分離し 何から独立したのでしょう?



相似象誌 では すべてのものは アマ から生まれ

アマ に還る と言います。



ですので 「タ」という図は アマ から分離して

独立する という思念であります。



「アマ」ではないもの 「アマ」と向き合うものを

「カム」と表現しています。



ですので 「タ」の図は アマ から独立しているわけですから

「カム」という状態におかれています。



また 「アマ」ではないものの別の表現として

「アマナ」と言うこともあります。


さらに 別の表現として 「アメ」と言うこともあります。



こうした アマ から独立した 単語 たちは

確かに アマ から独立しているんでしょうけど

それぞれ 特徴があり 名前がつけられている

と推察できます。



とにかく 「タ」 は アマ から分かれて生まれた

「カム」 であり 「アマナ」 であり 「アメ」 なのです。


それに 「タ」 をふたつ重ねて書けば 「多」 になり

数の多いという意味になります。


確かに アマ から分かれると 単語 の数が多くなるようです。



ところで 十 の縦線をあらわす 人 は

アマから独立した存在なのでしょうか?



ここがよく分からない所です。



しかし 音の響きから察するに ひと つにまとまり

人 と呼んでいることも考えられます。



アマ から分かれた

カム アマナ アメ を内包した ひと つにまとまった状態です。



すべての始まりは 「アマ」 から端を発します。

そして アマ から独立した状態を 総称して

「モノ」と呼んでいます。



「モノ」 と響いた時の 思念 には情緒があります。

 もののあはれ  わびしさ  さびしさ  が

そこはかとなく 漂います。


心が通い合っているような 氣 がします。





そうそう 心 というのも 古代語 でありました。

 十 のうちの 縦と横の線が交わる 中心 を

ココロ と呼んでいるようです。



さらに その ココロ の中身が分かる という図があります。

 十 を開いた図で あらはすのですが




   カタカムナ図象の「ヰ」



という 現在は あまり使われなくなった 仮名 です。

平仮名では「ゐ」と書きます。



さらに片仮名の「ロ」は ココロ の「ロ」でもあります。

十字が開いた 中心部分も 「ロ」で出来ています。



であるなら このカタカムナ図象も「ロ」なのでは? 

と思うところですが 「ロ」には 「ロ」のカタカムナ図象が

割り当てられています。




   カタカムナ図象の「ロ」




ここでは「カ」と「チ」の小円の違いを識別する

という題名で 書き綴っておりますので

これ以上は 深入りしないことにします。



まずは 横線 と 縦線 の違いを 感じ分けなければ。



「カ」は カタカムナ図象は無しにして

響きだけを感じて 思念 があるとすると

どんな思念でしょう?



これについては よく考えました。



「カ」というのは はるか遠いもの を指しています。



すごく憧れている人がいたとして

 かのように振る舞う

という言い方をしませんか?



その 雲の上の 憧れとなるほどの 遠さ が

「カ」にはあります。



それに対し 「チ」 は ものすごく近いこと を指します。

近くまで寄って 眺める という意味です。



顕微鏡のような思念なのです。



どんどん近づいて 見てみるような



そうすると そのものは どんどん 小さな部分に

分かれていきます。



「ちょっと」 という 控えめなことばの言い回しも

小さなことを 扱うような 気持ちが込められています。



ちなみに わたしは 「ちょっと」と言うことが 口癖です。

無意識に使ってしまいます。



それは さて いいとして

「カ」の思念は どこまでも遠い という思念

「チ」の思念は どこまでも近い という思念

であることが分かりました。



それでは その感じを元に カタカムナ図象を 見てみましょう。



「カ」は 横線(地平線)の端に 〇 がついています。

「チ」は 縦線(人)の頭の上に 〇 がついています。



地平線を眺めるのは 遠くて 大きなものを見ることになりますので

カタカムナ図象 と 「カ」の思念は 合っていそうです。


人の頭で考えることは ささいなこと なので

「チ」の思念も 合っていそうです。


大きなことを 頭で考えると どうなってしまうのでしょうね?


これは 謎として とっておくことにしましょう。


それでは また。