カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

この記事の元はハテナブログのryoさんの投稿からとりました。
ryoさん、ありがとうございます。

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私たちは「客観的であること」を
「主観」を交えずに物事を見ることだと考えがちです。

まるで自分の感じ方を完全に取り除き、
どこからも見ていない神の視点から世界を眺めるようなイメージです。

誰の視点にも依らず物事を判断することが客観的だ

と、従来は理解されてきました。



しかし、本当にそんな視点などあり得るのでしょうか。



「客観的な意見」「客観報道」と言った場合
個人の感情を除いて、事実に基づき公平に判断する態度を指しています。

「当事者ではなく第三者の立場から」
「誰が見ても同じように」
物事を捉えることが理想的な客観性だと考えられています。

科学の世界では
「観察者によらない独立して存在する事実」を捉えるために
実験や観察を行うべきだとされています。



フッサールの提唱した
現象学ではすべてのものを前提(括弧)に入れて
主観的な意識のありさまを記述することから始めます。


主観(私)から間違いの無い世界を構成しようとしますが
それだけでは確かな世界を捉えられません。
私たち皆に共通する客観的な世界があります。

例えば、私が「この机は茶色い」と認識したとき
他の誰にとっても机は茶色く見え
どの文化の人々もこの机を
物理的な茶色い対象物として共有しています。

ここで導入されたのが「間主観性(かんしゅかんせい)」という概念です。

「主観と主観のあいだ(間)に成立するもの」という意味で
英語では intersubjectivity(相互主観性)と訳されます。

万人に共通する客観的な世界は
常に主観と主観の間で重なり合っています。

はじめに、我という世界から出発し、
次に、我々の世界が徐々に構成されてゆきます。



ジャーナリズムの世界では
長年の経験から次のような知恵が語られています。



「主観を持ち寄ることで客観性が増していく」



一人の記者の見方だけでは偏りがあっても
立場の異なる記者たちが集まり
お互いにチェックし
意見を出し合うことで
誰もが納得できる報道内容に近づけるというものです。

このようなアプローチがあってこそ
公平で信頼できる像が立ち現れます。



科学の営みも本質的には同じ構造をしています。
科学的事実は一人の実験や観察だけで確定することはなく
必ず再現性による裏付けを必要とします。

多くの研究者が別々に検証し
それでも一致して確かめられた現象だけが
「客観的な事実」として受け入れられます。

これは主観(各研究者)の相互のチェックにより
客観性を担保していると言えます。



このように考えていくと
「完全に主観を排した客観性」は幻想だと分かります。

おのおのの主体の見方を前提にしつつ
それらが重なり合う部分を真実とする経過(経験)が要です。

個々の主観(視点)を結ぶ関係性の網の目の中にこそ
共通の世界像が浮かび上がります。



「客観=多主観の網目」という発想は
仏教でも示唆されてきました。

仏教の教理の一つに「縁起」があります。
縁起とは「縁(網目の絡み合い)によって起こる」という意味です。

この世の全ての現象は
それ自体で独立して存在しているのではなく
様々な縁が相互に関連し合って社会を構成しています。

「コト(出来事)」の網目が

「モノ(考え方)」になってゆくありさまが想像できます。



仏教でもう一つ重要なのが「無我」という考え方です。
無我とは「我は存在しない」という教えで
縁起と表裏一体の関係性を構築しています。

西洋哲学で言う主観と客観という区別が
根源的には空(くう)であり
主体と客体の対立を超えたところに真理があります。



人間の「自己」という感覚は一種の脳内イメージに過ぎず
存在しない手足をあるように感じる現象の連続体だと言えます。

永遠に栄枯盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部を
「自己」と認識しています。



また、宇宙からミクロに視点を移してみますと

 

 

 

脳は感覚器官からの信号を統合し
過去の経験に基づいて「仮説」を立てながら世界を知覚します。

脳内の予測モデル と 外部からの感覚入力 との

摺り合わせ(誤差の修正)を通じて知覚が生成されます。

つまり、目に映る映像や耳に入る音も
それを解釈する脳の主体的な枠組みによって

初めて意味を持ちます。

一人ひとりの脳内モデルは違うので、
感じ方もそれぞれ異なります。
事実だと思っていたものが実は錯覚だった、という事があります。

 

別の角度から照らすことで張りぼてだと判ります。

日々の生活の中で活かすには
自分とは異なる主観を進んで取り入れることです。

例えば、何か大きな判断を下す場合
自分一人の考え方だけで結論を出すより

他の人の考え方を聞いた方が断然、よい判断ができます。

自分では見落としていた視点に気付かされることもあるでしょう。

対人関係の揉め事でも当事者同士だけでなく
第三者を交えて話し合うと解決に向かいます。
それは第三者が「中立」だからというより
複数の主観を整えて両者の共通する認識を作るからだと言えます。

一人ひとりが「自分が正しい」と思い込んでしまうと
相互理解は進まず、むしろ主観の対立は深まります。

そうではなく、お互いの主観を前提として

それぞれの考え方の違いを知り
その交わりを丁寧に探っていく姿勢が大切になります。
 

包丁-キル の場合

-の中にそれぞれの音をあてはめる。

・包丁で切る  「で」は「~を使って」の短縮

・包丁に着る   対象に含ませる。

・包丁を切る   自身を対象にとる。

・包丁は切る   他のものを対象にとる。

・包丁が切る   包丁が生きている場合の言い方。

・包丁か切る   包丁が動作である場合の言い方。

・包丁の切る   すでに対象に含んでいる場合の言い方。

後の3つは生きてもおらず、動作でもなく、対象になっていないため、
文としての意味を通すには別の単語をあてはめる必要がある。

動作をものに言い替えた場合
 → 包丁の切るという作用は・・・

「か」は同じものをならべる。
「と」も同じだが、意味に違いがある。

「か」・・・一方を切り捨ててもう一方を採用する(論理和)
「と」・・・両方を採用する(論理積)

「と」は同時だが「て」には時間の前後があらわれる。
そして同じ時間の中に別のものは存在できない。

・切ると叩く   切るか叩くかどちらか

・切って叩く   切った後で叩く

時間の前後が生じた時  「る」は「つ」になる。
しかし、古語では「る」を「り」にするのが正解か。

・切りて叩く

「る」は動作の完了、「り」は動作の継続を意味する。

・マワリテメクル   回りながら捲る

「回りて・・・」は動作だが「周り」と対象にすることも可能。

・マワリテメクル   周りを使って捲る

「捲る」という動作に「切る」が含まれる。
なぜなら、切り目が判明してから捲るという動作に移るから。

「切る」にはものを判別する意味がある。
本来、ものとものの境目はあいまいだが、
「切る」と境目がハッキリとあらわれる。

誰かが切っている。
その誰かとは自分を含めた社会のこと。
切り目があいまいに現れては消える。

自分が切っても相手に通じないことがある。
また、切られたものを認知できないことがある。

義務教育において
切られたものを認知する訓練は十分に積んでいるが
自分が切ったものを相手に知ってもらう訓練はおろそか。

それどころか自分が切るという経験が希薄になり、
切ることができるという事実も忘れている。

AI(人工知能)が発達する社会において
人類の退化はますます深刻になっている。

永遠といふのは動きのないこと、
刹那といふのは動きのあることを表はしてゐる。

云はば止まった世界と動く世界は
物理学の分野では
単独で存在してゐるやうに捉へられてゐる。

例へば、アインシュタインの相対性理論では

特殊相対性理論は物体の速度が同じもの同士を比べ、
一般相対性理論は物体の速度に変化がある場合を扱ふ。

この両者の世界は
別々に存在してゐるとみてよいと思ふ。

この両者の世界が混ざり合ひ、
現実がつくられていくものだと分かるから、
この俳句が、あまりにも的を得てゐて
すごく有名になった。


 フルイケヤ カハヅトビコム ミヅノヲト
 (古池や)  (蛙飛びこむ)  (水の音)


「古池」とは古井戸のやうに
長い間、使はれなり、忘れ去られた池のことである。

「蛙飛び込む水の音」は池に広がる波紋を描写してゐる。
この波紋の広がりは、何かをキッカケに忘れてゐたものを思い出す、
といふ心理を視覚的に描いてゐるやうに思ふ。

聴覚的な、音に関しては、動く時に音がする。
音がしたといふことは、何かが動いたといふことである。

古い池といふ長い時間、動きのなかった世界で、
動きのある世界が混じり合ふ。

このやうに

 何かを感じる

といふものは永遠と刹那を隣り合はせにするのだと思ふ。


 

カタカムナ図象の「ヒフミヨイ」の形は

「ヒフミ」が右半円、「ヨイ」が左半円で書かれています。

 

どちらか一方だけだと、片方だけしか分からない。

 

両方が揃うと、全体像が見えてくる。

 

 

 

この「ヒフミヨイ」の意味を仮にこのように決めてみた。

 

ヒ:背景
フ:浮き上がる
ミ:感じる
ヨ:勢いをつけて
イ:感じたことを表現する
 

 

 

表現されたものを具体的にあげてみます。

 

表現された歌

 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

 

意味

 夜空を振り返って様子(ケ)を見れば、春日山連峰の内のひとつ、

 三笠の山に出ている月かもしれない

 

 

 

これだけでは心情がよく判らない。

物質と生命が合わさって全体像が判るようになる。

いわば、これだけだと、物質だけを見ているようなものです。

 

 

その背景

 読み手の阿部仲麻呂(あべのなかまろ/ 701~770年)は大和の国に生まれ、

 若くして優れた学才を現し、十六才の時に唐に留学し、三十年近く住んだ。
 五十一歳の時には、宗の皇帝に帰国を願い出、帰国のお祝いムードに包まれていたのだが、

 その途中で嵐にあい、結局、長安に戻り、唐の地で亡くなってしまった。
 この歌はそのお祝いムードの時に歌ったものであり、期待に胸を膨らませ、

 月を見ただけで遠く離れた故郷の月を思い返す心情になっていた。

 

 

7月10日の記事

 

最近はAC(交流電氣)モーターの扇風機が売られるようになり、
一度、買ってみたけれど、あまりにも音がうるさくて

寝ることができなかった。

昔はこんなに音がうるさかったっけ?

と疑問に思った。

また、ダイキンのエアコンを買ったのだが、
これもまた
あのインバーター特有のキーンという音が

           (モスキート音)
うるさくて本を読むのに集中できなかった。

あのキーンが不快なBGMとして
絶えず鳴り続けている。

空氣清浄やエアコン内部の乾燥機能がついたものであるが
静けさを犠牲にしてまで、
なぜこんなものを売っているのか疑問に思う。

風の音も大きめだが、
これは自然な音なのでさして氣にはならない。

あのキーンの音が気になる。

ACモーターの扇風機でも
やはりキーンという。

なぜこんな製品を平気で売れるのか。

なぜこういう製品を売っている販売店は疑問に思わないのか。

メーカーは消費者目線にたって、
どんなものが求めれているのかを
もっと真摯に考えてほしいと思う。

 

 

 

7月30日 後日談

 

このことはダイキンに来てもらって

いくつかの部品を交換してもらったが

これ以上はもう改善できないそうだ。

そして、このモスキート音については

報告をあげておくとのことだった。

私は低騒音型の電化製品を強く求める。

 

 

8月3日 後日談

 

メーカーに来てもらって音を聞かせた。

同じエアコンなら交換してくれるとのこと。

だが、同じエアコンでは音も変わらないので意味がない。

 

 

8月7日 後日談

 

販売店に言って、別の機種に交換してもらうことになった。

今度は日立のエアコンにした。大丈夫だろうか。

今度は音に悩まされずに安眠できることを願うばかりだ。

 

 

 

8月22日 後日談

 

日立のエアコンに交換してもらった。

あの不快なモスキート音は鳴っていない。

これで落ち着いて本を読むことができる。

 

ダイキンのエアコンがすべてモスキート音しているわけではないようだ。

私が買った型式は AN226AFNS-W である。

こういう音の出るエアコンを運悪く買ってしまった。

 

クリスタルボールだとかシンギングボウルなどの

高い音に親しむ習慣のある人はかなり氣になる音だと思った。

 

 

 

しかし、自然環境もずいぶんと変わってしまった。

命を失いかねない程の危険な暑さになるとは思ってもみなかった。

本当は、欧州のように、全体的に、電化製品を使用を抑えて、

暖気を外部に排出するのを止めるのが望ましい。

そうしないと自然環境の変化に鈍感になってしまう。

私たちも自然と共に暮らしているので、自然の変化を受け容れ、

自然さを感じられる暮らしに近づけていく方がいいと思う。

なんだか苦しいなぁと思いつつ
カタカムナの歌を詠みながら
楽になる考え方を模索していました。

苦しい時というのは
勝ち負けにこだわっている時です。

対立する概念があり、
その枠の中で
どちらが優位で不利なのか
状況によって心模様が変わる。

もうそんな考え方は
捨ててしまいたいと思っていました。

「サトリ」という図は
「サ」を「ト」にして「リ」にするということで、
最初にあった横引きの線(サ)は
ふたつの対立した概念を一度、ひとつにして
「ト」の形にし、
その後で元のふたつに戻す(リ)
という図の形をしています。

対立した概念は
網目の総体として
考えればいいと思います。

ひとつの網目があるひとつの対立した概念を表します。
その概念が網の目のように存在していて、
心が苦しい状態というのは
網の目のひとつだけを顕微鏡でじっと見ているようなものです。

網全体を織りなすあらゆる対立が
微妙に力を及ぼしながら、
大きくなったり小さくなったりしている
と考えれば
ずいぶんと楽になります。

そして、網目の総体は方法の模索を表します。

絶望的に見えても方法は
どこかにあると思う。

知らない、見えていない。

それなら全体を見渡して、
知る、見えるような状態にすればよいわけです。

いかにうまく隠したところで
どこかに必ず歪みが生まれています。

みなさんは社会に対する信頼感は
どのくらいありますか?

わたしは絶望しているというか
ほとんど無いと言ってもいい状態です。

心理的に一番きつかったのは
借用書を利用した投資詐欺に騙されたことです。
騙されたのは別のいいのですが、
社会がこれをいつまでも解決せずに
ずっと放置しつづけていることです。

そして、詐欺にひっかかることをよしとせず、
ひっかける側を捕まえるのではなく
ひっかかる側がいかに防ぐかばかり、強調しています。

これでほとんど、社会に対する信頼感を失いました。

その後に、色々と調べてみると
世の中はほんとうに詐欺ばかりでした。

判りやすい例で言えば
世界貿易センタービルが倒壊した911テロでしょう。

飛行機がぶつかった映像は
コンピューターグラフィックスですし、
その後にビルの中を爆破して
まるで特撮映画のように
綺麗に破壊してしまった。

最近で言えば連日のニュースで
さんざんにわたって、毎日のように
まるで日めくりカレンダーのように
煽りに煽りまくった感染者報道をきっかけとした
コロナ騒動と効果のないマスク着用の異常な流行でしょう。

この詐欺的事件によって
みんながみんな、人にどう見られるか?
をいかに 気にしているか?
ということを 強く 強く 認識したのではないでしょうか。

そして今も続いているのは
テレビでも、インターネットでもそうですが、
過剰な広告でしょう。

広告というのは邪魔でしかなく
利用者のことをまるで考えていません。
自分のブログを見るのだって広告が邪魔です。

提供者がお金欲しさで過剰に商品を宣伝するという行為。

この宣伝でも、メリットとデメリットを
均等に提示して、考えさせるものならよかったのですが、
その伝え方はメリットだけしか言いません。

アメリカとソ連が冷戦の時代に
宇宙開発競争をしていて、
アメリカが最初に「宇宙に行った!」と言ったのも
嘘でしょう。

白黒テレビでの月面着陸映像に
みんなすっかり騙され、未だに訂正されていない。

この詐欺的事件では
ひとりひとりの想念の力というものを
強く意識されたのではないでしょうか。

みんなが信じれば、たとえそれが嘘でも、
ほんとうの事として扱われるということです。

とにかく世の中、詐欺に満ちすぎていて、
正直さ、思い遣り、律儀さ、情念、無念、
といったものがないがしろにされていると思います。

人の心を持つ者は
ほんとうの事を知る方がつらいから
騙されたままの方が氣が楽だと思います。

その弱さにつけこんで
悪い事をする人たちは
どんどんつけあがってしまうのでしょう。

一体誰が歯止めをかけるのでしょうね。

やはりひとりひとりの心の強さが
ものを云うのでしょうか。

考えることを人工知能に外注してしまった昨今、
自分の求めるものを【探す】という過程が
とても大切だと思いました。

なぜかというと
探している間にいろいろな事を考えていて、
そこでまた、新たに、
別のインスピレーションが湧いてくるからです。

ぜひ、ここは外注せずに、
求めるものを探すという行為に
重きを置いてみてはいかがでしょうか。

雰囲氣に飲まれないようにするには
客体化が大切だ

 

客体化というのは

自分の考えを見る

もう一人の自分を

対象化することである

もう一人の自分の考えは

何と言っているのか?
 

両者の考えの一致するところは

どこにあるのだろう?

 

よく話し合うことが大切である

 

そうしないと

あとで後悔する

 

本当はこうしたかったけど

できなかった

という後悔である

ふだんは自分というものが存在すると認知しているが、
それは無意識の空間が生み出す概念である。

概念とは実際には存在しない言葉を
言い表す時にいう。

また社会的概念という使い方もあることから
自分以外の者があつまって社会をつくった時に
自分以外を区別するために
【自分】というものを定めた。

もし区別する必要がなかったら
そもそも【自分】という認識は生まれない。

おもえば生まれた最初の頃は
【自分】という存在は
別段、意識はしていない。

ものごころがついて
(ここでも モノ が出てくる!)
自分の姿・形を意識しだして
初めて、自分という存在を意識する。

そういうわけで
社会的概念は他者との関わりから生まれるのだ。

社会的概念ではなく、
個々の感覚、感情から生まれる念(オモヒ)は思念という。

思念の中から自分というものを取り出して、
その自分の身の安全をどうすれば保てるのかという念は
観念という。

そして、観念が集まり、
こうすればほぼ安全というのが固まった考えが概念になる。
つまり、観念は概念に昇格するのだ。

また、感情は残存思念となって、あまねく空間に漂っている。
思念は自然界を形づくる。

消えた観念は思念として漂いながら、
生きている観念は概念として確立している。




時間と空間が一体であるという意識、感覚。

難しいかもしれないけど
まずはその感覚を取り戻すことからなのだと思う。

そして、前に投稿した <精神現象を表したモデル> の中で
自分と他人と書いている所を消して

端的に言えば「ヒ」は自分の心のある場所(ふるさと)、
「イ」は他人の心のある場所を表している。

を

端的に言えば「ヒ」は心のある場所(ふるさと)、
「イ」も心のある場所(物珍しさ)を表している。

とか

自他の心を共有する「ミ」という点は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
人の心に接してうごめいてゆく感じを表している。

を

心の「ミ」は摂動と呼ばれ、
宇宙科学の用語であるが、精神の現象としては、
心がうごめいていることを表す。

と読み替える必要がありそうだ。