カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

相似象学会誌三号より


 我が国の上古代人は「唯物」とか「唯心」のような「相対的物理観」ではなく
 現象潜象(天然自然の存在)の一切をすべて<モノ>として統一したのであり、
 文字通り絶対の唯物観を持っていた。




と書いてあるのですが、
一体、何を言っているのか、よく分かりませんでした。

相対と絶対・・・何が違うのだろう。



何日か考えていると
同じ意味を違うことばで言いあらわしている、と氣付きました。

その氣付くキッカケは
最近の寒暖の差が激しく、ずいぶんと波があるなぁ、と
思ったことから

この波は ナギ というカタカムナ図象の形もあらわしていると
思い立ちました。



  「キ」をあらわすカタカムナ図象 

 地平線を象った横線に上下の波があるという記述。
 上であれば冬のような気候、
 下であれば夏のような気候をあらわす。



波があるから ナギ もある、ということではなく、
波も ナギ も同じ意味だった、
ということです。

そのようなことが別の個所にも書いてあった。



相似象学会誌三号より


 直感によれば、一切の物は動的性質を有し、
 動態に対する統計的静の性質があることを把握していた。

 

 

 

小さく見たら波があるが、大きくみれば止まっている、という性質のことです。

 

「統計」というのは別の個所にも出てきます。

 

 

 

相似象学会誌三号より

 

 今は恒に存在するモノでありながら「今」といふ固有の存在はない

 いはば「時間空間的な統計的存在性」のこと

 

 個々うつり変わりの相を固定静止の観念で把へるところにアヤマリがある

 つねに「変遷の統計的存在」としてみるべき

 

 

 

そうすると固定した考えも柔軟に変わり得ると思えます。

 

 

 

 

 

日本の歌というと
 ひなまつり とか こいのぼり、しゃぼんだま、赤とんぼ、
 とうりゃんせ、ずいずいずっころばし、

などと思いつきますが
それも とても やさしい歌として あるんですが

それよりも もっと ずっと前に

カタカムナの歌 というのがあったようです。



この 日本の歌のやさしさ を感じつつ
意味が通るように
子や孫に 教えきかせるように 歌うとしたら
どんなふうに 歌うのだろう


ということを考えていました。


現在、伝わっている カタカムナの歌 のあらましは

ヤタノカガミ という カタカムナを表わす図 の

 動き

を 歌として 伝えた



というのが まづ あります。



そして 歌の出だしは ヒフミヨイ という

数を オン として表わすことから はじめています。


この ヒフミヨイ がすべての基本にあるようです。



そして この ヒフミヨイ を説明するために

あとの歌詞がつづいていた と考えられます。


なので 教える場合は 結論から先に述べるのではなく

分かりやすいものを例えにあげて 最後に結論を述べる

というのが 日本語の文法でもありますし

日本らしい歌になるかと思います。



ただ 現在では 外国語の発音を片仮名で書く という習慣があるので

結論から先に述べることも ある意味では 理に適っていると

言えるのかもしれません。



ただ やっぱり 分かりたいので ここは 日本式に

結論を後に述べた場合の 歌の形を 考えていきたいです。



相似象学会誌が出される前に「日本の上古代文明」という
薄い冊子が発行されていました。

その冊子を見ると カタカムナ は カタカンナ と書かれています。

なので 当初は カタカンナ と呼ばれたものが
次第に カタカムナ として認識されてきたのではないか と思いました。

あるいは 逆に 正式に「ム」と発音する所を「ン」にしてしまった

のかも知れません。

古事記では造化三神の「かみむすび」という音は
カタカムナ文献では「かむみむすひ」になっています。

なので 「ム」は「ン」になり、さらに「ン」という音が消えてしまった

という変遷があったのだと推測されます。

そして 紀元1000年頃に作られた いろはうた では
見事に「ん」が無くなってしまったという。



しかし 古い 古い カタカムナ文献では

 元から「ん」という音があった

と解釈でき、「む」という音と区別され、使われていた痕跡が
歌になって 残っている と考えられます。



古事記よりも さらに古い 上記(うえつふみ)という文書には
「かむみむすび」とあり まだ「む」があったようです。

 

(相似象学会誌 4P100 より)

 

 「ア」とは「アマ」を指すヒビキ。「アマ」は「アヤ」を作る。「アヤ」とはより糸の絡み付きであり、力の相互作用を表わしている。「アヤ」から「アカ」が生まれる。「アカ」とは形に現われたもの。現われた形を正とする。自らの身の潔白を証明する時は「アカシを立てる」と言う。その正に対して、反を「アヤ」と言う。「アカ」にはならず、もつれてしまった感じが、そのヒビキからうかがえる。

 

 「ア」は驚いた時の声を写したもの。その驚きにはあらゆる感情が含まれ、それは恐れであったり、悲しみであったり、哀れみであったり、憧れであったり、喜びであったり、落ち着きであったり、頷きであったり、祈りであったりする。

 

 「ア」の正反性は音の高さに現われる。高ければ期待に胸膨らませた驚き、低ければ落胆の感情を表わす。「ア」は中身、「マ」はその中身の感情を納める器という意味がある。そして、器の中に収まるか、はみ出てしまっているのかを「ア」の高低差で言い表わしている。

 

 日本人が豊富な擬音語、擬態語を作り出せた要因はカタカムナの造語法に原型があったようである。「シィーンと静まりかえる」の「シィーン」は何も物音のしない静寂の裏で鳴り響く例えようもない大きな、畏(おそろ)しい音を表わしている。真夜中に虚空を見上げた時に感じるような無音の響き。雪が降る静まり返った街中の音も「シンシンと雪が降り積もる」と言う。このような目や耳で感じることの出来ない音も擬音語にしてきた。

 

 カタカムナの四十八音は天地自然の発する大きな響きであり、その音がそのまま天地自然の様相を表わしている。そういう音で綴られた単語が日本語に受け継がれ、今もなおカタカムナの心情を留めている。天地自然の奏でるリズムは自由自在に変転する性質があるので、日本語もまた、多重性と多変性をもってカケ言葉、シャレ言葉、擬音、擬態に変転していく。天地自然のリズムに溶け込む響きをありのままに感じて、響きの生づるカミ(本源)を把み、言葉にしてきたのが私たちの祖先である。

 

 日本人同士なら業種や学歴、年齢の差とは無関係に、誰に対しても「グズグズ」や「コロコロ」、「キッパリ」「ボンヤリ」と言えば、すぐにその様相が相手に伝わる。それは私たちが「グ」とか「ズ」、「コ」とか「ロ」の意味する天地自然の響きを刹那のウチに感じるからである。

 

 

初版 :2024年2月24日

改訂1:2025年6月5日

改訂2:2026年2月7日

改訂3:2026年3月5日

ホピ族の投稿を読んで

この「信じて恐れないこと」が

とても大切だと感じました

明治に入ってから「自分」というものが現われ出して
共同体意識が徐々に蝕まれ、
個人の自由が尊重されるようになりました

私なんかはプライバシーの侵害などという
法律が立ちふさがって
自分の主張が全く受け入れられない
という状態に陥ってしまいました

まったくの不信の状態です

信じることが大切だと訴えてきました
しかし

こうも改善が見られなければ
そのうち信じることも
やめてしまいます

あまりにつらいので
別の国に移り住む人もいます




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母なる大地を大切に
そうすればあなたも大切にされます

必要なものは大地からもらいなさい
ただし必要以上に取ってはいけません

持っているものはみんなで分けましょう

 

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左右を互換させながら上下が重なり合う
カタカムナ図象の形は

 ヒフミヨイ ムナヤコト

と表わされました。



念には三つの種類があり、
私たちが約束事としている念のことを「概念」と言います。

それに対して、自分の視たものに関して抱く念のことを
「観念」と言います。

ものに対して抱く念です。

視る人はひとりだし、視られるものもひとつです。
一対一の対応関係があります。

それに対して「概念」とは
そういうものがひとつひとつ集まって、
その集まりを
ひとまとめでこう呼びましょう、という念のことです。

もうひとつ
「思念」というものがあります。

こちらは、よく落ち武者が無念の死をとげた時などに
使うような念のことで、

死してもいまだ消えざる念のことです。

知ろうと思えば誰にでも知ることができます。
感度が麻痺していたり、
特定の環境に染まっていると知覚できませんが、
知ろうと思えば知覚にのぼる念のことです。

カタカムナ図象では「思念」というものを扱い、
その感触を記号にしました。

例えば
「ラ」という記号は拡散を表わし、
「ニ」という記号は集中を表わします。



カタカムナを伝えた人は
万物を構成する材料(原料)のことを
「アマ始元量」と名付けました。

「アマ始元量」がある、ということを
認めることが第一歩だと言っています。

いまだ仮説の域を出ない「アマ始元量」ですが
たしかにあるのだと言っています。




「アマ始元量」は
「思念」として漂っている状態なのだと思います。



寒い冬、布団の中で眠る時、
布団の中は温かいですが、
だんだんと温度が逃げてゆきます。

體と密着している所は温かく
體から離れた所は冷たくなっていきます。

この温度というものは
分子の振動だと言われます。

そして
放っておけばだんだん冷たくなるのだと。

物質の構成要素を探求する熱力学では
エントロピーの法則と申しまして、
エントロピーは一方向に進むばかりだと言います。

熱的には冷たくなるばかりということです。

しかし
カタカムナでは物質だけではなく
生命質についても扱っています。

冷たくなるばかりではなく
暖かくなる方向もあるんだと言っています。



さながら物を食べるという行為は
まるでエンジンにガソリンを入れるようなものです。

食べたものを燃やし
熱に変え、手足を動かすエネルギーに
変えていっているのでしょう。



エネルギーは無くなるばかりではありません。
作られることもあります。

また、無くなったとしても
消えてしまったわけではありません。

「アマ始元量」に還元されている

そして

 また新しく作られる

と感じていたようです。



「アマ始元量」との重合感も大切だと
書いてありました。

この重合感を失ってしまったがために
変な妄想にふけるのだと。

変な妄想というのは
時間をコントロールすれば空間を自由自在に変えられる
タイムマシンというものができるのではないか
という発想のことです。



時間(タイム)は機械(マシン)ではなく生命です。

カタカムナ図象の
縦の線は生命質を表わしています。

その縦の線は ??? と互換しながら
横の線と重なり合っています。

??? は形が無いので カム と呼んでいたそうです。

以下は「日本の上古代文化」という冊子の書き写しになります。
しかし、そのままの文を書き写したわけではなく、それを読んで、
自分としての解釈を書いたものです。

カタカムナについて書かれているので
カテゴリーとしては「相似象学会誌の書き出し」に入れておきます。

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 「マリ」の重ね記号は「マワリ」とも誦み、

「ワ」を重ねたとしても「マリ」の記号の形は変わらない。

 

 

 

  図1. 「マリ」を表わす記号 

 

 

「ワ」は循環を表わし、

現われては消える「マリ」の規則的な循環を説いている。

 

 

  

 

  図2. 「ワ」を表わす記号 

 

 

「マ」はすべての「マリ」が統合された静の状態にあり、

「マリ」は「マ」から分離して時間(目の前)と空間(後ろ)を分け、

それぞれの正反が互換している動の状態にある。

 

 

  図3.「マ」を表わす記号 

 

 

    

 

  図4.「マ」が「リ」という状態になった記号 

 

 

静(マ)はシヅマリと言い、

たくさんの客体から自分が見られているという意識(集合意識)に基づく。

 

動(マリ)はタカマリと言い、

自分が客体を個別に見ている意識(観客意識)に基づく。

 

そして「マ」から分離した観客意識に基づく「マリ」でも

アツマリ(社会構成)になると静として振る舞う。

 

そして、すべてのマリを集めると「マ」に統合される。
 

 

 

 「マワリ」という言葉の意味にも静と動の両面がある。

 

静のマワリは円周(長さ、空間)を意味し、

動のマワリは回転(速さ、空間の時間微分)を意味する。

 

ワ(大円)を縦に区切る線は時間(微分)を意味しており、

ワが微分されてイマという状態が現われる。

 

時間は観客意識(動のマリ)として目の前に現われ、前と後ろで旋転し、

前と後ろが分離してゆき、後ろに自分の空間が作られる。

この空間は観客に見られることはないカム(形が無)の状態である。

 

ワの大円を横に区切る線は

空間(自分の後ろ側の空間ではなく客体としての空間のこと)を意味しており、

微分されたマの旋転(イマ)が横に広がっていく様子を表わしている。

これをイマタチとかイマの統計的存在性と呼んでいる。

 

ところが、これを集合意識的な見方にすると、意識の逆転現象が起こる。

横の線は前と後ろの空間(上と下の半円)で反転(旋転の静止バージョン)しており、

縦の線で前にあったものは横の線では後ろに配置される。

自分のイマという時間が後ろにある状態(過去という意識状態)になる。

こうなると 観客に見られている自分の意識 は静まり返る。

この意識の状態では言葉も出ず、何かに対して具体的に働きかけることも出来ない。

ただ、自分の存在の電氣的な波動(人体波)が

周りに対してシヅマリという静かな影響を何もしないながら与えている。

さながら老子の言う無為自然に近い状態である。

手応えは反力で、そのものに注いだ力の向きが
反対方向に働くことを言う。

注げる力の方向を正とすると、
その力に対して
逆に作用することを「反力」と呼んでいるが

学校の物理の授業では「反力」があるという説明だけで

なぜに反力が働くのか?

とか

どこからその反力は生まれてくるのか?

とか

注いだ正の方向の力はどこへ消えてしまったのか?

という疑問には答えてくれない。



古来、カタカムナという記号をつくった人たちは
この「反力」の発生する出元が分かっていたようで、
正の方向の力がどこに消えてしまうのかもまた
分かっていたと思われる。

たしかに力というものは目には見えない。

衝撃として物体に及ぼし
形を変える力なのだ。



力はすべからく目には見えない。

強い圧力のかかっている状態でも
表面の歪みは分かるかもしれないが、
実際にどれほどの圧力がかかっているかは

その物体とか当人になってみないと
なかなか分からないものである。



 

 現在、私たちは便利な生活を享受している。テレビ、電話、カメラ、洗濯機、パソコン、自動車、新幹線、飛行機に囲まれて生活をしている。本来、科学というのは人の幸せに貢献できるようにしなければならないのだが、利便性のあがることが幸せだと勘違いし、将来に夢や希望を思い描く隙間もないほど、科学の緻密さに押しつぶされている。この世界は物質だけで構成されているのではない。物質と心の重なった構造をしている。本当は物質だけではなく、心の研究も発展していかなければならない。心の世界を宗教に任せきりにしていたのでは埒があかない。心の世界にエネルギーが蓄えられ、それが物質化しているのだと知らなければ。

 

 

 カタカムナヒビキ マノスベシ

 アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ

 

 現象世界の背後には心のエネルギーが広がる世界があり、心の世界の主を「カムナ」と言う。その「カムナ」から現象世界の主が作られる。それを「アマナ」と言う。万物は「カムナ」と「アマナ」の共振(響き)によって発生する。その共振は渦巻き状の粒子であり、それを「アマ始元量」と楢崎皐月は名付けた。万物は「アマ始元量」の変遷として表わすことができる。

 

 

 フトタマノミ ミコト フトマニニ

 

 「カムナ」と「アマナ」の重合した「アマ始元量」の粒子は濃密になり、次第に現象世界に定着してくる。それが物質や生命質に発展してゆく。

 

 

 大自然の息吹を友としていた古代人の直観は研ぎ澄まされていた。物質の背後に隠れている「アマ」の始元の量を洞察するほどのものだった。世界を構成する材料は「アマ」という粒子から、すべて、できている。この雄大なスケールを感じてほしい。森の木々や鳥たちとテレパシーで会話できていたと思われる。

 客観的で合理的なものを事実としてきた現代人にとって、科学的に検証できないものは存在を認めず、テレパシー能力もだんだんと衰えてきた。人や物、動物の氣持ちも分からなくなってきた。共振能力の著しい低下がみられる。科学の盲点にもなっているもうひとつの世界、存在を確かめることのできぬ世界を知ることが、これからの人類の発展の鍵を握る。

 

 カタカムナの記号はそれぞれの「アマ」の形を表わしている。「アマ」には心が通い、響きとして感じられ、それが日本語音をつくる元になった。日本語の一音になんとなく意味があるのではないかと感じた人たちが「カタカムナ」とか「アマの形」に興味を持つ。その「アマ」は作物がどう育つのかとか、病気という症状で体を自然治癒していく仕組みだとかを明らかにしていく。すなわち「カタカムナ」を知る古代人は現代の天文学、物理学、化学、生物学、心理学、医学、農学といったものをすべて網羅した「アマという学問」を確立したのだった。

 さらに、ここに衝撃的な事実が隠されている。現在の日本語の中で片仮名として親しまれている文字は実は「カタカムナ」の記号をルーツに持つ形だったことである。実際、「サ」「キ」「リ」「ヰ」「ハ」「ホ」「エ」「へ」「ラ」「ル」「ス」「ヌ」「ソ」「ン」の片仮名の形はカタカムナの記号とよく似ている。

 カタカムナの直観を歌によって述べているが、それをいくつかあげると「イサナミ」はアマの波動性、「イサナギ」はアマの固着性、「タカミムスヒ」は独立した形ある実体(物資)を生す根源、「カムミムスヒ」は形のない実体(心)を生す根源、「アマノミナカヌシ」は原子核の中にある意識体を表わしている。カタカムナは悟りの科学なので、楢崎皐月は「哲科学」と呼んだ。

 

 カタカムナの「カタ」は現象の世界に押される型(パターン)、「カムナ」は形のない世界の主の意味なので、「カタカムナ」とは現象世界に表れるさまざまな形は形のない(心の)世界の主から生まれるとか、現象世界は心象世界の片々の構造によって成り立っているという意味になる。

 

 現象世界と心象世界の一切のモノは「アマ」の始元の物理量(カム、後述)から醸成されている。「アマ」は微分化された粒子であり「マリ」として感じた。アらゆるはじマリを感じ、カタカムナの記号にしたためた。

 「アマ」はひとつの宇宙の球と捉えたのだが、その宇宙の球の外側は「マ」の形を生す「カム」というものに覆われている。「カム」から「アマ」という球が生まれる。そして、「アマ」の球はひとつだけではなく、いくつもあると観じていた。したがって、いくつもある「アマ」の元はすべて、「カ」から生まれる。「カ」が発展して「ア」になることは記号にも書かれている。

 

 

   

 

 図.「カ」という音で表されたアマの形

 

 

 

 

  

 

 図.「ア」という音で表されたアマの形

 

 

 

 私たちは宇宙を一番大きな概念だと考えるが、実際はそうではなかった。宇宙の外には心の世界というものがある。宇宙という物質的な概念と心という非物質的な概念を合わせて、楢崎皐月は「天然」と呼んだ。そして、天然からいくつもの自然が生まれていると考えた。違和感のない普通の状態のこと、目立たずに生存すること、敵から狙われずに安全に暮らしてゆくことを私たちの祖先は何よりも大切にしてきた。

 アマ始元量は相似象になっている。互いに似通う性質があるので、いろいろなものの展開していく型(パターン)が共通の形として識別できることに氣付いた。そういう共通した型を識別する直観が心象世界とそこから生まれるいくつものアマとそのアマの形をハッキリと見分けたのだった。見分けた後はヨソヤ(48個)の音にあて、形を響きに翻訳していった。そして、響きによって単語を造り、48個よりも多い形を48個の形の重なりによって認識できるように応用していった。動物や植物、物質、すべてのものに相似象が展開され、この現象世界を共有している。

どうしてインフレ(お金の価値が下がる)が起きるのか?

なぜお金の価値は一定に保たれないのか?

朝ドラで 20円とかいう大金が出てくるけど、
それが今の 20円と価値が異なる
(ひどく安く扱われている)のはどうしてなのか?


インフレ前とインフレ後では
お金の価値が全然、違ってしまうので、
借金をしている人にとっての
インフレは大変に都合がよい。

借金というのは銀行からお金を借りて
別のものを買うということなのだが
このもの持ち(お金持ち)たちが
お金を返したくないために
インフレは起きている。

お金の価値は常に一定の範囲内で変動する。

これが健全なお金の使われ方をしている状態だと思う。

インフレが起きて、揺り戻しが起こらず、
ずっと上がったまま、というのが異常なのだ。


公共工事では買い物(建設)を煽り
予算を獲得し、
お金を使う(民間に渡す)ことで
庶民の生活がうるおう、とされている。

しかし、その予算、どこからもってくるのかというと
もちろん銀行である。

お金を持っていないのに、
銀行から借金をして、ものを買ってしまう。

そして、銀行が銀行の外に出したお金が
かさばってくると ものに対しての
お金の価値が相対的に下がり、インフレとなってしまう。

この前は この値段で買えていたものが 
買えなくなり それがずっと続いてしまう。


揺り戻しが正常に起きてくるには
銀行からお金を借りて
無理な買い物をする人が減ればいいのだ。

 

前に「デフレの原因が分かった」という記事を書いたのだけど、

デブレではなく、正常なお金の使われ方を表わしているのだと思う。

 

必要なものは買う、不必要なものは買わない、

買ったものは長持ちするように大事に使う、

 

というのは、至極あたりまえのことなのである。

 

「こめる」と言うときの「こ」は
あるものの中にさらに小さなものが
入るというイメージです。

たとえば「心をこめる」と言ったときに
あるおまんじゅうをつくるとしたら、
そのおまんじゅうの中にさらに
心が入る、というイメージになります。

「こ」を単体で発音すると「個」となり、
これは何かから切り離されて
独立した状態となり
いわゆる関わりを断つような
イメージになります。

ネバネバでいたものが
分離してバラバラに散っていってしまう
ような感じです。

合わせ鏡の二重式で
まるで自分が何かの中にとじ「こめ」られて
しまうような感じになります。

先ほどの例でいえば
おまんじゅうの中に「こも」ってしまうような。
(ここでの「も」は温かさを感じます)

「こまる」と言ったときの「こ」は
とじ「こも」るような感じにはなりません。

ちょっとイメージできないのですが
「こめる」よりも広さは感じられます。

ためしに「こまない」と否定すると
「混んでいない」の意味になり
広く、間が空いたような感じになります。

「こまごました」と連続で言うと
断ち切れたものがそこら中にありながら
まだ繋がりを保っています。

その繋がりは「ま」という器に入っている点で
共通しています。

「ま」という心の器は
繋がりを保つための状態と言えそうです。